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投稿者: akiokawato

  • AIデータセンター・宇宙産業投資は異次元経済の到来か、それともバブルか?

    この1年以上、米国株式市場はどんどん上がってきた。中心はAI関連株で、これに6月12日新規上場した宇宙企業のSpaceXが加わった。SpaceXは一日で750億ドルの資本を集めている。今や米国の株式市場で、株価総額の4割はわずか10の企業によって占められている。いずれもIT、AIそして宇宙関連企業である。これはバブルなのか。それとも、数字の単位が一つも二つも上がる、異次元の経済の到来を予告するものなのか?

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    事態は、19世紀半ばの英国で、鉄道に投資が集中することで起きた現象に酷似している。1840年代の英国では鉄道投資はGDPの7-8%にも達し、投資全体の半分を占めている。このバブルは崩壊したのだが、英国経済は崩壊しなかったし、鉄道は残った。

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    今回のデータ・センター建設熱、宇宙投資はそれほどのマグニチュードは持っていない。全体の経済が19世紀の英国よりはるかに大きくなっているからだ。

    それでも、現在のバブルが崩れると、不良債権が膨らんで、金融を目詰まりさせる可能性は十分ある。

    まずデータ・センター建設ブームなのだが、これはかなり危ない。データ・センターを作る実需はあるが、その建設費用は下がり得るからだ。と言うのは、データ・センター建設費用の3-4割は発電・貯電・配電に関わる設備であるからだ。半導体の電力消費が大幅に下がると(それは例えば人造ダイヤモンドなどを外枠に使うことで可能となる)、電力関係企業の株価を下押しすることになる。

    データ・センターの本体、つまりエヌヴィディア社のGPU等は、2025年に25-30兆円分売れている。しかし、この金額も下がり得る。米国企業は中国の安価なAI(これはエヌヴィディアの旧型製品、あるいは国産品を利用)利用に転じているから、西側の先端GPUへの需要は下がり、エヌヴィディアなどの株価も下がり得る。

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    宇宙関係はどうか?  SpaceXの株は上場から一月で、40%程の下落を示している。それは、世界最大のロケット、スターシップの初打ち上げに手こずっているからだが、上場時の評価がバブルであったことも示している。

    宇宙事業が本当に膨大な利益を生み出すまでには、まだ時間がかかる。6月のForeign Affairsで、Peter Diamandisは法外な議論を展開した。木星の近くの小惑星16Psycheだけでも1万千兆ドル相当の鉱物を内包している。これを地球に持ってくれば・・・というのである。

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    しかしこれは大袈裟なのではないか? 何千トンものプラチナを地球に持ってきたら、地球のGDPが数千倍になるのではなく、プラチナの値段が数千分の一に下落するから、SpaceX社は倒産必至。宇宙事業がパラダイムを転換させるほどの利益をもたらすとは思えないのだ。

    Diamandisは宇宙への植民で人類が1兆人にも増え、そこからアインシュタインやモーツァルトのような天才が輩出するだろうと言っているが、もしトランプのような××が輩出したら宇宙ももたない。

    だから、今の宇宙産業は、17世紀欧州金融市場をかき乱したオランダでのチューリップ投機とか、18世紀の南海社株泡沫事件ほど中身のないものではないが、さりとてしっかりした中身のある事業とはまだ言えまい。

  • モスクワ定点観測1 2005年

      ソ連、ロシアには合計12年間ほど在勤したし、外務省を辞めたあとも、モスクワ大学ビジネス・スクールの非常勤として10年間ほど、毎年集中講義に出かけた。つまり2002年モスクワ大使館を去ったあとも、コロナ禍の直前の2019年まで、ほぼ毎年モスクワを「定点観測」--社会と人心の変化をとらえること――することができた。

    「市場経済化に向けての改革」がとん挫し、次第に保守化の様相を強めていく過程で、後世の参考になると思う。

    少しづつ紹介していくこととしたい。まず2005年6月のもの。

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    変化のテンポ鈍化。生ぬるい安定、あるいは『停滞』

    成田発アエロフロート機は、まるでルフトハンザになったが如く、定時にエプロンからすべり出た。

    市場経済化が進んできた90年代半ばから、アエロフロートの国際便は確実に良くなった。まずエアバスが就航したし、機内食を温めるようになった。今では税関用の書類の英語も英語らしいものになったし、紙の質も良くなった。

    スープが出てくると、その洒落た皿にはコンニャクとゴボウがさりげなく浮かび、ステーキの付け合わせは小振りの丸いガンモドキになっている。この一見珍妙な取り合わせはさりげなく、上等の趣味をもって処理されている。そして米は竹づとにくるんでゴマをふってあるのだ。ソ連時代のアエロフロートは、冷たい鶏の脚くらいしか出てこなかっただけに、天と地の差。これこそ市場経済。

    スチュワーデスに「おいしいね」と言うと、緊張した顔で「頑張っているんです」と答える。市場経済になってからは、彼らは上得意の日本人乗客をまるで怖がっているようだ。

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    但し、内務省発行の出入国カードには「切取線」と書いてありハサミの絵まで丁寧に描いてあるのに、線もミシンも入っていない。そして、ものが集団所有であった頃の投げやりさが残っているのか、機内テレビ画面の液晶は汚れていたし、座席の後ろのプラスチックのパネルははがれかけたままだった(注:これが時が進むにつれてどんどん良くなっていく)。

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    白樺の森、川、湖に彩られたロシアの大地が見えてくると、さすがに一つの感慨にふける。

    何はともあれ偉大な大地、偉大な民族だ。かつてマルクスがアメリカと同等の発展を予言したこの国が、その後どうして駄目なのだろう?

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    モスクワの空港では、旅券審査と税関が速くなった。今回は手荷物しかなかったから、自分はこの30年間で最短の記録的なスピードで空港を出た。だがその先の道路は相次ぐショッピングセンターの出店のためか渋滞を極め、今度はこの30年間で最長の時間をかけてホテルにたどりつく羽目になった。

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    ゴルバチョフ以来のモスクワは、その変貌のテンポの速さで外国人を幻惑してきた。だが今回は、僅か1年ぶりの訪問だったこともあり、これまででは最も変わっていないモスクワを目にすることになった。そこには、外観に関する限りはものすごいスピードでモスクワに追いつき追い越していった中国の諸都市と比べて、いささか寂しさを覚えさせるものがある。

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    しかし、ロシアはエリツィン時代末期から大衆消費社会に確実に突入している。『温かく人間的だった』ソ連時代に一抹のノスタルジアを感じつつも、現在の便利さは手放したくないというのが、もう大多数の意見だろう。

     (注:そのノスタルジアについては、次のような個人タクシー運転手の言を挙げておこう。『昔、肉屋の羽振りの良かったことと言ったら。良い肉をとっておいて、知り合いの顧客にコネで売っていたんだから。今は食べ物は何でもある。でも、昔はピオネール(共産党のボーイスカウトのようなもの)とかラーゲリ(林間学校)とか社会がまとまっていた。自分もああなりたいと思うようなお手本になる人々のことを教えられたし、社会全体で子供を育てていた。今は皆ばらばらで、怒りっぽくて』)

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    ロシアという国は、評者がどこを見ているか、社会のどの階層を見ているかで、評価がまったく異なってくる。『地方都市でも生活水準が確実に上がってきた』反面、いわゆるインテリにとって現状は『ブレジネフ時代のような停滞』に他ならず、『何かが空気に漂っている。何か変わらなければならないという雰囲気が。しかし何も変わらない。何がなんだかわからない』と言う者もいて、これでは1905年の第1次革命前のロシア社会を描いた、チェーホフの「桜の園」に酷似した状況だ。

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    ぬるま湯につかった安定の中で、所得の格差や腐敗、そしてエリートのエゴイズムと大衆の頑迷さは一向に良くならない。だから、『このように腐った社会は、文明としてもはや成り立たない。21世紀になってこの国は、まるで未だ20世紀初頭のメンタリティにあるかのようだ。自分の子供には外国で生きていくよう言っている』者まで出てくるのである。

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    Apathy

    社会のモラルは崩壊したまま、再構築されていない。モスクワの街は、猥雑さと埃っぽさが際だっている(注:2026年の今は、小ざっぱりしてきたようだ)。いわゆるリベラル勢力も生き残ってはいるものの、『昼は口角泡を飛ばして論争するふりをしているものの、夜になれば保守の連中と同じパーティーで和気藹々。保守もリベラルも同じ穴のムジナで、煮え立っていた社会にできたカサブタのような存在だ』と言われるまでに堕落した。ロシア正教会も『身売りして、同性愛とビジネスの巣窟と化した』と言われる始末だし、90年代ロシアが最も困っている時に助けてくれなかった米国は、ロシア国民の期待と信頼をとうに失っている。つまり現代のロシアは、『米国が自由とか民主主義とかいくら喚いてみたところで、ロシア人にはせせら笑われるだけだ。上からも下からも革命など起こるはずがない』状況になっているのである。

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    ある政治専門家は言った。『内政が不安定になる可能性は小さい。それよりむしろ老朽化して限界に達しているインフラが崩壊して災難が起こることの方があり得る。成金資本家ベレゾフスキーは「下部構造が市場経済、上部構造がソ連型エリートとシステムという齟齬」にロシア社会の基本的矛盾を見いだしているが、目下エリートの間に深刻な亀裂はない。大衆は新しいクレジット・カードを使って消費し、代金を返済することで頭がいっぱいだ』

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    政治状況

    プーチン政権は当面安定

      プーチン大統領は、90年代前半の激動、困窮、犯罪、国家威信の喪失に倦んだ国民の輿望をになって出現した。昨年末以来、彼の支持率と威信はウクライナ大統領選介入の失敗、保障措置削減に怒った年金生活者達による全国的なデモ、プーチン大統領側近による経済的利権漁りの動きについての報道などによってかなり揺さぶられたが、現在右は一段落し、再び安定的側面が目に付くようになっている。

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    現政権とエリツィン前大統領一家の間に大きな摩擦なし

     5月末、モスクワでは大きな劇場が2件、続けて火事になった。また、モスクワの南半分が大停電になり、40時間も復旧しなかった。何が起こっても背後に何者かの「陰謀」があることをすぐ疑うモスクワだから、筆者もひとつ仮説を立てた。プーチン大統領は支持率を上げるため、エリツィン時代拙速に行われた民営化の結果を大幅に見直そうとしているのではないか、右見直しはエリツィン一族の利権を侵すばかりでなく、過去の民営化における瑕疵に対する刑事責任を問うものにさえなりかねないため、エリツィン側がサボタージュに出てきたのではないか、という仮説である。

     今次出張においては、この仮説はほぼ全ての懇談相手によって否定された。彼らによれば、かつてエリツィン大統領一家の金庫番を務めていた大資本家のアブラモヴィチは『豪華ヨットを贈ってプーチン大統領ににじり寄り、民営化石油会社「ユーコス」解体・国営化のシナリオを書いた』し、有力マスコミを手中に収めて現政権批判に回ったがゆえに国外逃亡を余儀なくされた大資本家グシンスキー、ベレゾフスキーの両名も、『この夏には手持ちのマスコミを最終的に手放すようだ。マスコミのオーナー地図の一大変化があるだろう』と言われる状況になっている。

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    大統領府への権限集中とその副作用

     エリツィン前大統領はゴルバチョフから権力を簒奪する途上で、地方に権限を大きく委譲した。プーチン政権はこれまでその行き過ぎ是正に務め、最近になって『大統領府への権力集中は完成した。知事を公選から大統領による任命制にしたことで、地方における仲間内の争いの仲裁まで大統領が背負い込むことになったが、うまくさばいている』と言われるまでになった。『マスコミも1997年までは第4の権力と呼んでも差し支えない影響力を持っていたが、現在では何の力もない』。

     しかし、権限が集中したことによって政権内の腐敗はひどくなったもようである。極東地方のある知事は、大統領府に10億円を賄賂として贈ることによって留任を認められた由。

     こうしたことは、『大統領府に権力が集中したのはいいが、政策決定のメカニズムが不透明である』と外交団から言われる結果を生んでいる。

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    2008年大統領選見通し

     2008年の大統領選見通しについて語るのは、未だ早すぎる。しかし政治専門家は既にこのことを考え始めている。『プーチンの次はプーチンさ。憲法が禁じている三選を可能とするためのシナリオを、既にいくつか大統領府に上げてある。』と言う者から、『今の状況なら、エリートが談合して誰か候補者を出してくる。誰が大統領になろうが、務まるのさ』と言う者まで、様々である。この辺の感覚は、『エリート達は、以前最もあくどいやり方で多額の国家資産を手に入れたホドルコフスキーのみを、人身御供の「大資本家」として国民の前につきだし、あとは口を拭っているのである。だから、彼らの間からであれば誰が大統領になってもいいのであり、誰がなってもそれなりにやっていけよう』という言葉でわかってもらえるだろう。

