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投稿者: akiokawato

  • 日本歴史紀行 出羽の国(酒田・鶴岡)

    (これは2017年10月の紀行記。酒田は江戸時代の北前船海運の拠点の一つ。北前船は北海道から昆布、ニシンを積み、日本海側にいくつもある河口の港で肥料として販売。代わってその地域のコメなどを買い上げつつ、関門海峡・瀬戸内を通って大阪堂島のコメ市場にまで至る、当時の物流の大動脈。酒田はそれより以前には大陸との交易もあったようだし、東北の山脈を超えると藤原氏の治める地域ともつながっていた。酒田をベースに江戸時代に栄えた廻船問屋兼、一帯の大「地主」、本間家の屋敷は今も残っている。少し南の庄内平野とともに、豊かなところだ)

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    もう8月末のことになるが、生まれて初めて山形県の酒田、鶴岡に行ってきた。日本のこのあたりには本当に無縁で、今回初めて、山形県は日本海に面していて、新潟県にも接していることを認識した次第。スミマセン。

    なぜ行ったかと言うと、日本の経済史の観点から関心があったから。外務省時代の僕の部下は酒田出身だったが、「何もないんです」と謙遜していた。しかし酒田は江戸時代の北前船の一大拠点。山形県の内部深くに入り込む最上川を伝って運び出される米やその他物資の積出港だ。「何もない」はずがない。それに近くの鶴岡という街は、ポスターで見るとすごく瀟洒で神秘的だ、行ってみよう、と思ったわけである。

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     そしてもう一つは、酒田を本拠にしていた「本間家」という存在は何だったのかを知ること。江戸時代から大地主だったということだが、江戸時代は土地は基本的には幕府のもので、農民は自分で耕している土地の占有権を保証される代わりに年貢を納める義務を持ち、藩主には土地の所有権は与えられない。だからこそ、いつでもお取りつぶしや配置換えの目に会っていたので、地元の土地を所有していた西欧、ロシアの貴族とはそこが違うのだ。農地の私有と売買が認められるようになったのは明治6年以降の話しなので、それ以前に「大地主」になっていたという本間氏の話しはホンマなのかどうか、そして本当ならどうやって土地を私有化したのか調べたいということだった。

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    問題は、あの方面への列車の接続は悪くて時間がかかること。仙台からレンタ・カーで行くのが一番速い。既に殆どハイウェーが通じている。

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    日本は火山島

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     ハワイなど、火山がそのまま島になったようなものだが、旅行をしてみると、日本もまるで湿疹のようにそこらじゅう火山、または火山の痕が見える。それは瀬戸内でもそうだし、山陰でもそう、そして今回の鳥海山、湯殿山、月山の出羽三山はもちろん、仙台周辺でも夕暮れの山稜はまるでジュラシック・パークのような火山性の荒々しさを露わにしたからたまげた。

    要するに日本はマグマの上に乗っているカサブタにブツブツができたような地形で、その儚さたるや、中国や韓国にやられる前にいつ自分でぶっ飛ぶかわからない、そういう運命なのだ。もっとも、ボイラーの上で生活しているようなものだから、地熱発電をすれば十分ではないかと思うが、報じられている限りでは日本の地熱は原発数基分しかないそうで、日本人が生活するには不十分なのだそうだ。ホンマかいな、と思ってしまう。

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    桃源郷と究極の貧困が並列していた出羽の国

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    明治初期、お供を一人連れて東北、北海道を行脚した英国女性イザベラ・バードが残した「日本紀行」は面白いし、貴重な記録である。彼女は東京から日光経由で新潟に出て、そこから米沢方面に馬、籠、徒歩で行くのだが、日光から新潟の間の山岳地帯では究極の貧困、蒙昧、不潔に出会っている。講談社学術文庫版の上巻236頁にはこんなくだりがある。

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    ――鶏、犬、馬、人間が薪をたいた煙で黒くなった粗末な平屋にいっしょくたに暮しており、山になった家畜の糞尿が井戸に流れ込んでいます。幼い男の子で着物を着ているのはひとりもいません。ふんどし以外になにかみにつけている男性はわずかで、女性は上半身裸のうえ、着ているものはとても汚く、ただただ習慣で着ているにすぎません・・・家屋は汚く、正座したりうつ伏せに寝ているときの人々は未開人とたいして変わらなく見えます。風体と慎みに欠ける習慣にはぞっとするばかり・・・――

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     それが米沢盆地に向けて山を下りていく時には、目の前にこんな光景が開けている(同320頁)。

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    ――好天の夏の日・・・米沢の平野は・・・申し分のないエデンの園で、「鋤ではなく画筆で耕されて」おり、米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず、ざくろをふんだんに産します。微笑みかけているような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディアです。・・・圧迫とは無縁――東洋的な専制のもとではめずらしい光景です。・・・いたるところに豊かで美しい農村があり、彫刻を施した梁とどっしりした瓦屋根の大きな家々が、それぞれ自分の敷地に柿やざくろや杉のていねいに刈り込まれた高い生垣で守られています。――