     カシヤノフ前首相がこの半年、2008年大統領選への出馬の意欲を露わにしているが、これは『エリツィン前大統領一族やベレゾフスキーなどから教唆されて言っているのではなく、自分自身のイニシャティブで言っている。モスクワのエリートの間では、ピエロのようなものだと言われている』由。また資力も備えたリベラルの大立て者として唯一残っていたチュバイス・中央電力公社総裁も、本年中には同公社が発電・配電部門等に解体される中で基盤を失いつつあり、『政治に打って出るには機を失した』と言われている。

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    経済

    ブレジネフ時代との類似・石油高価格下の改革停止

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     現在の経済・社会状況は、1970年代末のソ連・ブレジネフ時代に余りにも、あるいは悲劇的な程似ている。当時の石油価格は石油危機の結果、記録的水準にあり、大産油国ソ連は改革路線を取る必要性はまったくなかった。当時コスイギン首相が代表していた改革路線は、1968年のプラハの春騒動を引き起こしたものとのレッテルを貼られ、ブレジネフから忌み嫌われていた。従ってソ連的な集権経済体制には全く手を付けることなく、豊富なオイル・マネーを使ってソ連各地に日本等からの最新型プラントが次々に建設されていったのである。

    (その後80年代央には石油価格は1バレル約10ドルの記録的低水準になり、ソ連は財政赤字に陥るようになった。また米国レーガン政権によるSDI開発の構えは、その膨大な費用でソ連指導部を焦らせた。この2つの要因がゴルバチョフをしてペレストロイカに踏み切らせるのだが、規制緩和のハンドリングを失敗してソ連は崩壊するのである)

     現在の状況は、最新型プラントの大量輸入が未だ見られないことを除けば、非常に似ている。『ブレジネフ時代のような気だるい安定が支配している。改革は進んでいない』

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    実現不可能になった「所得倍増計画」

     プーチンが大統領になって以来、経済は少なくとも数字上は良好な状態に推移してきた。98年8月借金財政破綻によるルーブルの大幅切り下げで輸入代替産業が伸びたこと、その後は石油価格が高騰したこと、などの好要因が介在したのである。だがその後、ルーブルは世界でおそらく最も安定した通貨として推移したため対ドル・レートは割高になり、国内産業は苦しむようになった。現在、工業生産はその伸びをほぼ止めている。本年1-5月の実質成長率は、昨年同期の7,5%をはるかに下回る5,4%に止まっている。また流入するオイル・マネーはインフレを加速させつつあり、05年には10%を上回ることが予測されている。

     プーチン大統領が2年ほど前華々しく打ち上げた「2010年までの所得倍増計画」は大統領が口にすることはもはやなくなり(実現のためには、毎年7%以上の実質成長が必要なのである)、保守的なフラトコフ首相と改革派の経済担当大臣達が責任のなすり合いをする道具と化してしまった。首相は、社会主義時代に育ったが故の命令体質を露わに出して「とにかく目標を達成するんだ」と言うが、大臣達は「投資に適した条件を創出しなければ経済は成長しません」と主張して、首相の放漫財政政策を戒めている。

     ソ連崩壊当時、西側の経済専門家達が「直ちにすべてを自由化すれば、経済は自然に市場経済化する」という幼稚なことを主張したのに対し、日本の専門家の一部には急激な改革を避けつつ生産設備の近代化を徐々にはかっていくやり方を提唱する向きがあった。現在のロシアの状況は、むしろ右のうち後者のアプローチが実際には採用されていることを意味する。それは、「ウズベキスタン・モデル」と言われる行き方に類似しており、社会の安定を保持したままでの経済発展を保証するようでいて、ある時点に来ると周囲との格差が広がりすぎ、政治的にももたなくなる、という危険性を有している。

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    調整力の不足

     首相と経済閣僚の歩調が合わないのだから、経済政策の調整はまったく不十分である。『政府は調整能力を欠いている。ロシアの苦境を救うためには教育改革が必要であることは誰しも認めるのだが肝心の予算がついていない、といった状況だ』

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    「産業資本家」の不在ーーー「ロシアは金融資本主義」

     『生産設備の老朽化が最も大きな問題である。製品の質もさして上がっていない。エカテリンブルクの大工場ウラルマシでは社長のベンドゥキーゼ(注:現在はグルジア共和国の閣僚)の下で生産が注文に追いつかない状態、と言われた時期もあったが、それは誇張された見方だった。ロシアの問題は、ベンドゥキーゼも含め、市場経済におけるモノの生産を管理できる経営者がいないことである。シベリアの大工場は殆ど止まっており、住民の生活は政府からの助成金で支えられている現状である。

     中国は幸運だった。90年代初期大々的な対中投資を開始した台湾資本は、資本だけでなく生産ノウハウ、マネージメント、そして海外顧客まで中国に提供した。海外からの直接投資が十分でないロシアの資本主義は、金融資本主義あるいはゼロサムゲームの重商主義的思考に止まっている。

     資金はある。資金の海外逃避も大した規模にはなっていない。ところが、資金をモノの生産に向けようという真剣な意欲が欠如している(モノづくりのような手間のかかることより、石油や金融に投資する方が簡単に儲かる)。98年のルーブル下落以来盛んになった軽工業でさえ、最近では中国製品に席巻されつつある』

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     ある日本の商社OBによれば、ロシアに投資をした場合に怖いのは、ロシア側資産の本当の所有者が誰かわからない、調べるととんでもない(注:諜報機関出身者か暴力団系か、という意味)人物がおぼろげに浮かび上がってきて、怖くなって手を引いたりすることである由。

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    インフレ懸念は大きくない

     2005年のインフレ政府予測は8,5%であるが、1-5月だけで既に7%を超えたので、『年間では最大で11,5%程度を見込んでいる』。工業生産がふるわない中で消費は伸び、しかもオイルマネーが大量に流入するとあっては(外貨準備は現在約1,500億ドルを超える。3年前は100億ドル台であった)、インフレになって当然なのだが、消費需要は記録的な輸入で満たされている。オイルマネーは『石油企業の輸出収入の大半はルーブルに代えることが義務づけられている。そのルーブルは企業の口座にはりついたままで市場にあまり出てこないから、それほどのインフレ要因にはならない』由。

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    なけなしの軍需生産に転機?

     第2次大戦で数千万人を失い、その後米国との冷戦・軍拡競争に突入したソ連にとっては、国防は至上命令であった。軍需部門はそれをいいことに予算・資材を独占し、ソ連経済をあたかも兵器製造マシーンと化してしまった。正確な統計はないが、ソ連の鉱工業生産のうち70-80%が軍需関連だったろう。今でも極東のコムソモルスク・ナ・アムーレ市が中国向けのスホイ戦闘機の生産に市財政の多くを依存しているように、シベリアやウラルの工業都市の多くは少数の軍需関連大工場の企業城下町となっているのである。エリツィン時代、軍需生産は大幅に縮小され、ロシア経済全体が2分の1にも縮小する大きな原因となった。兵器の国内調達は急減し、海外への輸出が大きな意味を有するようになった。中国、インドが主たる顧客となって現在に至っている。

     しかし今回、数人による次の内話は、軍需生産に一つの転機、あるいは危機が訪れていることをうかがわせるものであった

     『ロシアが現在輸出している兵器は80年代に開発されたものばかりであるが、これから予算システムが変わり、軍需企業に対してはR&D費が事前には支払われなくなる。入札で敗退すればR&D費が全く無駄になるリスクが生ずるのである。これで、新兵器の開発は益々難しくなるだろう』、

     『中国へのスホイ戦闘機輸出は、来年で契約が終了する。中国はライセンス生産に移行する』

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    外交

     国力が回復していないロシアにとっては、現在の国際環境は不利である。米国とはかつてのように対等というポーズを維持するのも難しくなり、東欧、ウクライナ、コーカサス諸国は西側に吸い寄せられ、中央アジアでも西側ばかりか中国の影響力までが増大している。こうした状況を反映してか今回、識者による外政関係の発言は、何をどうこうするという主体性と戦略性に欠けた断片的なものであった。

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    外交に自信を深めるプーチン大統領

     『ラヴロフ外相とライス国務長官を比べてみると、前者は自分の大統領の意向がわかっておらず代弁もできないところに、大きな差がある。外政についてはプーチン大統領が自分の一存で進めるケースが増えている。昨年12月のウクライナ大統領選挙であれだけヤヌコヴィチ候補を支持したのも、周囲の助言を蹴ってクチマ大統領との約束を優先したプーチン大統領自身の決断によるものである』

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    CISについて

     『グルジア、ウクライナ等における「民主」革命を、言葉通りに受け取ってはならない。両国における「革命」は利権の再配分に終わっており、グルジアのサーカシビリ大統領は早や、独裁者的性格を露わにし始めている

     アルメニアでは近く大統領が交代を迫られる事態が発生する。コチャリャン大統領がナゴルノ・カラバフ問題で突っ張りすぎているためである。そうなっても、ロシアとの関係は良好のままだろう。

     イスラム過激派の連中と最近会ったが、彼らは6月末から7月初めにはウズベキスタンの各地で騒動を起こし、それによってカリモフ大統領を政権から引きずり下ろすと述べていた。彼らはフェルガナ地方を支配したがっている。彼らの収入の70%は麻薬取引であるそうだ。

     ロシアは、中央アジアで何もできない。中国の影響力が増大していることはわかっているが、何もできない

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    中国について

     『中国は、いつかは抑えられなくなる。ロシアは、今は中国との関係を良好に維持することで、米国、日本に対するバランスを取っているが、10年もたてば中国にあごで命令される(dictate)ようになるだろう。いや、アメリカでさえ、中国を抑えられなくなる日が来るだろう。しかし、ロシアは東アジアの動向には無関心である』

     ロシアは、10年後、20年後の中国、中露関係がどうなっているかについて、考えるのを無意識的に避けている、つまり思考麻痺している感がある。

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    5.日露関係

    様々な対日観

     どこの国の国民も、外国のことなど真剣には考えていない。モスクワでは相変わらず寿司を中心に日本文化ブームが続いているが、それはもはやエリートの日常生活に定着した感があって、以前ほどには日本との関連が意識されなくなっている。だからこそ、日本イメージは安易なステレオタイプのままであるところも残っていて、日本と言えば奇妙なチョンマゲを結い浴衣のような服をだらしなく着流した「サムライ」とどぎつい化粧のゲイシャですませてしまいがちである。モスクワ大学の日本語教師は、「日本の文化交流は伝統文化に重点を置くあまり、そうしたエキゾチシズムをかえって強化している面がある」と述べていた。

     他方、実際に日本との関わりを持つ人、持ち得る人々の間における日本観は、より自然なものに変わってきた兆候が一部にはある。ついこの間まで「ロシアの実業家は、ワールドカップの観戦で日本に行っても、日本の大企業と商談をしようなどとはハナから思っていなかった。彼らにとって日本はエキゾチックで不可解な国にとどまり、ただサッカー観戦と寿司の賞味で終わってしまったのである」という感じであった。

      

    問題は日本人の対ロ観にも

     北方領土問題についての盛んな報道、ワールドカップでの日本チームへの敗退等を経て、ロシア人の意識に根強くあった日本人蔑視は後退し、日本を一つの大国として自然に受け入れるようになった感がある。

     その点最近ではむしろ、日本人がロシア、ロシア人を相変わらず欧米より劣ったものとして蔑視するのを止めないことの方が問題ではないか。帰りのアエロフロートである中年婦人が苛立ちを浮かべた声でしゃべっていた。「私、かっかしてるんだからね。ドイツに行った時は通ったのに、なんでここで通らないんだよ」 そして、ロシア人のスチュワーデスに殊更つっけんどんな態度を見せていた。そういう時のロシア人は、今日ではもうひたすら申し訳ながるだけなのである。

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    当面上向きの日露関係

     5月9日の戦勝記念日に因んで、プーチン大統領は世界の主要国首脳を集め、モスクワで大祭典を行った。小泉総理は当初、参加の意向を示していなかったが、右式典は戦後60年たってもはや敵も味方もないこと、平和が重要であることを示すために行われるものであることが確認されると、出席を決めた。

     プーチン大統領はこれが嬉しかったもようである。6月15日トヨタがサンクト・ペテルスブルクで工場進出鍬入れ式を行った際、彼はわざわざこれに駆けつけて森前総理と会談したが、その冒頭で小泉総理の出席に対する感謝の念を述べたのである。

     これまでの約2年、北方領土問題について日本は4島、ロシアは2島のみということで双方が突っ張り、日露政治関係は膠着状態にあった。だがロシア側政治専門家によれば、『ロシア側の内々の世論調査では、ロシア国民は日本との領土問題をもはや自分たちの問題とは捉えておらず、その傾向は沿海州においてさえ顕著である、また国民は外国に何かを奪われることをいつも心配しているが、さりとて身を張ってそれに抵抗しようというわけでもない』由。

     だが問題は、『プーチン大統領は日本とは経済関係だけ進めればいいと考え、領土問題については決断をしようとしない』ことにある。

     トヨタ進出へのロシア側要路の期待は大きい。『トヨタがロシアの部品生産の水準を引き上げ、それがロシアの産業全体を利することを願っている』模様である。

     他方、日露関係に携わる者の層が益々薄く、年長になっていることが憂慮される。かつてロシア議会で日露関係をとりまとめていた感のあるザドルノフ議員が、新設される中小企業融資公庫総裁に転出する由(リベラル政党を彼と共に立ち上げようとしていたある記者によれば、右公庫は真剣なものというよりは天下り受け入れ機関的なものの由)。ロシアは米国を凌ぐ程の厚い日本研究者層を持っていたが、これも老齢化が進み、若い者は政治・ビジネス等に転出してしまっている。

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    将来への希望を持たせるもの

    まともなビジネス志向

     

    大使館の以前のロシア人スタッフが、その友人とコンサルティング会社を立ち上げていた。彼は大学卒業以来、モラルが崩壊し命の危険さえあったロシアのビジネス界を忌避していたが、情勢が落ち着いたしそれなりの需要も出たと見て、ヴェンチャー企業を立ち上げたのである。日本のPR会社のモスクワ進出、日露の薬品会社間の提携仲介等が当面の仕事だが、彼は中国への進出も考えた。7ヶ月中国市場を事前研究すると、中国の物作りの中心になっている南部とロシアの関係が未だ薄いこと、ロシアに輸入されているのは主に安手の製品であり、中国から西側に輸出されている中級・高級品はあまり輸入されていないことに気がついた。そこで最近、彼は1人で中国に出かけ、南部を中心に回ってきたのである。

     『中国人とのビジネスは大変です。すぐカネ、カネ、カネで、何かというと他人をだまそうとするんです。長期的な関係とか信頼関係とかはどうでもいい。大企業の中国人はそれに、「俺は中国人だ」という自負がものすごく強い。ビジネスがやりにくい人たちです』、『彼らの生活はひどい。月給100ドルで17-18時間働き、それでなお田舎の実家に送金しているのです。そうした出稼ぎ労働者は2年間しか契約がなく、終われば放り出されて、次の連中が安月給で雇われるのです』。これは彼の述懐である。因みに90年代前半、モスクワでも月100ドルで十分暮らせたのだが、今では月500ドルでも英語のできる秘書は雇えなくなっている。

     このロシア人はロシアの将来についてかつては非常に悲観的だったのが、この1年間は楽観的である。それは、40代以上のインテリと言われる連中が今回、例外なく「停滞」という言葉を使っていたのとは対照的であった。現代の学生はその多くが役人になったり外資系企業で働くことを夢見る安定志向であるのに対し、リベラリズムが最高潮に達した80年代後半を知っている30代後半の者達には、まだヴェンチャー志向が残っている。彼は言った。『ビジネスについては随分規制緩和が進みました。法制面での整備は、数年前と比べものにならないほど進んでいます。これで役人たちさえ邪魔しなければ・・・。汚職がひどいのです。』

    (注:この人物も2022年のウクライナ戦争で、日本側の商売相手に身を引かれ、停滞している)

    出生率の上昇?

     生活が厳しく治安も悪かった90年代の前半は、街で妊婦や乳児を見かけることがほぼ皆無だった。今回は、かつてないほど妊婦を街路で見かけたし、懇談したロシア人たちも昨年あたりから妊婦や乳児を見かけることが顕著に増えたと述べていた。社会の雰囲気は停滞しているが、オイル・マネーに支えられた気だるい安定は、出生率向上の形で将来の本当の希望をもたらしつつあるのかもしれない。

     大学生は現世指向が強くシニカルになった、価値観が崩壊した90年代に幼時を過ごした連中だから駄目なのだ、彼らは「失われた世代」なのだ、という声も聞かれるが(シェレメチェヴォ空港のパナソニックの広告はロシア語のつづりが間違っていて、「夏の天気」ではなく、「ニャツの天気」と書いてある)、他方全員がそのようになってしまうことはあり得ず、『あの苦しい時代においても、家庭での躾は別に変わらなかったのです』という言葉を裏書きするような、真面目な青年ももちろんいる。

     リベラルな青年達やマスコミ人達がたむろする、本屋兼喫茶店兼食堂のO.G.I.も覗いてみたが、3,4年前と何も変わらないボヘミアンな雰囲気だった。こうした連中を相手にスターリン的な恐怖政治を敷こうとしても、それはそんなに簡単ではないだろう。ロシアは停滞と変化の芽をいつも共に抱えながら、これからも何とか生きていくだろう。      (了)

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    世界経済国際関係研究所での筆者講演

    今回、世界経済国際関係研究所において、「東アジア情勢の変化と日本」という題名で、次の趣旨のプレゼンテーションを行った。出席者からは、大きな反論は出なかった。

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    ①現在の東アジア情勢の変化は何百年に一度の大変動で、一言で言えばアヘン戦争以前の構図、つまり中国の冊封体制に戻るベクトルが動きだした。アヘン戦争以前に比べると日本、米国、韓国、ASEAN諸国等の比重は比べものにならない程大きいものの、韓国、台湾、ASEAN等は次第に中国になびきだしている。この中で、アジアにおける日米同盟の地位も微妙に変わっていく可能性がある。

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    ②冷戦が終わって民主化が実現したアジアの国々、特に韓国では、青年を中心に権威にとらわれない自由な立場から戦後の歴史を再検証しようという気運が強い。そしてこれらの国の政権はポピュリスト的性格が強く、こうした世論をもろに政策に反映させようとする。これに対して日本政府が「賠償問題等戦後処理の問題はすべて法的に決着がついている」というような、木で鼻をくくったような対応をすると逆効果になる。オープンな議論が必要な時代になった。

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    ③中国での反日運動は、学生や大衆の生活への不満のはけ口となった感がある。それゆえに、反日運動は中国政府が看過できない危険性を帯び始めたと考える。「歴史」を強調してきたこれまでの中国政府の対日姿勢の、一つの転換点にさえなるかもしれない。

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    ④朝鮮半島をめぐっても、台湾をめぐっても、当事国は本当は現状の維持を望んでいる。であるならば、1975年ヨーロッパで「欧州安保・協力会議」が発足して国境の現状維持について合意したのと同じようなことをアジアでもできるだろう。

    経済・金融面についてもマルチの協力が進んでいる。欧州のEUと同じく、これには米国が入っていなくともいいかもしれないが、安全保障面でのマルチの協力は米国なしには語れない。日本、韓国、台湾の市民が手にしている高度の自由は、米国の参与なしには守っていきにくいだろう。

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    ⑤日本にとっての第2次大戦は、欧米を相手にしては帝国主義・植民地主義国同士の争い、中国等を相手にしては植民地獲得戦争、こういう二面性をもっていた。前者については正々堂々と戦って負け、「戦犯」が罰も受けたのだから、法的にもモラル的にも決着はついている。後者については、賠償等の法的決着はついているとしても、モラル的には反省するべきことが非常に大きい。しかしだからといって、未来永劫いつも日本が謝らされるのでは納得できない。西側の国で、かつての植民地に対して過去の罪を謝罪したところがあるだろうか?

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    ⑥(学生の質問に答えて)「東アジア文明」とも称すべき、よく似た社会が東アジアの大都市に生起しつつある。中国・朝鮮・日本の伝統文化を基礎にして、その上に日本・米国の現代文明を載せたものである。近代性と豊かさにおいて、欧米の都市を上回りつつある。特に青年世代が権威から自由になり、オープンになっている。日本が今後も貢献できることは、自由な社会、所得格差の小さな社会の良さを東アジア全体に身をもって示していくことである。

  • もともとバブルでできた「世界一の米国消費市場」

            河東哲夫

    今の米国が尾羽打ち枯らしてもあれだけ威張れるのは、世界一巨大な消費市場(中国のそれの2倍以上)を持っていて、多くの国はここに輸出することで自分の経済を支えているからだ。だが、人口3.4億人の米国が人口14億人の中国の2倍以上もの消費を上げているのは不自然だ。米国の「消費市場」はバブルなのではないか。かなり人為的に膨らまされてきた市場ではないか。と思って、ChatGPTにも相談しながら、調べてみた。そこからわかったのは次のこと。

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    終戦から、米国での個人消費はほぼ一定の率で伸び続けている。しかしその消費はいくつかのバブル的な要素で支えられている。一つは1970年代クレジット・カードが普及し、個人破産が急増するほどこれが濫用されたこと。1980年代確定拠出型年金401Kが普及して、株価上昇の利益を享受する市民が増えたこと、そして戦後住宅ローンの普及で、持ち家を持つ市民が増え、その住宅価格が一貫して上がっていく中で、これを担保に銀行から借金して消費に回すことが増えたことである。住宅は米国の基幹産業だ、と言われる所以である。

    2008年のリーマン危機は、その住宅ローン部門の信用喪失から起きたものである。

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    米国は、伸びる経済を担保に借金、それを使って消費を増やし、経済を膨らませ、それで住宅価格が上がると、それを担保にまた借金という、非常に幸せな、「経済成長によって経済成長をはかる。欲しいものは借金してでも手に入れる」というモデルを築いたのである。

    これは崩れにくい。2008年のリーマン危機直後の2009年でも、民間消費額は健全だった2007年に比べて1.5%しか落ち込んでいない。落ち込んだのは自動車など耐久消費財、そして住宅投資である。

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    中国の消費は、米国以上にもろいところがある。マクロ経済全体の不均衡もさることながら、若年層の失業増大が消費の減少とデフレ傾向をもたらしていることが問題だ。イラン戦争で原油価格が上がり、生産原価が上昇しても、企業はそれを販売価格に転嫁できずにいる。

    だから企業は、補助金漬けで海外にダンピング輸出をする。これでは、高度成長の時の日本よりもはるかに多くの公的資金を使って、経済を維持、膨らませていることになる。

  • 皇室典範改正

    皇室典範改正では、女性天皇を認めるかどうかという問題は棚上げになった。今上(きんじょう)天皇はまだ丈夫だから、国論を割ってまで後継の問題を議論することはない、ということなのだろう。

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    1947年制定の皇室典範第一章第一条は、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と厳かに定める。男女平等を標榜していたGHQは何をしていたのかと思うし、それなら何で「総理大臣は男性に限る」と憲法草案に書いてくれなかったのかとも思うのだ。とにかくこの第1条を変えると国内が割れるから、これを変えずに、将来「万世一系の」皇統が絶えるのを防ぎたい、皇族の数を増やして公務の負担を減らしてあげたいという、ミニマル思考での改正だったのだろう。

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    筆者は、天皇制について何の思い入れも意見もないけれど、21世紀の現代、天皇制についての議論はもっと合理的でオープンなものであって欲しいし、人間としての皇族の権利、お気持ちにも配慮したものであるべきだと思う。

    今の憲法では、主権は国民にある。天皇は君主でも元首でもない「象徴」。生きた人間が象徴であるとはどういう意味か。いったい自分は何をしたらいいんだ、してはいけないんだ、ということで思い悩んでいるに違いない。

    議論を合理化するために、天皇をめぐるいくつかの「神話」(思い込みという意味)を吟味してみたい。

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    万世一系なのか

    神武天皇は紀元前660年に奈良の樫原で建国したことになっている。当時、対岸の中国は春秋時代で統一国家はなく、やっと秦が中原だけ統一したのが紀元前221年。

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    大和朝廷は、唐が成立してから百年もたった紀元720年にやっと完成した日本書紀を唐の朝廷に見せて、日本の国の格を制定してもらおうとした。隣の朝鮮半島の諸王国より起源を古くしておかないと、新羅や百済より末席に位置付けられる。それではかなわない、というわけで、神武天皇なる人物を持ち出した。その事績は、史料や発掘で裏づけることができない。

    神武天皇は実に127歳、第11代の垂仁天皇は140歳で崩御したことになっており、第6代の孝安天皇は102年間天皇の座にあったとされている。その後初めて実在を何とか裏づけることのできる第10代の崇神天皇までの9人の天皇は、実に平均100年間在位したことになっている。

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    神武天皇の陵があったということは、いくつかの史料に出てくるが、平安以降、言及はなくなり、その所在地は不明になった。現在、樫原神宮の横に神武天皇陵があるが、これは幕末、いくつかの候補地の中からそのように認定しただけの話しだ。

    第10代の崇神天皇になると、日本書紀その他での言及は多くなる。それが示すのは、彼は外部からやってきた勢力だったのではないか、ということ。まず、祖神であるはずの天照大神を宮廷から外に出してしまう。代わって地元の大物主大神を崇拝することとし、宮司としてこれも地元に以前からいた三輪氏をあてる。三輪氏は出雲との関係を云々される勢力で、大物神と大国主は同一だともされる。だから崇神天皇こそ、九州方面から東征で飛鳥に乗り込んだ勢力なのだ、神武天皇はその事績を900年以上も昔に引き伸ばすために措定された存在なのだ、と言う人もいる。

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    この崇神天皇の皇統が絶えた可能性があるのが、第15代の応神天皇。崇神系の仲哀天皇(日本武尊の子息で身長3米の由)は366年(推定)、九州の熊襲征伐に出かけ、翌年その地で急死してしまう。同行していた彼の皇后、神功皇后(実在は証明されていない)は摂政に就任、なぜか朝鮮半島に「三韓征伐」に出かけて、半年ほどで帰ってくる。神功皇后とか三韓征伐は、朝鮮諸王国の史書には出てこない。倭国の軍がやってきたとの記録は何回かあるが、いずれも朝鮮側が撃退したことになっている。