     このあたりは江戸時代、米沢藩。例の上杉鷹山の経済改革で名高いところ。最上川で米や商品作物を上方や江戸方面に売りさばいて繁栄していたのだろうし、それゆえ幕府もこのあたりに天領をいくつも作って財政の支えとしていたのだ。天領というのは国立農園のようなもの。今でもそうだが、「国立」というのは待遇が良くて、年貢率も低かったから、農民の暮らし向きはますます良くなったのだ。

     そしてこの出羽の国、江戸時代はいくつかの藩があり、天領も虫食いのように諸方にあった。幕府は、政治・経済上重要なところは天領として抑えていたのだ。

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    酒田の成り立ち

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    酒田は最上川の河口にある。河口に砂州が岸に沿って鳥のくちばしのように長く伸びていて、岸との間に良港を形成している。幅と深さが現代の貨物船には足りないかもしれないが、江戸時代から明治にかけてここは千石船(今で言えばコンテナを一つ積めるくらいの大型艀だ)がひしめいていた。現代風に言えば、超大型トレーラー・トラックがひっきりなしに出入りする道の駅の風情だろう。

    ここが物資積み出しのハブになったのがいつ頃かはわからないのだが、地元では「平泉の藤原家が源頼朝に滅ぼされた時、泰衡の縁者「徳尼公」が36名の護衛に守られて酒田に落ちてきて住み着いた。その36名は海運で身を立てて、これが江戸時代になると「酒田の36人衆」と言われ、まるで戦国時代の堺のように酒田を自治で治めたのだ、ということになっている。

    36人衆による自治は、戦国時代末期からで、3人が一組になり、1カ月毎にローテーションの当番制になっていた。町内会のようなものだ。江戸時代には、酒井藩の下部組織として組み入れられている。36人衆は「株」=仲買商売のライセンスのようなものを売っていたので、酒田には米問屋が増えていく。

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    以上については、いくつかの疑問が起きる。まず平安時代末期の酒田はどんな感じのところだったのかということだ。いくら落人と言っても、平泉家と縁もゆかりもない所にいきなり行くわけもない。現地の資料を見ると、平泉家の力は当時、鶴岡まで及んでいたそうなので、人気のないところに避難したわけではない。

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    そしてこの時の36人はいきなり海運業を営むようになったわけではないだろう。まあ、江戸時代にできた浄瑠璃の「義経千本桜」では、壇ノ浦を落ち延びた平知盛が今の尼崎で船問屋を営んでいたことになっているので、落人が海運を手掛けるのは古来からのことだったのかもしれないが。現代と同じで、港湾、海運には暴力組織がからみやすい。それだけ儲けの大きいビジネスだから、利権を守るのも必死なのだ。そして、このあたりの日本海は幅が広いのだが、対岸の契丹あたりと提携していたかもしれない。

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    そして、この時の36人が江戸時代の36人衆にそのままなったわけではない。例えば江戸時代以来の大手廻船問屋の鐙(あぶみ)屋は、西鶴の「永代蔵」(当時のビジネスの副読本のようなものだ。鐙屋の経営ぶりを詳しく叙述している)によれば、「(以前は)しがない旅籠を営んでいた」。本間家は後で佐渡の方から入って来たのだが、後に36人衆の一人として迎え入れられている。相撲部屋と同じで、36人衆の顔ぶれは時に変化していたのである。

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    そして江戸時代、酒田の統治は36人衆が独占していたわけではなく、形式的には鶴岡に城を構える酒井家の庄内藩の一部、しかし酒田は亀ヶ崎城の存続を許され、強い自治を維持していたのである。いわば庄内藩にとって、鶴岡はワシントン、酒田はニューヨークという地位であっただろう。

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    流通ハブとしての酒田

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    酒田は農産物、特にコメの流通ハブだった。天和年間(17世紀末)には、春から秋までに2500-3000隻の船がやってきたとの記録がある。全部千石船でもあるまいが、最大で45万トンの米の移動を意味する。これは今の米価で、約1400億円だ。

    江戸中期、酒田には廻船問屋が97軒。1軒でも蔵の中に200万両相当の貨物を蔵していた。廻船問屋と言っても、その形態は様々で、今でも当時の屋敷を見学できる鐙屋は、廻船問屋と言いながら、自分で船は持っていなかった。鐙屋は、もっぱら船長のための無料ホテル、そして米を買入れ、船長に売り、口銭を取ることに徹していた。要するに、陸上だけの仲買人である。

    酒田の扱う貨物としては、最上川流域で集荷される藍などの商品作物もあったものの、庄内平野でとれる米がダントツで重要だった。米を納入すると米券が預かり証として発行され、これは通貨のように通用した。一俵、60キロが普通で、持ち上げるのは大変だ。

    酒田を拠点とする船は「北前船」とも呼ばれるが、これは航路が北海道に伸びてからのこと。これは北海道でニシンを大量に積むと、日本海側の大河の河口にある港々に寄っては、ニシンを肥料として売り、米その他を買い入れて関門海峡から瀬戸内に入り、大阪の米市場を終点とする。その一回の航海で、北前船は千両(=一億円)を稼いだ(利益なのか売り上げなのか不明)と、現地の資料に書いてある。別の資料には、米百石の江戸(大阪から江戸までのルートもある)までの運賃は約20両とある。北前船は千石ないし千五百石だから、積み荷全部が米なら200両にしかならない。多分、ニシンや商品作物の取り引きも含めて千両になったのだろうが、よくはわからない。