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    それはそれとして、神功皇后は帰国するとすぐ、それまで陣痛をおさえていた誉田別皇子を出産し、その後も69年間摂政を続けて、390年(ここらへん、計算が合わない)に譽田別皇子、転じて応神天皇が即位したことになっている。70歳になっていたはずの応神天皇は、それから実に41年間も在位したから、111歳で崩御したことになる。

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    神功皇后、誉田皇子は実在したのかどうか、実在したとしても70年間の摂政とはありえないのではないか、実際はこの頃の日本は内乱気味になり、九州、あるいは任那のあたりで台頭した勢力が東征して、応神天皇となったのではないか。現に応神天皇は飛鳥まで入り込むことはなく、飛鳥の入り口、大和川の河口、河内地方に本拠を構え、それによって応神天皇陵、仁徳天皇陵などがこの地方に集中することになった。

    (このあたり、筆者のブログwww.japan-world-trends.comに詳しく書いてあるので参照ください)

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    これを「応神王朝」とすると、その男系の血は第25代の武烈天皇で途絶える。彼は暴君であったらしく、その死の真相はわからない。いずれにしても遺臣たちは合議して、遠い福井(近江からという説もある)から、遠縁の男大迹王を招請する。ところが招請されたはずなのに、彼は飛鳥に入ることができず(応神天皇後、権力は河内に存在したようだが、その後雄略天皇の時代には飛鳥に入っていたようである)、507年河内で継体天皇として即位を宣明するも、諸方を19年間も転々とするのである。

    この継体天皇の血筋が今上(きんじょう)天皇に至る。つまり、天皇家の歴史は長いし、多分世界最長の皇家なのだろうが、王朝の交代は何回かあったし、神武天皇に至っては後世の者が盛った可能性大、ということになる。

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    ユーラシアの中の日本

    天皇家をめぐる議論をすると、万世一系とか女系を認めるか認めないか、とかで、目が点になる人が多いのだが、実際の天皇家は生きた人間。他の日本人同様、もとはシベリアか、満州か、朝鮮半島あたりの豪族だったかもしれず、神のように絶対的なものとして崇めるのもおかしな話しなのだ。

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    飛鳥には三輪氏、漢(あや)氏、葛城氏などの先住部族がいた。漢氏の居住していた地区からは高松塚古墳、キトラ(亀虎)古墳が発掘されている。この古墳の石室は、中国宮廷の官女とか、玄武、青龍、白虎、朱雀-中国神話の四神-を鮮やかに描いた壁画で彩られている。古墳に葬られている高貴の人物が中国、あるいは朝鮮半島と緊密な関係にあったことを思わせる。

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    そしてここから大阪方面に25キロほど行った斑鳩に発見された藤ノ木古墳からは、金銀の絢爛豪華な副葬品が山と出てきて、現地に陳列されている。ユーラシアのスキタイ文明を思い起こさせる精巧な仕上げ。一つの冠の意匠はアフガニスタンで発掘された昔の冠に酷似している由。

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    そして、応神天皇と朝鮮半島の関係については、日本書紀でも記事が多い。応神天皇は百済と頻繁に交流しているし、我々が学校で習った「ワニ(王仁)が朝鮮半島から千字文と論語を携えてやってきた」のは、応神天皇が百済から招聘したのだ。また、古墳に馬具の類が多く出土するのも、応神天皇以後のことらしい。

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    つまり、日本人の祖先はユーラシア大陸、あるいは東南アジアからやってきたに違いなく、天皇家もその一員であったのだろう。

    それで何か不都合はあるのか? ないだろう。別に、天皇家は朝鮮半島経由で来たのだから、現代の日本は韓国・北朝鮮に従う、ということにはならない。天皇については憲法・法律でその権限をよく定め、天皇御自身の人間としての権利も認めて、是々非々で付き合っていけばいい。目を点にして自分の思い込みを他人に押し付けることはないのだ。

  • 日本が自分のカネを日本に引き戻す時

                    河東哲夫

    もしかすると、小泉政権時代の財政改革以降、高利を求めて米国に流出するようになっていた日本の(半)公的資金(郵貯とか年金基金とか)の一部が日本に復帰し始める―そういう転機が訪れているのかもしれない。これは今の過度の円安を鎮め(7月23日現在、そうなっていないが)、上昇する一方だった長期金利を抑え、政府の国債増発を可能にするだろう。

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    7月10日、片山財務相は記者会見で、「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)をはじめとする年金基金が、日本の金融資産にさらなる投資をする方向で後押しする方策を追求したい」(日経)と述べた。直後に円はいったん円高方向に転じ、3%に迫ろうとしていた長期金利は現在、2.8%弱に下がっている。

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    これは、日米金融関係の潮目の変化を意味するものになるかもしれない。今年に入ってから、ベッセント米財務長官が頻繁に片山財務相と会っているのがその証左なのかも。どういうことなのか、日本の経済史をふりかえってみる

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    国民の貯蓄が国内で活用されていた戦後経済

    戦後の日本では、国民の貯蓄が企業や公的機関にまわるメカニズムが円滑に回ったことで、経済成長とインフラ建設がうまく進展した。銀行が集めた国民の貯蓄は、メイン・バンク制のならわしで(戦前の財閥の流れだろう)企業の運転・投資資金として流れた。また郵便貯金を原資とした財政投融資制度は第二予算のように機能し、多数の公団を通じて道路その他のインフラ建設などに向けられた。田中総理の「列島改造論」にも煽られて、日本の地方は様変わりの小ざっぱりとした様相を見せるようになった。

    財政投融資はその最盛時の平成8年、総額約50兆円の投融資をしたが、それは国家予算一般会計の65%相当もの巨額なものであった。建設関係の巨額な資金が国会の監査を受けずに地方に流れる――与党議員にとっても甘露のようなものだっただろう。

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    バブル崩壊と民営化

    1990年代初め、バブルが崩壊し、この資金循環メカニズムに目詰まりが生じた。銀行は不良資産を抱えて、企業に融資するどころでなくなった。財政赤字が増大する一方、金利の低下で郵貯や年金基金は逆ザヤを抱えるようになる。小泉政権は財政赤字縮小を大看板とし、政府系金融機関・団体は民営化して、自力で稼ぐことを求めた。そこで彼らは、米国国債・社債への投資を増やした。つまり国民の貯蓄は、国内に有利な投資先がないために、外国、特に米国に向かったのである。

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    アベノミクスが激化させた資金の流出

    安倍政権下、日銀が極端な低金利政策=マイナス金利を数年にわたって施行したことは、円の海外流出を激化させた。外国人は低利の円をドルに換えて、高利のドル建て資産を購入して儲ける、「円キャリー・トレード」を展開した。円は下落の悪循環をたどり始めたのである。

    これにより、ドルで測った日本の名目GDPは2012年から2024年にかけて約35%も縮小するという、奇妙なことが起きた。「日本での生活水準は落ちていないのに、外国に出てみるとホテルから食事まで、何から何まで別世界のように高い」という、倒錯した状況が出現したのである。

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    高市・片山のT・Kラインによる対米しっぺ返し?

    今回、片山財務相が年金基金GRIFの資金を、日本国債購入にもっと多く回すという政策変更を行ったことは、以上の文脈では画期的なことなのだ。それは、日本人の貯金が日本人ではなく、米国人の生活を良くするために使われていたのが(それは米国が強制したわけではない)、「金利収入は減少してもいいから(GRIFは2023年度、45兆円の利益を上げている)、日本国債を買ってください」という片山財務相の一言で、日本に還流してくることになるのである

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    何がどうなるか?

    年金基金が日本国債を買うと、長期資本市場はそれだけ楽になり、長期金利は下がる。それは円レートに直接の影響は及ぼさない。そこでは短期金利が重要だからだ。しかし米国人による「円キャリー・トレード」が減少すると、円は円高方向に転じるだろう。

    一方、これは米国経済、特に資本市場・株式市場にどんな影響を及ぼすだろう? 米国債は日本の半公的資金という買い手が減って、当然発行時の利回りを高く設定せざるを得なくなる。これは将来の利払い費を増価させ、米国財政を麻痺させる。ドルは信認を失って、減価していく。

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    だからこそ、ベッセント財務長官は今年になって、片山財務相との会合を頻繁に行っているのでないか? 8月初め、米国では国債の借り換え・新規発行が大々的に行われる(年に数回)。この時躓くと、ドルは信認を失い急落しかねない

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    「カネの切れ目は縁の切れ目」となるか――日本とトランプ米国

    「日本の自分勝手な方向転換が、中間選挙を前にして米国経済をつぶした」となると、トランプは怒るし、日本をたたいて選挙で勝とうとするだろう。高市総理はそこまで見すえているのか? 腰砕けになることがないよう、祈っている。

  • 2026年7月の世界(メールマガジン「文明の万華鏡」第171号前文より)

    「まぐまぐ」社から、月刊メールマガジン「文明の万華鏡」第171号を発刊しました。その前文をここにご紹介します。)

    「文明の万華鏡」第171号

     (2026年7月22日)

    Japan and World Trends  河東哲夫

    はじめに

    熱い夏がやってきました。気候だけでなく、世界の構造がこわれるのではないか、でも我々には何もできない、という圧迫感、無力感をますます感じています。一つは、米国が国力で中国に凌がれるのではないかという点。中国経済が苦境にあるのは事実でも、他面、AIや半導体など先端技術で米国に追い付いてきましたし、今や米国企業も安価で性能もいい中国のAIに乗り換えています。米国はよほどしっかりしないといけないこの時に、トランプという米国の中でも珍しいほど野卑な人物が、政権を乗っ取り、自分の見栄と私利のために使いまわしている。この二つが何ともしようがありません。

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    17日、彼は何日も前から予告した「重要スピーチ」で、2020年の大統領選挙(トランプが敗北した選挙)は中国に操作されており、国民の個人情報も中国に筒抜けになっていると言いました。一部は事実なのでしょうが、そんなことで中国が米国の選挙を操作できるわけでもないでしょう。こう言い立てることは、11月の中間選挙を何とか無効にする布石なのでしょう。

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    米国憲法は非常事態条項を持っていません。大統領が独裁者になるのを嫌ったからです。だから、ウクライナでのように非常事態を宣言したままにして選挙を無期延期することはできません。

    1976年のNational Emergencies Actは、大統領が国家非常事態を宣言することができるとしていますが、これで連邦選挙の日程を変更するのは難しいとされています。中間選挙をすることは憲法に規定されていますし、具体的な選挙日は州議会が定めているからです。騒擾状態を作り出し、物理的に選挙が行えない状況にするしかないでしょう

    ただ、選挙後に、「中国が介入したからこの選挙区での選挙は無効だ」と諸方で訴訟を起こし、訴訟が片付くまでは選挙結果を発効させない、意固地な手は使えるかもしれません。

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    もう一つ、呆れてしまったのは、16日、トランプが始め、彼の親族が今経営しているTruth SocialというSNSを経営するTrump Media & Technology Group(TMTG)が、金融機関などに向けて、「トランプ等の重要発言のスレッドを一般よりも数ミリ秒~数秒早く知ることのできる会員制サービスTruth APIを始める、料金は月額10万ドルだ」と言ったとされることです。

    例えば、「俺は今度イランに地上軍を送ることにしたぜ。来週から1万人だ」というスレッドを一般より1秒早く知ることができただけでも、株式市場が大暴落を始める前にカラ売り注文を出して、大もうけをすることができるということになるのです。

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    自分が米国の政策を決定できる、その政策は株価を動かす、その情報を文字通り売って儲けるばかりか、自分自身でも株式取引をして大儲けする。これは反吐の出るほどの利益誘導、究極のインサイダー取り引きであるわけで、それを悪いと思わない神経。むしろ、こういうことをするために権力を取った。これでは、米国はギャングによってハイジャックされた、ということになってしまいます。そして良識ある米国民、他国の人間は、これをどうともできない。

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    ピューなどの世論調査で、米国の評判は多くの国で中国に劣後するようになり、指導者としてはトランプより習近平を評価する向きが増えています。その中で、反中・親米の日本は立つ瀬がなくなろうとしています。

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    というわけで、今月の目次は次のとおりです。

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    日本が自分のカネを日本に引き戻す時

     (国民の貯蓄が国内で活用されていた戦後経済)

     (バブル崩壊と民営化)

     (アベノミクスが激化させた資金の流出)

     (高市・片山のT・Kラインによる対米しっぺ返し?)

     (何がどうなるか?)

     (「カネの切れ目は縁の切れ目」となるか――日本とトランプ米国)

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    エゴ大国たちの傍ら徳を積む日本外交―Power Asia構想

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    皇室典範改正

     (万世一系なのか)

     (ユーラシアの中の日本)

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    AIデータセンター・宇宙産業投資は異次元経済の到来か、それともバブルか?

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    もともとバブルでできた「世界一の米国消費市場」

  • 「宇宙」への投資は19世紀鉄道への投資に似たバブル

    イーロン・マスクのSpaceX社は6月12日に株式上場(IPO)し、一挙に12兆円相当をも集めた。株価はその後少し下がったが、それでも7月中旬現在、株価総額は270兆円相当と、世界の企業の中で7~10位の座にある。

    ちなみに、米国株式市場(S&P500)では上位10社で株価総額の4割近いウェイトを占める。それはすべてIT、AI関係の企業、そしてSpaceXなのである。

    いかにもバブルだと思ったのだが、つらつら考えるうちに、特定産業分野が突然出現して彗星のごとき膨張を始める時、余剰資金がこれに集中するのは当然のこと。まさに19世紀半ばの英国で起きた鉄道建設ブームがその好例ではないかと思うに至った。

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    文献をあたって数字を集めるのは大変なので(拙著の「『自由と民主』の世界史ー失われた近代を求めて」ではそれをやって消耗したのだが)、ChatGPTに頼んで以下の数字を集めてもらった。割と確かな数字を集めている。

    1)英国鉄道建設投資は、1845年に約1,300万ポンド、1846年に3,000万ポンド、1847年に4,400万ポンドへ急増。

    1847年の4,400万ポンドは、英国GDPのほぼ8%、同年の軍事予算の約2倍でした。投資額が1845年水準へ戻るのは1850年頃です。

    つまり、1840年代英国の鉄道投資は、ピーク時にはGDP比7〜8%に達し、当時の総投資の半分近くを吸い込んだと見てよい

    これは「余剰資金が新技術インフラに異常集中した」典型例です。ただし、17世紀オランダでのチューリップ投機のような単なる空騒ぎではなく、鉄道網という実物資産は残りました。鉄道網は一気に膨張し、1842年には英国の営業鉄道は1,951マイルだったのが、1850年には6,123マイルへほぼ3倍化しました。

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    2)これは製鉄・機械産業を大きく押し上げました。特に1844〜1851年には、英国の銑鉄生産の約18%が鉄道関連に向かったとの整理があります。その後、1852年以降は輸出需要が伸び、国内鉄道向けは鉄生産の10%未満へ低下します。

    ただし、製鉄業は鉄道だけで成り立ったわけではない。熱風炉などの技術革新、輸出市場、一般工業需要も重要でした。

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    3)バブル化の背景

    第一に、既存鉄道の収益が良かった。1843年に鉄道配当は額面比4.4%程度だったが、1847年には7.0%まで上昇していたとされます。これが「鉄道は確実に儲かる」という信念を生みました。

    第二に、株式の仕組みが投機向きでした。鉄道会社の株は全額払い込みではなく、最初は10%程度の頭金で応募でき、残額は後で「コール」される仕組みでした。これは実質的にレバレッジ投資で、普通の中産階級まで巻き込みました。

    第三に、議会承認が濫発されました。1846年には263件の鉄道設立法が通り、計画路線は約9,500マイルに達しました。約3分の1は結局建設されなかったとされます。

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    4)バブル崩壊の様相

    株価のピークは1845年8月頃。そこから11月末までに鉄道株は18.2%下落。その後も下げ続け、1850年4月までにピークから57.5%下落しました。

    ただし実物投資は逆に遅れて増えます。株価は1845年から崩れ始めたのに、建設支出は1847年にピークを迎えた。これは今日のAIデータセンターや宇宙関連投資にも似た構造で、「市場価格の崩壊」と「既に契約された設備投資」は時間差で動くのです。

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    5)バブル崩壊の原因

    直接の理由は三つです。

    一つは、建設費が予想より高かったこと。1845年計画では建設費は1マイルあたり約15,600ポンドと見込まれたが、実際の産業平均では1844〜1851年に3万〜3.5万ポンド台でした。

    二つ目は、収入見通しの過大評価。鉄道の年間収入は1845年に1マイルあたり約3,470ポンドだったが、1850年には約2,080ポンドへ低下しました。新線・支線が増えて、交通量が薄まり、収益率が落ちたのです。

    三つ目は金融環境です。1846〜47年の不作とアイルランド飢饉で食料輸入が増え、金流出が起き、イングランド銀行は1844年銀行条例の制約下で引き締めを迫られました。1847年には商業危機が発生し、政府が10月に銀行条例の制約を緩和してようやくパニックが収まりました。

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    6)経済へのダメージ

    株式市場は大損害を受けました。鉄道株は1850年までに半値以下となり、中産階級投資家の多くが痛手を受けました。

    鉄道会社の配当も、1847年の7.0%から1852年には2.4%へ落ちました。

    実体経済では、1847年の商業危機、信用収縮、商社・銀行の破綻が起きました。ただし1930年代型の長期恐慌ではありません。

    鉄道建設そのものは続き、1850年には営業距離が大きく増え、長期的には英国経済の物流効率を高めました。

    要するに、投資家には損、国民経済には後年プラスという、まさに技術バブルの典型です

    以上は、SpaceXやAIデータ・センター建設ブームに、よく似ています。違いは、鉄道は「物理的ネットワーク効果」が比較的早く実現したこと。SpaceXやAIでは、将来収益の規模見積もりがそれほど確かではありません。

  • 世界紀行8:ユーラシア その8 タシケント

                                

    2007年1月、国連UNDP(「国連開発計画」と言って、国連諸機関の中では最も手広く開発途上国援助を実施)の招きでタシケントに行ってきた。会議は1日半だけ、後は私費で滞在を延ばし、旧知のウズベク人達と会ってきた。2004年まで2年間、この国で大使をしていたので。

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    パミール越え・文明の諸相

    今回は、航空便の都合でバンコク経由という苦難の長旅になった。

    成田のチェックイン・カウンターの前には、中国人の中年婦人の一行が並んでいて、「ねえ、あれはカバンにちゃんとつめた? カップラーメン、カレーライス、鰹節(すべて日本語)は?」とやっていた。文化の逆輸出。

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    できたばかりのバンコク空港新ターミナル。思ったほど大きい感じは受けない。うまく設計されているからだ。

    タイと言えば、先進国一歩手前まで来たと思っていたのに、最近のクーデター騒ぎとその後の顛末で、僕はすっかり失望していたのだが、ターミナルはもちろん先進国の様相。

    立派なブティックが並び、タイのお嬢さん達が年々垢抜けていく働きぶりだ。

    でもそれも様々。ミーミーと子猫のようにか細い声で、人のいいスマイルを絶やさず、最後には例の合掌して頭を下げるタイ式のお辞儀(ヨーロッパ人はなぜか日本人もこうするのだと思い込んでいて、日本人にしたり顔で合掌してきたりするが、こちらはそのたびにむっとする)をしてくれる。

    かと思うと、インターネット・カフェのマウスが調子悪かったものだから、「換えたら」とアドバイスしたところ、そこの若干大型のおねえちゃんは「何? 調子が悪いんなら、隣のPC使えばいいじゃねえかよお」とすごむ。

    この女性、ちょっと中国人的な顔をしていた。

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    バンコクからのウズベク航空は、暑い。とにかく暑い。パミールの上を飛ぶのだからと思って、暖房をマクシマムにまで上げているのかも。そして機内の雰囲気は成田―バンコクとはがらりと変わり、ロシア的な荒くれになる。

    ウズベク人のマフィア的な青年が後ろに座っていて、90年代初期のロシア人若手実業家と同じく、全くの傍若無人。

    殊更な大声で仲間としゃべり散らし、「乾杯!」とかやっている。

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    ホテル・エレジー(タシケント)

    タシケントで泊まったホテルは、ドイツ系のDedeman。

    一見ヨーロッパ風なのだが、部屋に入って気がつくと時計がない、それよりもっと悪いのはホテル内の電話番号案内がない。

    ホテルのサービス案内もない。かと思うと冷蔵庫の中になぜかコンドームが2つ備えてあったりする。

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    そして更に頭にくるのは、朝9時30分になると係員が客室のドアをどんどん叩いて回り「朝ですよ! (MORNING CONTROL)」と呼ばわることだ。しかもこちらが返事をするまで何回もしつこく。

    これで一遍に、プライバシー軽視、集団主義、しつこい官僚主義の世界を思い出した。

    (注:この時からもう20年もたった今は、もっとあか抜けていると思う)

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    このホテルへの印象が決定的に悪くならなかったのは、一泊80ドルだったこと、そして温水プールがただできれいだったこと、ビジネス・センターではインターネットがただで使えたためだ。

    しかし回線が遅いために、メールを開けるのに1件30秒はかかるから、またタシケント在勤時代の苛立ちを思い出した。

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    街の表情

    インターネット情報を読んでいると、ウズベキスタンは「圧制にあえぎ、国民は貧困の淵から抜けられず」ということになっているのだが、マクロの経済数字は良い。ウズベクの主要輸出品である綿花や金の国際価格が高騰しているからだろう。

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    で、どちらが本当なのかと思っていたのだが、タシケントの表情は思ったより活気があった。車の数が増えている。

    2003年頃の在勤時代、僕が日曜日になると食料品を買いに来たスーパー「アルドゥス」(金持ち用だが)は、見違えるように現代的になり、品数も豊富になっていた。

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    対米関係が悪くなり(米軍はアフガニスタンで対テロ作戦をするために、ウズベキスタンのハナバード空軍基地を借りていたが、米国がウズベキスタンでレジーム・チェンジの策動を強めたために、カリモフ大統領から追い立てをくらったもの)、代わりにロシアに安全保障を依存し始めたことは、ホテルの客種に表れている。運転手によれば、「Dedemanホテルもアメリカ人がいなくなり、ロシア人が増えた。他にJICA関係の日本人、それに少々のドイツ人がいるかな」との由。もっとも冬で、ホテルは閑散としていたが。(注:2026年の今は、ウズベキスタンは米国ともロシアとも中国とも良好な関係を持っている)

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    旧ソ連圏はロシアの石油景気のおこぼれで繁栄中

    今回聞いたら、ウズベキスタンからロシアへの出稼ぎは200万人、カザフスタンへの出稼ぎは50万人なのだそうだ。ウズベキスタンの人口は約2,500万人。そのうち労働人口を1,000万人とすると、4人に1人は出稼ぎに出ていることになる。

    ロシアやカザフでは年間平均1万ドルを稼いでいると仮定すると、毎年少なくとも1,200億円ほどの仕送りがあることになる。GDPの約10%相当だ。要するに、ロシアのオイル・ブームがウズベキスタンやタジキスタンやモルドヴァなどのNIS諸国に、出稼ぎからの送金という形で伝播している。

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    高い油価で湾岸諸国も潤って、今大変な建設・投資ブーム。日本のプラント会社は数年先までオーダーが埋まっている、という状況なのだが、アメリカはひょっとしてイラク戦争の間はこのような状況を放置して湾岸諸国の支持を確保しているのではないか―――とさえ勘ぐりたくなる。

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    これは現代の「マーシャル・プラン」なのではないか? 妙なことにロシアまでがこの恩恵にあずかり、すっかり大国に復活した気分になって、アメリカの外交に茶々を入れたりするようになったのは計算外だったろうが。

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    他方、(2007年の)ウズベキスタンでは、貧困は残っている。子供を賄賂を使ってでも(500ドルくらいだそうだから、ウズベキスタンの農民にとっては大変な額だ)軍隊に入れることが今流行している由。これは「口減らし」になる上、除隊後税関などに就職できるのだそうだ。と言うより、軍隊経験がないと、税関などには採用してくれない由。

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    他方ロシアは最近、周辺諸国からの出稼ぎを制限する法律を採択し、4月からは国毎にクオータを定める。1月から、果物・野菜・食肉などを売っているいわゆる「ルイノック」での外国人の売り子は全体の40%までと制限されたため、売り子不足で多くの売り場が閉鎖され、価格は一部で倍増している。

    これまではコーカサス、中央アジア諸国の商人達がこれら物資を大量に持ち込み、販売していたが、この朝早くから夜9時頃までの労働をあえてやりたがるロシア人が足りないのだそうだ。これまでロシアで導入された多くの「画期的措置」と同じく、この移民制限も賄賂や抜け穴くぐりで、なしくずしにされてしまうだろう。

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    今回、僕が一番注目して何人かの政府高官に聞いたのは、大規模国営農園を分割して数名の自営農家に委託(50年間ほど)する改革措置の実態。数字の上では、農業生産の80%はこの新体制で生産されている由。

    もちろん、自営農家と言っても政府が箸の上げ下げまで指令してくるのだろうし、灌漑水の配分争いが激しくなっているようだが、これまで大規模農園にいた潜在失業者が大量に解雇され出稼ぎに行ってしまったことで、農業生産性は上がったらしい。

    これは、ミルジヨーエフ首相(2007年当時。その後大統領に)の大変な功績だ。彼はカリモフ大統領から農業改革をやれと言われ、静かに、大騒動も起こさずにそれを成し遂げたのだから。

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    もう一つ聞いたのは、今年から可能になったという、「土地の民営化」について。

    土地というのはどの国でも重要な資産で、この所有権が国から民に移ると経済、社会が大きく変わる。

    ウズベキスタンでは2006年7月の大統領令で、07年から土地を民営化できることになった。

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    だが、調べた結果は、「細則がまだできていないから実行されていない。細則がなぜできないかというと、どういう細則を作ったらいいのか、上から指令がまだ来ていないから」という、ソ連時代を髣髴させるものだった。日本でもそうだが、官僚制の強い国では、政府がやるとかやれとか言ったことは、そのウラをよくよく調べないと、彼らの言葉に騙されてしまう。