    酒田で一般的だった千石船は、150トンに相当する。それは大型漁船なみの大きさで、かなりの迫力を持つ。ところが江戸末期、ロシアでエカテリーナ大帝に謁見したことで有名な高田屋嘉兵衛(淡路島生まれの廻船問屋)は、酒田で本間家の出資を得て、当時としては型破りに大きい1500石積みの船を建造した。

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    北前船については最近、面白い本が相次いで出版されているが、現地の博物館などの資料をまとめると、いくつかの航路があった。と言うより、基本的には今のトラック運送会社と同じで、無数の業者が様々なルート(と言っても、港がないと駄目だが)やスケジュールで運行していたのだ。

    酒田発で南下し、佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、岩見の温泉津、下関に寄港、大阪、鳥羽、下田を経て江戸に至るルートは、出羽地方の天領の米を江戸に運ぶ事業を委託された大商人、河村瑞賢が様々のルートを踏破し、可能性を比べた上で各地の港と合意、受け入れ態勢を整えた上で1672年、発足させたもの。酒田から江戸まで45日かかった。地理的には出羽の国から太平洋岸に出る阿武隈川を使うことも検討したが、この川は途中の難所を改める工事は難しい。津軽海峡を通って太平洋岸を南下、江戸に至る航路もあったが、黒潮に逆らっての南下は困難ということで、酒田から日本海を南下することにしたのだ。

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    日本海側には、新潟、富山(伏木)、敦賀、小浜、境等、他にも北前船が寄港した港が多数あるが、河村が開発したのは、江戸の侍たちが食いはぐれないよう、急行で米を運ぶためのルートだった。このあたりは最近出た、伊藤潤氏の時代小説「江戸を造った男」に詳しい。ものすごく面白い小説だ。この河村という人は明暦大火の後、木曽の木材を買い占めて江戸に送って財を成した人。

    伊勢出身だが、その組織能力で幕府要路の信頼を得て(小説では無私廉潔だったことになっている)、淀川河口地域など大型インフラ工事をいくつも請け負った。

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    山形県というのは、真ん中の細長い平野を最上川がぐっと奥まで、ほとんど山裾まで貫き、平野が産する富を根こそぎ酒田に出荷できる地形になっている。そしてそれができるように、最上川の急流部分などは江戸時代に改修されている。奥の米沢になると川はぐっと細くなるが、地元の博物館には小型の船が陳列してある。細い流れでも集荷できたはず。なお、鶴岡は最上川のほとりにはない。別の赤川という独立した川のほとりにある。

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    よく言われることなのだが、室町時代の頃から日本は単一市場化し、貨幣経済が全国的に浸透したと言われる。単一市場化したということは、それだけ販売先が増え、生産も増やせるということ。そして貨幣経済が普及したということは、相手を見つけるのが難しい物々交換を脱却し、成長への基盤ができたということである。僕は以前半信半疑だったのだが、酒田や「最上川経済圏」、そして北前船のビジネス・モデルなどに触れると、「単一市場化」、「貨幣経済の浸透」が実感として会得できるのだ。

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    本間家

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    戦前の大地主、本間家は戦後、農地改革で小さくなった。それでも終戦直後、日本中をまわった米国の記者、マーク・ゲインの「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫)107頁には、酒田で本間家の末裔と話しをした場面が出てくる。それによると、土地を差配する50がらみの「見るからに弱々しい男」、政治方面を担当する「スフのみどりがかった洋服を着て眼鏡をかけた、なかば禿げ上がった男」、そして本間家の官房と政策を担当する「丸顔の美青年」の3名が「態度は慇懃だが、顔の表情は敵意を示して」応対している。この3名が本間家の代表(先代が娘しか持たず、後継を指名せずに死去したため)で、彼らは農地改革が間違っているゆえんを説明する。

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    「本間一族は合わせて4100エーカーの土地(これでは16平方キロにしかならない)を所有し、5150人の小作人の家族がこれを耕している・・・成績のいい小作人は平均(年間)117ドル稼ぐが(今なら5万円程度)、本間家はその中から47ドルをとる。残りの70ドルが小作人家族の一年の報酬である・・・家族は平均7人・・・」

    「300年以上にわたって私たちは小作人との間に安定した関係を打ち立ててきたのです。新しい(農地改革の)法律は、このバランスを破壊するものです。・・・夫婦共稼ぎでも耕せるのはせいぜい7エーカーぐらいのものです。」

    そしてゲインは計算する。今度の農地改革で本間家の土地売却代金は600万ドルに上るだろう(今の金でせいぜい24億円だ)・・・。

    そして会話の中で本間一族は、戦前は満州農業銀行、朝鮮殖産銀行も所有していたことを明らかにする。川崎重工業にも大きな投資をし、地元の電力会社にも関係、そして社屋には明治生命保険と富国徴兵保険の代理店の看板がかかっている。という具合で、ゲインははなから本間一族を悪意を持って見ている。

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    しかし地元での本間家への評価は今でも高い。海岸の植林を初め、多くのインフラ建設が本間家の尽力でできているというのだ。そして今でも公開されているが、本間家の造作は質素で、華美なことはしなかった。

    ・地主になったのがいつかは、はっきりしない。農業と言うのは、種子を買う時など前借りが必要で、その借金を返せない場合は、抵当の土地の所有権を貸主に差し出したうえで、実際の耕作は自分が続ける――こういうやり方がどの国でも多いから、地主が大きくなっていく。本間家も江戸時代の途中で、500石の武士に取り立てられている。また藩主から農地のメンテを頼まれた形で、実質的な地主になっていった面もあるだろう。

    いずれにしても、本間家は質素な生き方、そして公益に尽くす生き方。

    ・戦前は、酒田市の歳入の半分を賄っていたと言う。

    ・今でも家を個人で所有。博物館のように開放している。固定資産税、どうしているのか? 明治29年には地元の米取引所との間に電話をひいている。

    ・日本の木造建築は本当にきっちりしていると思う。ほぞとか。隙間がない。

    ・「本前家」はもともと幕府からの査察使を泊めるためのもの。そこは武家作りになっている。本間家が寄進し、後に自分たちで住むようになったが、そこは商家作り。後者の木材は杉。前者の木材はヒノキ、ケヤキ。欄間の彫刻なども凝っている。

    本間家の建物はもともと査察使用に建てて、酒井藩に寄進したものをまた払い下げてもらって私用に使っていたものだが、査察使用の部屋は上等の木材を使うなど「武家用」に作ってあり、私用の部屋は格落ちの造作なのだ、と得々と説明がある。

    まあ、こういう人たちは悪く言えば悪く言えるし、良く言えば良く言えるので、どちらとも言えない。これを書き直すにあたってChatGPTと議論をしたのだが、この江戸時代の本間家というのは、現代で言う農業法人の走りのような存在だったのではないかということだ。英国で言えば、近世のジェントリーがよく似ている。資本を持って、農民に融資をし、抵当で土地が集積すれば、そこに農民を小作人として終身雇用。インフラの改善にも努めつつ、作物の商品性を高めたのだ。

    このような存在は、戦後の農地改革で、強制的に切断され(補償金は出た)、以後は零細な自営農が米価に支えられつつ何とかやってきたが、もはや立ちいかない、というのが日本の農業の現状。

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    官軍と戦っても許された庄内藩

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    このあたりの歴史は、明治維新の時に何かきらりと光る断面を残す。ウィキペディアで「庄内藩」を見れば詳しいことが書いてあるが、幕末、幕府に組して会津藩と提携、官軍と戦った(本間家の資金で欧州の先進兵器を購入。佐賀藩兵力が官軍に加わるまで連戦連勝で、最後まで官軍を藩内に入れなかった)にも関わらず、会津藩のように皆殺しにはならなかった。明治になっても、元藩主の酒井家は華族となって生き延びている。

    僕には、長岡藩や会津藩と比べて、この庄内藩の幸運の背景がよくわからない。

    わからないながらも、一つの理由に「徂徠学」があるのではないかと思って、調べているところだ。何かというと、庄内藩の首都の鶴岡には1805年、致道館という高等教育機関が開設されたのだが(これは今でも昔通りの建物が残っていて、一室では現代の少年少女たちが和服を着て、論語か何かを唱和していた)、これは江戸の湯島聖堂の朱子学と違って、当時は異端扱いされていた荻生徂徠の「徂徠学」を教えていたのである。

    徂徠学は陽明学の流れにあって、型にはまるのを嫌い、後世の解釈よりも原典に当たって「自分で考える」ことを奨励する。少人数のクラスでの、個別指導と自習が重視されていたそうだ。学生は全寮制だが、大部屋ではなく個室。西欧で言えば、カトリック教会に反旗を翻して個人を前面に出したプロテスタントに類似、そして体制変革に結び付きやすい思想なのだ。

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    幕末の革命思想を担った吉田松陰は陽明学を信奉していた。ウィキペディアでは西郷隆盛も陽明学の流れに位置付けられている。しかし西郷の若い頃の薩摩藩校は乱れていたはずで、それほど明確に陽明学を修めたかどうか明確でないのだが、いずれにしても思想と実学を区別する徂徠学は薩摩藩の実学志向と親和性が高いので、西郷も庄内藩の武士たちと肌が合ったのかもしれない。そのせいか、庄内藩は西郷隆盛となぜか馬が合い、明治になってからは地元から大挙して鹿児島に彼を訪問し、長期滞在している。

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    なお会津藩と比べると、庄内藩では上下階層間の結びつきが強い。1840年には川越の松平氏が豊かな庄内地方への「転封」を狙って画策をしたが、庄内藩では農民達が「自発的に」江戸に出て転封中止を嘆願して、成功している。