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    カリモフ大統領の功績

    カリモフ大統領は15年間、その地位にある。大きな混乱や動乱なしに、ウズベキスタンを独立国として成立させた功績は大だ。

    他方、腕を撫して新しいウズベキスタンを建設したいと考えている若手官僚も少しは現れている。

    彼らに既得権層を押さえ、コネと腐敗で固められた窒息するような状況を打破する力があるかどうかはわからないが、「この国では有能な奴は海外に行ってしまう。次にできる連中は実業界に行く。官僚になるのはその下の連中ばかりだ」という言葉に見られるように、ウズベクの現状を問題視し、それを変えたいと思っている者はいる。

    英国のウェストミンスター大学というのがタシケントにビジネス・スクールを開いていて、そこの卒業生が役人になっているのに会ったが(授業料は高いのだが、ウズベク政府の奨学金をもらって無料で学べる学生もいる)、見て話しをした限りでは有能、廉潔だった。

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    他方、同じ若い世代でも無能ぶりがひどい場合もある。出国する時、バンコク、香港乗換えの経路だったのだが、若い係員は荷物タグをプリントアウトするのに20分もかけていた。カウンターに座っている若い男はKGBのような鋭い目をして見せるのだが、それはPCの使い方がわからないコンプレックスを隠しているだけだった。

    ウズベクでは教育水準の低下が喧伝されている。それには、言語、文字の切り替えが大きな影響を及ぼしている。

    学校教育におけるロシア語からウズベク語への移行、ロシア語表記をキリル文字からラテン・アルファベットに切り替えたことにより、ソ連時代貯えられた膨大な教材・文献類が使えなくなってしまった。ウズベク語に翻訳された文献はまだ微々たるものだ。

    大げさに言えばウズベキスタンは今、文明の端境期にあるのだが、ロシアの影響力が事態をどう変えるか、興味津々だ。

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    中国の優雅と冷酷さと

    帰りはバンコクから香港経由のキャセイ・パシフィック(香港の航空会社。今やシンガポール航空などと並んでイメージが高いし、実際サービスが洗練されている)。

    ところがビジネス・クラスの座席の足を伸ばす台がどうしても引き出せない。ランプをつけると優雅極まりない中国人スチュワーデスが、親切極まりないスマイルを浮かべてやってきた。

    彼女は台を手でちょっといじってみたが埒があかない、と見るや、意を決したごとく、僕のすぐ横で美しい片足を持ち上げ、次の瞬間、馬のひづめの如くに硬いハイヒールのかかとをその台に振り下ろしたのだ。ガキッ!

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    で、もちろん台は直り、スチュワーデスは何事もなかったかのように、しかし少し面映げなスマイルを残して一礼。去っていった。

    中国人女性はたくましい。日米安保はやはり必要かも。        (了)

  • 日本歴史紀行4:ユーラシアの中の飛鳥

    (以下は以前アップした記事を、7月18日に全面改訂したもの)

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    日本歴史紀行4:ユーラシアの中の飛鳥

                 河東哲夫

    飛鳥〔現代は明日香村の一部〕とその周辺は、レンタカーで何度も走り回った。一番思い出すのは、箸墓の横にある「日本一たい焼き屋https://nipponichitaiyaki.com/shop/21narasakurai.html」、そして松本清張がペルシャ文明との関係性を強調した須弥山などの石造り彫像、そして石舞台などなど。

    この奈良盆地で見聞きし、調べたことを年代順にまとめておこうと思う。よく知られていることは省く。

    ウズベキスタンで勤務した筆者には、飛鳥、奈良に残る、ユーラシア文明の跡がいくつも目についた。

    飛鳥は京都よりも国際的なのである。

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    目次

     神武以前の奈良盆地

       三輪氏

    物部氏

       葛城氏

       漢(あや)氏

     久遠の彼方に引き伸ばされた日本の始原

       「神武天皇東征」は史実か? 

     崇神天皇と天照大神の東遷

       大和湖はあったのか?

     応神天皇つながり

     飛鳥の地理

       砂州と板蓋宮

       海柘榴市・纒向遺跡

       藤原宮跡

       藤原氏と多武峯の御破裂山

     ユーラシア文明の中の奈良日本

       薬師寺・真言宗(サンスクリット)など

    藤の木古墳と金細工

    平山郁夫画伯のシルクロード大壁画

     平城京

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    神武以前の奈良盆地

    「神武天皇の東征」が本当にあったかどうかは、怪しいことだ。それはあとで論ずるとして、神武、あるいは他の西からの勢力が大和政権を樹立するまでは、いくつもの勢力がこのあたりには群立していたようだ。それは葛城氏、三輪氏といった連中で、いくつかの部族は朝鮮半島との関係を明確に残していた。

    地元の青垣出版が出版した、面白いシリーズ本がある。それは、漢(あや)氏や三輪氏や物部氏や蘇我氏の氏素性を克明に追ったもので、主たる著者は宝賀寿男(ほうがとしお)氏。大蔵省のキャリア出身という珍しい人物である。学界のしがらみ、タブーからは全く離れた立場から、そして元官僚の徹底した調査手腕を発揮して、目からうろこの体験をさせてくれる。

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    三輪氏:

    三輪氏についてはあまり研究が進んでいないようだが、宝賀寿男氏によれば、三輪氏は朝鮮半島から九州、出雲を経て紀元2世紀頃大和にやってきた。源流は中国大陸江南の越種族(タイ人)で、そこから竜蛇信仰を持ち込んだ由。

    三輪一族は、実在が確認される(と言われる)天皇としては初代の、崇神天皇(日本書紀では第10代。在位推定紀元前97~紀元前29年)よりも以前から、この地にいたに違いない。と言うのは、日本書紀などによれば、崇神天皇(大和以外の地から来た人物で、これが神武天皇に相当すると見る人もいる)が即位して以降、疫病などが続いたため、同天皇は天照大神を宮廷の外に出し(最終的には伊勢に落ち着く)、地元の大物主神を崇めることとした。彼は大神(おおみわ)神社を設け、三輪氏を大神主としたのである。

    この大物主は出雲の大国主とよく関連付けられるし、三輪氏も出雲との関連を指摘される。宝賀氏も、三輪一族は紀元2世紀頃、出雲から到来したと断じている。大和の三輪には、「出雲屋敷」という地名がある。出雲屋敷とは大国主を祭る一種の神社で、日本の諸方にある。三輪の「出雲屋敷」は、神武天皇の皇后の実家があったとされるところである。

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    三輪の近くの大田遺跡では、出雲の陶器が多数発掘されている。そして銅鐸、埴輪も大和、そして北九州、出雲(島根の)で多出するのだが、銅鐸を出雲から大和にもたらしたのは三輪家だとされる。三輪家は、その後何度も朝鮮に出征、あるいは派遣されている。朝鮮半島に親族がいたのかもしれない。

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    物部氏:

    三輪家から少しあと、出雲から物部氏がやってきたのだ、とする学者たちがいる。物部氏は鍛冶・兵器製造技術に優れ、宝賀氏等によれば大和朝廷の「力の機関」、つまり軍、警察を握る勢力だった。その証拠は、天理市にある石上(いそのかみ)神宮にある。ここは物部氏の本拠とされ、祭神は剣の神。

    大神神社に匹敵するような広壮な神社で、境内の出雲建雄神社にはスサノオの命がヤマタノオロチを殺すのに使ったという、天十握剣が保存されている。

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    この神社には以前は実に千単位の剣が保管されていたそうで、大和朝廷の武器庫のような存在だったのだろう。そのためか、ここと飛鳥の間には運河が通じていた跡がある。斉明天皇が自分の宮殿を作る石材を運ぶためで、そのために彼女は世間から批判されたとも言われる。

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    葛城氏

    飛鳥周辺の有力豪族としては他に、葛城氏がいる。崇神天皇よりは新しい勢力のようだが、史料が十分ではない。5世紀初めに比定されている応神天皇(第15代)の後見役、武内宿禰が始祖だとされる時もある。

    後の雄略天皇の時代、葛城氏は朝廷に逆らい、葛城山麓にあった本拠地を焼き討ちされている(その跡は今に残る)。もっとも葛城氏はその後も勢力を維持したようなので、武烈天皇で男系が途絶えたあと外様の継体天皇が何年も大和に入れなかったのも、葛城氏など地元勢力を抑えきれていなかったためかもしれない。

    葛城氏はその後、蘇我氏が台頭するとその中に吸収されてしまったようだ。

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    漢(あや)氏

    漢(あや)氏は百済から、応神天皇に従って渡来したとされ、飛鳥の南西、桧隈のあたりに土地をもらって集住した。1970年代に発掘され、中から極彩色の壁画が出てきて話題をさらった高松塚古墳、そしてそれよりわずかに年代が古いキトラ古墳(発掘されたのは1980年)は、いずれもこの地域にある。

    そして双方の棺室の壁に描かれた四神、つまり青竜、朱雀、白虎、玄武(カメヘビ)は、中国の陰陽道に由来するものである。高松塚古墳で描かれている宮廷の人達の服装も中国風のものである。惜しいことにこの二つの古墳とも盗掘されていて、副葬品は何も残っていない。なおキトラの埋葬者は、百済王昌成か高市皇子と想定されている。鑑定の結果、虫歯が多い。そして右側犬歯が、いつも何かをくわえていたかのように、へこんでいるそうだ。

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    この漢氏は武力も備えていて、時の権力者に利用されている。例えば後世のし上がった蘇我入鹿は、漢氏の直駒という若者をたぶらかして、自分の娘かつ崇峻天皇の女官であった女性に惚れ込ませ(異説あり)、崇峻天皇を殺させてしまう。そして口封じのために直駒をすぐ殺すのだ。漢氏はその後、蘇我氏から中臣=藤原氏にうまく乗り換えて、後世には初代の征夷大将軍、坂上田村麻呂となっている。

     

    久遠の彼方に引き伸ばされた日本の始原 

    つまり、いろいろな勢力が大和盆地に入り込んでいた中で、「神武天皇の東征」は行われている。これは、既に住んでいた人たちにとって見れば、武装勢力の侵入に他ならない。「その武装勢力が天皇家で、以来万世一系の支配を貫いた。それが「日本」なのだ」。というのが、日本書紀が奉ずる日本正史。

    しかし日本書紀、特に大和朝廷の始原の頃については、「え?」と思わせる記述が多い。大体、この時期の天皇はいやに長寿なのだ。神武天皇は127歳、第11代の垂仁天皇は140歳で崩御、第6代の孝安天皇は102年間天皇の座にあり、第14代の仲哀天皇の皇后だった神功皇后は天皇の死後70年間も摂政を務めたのだが、仲哀天皇との間に出来たとされる第15代の応神天皇は、母の死直後、70歳程度で即位している。崩御は111歳の時で、それでも41年間統治している。

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    これは、日本の始原をことさら早いものに見せるための操作だったと思う。当時、中国周辺の諸国は唐に使節を送り、史料などの証拠を提示して、自国を「格付け」してもらう習わしだったから、日本書紀を編纂した朝廷は大いに頑張ったのだろう。神武天皇即位とされる紀元前660年頃は、中国では春秋時代。秦が地域を大きく統一したのは紀元前221年だから、神武天皇はこれよりはるかに老舗になる。

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    因みに、日本が第一次遣唐使を送ったのは、まだ飛鳥時代の紀元630年のことである。そして、当時の日本の統一度合い、政府の機構は唐にまったく及ばない。本当に神武天皇が紀元前660年に建国していたなら、遣唐使派遣までの1300年の間、何をやっていたのかと思う。

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    なお日本書紀、古事記などは諸部族の神々や、滅ぼし滅ぼされた諸豪族を関連づけて、上下関係をはっきりさせた、一種の台帳のような意味も持っているのではないかと思われる。

    いずれにしても、無数の古墳、陵は未だ発掘されていないので、我々は日本の故事来歴をちゃんと知ることができないでいる。だから、歴史学者ではない僕ができるのは、旅行して、目についた歴史の断片を記録に残しておくくらいのことだ。でもその方が、面白い。

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    「神武天皇東征」は史実か?