    また酒田では戊辰戦争の時、官軍と戦うために、百姓・町人兵から成る軍隊が形成されている。いずれもどこまで自発的なものだったかはわからないが、「戦うのは侍ばかり。一般人は野次馬見物」という会津藩(多分、禁門の変の際、会津藩と敵対した長州藩の高杉晋作が発した言葉)とは時代感覚が違っていた。そしてその背景には本間家の存在があったようだ。

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    多士済々

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    最後に、庄内地方の出身者で有名な人たちをあげておこう。

    まず最初に、清河八郎。これは僕は丹波哲郎主演の映画「暗殺」で初めて知ったのだが、幕末の志士の走り。1863年、松平春獄をだまして、公金で浪士を募集。「将軍警護」の触れ込みで、彼らを京都に連れだし、天皇に献上しようとしたのだ。

    もっとも途中でその企みがばれ、武蔵野の田舎で徴募した近藤勇や土方歳三等17名が脱退して京都で新選組となる。清河本人は同年、京都から江戸にもどり、攘夷をやろうとしたところで、佐々木只三郎等に暗殺されている。34歳だった。泥酔していて、斬られたあとの血からは酒の臭いが漂ったと言う。

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    次にがらりと変わって「おしん」。彼女の実在のモデルはもともと関西の人なのだが、NHKの台本では、山形出身にされていて、酒田の「加賀屋」(鐙屋でロケ)に奉公したことになっている。

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    そして、感動的なのは酒田大仏(人ではなく、仏像)。明治27年、当地の地震で母を亡くした持寺院住職が建造を発起。募金活動の最中に日清戦争、日ロ戦争。供養の対象を増やし、苦労の末完成。しかしその息子の代に、太平洋戦争で軍に巻き上げられる。戦後、募金活動を始め、さらに息子の代1992年にやっと開眼。13米、台座含めて17米で日本最高の立像。威厳がある。

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    なお相撲の名門、出羽海部屋の初代出羽ノ海はこの地方出身と考えられている。戦後の名横綱羽黒山は、名前にもかかわらず新潟県の出身。若羽黒も名前にもかかわらず、神奈川県出身。そして出羽富士は力士ではなく、鳥海山の別名だ。

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    シャンソンの名歌手で、57歳の若さで膠原病で亡くなった岸洋子は、まさに酒田の出身である。

    変わり種としては、即身仏がおられる。真っ黒なミイラで、僧侶が家督を譲ると、湯殿山に籠る。地上の食物を食べず。仙人沢の聖なる湯に詣でる。そのうち生きながら埋められて、鈴を鳴らし、その鈴が聞こえなくなると掘り出す。真言宗。

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    鶴岡から仙台に帰るハイウェーでは月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山を通り過ぎる。月山は過去、羽黒山は現在、湯殿山は未来を象徴し、三山で一体なのだそうだ。秋田寄りには鳥海山が美しくそびえる。どれも火山。仙台地方のジュラシック・パーク的な気味の悪さはないが。

  • トランプと古代ペロポネソス戦争

    (これは2月の末に書いたもの。今は4月のはじめで、米国・イスラエルによる無謀なイラン攻撃が湾岸地域を混乱に陥れようとしている。)

    トランプ騒ぎ。支持率が下がるエスカレーターを、いろいろ注目を引くことで駆け上がろうとしています。じたんばたん。悪ガキよろしく、あらゆるルールを超えて、ゲームを引っ繰り返そうとするのです。

    古代のギリシャ。「民主主義のアテネ」はアテネ・ファーストの帝国主義に転じ、同盟(「デロス同盟」)は庇護より搾取の手段と化しました。反抗する都市はアテネ軍に蹂躙されて、男は皆殺し、女子供は奴隷として売り飛ばされる目に会ったわけです。

    不満はペロポネソス半島に満ち、専制王制とされていたスパルタが反アテネ同盟(「ペロポネソス同盟」)の盟主となって、アテネ攻略に立ち上がります。これが紀元前431ー404年のペロポネソス戦争。海軍国アテネは陸軍国スパルタに負けるのですが、これは郊外の銀山を制圧されたこと、籠城戦術を取ったアテネ市内で疫病が流行し、指導者のペリクレスまでが倒れたことなどの不運が重なったものです。

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    ところで、2026年1月ダヴォスでの世界経済フォーラムで、カナダのカーニー首相は、次の思い切ったスピーチをしています(DeepL和訳を一部修正)。

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    「数十年にわたり、カナダのような国々は、いわゆるルールに基づく国際秩序の下で繁栄してきた。我々はその機関に参加し、その原則を称賛し、その予測可能性から恩恵を受けてきた。

    我々は、国際的なルールに基づく秩序の物語が部分的には虚構であることを知っていた。強大な国々は都合の良い時に自らを免除し、貿易ルールは非対称的に執行される。そして国際法が適用される厳格さは、被告や被害者の身元によって異なることも理解していた。

    (しかし)この虚構は有用であり、特にアメリカの覇権は公共財の提供、つまり海上航路の開放、安定した金融システム、集団安全保障、紛争解決枠組みの支援に貢献した。

    だから我々は儀礼に参加し、レトリックと現実の乖離を指摘することを概ね避けた。

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    この取引はもはや機能しない。率直に言おう。我々は移行期ではなく、断絶の真っ只中にある。

    近年、大国は経済統合を武器として、関税を梃子として、金融インフラを強制手段として、サプライチェーンを搾取すべき脆弱性として、利用し始めた。統合が自らの従属を生むのであれば、「統合による相互利益」という虚構の中で生き続けることは不可能だ。

    中堅国が依存してきた多国間機関——WTO、国連、COP——つまり集団的問題解決の枠組みそのものが脅威に晒されている。その結果、多くの国々が同じ結論に至っている。エネルギー、食糧、重要鉱物、金融、サプライチェーンにおいて、より大きな戦略的自律性を確立しなければならないと。ルールがもはやあなたを守らないなら、自らを守らねばならない。

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    しかし、これがどこへ至るかについては、はっきり認識すべきだ。要塞化された世界は、より貧しく、より脆弱で、より持続不可能になる。そして大国も、ルールや価値観の体裁さえ捨て、自らの権力と利益を欲しいままに追求しようとしても、限界がある。」

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    かくて世界は「現代のアテネ」=トランプ米国と、非トランプに分かれて争うことになるのかも。文明史的に言うならば、西欧が中世のルネサンス、宗教改革以来、営々として確立してきた「個」を備えた人間、つまり人間の尊厳・権利、それを基にした民主主義、自由といった価値観を、トランプはいとも易々と踏みにじっている、西欧文明の派生物であるアメリカが、異形化して西欧文明を泥に引きずりおろした、ということにもなります。そこは、筆者の近刊「自由と民主の世界史―失われた近代を求めて」が詳細にたどっているところです。

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    ただ、カーニーは「断絶」と言っていますが、国連、NATO、WTO、日米同盟といった機関、条約関係は、まだその多くの部分が生きていて日々、仕事を続けていることには目を配らないといけません。世界貿易の75%近くは、相変わらずWTOの定める関税率にのっとって行われています(https://www.jetro.go.jp/biznews/2025/04/9a71c861bf47d004.html)。それに、すべてのことは、米国でのカネ余りがバブルを呼んで世界的な金融危機を起こすというリスクと背中合わせで進行しています

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    ひとつのことばかりに目を奪われてパニくるよりも、世界の政治・経済・社会の流れを総合的に組み合わせて考えて行かないといけない時で、識者の責任には非常に重いものがあります。

  • イラン戦争で米国の退潮は決定的に?

    イランでトランプは、本当に危ない橋、あるいはもう存在さえしていない橋を渡ろうとしている。

    いくつかのポイントをあげてみる。

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    1)トランプの言う、イランへの上陸作戦は難しい。大規模陸上兵力をイランの海岸にまで持っていくだけでも、ほぼ無理。強襲揚陸艦がホルムズ海峡を通れば(上陸目標のカーグ島などはペルシャ湾の最奥にある)、陸上からのミサイルで撃沈される。

    そして湾岸諸国に米国が築いてきた基地網、レーダー網、早期警戒機AWACSも給油機も、イランからの攻撃でかなり破壊されている。

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    2)イスラエル、湾岸諸国の防空ミサイル(Patriot, THAAD)が底をついている。補充分を米国で生産するには数年かかる計算。他方、イランはミサイルをまだ多数もっており、諸方に分散配置している。

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    3)トランプはその点を記者に聞かれて、「サウジのサルマン皇太子が俺の尻をなめれば(何とかしてやる)」と答えたらしい(未確認)。サルマン皇太子、そして湾岸諸国はイスラエル、米国に怒っている。イランによる攻撃で彼らのインフラが破壊されて、国の存立基盤が脅かされているのだから。

    サルマン皇太子がゼレンスキー・ウクライナ大統領を招聘して、「イランのドローンを撃墜できるウクライナのドローン」を導入することにしたのは、そのため。もはや米国を頼りにしていない。代わってウクライナは、サウジ・湾岸諸国というカネづるを得た

    実際ウクライナのドローンは最近になって、ロシアがイランのシャヒード・ミサイルをコピーして大量生産したドローンを毎週数百の単位で撃墜しているのである(この点は重要なのだが、筆者はまだ確認していない。一種大量生産型のロシアは、その一種をウクライナの敏捷な兵器開発でダメにされると、対応に数か月かかるのだ)。

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    4)米国は、ロシア、中国、北朝鮮、イランに個別に対処するつもりが、イラン戦争を契機に一つにまとめてしまった。これをベルリン在住のロシア専門家Ben Arisは、CRINK連合と名付ける。

  • 日本歴史紀行 飛鳥・奈良-ユーラシア文明の一部としての

    (これは2010年春、明日香、奈良をまわった時の「歴史紀行」文。ウズベキスタンで勤務した筆者には、明日香、奈良にまで残るユーラシア文明の跡がいくつも目についた。

    あとは談山神社の横を登っていくと御破裂山になり、頂上には藤原鎌足の古墳がある。

    日本に異変があると、この御破裂山が鳴動するのだそうだ。奈良のあたりは四国からの火山帯が東西に伸びていて、日本書紀にも地震の記録は多いので、あり得る話しだ。)