    でまず、神武天皇の軍勢は大阪湾から大和川をつたわって奈良盆地に入ろうとしたが、地元の豪族に阻まれ、そのため紀伊半島をぐるりと回って熊野川河口にまで至り、ここから北上を開始して奈良盆地に駆け下った、という、日本書紀の記述を検証してみようと思った。つまり、木々の生い茂った紀伊半島の山間部を、かなりの大軍が数日間も行軍することは可能なのかどうか。そこを実感で確かめてみようと思ったのだ。

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    その前にまず、1000名はいたであろう大軍勢が小舟に分乗して、潮の速い熊野灘を渡ることが可能かどうかという問いがある。そこは、「とにかくできたのだ」ということにしよう。紀州海岸の漁民兼海賊勢力が、助けてくれた可能性もある。

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    しかし熊野本宮のある田辺から飛鳥までは130キロ以上、山道も多いので、本当に行軍できたのだろうか。確かめてやろうと思って、現代の国道(飛鳥から南方に抜けるルートは川沿いに二つある)を少し車で走ってみた。

    その結果感じたのは、このあたりはそれほど険しい山々でもなく、山あいを縫っていけば何とか行軍できるだろうし、当時でも踏み固めた道はあったのだろう、ということ。

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    そして面白いのは、この山中を「神武天皇」軍を道案内した、八咫烏を祀った「八咫烏神社」が、行軍想定途上の宇陀市にあることだ(実際に行ってみたが閑散としていた)。この神社の創建は705年頃とされる。「神武東征」との間は1000年を超える。なぜ突然、カラスを思い出したのかはわからない。

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    この神社の案内板にも書いてあるが、「八咫烏」とは当時の地元の豪族、武角身命のこと。黒い装束を来て、木々を伝って「神武」軍を導いた(忍者の先祖か?)からカラスというのだそうだ。当時、奈良盆地を治めていた豪族達には全く想定外の、南の山地から神武天皇あるいは崇神天皇の軍勢(千名もいなかっただろうが、最新式の鉄製剣で武装していたので無敵だったのでは?)が飛び出てきた感じだったのだろう。

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    奈良盆地を平定した神武天皇は、樫原に居を構えて盆地を治めたことになっている。だから広壮な樫原神宮があるのだが、これは明治になって薩長政府が天皇に箔付けをするために、初めて建立したものだ。

    脇には「神武天皇陵」があって、宮内庁管理となっているが、これは誰のものかわからない小さな陵を、江戸時代になって拡張したものとされる。神武天皇陵があったということは、古代の史料にもあるのだが、中世には多くの天皇陵が放置されて、神武天皇陵がどれなのかもわからなくなっていたのである。

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    崇神天皇と天照大神の東遷

    神武天皇の即位は紀元前660年ということになっている。以後、それなりの事績が初めて記録に残っているのは第10代の崇神天皇。彼は、初めて土地の戸口調査をして、徴税することを始めた天皇とされる。つまり国家の形をしたものを始めて整えたことになる。即位は紀元前97年だから、それまでの天皇は平均62年間も位にあったことになる。

    熊野川中流にある熊野本宮は崇神天皇が建立したとされるのだが、これは出雲国造家が崇拝していた意宇の熊野大社と関係するかもしれない。つまり初めて東征をしたのは神武ではなく崇神天皇であり、出雲からやってきた後者が熊野信仰を自身の征服路に持ち込んだ、ということになる。

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    その崇神天皇の事績の中で僕が興味を持っているのは、彼が「疫病を鎮めるために」、天皇家の神であるはずの天照大神を宮廷の外に出してしまい、代わって夢のお告げに従って、(三輪氏の始祖)大田田根子を登用して大物主大神(大神神社)の祭主としたことで疫病が鎮まったとされる件である。

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    天照大神は宮廷を出されると一時、大神神社の近くの檜原神社に仮宿り、そこから伊勢に移っていったそうだ。檜原神社は奈良盆地東方の山腹にあって、これのすぐ下の池の堤から見た、霞たなびく大和平野の光景は悠久を思わせる。その後知られぬ間に天照大神は宮中に帰還し、賢所に安置されている。

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    そして崇神天皇の陵は、飛鳥からかなり離れた天理市にある。かなり大きな、それらしい雰囲気のある陵墓だが、これが本当に崇神天皇のものであるかはわからないそうだ。

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    大和湖はあったのか?

    奈良盆地の東端を南北に通る「山辺の道」から眼下の盆地を眺めると、その真っ平らな有様は、ここは昔、湖だったのでは、と思わせる。ここには周囲の山から多くの川が流入しているが、海への出口は盆地西端の山脈の真ん中にある切れ目しかない。ここを大和川が流れている。ということは、この山脈の切れ目を水が越えたところまでは、盆地に湖水があった可能性がある、ということだ。

    しかし、ここに大きな湖水があったことを思わせる和歌は、万葉集にもない。でも、もしあったとすると、斑鳩宮に居住していた聖徳太子は、毎日舟で宮廷に出仕することが可能となる。斑鳩と飛鳥の間の距離は30キロもあって、馬で行ったら往復に膨大な時間がかかってしまう。でなければ、聖徳太子は実在ではなかったか、飛鳥に定住していたかのどちらかだ。

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    応神天皇つながり

    日本書紀で事績が記されている初期の天皇では、第10代崇神天皇に次いで第15代応神天皇が目立っている。崇神天皇崩御は推定で紀元前68年、応神天皇即位は推定で紀元270年で、その間は340年間弱。但し応神天皇の直前は、その母である神功皇后が実に70年間弱、摂政の座にあったことになっている。

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    この70年間は、謎なのだ。日本書紀によれば、第14代仲哀天皇は神功皇后を伴って九州に南下。熊襲平定を策するが現地で急死(推定、西暦200年)。神功皇后は熊襲ではなく朝鮮半島に向かって、三韓を征伐したことになっている。同種の記述は朝鮮側の史書にはなく、何度も繰り返された日本からの武力侵入を撃退した記事しかない。

    また神功皇后は仲哀天皇との子を腹に宿したまま朝鮮に数か月滞在し、九州に帰還してから誉田別尊(後の応神天皇)を産んだことになっているのだが、その後譽田の摂政として実に70年間も執政するのだ。

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    これは、いかにも不自然。譽田と応神天皇は実は別の人物で、仲哀天皇崩御後は大和朝廷と九州の勢力と朝鮮半島の百済、新羅との間で三つ巴、四つ巴の混乱状態が続き、それを九州か任那方面出身の応神天皇が手勢を率いて「東征」。大和朝廷を征した、と見るのが自然なような気がする。

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    応神天皇勢は飛鳥方面には入り込まず、九州・朝鮮方面との連絡に至便の大和川河口、つまり河内に拠点を構えて河内政権を樹立した。以後、第25代の武烈天皇(西暦571年崩御)に至るまでが応神天皇の血筋で、この「応神王朝」は301年続いたことになる。

    応神天皇以後、日本は中国の史書にほとんど記述がない。「倭五王」の時代なのだが、中国は分裂していて、日本と正式に交流できる存在がなかっただろうし、日本国内の権力もまだ流動的な状態にあったのだろう。武烈崩御後20年間の実質的な空白があって、外部から継体天皇が迎えられる。継体天皇の血筋は現代の天皇家に至る。継体以降、権力の所在は再び飛鳥の方に戻ったようだ。継体天皇以降の事績は、飛鳥を中心に展開されている。

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    なお、応神天皇陵は飛鳥よりも大阪に近い、曳野にあるのだが、これは仁徳天皇陵に次ぐ大きさの前方後円墳。しかしあまり整備されていなくて車を止めて参拝することもできなかった。

    面白いのは傍らに、誉田(こんだ)八幡宮があることだ。この源氏の祭神とされる神社は、実は応神天皇が朝鮮半島から持ち込んだことになっていて、日本での総社は九州の宇佐にある。誉田も宇佐も建立は欽明天皇によるものとされており、共に最も古い八幡宮。欽明天皇は、八幡宮を建立して応神天皇を祀ることで、任那を取り返したいと願ったのだそうだ。応神天皇と朝鮮半島の間の強いきずながここにうかがわれる。

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    飛鳥の地理

    飛鳥は山と平地の境目、南方の山地から流れ出る2つの川に挟まれたところにある(もっとも、宮本誠氏の「奈良盆地の水土史」によると、このあたりの河川は何度も付け替えがされたそうなので、現在の姿を古代にそのまま引き写して考えるのは危険なのだ)。

    飛鳥というのは、韓国語アスカにすると、砂州=スカに冠詞のアがついたものだという説があるが、そうだったとしても、それは現代の韓国語ではない。古代朝鮮半島で使われていた、いずれかの言語に由来することは考えられるが。

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    砂州と板蓋宮

    いずれにしても飛鳥は、本当に砂州みたいなところに作られている。蘇我入鹿が殺された(645年)板蓋宮(いたぶきのみや)の跡は、田んぼの中にある。これは柱は掘っ立て、屋根は文字通り板葺きで、それより以前にできた近くの飛鳥寺が瓦葺だったのに比べて格落ちだ。飛鳥寺は蘇我馬子が仏教振興のために朝鮮半島の職人を呼んで作らせたが、その息子の蘇我蝦夷が板葺宮を建てたそうなので、何とかならなかったものかと思う。

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    607年推古天皇(聖徳太子が摂政)が派遣した遣隋使が帰朝するのにくっついてやってきた、隋皇帝からの答礼の使節・裴世清は、大阪湾から大和川に(そのあたりに後世、今の仁徳天皇陵が威容を見せてそびえることになる)舟を乗り入れて、奈良盆地を東西に突っ切り、上流の初瀬川の海石榴市(つばいち)で舟を下り、迎えの馬で飛鳥に向かったことになっている。

    ここは飛鳥にとっての横浜のような場所で、百済がつかわした仏教伝来の使節もここで552年、下船している。だから川岸には「佛教伝来之地」碑が立っている。当時、川港のようなところだったと言うが、今の東京で言えば石神井川の下流程度の河川である。

    それはいいのだが、使節が馬に乗ってとことこ行くと、あまり何もないところに板葺きの掘っ立て家屋が立っていて、「ここが宮殿でござる」と言われた中国や朝鮮からの使節は唖然としたことだろう。

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    海柘榴市・纒向遺跡

    大神神社、三輪のあたりには、海柘榴市(つばいち)という日本最古の市場があったそうだ。ここは大和川の上流で、大阪湾につながっている。そして東西南北に通ずる交通路もここを通っている。

    そしてこの近くには纒向(まきむく)遺跡がある。ここはほとんどが発掘されていないが、同じく東西南北の交通結節点で、3世紀に形成されたらしい。出土品からは尾張のものが多く出ており、経済圏の一体性を示す。また纒向遺跡の近くには箸墓もあり、これを卑弥呼の墓、纒向を邪馬台国のあったところとする説がある。

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    藤原宮跡

    だから、板蓋きの宮(焼失している)では見すぼらしいと思ったのだろう。朝廷はこの頃、立派な都を作ることに情熱を燃やす。新羅・唐の連合海軍に大敗を喫した白村江の戦いの後、日本を二つに分ける内戦の「壬申の乱」を制して、帝位についた天武天皇が志したのが、後の平城京を上回る規模と言われる「藤原京」の建設だった。現地の案内板だと、これが694年に完成する前に天武天皇は崩御、完成したのは彼の未亡人である持統天皇の時代。従って、藤原京は「二人の愛の産物」なのだそうだ。

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    701年大宝律令が発布されて、日本が律令国家としての体裁を整えたのは、この藤原京の時代=白鳳時代。藤原京は、明治維新の時の東京に似た地位にあったようだ。ここは今、だだっ広い草地になっていて、ところどころに大極殿の敷地跡などが残っている。

    それにしても、平地のど真ん中の無防備なところ。そして川が隣接しているから洪水にやられたことだろう。火災もあった。宮として使われたのは僅か15年余。まだ工事も終わっていないのに、奈良への遷都が宣命されている。

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    藤原氏と多武峯の御破裂山

    既に述べたように、天皇周辺では数々の土豪が盛衰を繰り返している。三輪氏、物部氏、蘇我氏など。そのしんがりとして、藤原氏の台頭がある。中大兄の皇子に中臣(藤原)鎌足が取り入って以降(もともとは天皇家の祭祀担当だったとされる。一種のシャーマン役)、その息子の不比等が飛鳥朝最後の頃の斉明天皇の時に側近として台頭。以後天皇家の外戚として並びない権力を誇る。後世は近衛家、九条家などの五摂家に枝分かれしている。太平洋戦争の前に総理大臣を務めた近衛文麿氏はその末裔だそうで、息が長い。

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    中臣家は今の茨城、千葉北部の香取神宮、鹿島神宮にも深く関与する、この地方の出自だとする説もある。確かに両神宮は藤原氏と深く結びつけられていて、奈良の春日大社(藤原氏の氏社)は創建時、鹿島神宮から武甕槌神、香取神宮から経津主命を勧請して、藤原家の祖神である天児屋根命、比売神とともに春日四神としている。しかもその中では武甕槌神が第一殿に祭られている。

    中臣家はもともとは朝廷の祭祀担当で、全国の神社を掌握。宮司などの人事も差配した。鹿島・香取両神宮は、北方の蝦夷との対立の前線にあったから、中臣・藤原家も両宮をそれだけ重視したのだろう。しかしそれでも、中臣(藤原)家が茨城方面出身であることを証する史料はないようだ。

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    で、藤原鎌足の墓があるという、多武峯に行った。

    645年、宮廷の祭祀担当、中臣鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)と、飛鳥のすぐ南、多武峯(とうがみね)の中腹にあったサッカー・グラウンドと言うか蹴鞠場に赴いて、蹴鞠をしながら蘇我入鹿暗殺計画を練った、とされる。皇位継承者である中大兄皇子にとって蘇我氏は脅威だったし、その蘇我氏が仏教普及を自分の権力拡大の道具にしていることは、全国の神社を差配する中臣にとって脅威だったのだろう。