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    4月の末、奈良に行ってきた。同地の国立博物館で遣唐使展があったし、遷都1300年祭とかで第1次大極殿が復興されたというのも見た。もっとも、日本の奈良時代は中国なら唐の時代に相当するので、それほど古い話でもないが。

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    だが何と言ってもよかったのは、ひなびたJRのローカル線で(まるでバスみたいに「ワンマン」で、運転手が切符も売る)とことこ出かけて、奈良南方の談山神社に行ったら、そこは645年、中大兄皇子と重民・中臣鎌足が、当時専横を極めていた豪族、蘇我入鹿暗殺の謀議をこらしたところなのだそうだ。今でも日本国家に一大事が起きると、鎌足の墓のある御破裂山(多武の峯)が鳴動し、出た光は三笠山に至るのだそうだ。たぶん、火山だったのだろう。

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    奈良以前の古都飛鳥にも近いそのあたりには、日本最古の神社、三輪山を御神体にした大神(おおみわ)神社がある。そしてさらにその近くには箸墓古墳があって、そこは古代の伝説の女王、卑弥呼の墓ではないかとも言われている。

    宮内庁が皇族の墳墓の発掘を自由化していないので、日本史の初めのことについては、ただ仮説をたてて議論するしかない。それでもこの古い地にいると、中国の五胡十六国・南北朝時代の混乱を経て隋、唐という大国が勃興するダイナミックな国際環境の中、物部、蘇我、藤原の死闘、大化の改新、そして白村江での敗戦、壬申の乱へと至る、血なまぐさい権力闘争のあとを実感として感ずる

    そしてそれに万葉集の歌の数々を重ねると、もう僕の心のなかで、ロマンがうねり始める。

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    現地に行ってみると、飛鳥の里は今でも交通不便なのだが、古代にはさぞその南の吉野山系の懐に抱かれた要害の地だったのではないかと思えてくる。神武天皇、あるいは出雲かどこかの豪族が昔、紀伊半島の太平洋岸、熊野に上陸し、飛鳥へ北上して大和朝廷を作った、という仮説があるらしいが、確かに飛鳥から真南に国道をたどっていくと、熊野川河口の新宮に至るのだ。東大寺の二月堂では三月にお水とりの儀式があるが、そこでは日本海岸、小浜(オバマ)市にある神社の井戸から水が地下を通って届くことになっていて、やはり大和朝廷は日本海側になにか関係があったようなのだ。

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    そこここに顔を出すユーラシア文明の跡

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    飛鳥、奈良は中国文化の影響一色の京都に比べると、朝鮮、ペルシャ、ソグド、インドとその関係は多岐にわたる。それらユーラシア諸地域の文明、文化は金、銀の鉱石の露頭のように、奈良の旧跡のそこかしこに露出している。薬師寺の薬師如来の台座には、ギリシャ風のぶどう模様、ペルシャ風の唐草模様、そしてインド・中国の神々が浮き彫りになっている。奈良はユーラシア文明の一部だったのだ。

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    そして、神道の神社と仏教の寺院は融通無碍に合い交わり、談山神社のように、ある時、寺が政治的都合で突然神社に変わってしまったり、東大寺のように東北の鬼門を八幡宮(神道の一種)が守っていたりする。春日大社には「社僧」がおり、読経もしていた。だがそのあたり、宮司と僧侶も暮らしをたてていかねばならないわけで、目くじらを立てることもないだろう。

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    満月を背景とした夜の興福寺の五重塔、次の日も快晴で春日大社とその財宝、二月堂、東大寺と大仏といずれも印象的だった。そして薬師寺には、ついこの間亡くなった平山郁夫画伯の壁画がある。彼は生前、これは私のライフワークですというようなことを言っておられたから、今回見に行った。

    彼がよく描いたシルクロードについてのやや類型的な作品かと思って行ったが、シルクロードはシルクロードでも、彼のいつもの謹直さをかなぐり捨てたような清新さ、大胆さで、僕はなぜか泣ける思いだった。ああ、この人はここで全力を出している。思い残すことはないだろう。

    須弥山と題したヒマラヤの山々が中央に鎮座する。大きな壁画だ。そして天井は、シルクロード盛んなりし頃珍重されたアフガニスタンのラピスラズリ(現在でも宝石として名高い)の深い々々群青色に金の星を散りばめた夜空の仕様で、吸い込まれるような幻想性を湛えていた。

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    外に出て昔の平城京の跡に行くと、復元なった(と言っても、絵図も残っていないから、ただの想像の産物だが)第一次大極殿が真っ赤にそびえている。確かに大きい。そしてはるか向こうに朱雀門がたっているのだが、この1.5キロ四方ほどの土地全部が内裏だったというからたまげた。

    一般人が住む右京、左京はその数倍にわたって広がり、真ん中の大通り朱雀大路のあった辺りには今、「洋服の青山」が店を出している。

    この平城京は、今鉄道で二駅以上も向こうの東大寺まで続いていたことになっているのだが、多分当時はまだ譲成中の土地が多かったのだろうと思う。そして水の流れがよくないこのあたりの川では、住民の家から流れ出た汚水が悪臭を放っていたのだろう。