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    この蹴鞠の縁によるのだろう。藤原(中臣)鎌足の墓は多武峯の頂上にあって、国家の危機が訪れると、その山頂が裂け、鳴動して光を発する、とされるようになった。これではまるで火山。奈良に火山などあるものかと思って調べると、さにあらず。

    奈良盆地は瀬戸内から伸びる火山帯の上にあって、死火山もある(畝傍山、耳成山等)。日本書紀にも何度も「ないふる」として、地震があったことが記されている。例えば599年(推古7年)の地震では家屋が多数倒壊したと記されている。

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    だから多武峯も火山なのかもしれない、でも火口に墓を作る人はいるのかと思って、好奇心丸出しで登ってみた。

    これは、ふもとの談山(たんざん)神社から500米急坂を上るのだ。途中ちょうど半分のところに、「大化改新御相談所」あるいは「御相談所」という立札がある。まあ、「策謀」とか「陰謀」とか書けないのだろうが、「御相談所」では迫力がない。ここは鬱蒼とした山の中、直径20米もない円形の台地があって、ここで二人は蹴鞠をしたことになっている。

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    多分、「ちょっと蹴鞠してくるからな」とでも言って、絶対盗み聞きされないこの山腹で謀議をこらしたのだろう。蹴鞠が外れれば、ころころ転がり落ちそうな狭い場所なのだが、蹴鞠というのは反発力がなくて、蹴ると、紙風船に似た感触なのだそうだ。

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    で、そこから更に250米上ると山頂になる。小さな祠があり、その後方にはこんもりとした土の山がある。多分これが陵なのだろう。横の案内板には、「ここが藤原鎌足の墓所で国家不祥事には鳴動」とあるが、この土の山は溶岩丘とは見えない。但し記録では、1600年頃までは鳴動していたそうだ。

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    今回の登山はちょうど、国会が森友・加計学園問題という「国家不祥事」で揺れている2017年だったが、ここ多武峯の「御破裂山」はしんと静まり返っていた。多分、鳴動するほどのこともない、スケールの小さな不祥事ということなのだろう。

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    なお、藤原鎌足の陵とされる場所は他にもある。そして東京の新宿には多武峯内藤神社というのがあり、祭神は藤原鎌足となっている。もともとは、江戸時代の内藤家屋敷の内部にあったもので、内藤家は藤原家の末裔と言われる。ここに「内藤の新しい宿場」ができ、新宿となった。つまり新宿も藤原鎌足からみなのだ。

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    ユーラシア文明の中の奈良日本

    飛鳥、奈良は、中国文化の影響一色の京都に比べると、朝鮮、ペルシャ、ソグド、インドとその関係先は多岐にわたる。それらユーラシア諸地域の文明、文化は金、銀の鉱石の露頭のように、奈良の旧跡のそこかしこに露出している。

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    薬師寺・真言宗(サンスクリット)など

    薬師寺の薬師如来の台座には、ギリシャ風のぶどう模様、ペルシャ風の唐草模様、そしてインド・中国の神々が浮き彫りになっている。奈良はユーラシア文明の一部だったのだ。そしてそれに万葉集の歌の数々、特に恋歌を重ねると、ロマンがうねり始める。

    飛鳥時代の歴史を考えると、日本内部の細かいことについての論争にどんどん押し込められて息が詰まる思いがするのだが、この時代、中国の五胡十六国・南北朝時代の混乱を経て隋、唐という大国が勃興していくダイナミックな国際環境の中で、物部、蘇我、藤原の死闘、大化の改新、そして白村江での敗戦、壬申の乱が展開されたわけで、もっと学際的な議論をしていくべきなのだ。

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    で、この地域に、中国、そして中国を越えた西域からユーラシア、オリエントの文明が流入した痕跡を、他にも追ってみる。

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    近場から行くと、東大寺の二月堂のお水とりの儀式(3月)。そこでは日本海岸、小浜市にある神社の井戸から水が地下を通って届くことになっている。小浜は日本海の対岸の大陸との交流の拠点の一つ。

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    薬師寺だか新薬師寺だったかわからなくなってしまったが、薬師如来を守る十二神将はもともとインド出身で、その像には、basara将軍とかkubira将軍というふうにローマ字の名が書いてあった。これはサンスクリット語。バサラ(婆娑羅)は鎌倉時代末期(1300年頃)から跋扈するようになった、ならず者の武士たちで、派手なかっこうで街を練り歩いては他人の妻をかっさらうなど悪さをしていた者たちのことも意味する。純日本的な現象と思っていたら、サンスクリット語なのだ。

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    サンスクリット語と言えば、仏教の「真言」とはサンスクリット語で唱えるものなのだそうだ。中国ではこれを「呪」と呼んでいた。真理の言葉を呪文のように、秘儀として使っている。空海(中世の高僧)の持ち帰った真言宗以前から、そうだったらしい。今でも、卒塔婆に使うあの意味のわからない梵字はサンスクリット語のことだ。真言宗の僧侶は今でも経を当時のサンスクリット語の発音で読み下すらしい。道理で聞いても何もわからないはずだ。

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    奈良国立博物館には、熱帯アジアからやってきた栴檀の香木が陳列されている。そしてこれにはペルシャ文字、ソグド文字の刻印があるのだそうだ。漢字の刻印はないようなので、するとペルシャ人あたりが船で直接日本に持ってきたものか? 飛鳥の石造物にはペルシャ文明の影響があると言う者もいるので、ペルシャ人が当時の日本に来ていたとしても不思議ではない。そのあたりは松本清張の「火の路」で、面白い仮説の数々が提示されている。

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    そして「かぐや姫」は日本の伝説の中で一つしかない異質な筋で、実は当時日本に漂着したペルシャ人貴族が置いていったプリンセスだったのだ、という仮説も提示されている。孫崎紀子女史の書いた「かぐや姫誕生の謎」がそれだ。近くの葛城郡広陵町は、「かぐや姫の里」を名乗り、ゆかりの竹林もそこにはある。

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    もう火事で燃えてしまった法隆寺金堂の壁画の仏像の顔は、日本人のものではない。サマルカンドにあるアフロシアブ壁画の顔と、驚くほど似ている。東大寺の仁王像なども、日本人、中国人より中央アジアのごっつい男たちによほど似ているのである。

    奈良から平安時代にかけての日本の美人画は顔がふっくらした女性をイメージしているが、このやや日本人離れした顔は唐の美人画のそれにそっくりなのだ。

    そして平城京朱雀門の朱雀とは、フェニックスとかロシアの「火の鳥」に似た鳥のことだ。中国の意匠では、よく竜と対で使われる。竜とは蛇のことで、このカップルはユーラシア全域、そして遠くメキシコにまで広がる蛇と鳥崇拝の表れなのだ。

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    藤の木古墳と金細工

    飛鳥から20キロ以上離れた斑鳩(聖徳太子の居所、今の法隆寺のあるところ)で発掘された藤の木古墳は、盗掘されていなかったために、金銀の絢爛豪華な副葬品が山と出てきて、現地に陳列されている。精巧な細工だ。

    金の細工と言うとすぐ、ユーラシアのスキタイ文明を思い起こすのだが、まさにその系統で、一つの冠の意匠はアフガニスタンで発掘された昔の冠と共通しているそうだ。そしてこれらの副葬品の多くは馬具(但し装飾用)である。それが江上波夫氏の言う「騎馬民族」が当時既に日本で定着していたことを示すものかは、わからない。

    因みに、この古墳の石棺は今でいうシングルベッドくらいの小さなものだが、中には2体の成人男性(一体は女性とする説もある)の骨が寄り添って横たわっていたそうだ。これが今流行りのLGBTだったかどうかは知らないが、測定された死亡年齢から言って、二人は587年頃、物部と蘇我の争いに巻き込まれて戦死した穴穂部皇子と宅部皇子であって不思議でないそうだ。穴穂部皇子の母親は蘇我氏だが、物部に嫁入りしていて争いに巻き込まれ、息子の皇子も蘇我氏に殺されたのだ。しかしそうなる前は、穴穂部皇子はセレブリティーのプリンスとして、遠くオリエントから取り寄せた金ぴかの馬具を見せびらかしつつ街道を闊歩するプレーボーイであったかもしれない。

    飛鳥時代、仏教・仏寺は蘇我、神社は藤原と分かれていた両者だが、奈良時代、藤原氏の力が大きくなったせいか、双方は混然一体化し、神仏混淆と言われる状態になった。東大寺では東北の鬼門を八幡宮が守っているし、藤原氏の氏社である春日大社には「社僧」がおり、読経もしていた。談山神社のように、妙楽寺として創建されていながら、その後は神社も併設され、明治の廃仏毀釈で正式に談山神社となった例もある。

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    平山郁夫画伯のシルクロード大壁画

    薬師寺には、2009年に亡くなった平山郁夫画伯の壁画がある。彼は生前、これは私のライフワークですというようなことを言っておられたから、今回見に行った。

    実のところ、彼がよく描いたシルクロードについてのやや類型的な作品かと思って行ったのだが、シルクロードはシルクロードでも、彼のいつもの謹直さをかなぐり捨てたような清新さ、大胆さで、僕はなぜか泣ける思いだった。ああ、この人はここで全力を出している。思い残すことはないだろう。

    須弥山と題したヒマラヤの山々が、壁画の中央に鎮座する。全長49米の壁画が周囲を囲む。そして天井は、シルクロード盛んなりし頃珍重されたアフガニスタンのラピスラズリ(現在でも宝石として名高い)の深い々々群青色に金の星を散りばめた夜空の仕様で、吸い込まれるような幻想性を湛えていた。

    こうして、飛鳥の「ユーラシア性」は、現代の平山画伯によって止揚されたのだ。

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    平城京

    飛鳥方面から奈良駅に戻り、近鉄奈良線で西方の大阪方面に向かうと、西大寺駅の手前に、平城京跡歴史公園が広がっている。更地の向こうに、復元なった(と言っても、絵図も残っていなかったから、ただの想像の産物だが)第一次大極殿が真っ赤にそびえている。確かに大きい。

    そしてその反対側、はるか向こうに朱雀門が立っているのだが、この1.5キロ四方ほどの土地全部が内裏だったというからたまげた。一般人が住む右京、左京はその数倍にわたって広がり(4キロ四方)、真ん中の大通り朱雀大路のあった辺りには今、「洋服の青山」が店を出している。

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    この平城京は、今鉄道で二駅以上も向こうの東大寺まで続いていたことになっているのだが、多分当時はまだ譲成中の土地が多かったのだろうと思う。そして水の流れがよくないこのあたりの川では、住民の家から流れ出た汚水が悪臭を放っていたのだろう。それも、平安京に移転した理由とされるが、実際はもっと政治的な配慮があったのだろう。

    京都はわりと新手の帰化人である秦氏が差配するところで(雄略天皇に大量の絹を献上して地権を手に入れたらしい。太秦に氏寺の広隆寺を建てた)、天皇は、古来の土豪たち、そして寺社がひしめき足の引っ張り合いを続ける奈良から、脱出することができたのだろう。

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    現に藤原氏は遷都に伴い、一時力を減じている。但しその後は盛り返し、その途上で邪魔になった菅原道真が大宰府に左遷されてしまうのである。(完)

  • 昔を回顧する洋画、あいついで

    この1週間、1世代前の文化を回顧する洋画に続けて出会った。一つはアメリカ人の映画監督リチャード・リンクレイターの撮ったフランス映画「ヌーヴェルヴァーグ」。ゴダール監督が処女作「勝手にしやがれ」を仕上げていく過程を追ったもの。

    ドキュメンタリーではない。登場人物はゴダールやベルモンドを初め、すべて現代の俳優(?)が演じている。それが、皆、本物にそっくりで、面白かった。そういえば、フランス風のエスプリを効かせたもの、と言うより、直截なハリウッド流だったかも。

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    もう一つは「Michaelマイケル」。マイケル・ジャクソンが幼少期のジャクソン5から、世界一のシンガーにのしあがっていくまでの過程を描いたもの。これも本物にそっくりの、現代の人間たちが演じている。マイケルは彼の甥のジャファー・ジャクソンが演じているためか、本物に瓜二つ。ダンスの所作も素晴らしい。因みにペットのチンパンジーがまたリアルで芸達者。まさかCGとは思えないが、映画会社はCGだと言っている。

    この映画は楽しむためのもの。マイケルの迷いと苦しみに彩られた後半生は出てこない。もっぱら頂点へ駆け上がる右肩上がりのマイケル。プラス・イメージしか振りまかない。実際はもっと陰翳をもった人間だっただろうが。

    華やかなパフォーマンスが続き、その様は映画「国宝」に似ていた。ゴージャスの一語。

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    それにしても、この二つの映画は、一つ二つ前の世代、今はもう様変わりになってしまった自由で右肩上がりだった時代を懐かしむ点で共通している。それも、当時の人物にそっくりの現代の人間を登場させて。

    トランプの登場、欧州でのポピュリズムの台頭で、世界のインテリにとっては1960~70年代は輝ける時代に思えるのだろう。