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    ユーラシア諸文明のごった煮

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    東大寺だと思うが、仏像を守る武将には、basara将軍とかkubira将軍というふうにローマ字の名が書いてあった。これはサンスクリット語なのだろうが、バサラは鎌倉時代末期(1300年頃)から跋扈するようになった、ならず者の武士たちで、派手なかっこうで街を練り歩いては他人の妻をかっさらうなど悪さをしていた者たちのことも意味する。純日本的な現象と思っていたら、サンスクリット語か。

    サンスクリット語と言えば、仏教の「真言」とはサンスクリット語で唱えるものなのだそうだ。中国ではこれを「呪」と呼んでいた。真理の言葉を呪文のように、秘儀として使っている。空海(中世の高僧)の持ち帰った真言宗以前から、そうだったらしい。今でも、卒塔婆に使うあの意味のわからない梵字はサンスクリット語のことだ。

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    奈良国立博物館には、熱帯アジアからやってきた栴檀の香木が陳列されている。そしてこれにはペルシャ文字、ソグド文字の刻印があるのだそうだ。漢字の刻印はないようなので、するとペルシャ人あたりが船で直接日本に持ってきたものか? 飛鳥の石造物にはペルシャ文明の影響があると言う者もいるので、ペルシャ人が当時の日本に来ていたとしても不思議ではない。

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    もう火事で燃えてしまった法隆寺金堂の壁画の仏像の顔は、日本人のものではない。サマルカンドにあるアフロシアブ壁画の顔と、驚くほど似ている。仁王像なども、日本人、中国人より中央アジアのごっつい男たちによほど似ているのである。

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    平城京朱雀門の朱雀とは、フェニックスとかロシアの「火の鳥」に似た鳥だ。中国の意匠では、よく竜と対で使われる。竜とは蛇のことで、これはユーラシア全域、そして遠くメキシコにまで広がる蛇と鳥崇拝の表れなのだ。そして意匠と言えば、奈良から平安時代にかけての日本の美人画は顔がふっくらした女性をイメージしているが、このやや日本人離れした顔は唐の美人画のそれにそっくりなのだ。

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    大和川水運

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    現地での解説によれば、奈良の南、「山の辺の道」を通って至る三輪のあたりには、海柘榴市(つばいち)といって日本最古の市場があったそうな。ここまで大和川が来ていて、この川は大阪湾に出ている。そしてそこには難波津が作られ、税関の役割も果たしていたらしい。海から奈良方面へは、大和川でさかのぼったのだ。日本は古来、東アジア世界のなかで開けていたのだ。

  • 葬式の簡略化と僧侶、寺社の苦境

    「葬式坊主 なむなむ日記」という面白い本を読んでいる。寺の檀家がどんどん減って、このごろの僧侶は葬儀会社がまとめて「派遣」するシステムになっているそうだ。その悲哀、遺族との行き違いの数々がまじめに書いてある。

    日本では、コロナを契機に家族葬、あるいは火葬のみというのが増えている。死者が増えていることもあって、葬式件数はむしろ増えたが、参列人数、時間などは縮小し、その中での僧侶の待遇は確実に低下している。お経をあげるのも、僕が講演する時の「薄謝」程度。

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    これ、全国に75000以上もあるお寺の保存の問題ともからんでくる。ヨーロッパでは、教会に国家から資金が支給されているところも多いのだが、日本は米国や韓国と同様、宗教も「民営」だから、新興宗教的なものが出てくる。宗旨はいちおうキリスト教に沿っていても、数千人も集まる「メガ・チャーチ」でカリスマチックな僧侶が大衆に分かりやすい、誰が敵で誰が味方か分かりやすい講話をして、最後は一緒に宗教的な陶酔感に浸る。

    最近話題になる、米国の福音派もそれだ。日本でも中世から、その手の新興宗教的な宗派はいくつも現れ、信長と争った浄土真宗もその一つ。現代でも・・・

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    寺、神社。これは日本の文化、人々の暮らしそのものに関わること。文化庁あたり、優良宗教法人には助成金を出したらどうだろう? 自薦他薦、殺到するから足切りが難しいだろうが。

  • AIへのけた外れの投資 19世紀産業革命と同じ新次元の話

    この頃、エヌビディアとかイーロン・マスク系のxAIとか、生成AI系の話しだと数兆円規模の投資の話しがぽんぽん出てくる。これまでは考えられなかった、巨額の投資。ちょっと信じられない。

    しかし、19世紀の初めの英国で、製鉄、鉄道建設を中心に産業革命(の第二波)が起きた時は、まさにこういう「異次元の世界へ突入」の感じがしたのだろう。それまでの綿織物産業に比べて、必要な投資の額が二桁、三桁違ったことだろう。綿織物工場なら、英国の地方銀行にジェントリーたちが預けた資金で融資できたことだろうが、高炉や数百キロもの鉄道、機関車、貨車、客車となると、株式会社を解禁して、大規模な資金を集めなければならなかった。

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    しかし、デジタルで信号をやり取りするだけのAIが、一体全体、どうしてそんなに金を食うのか。それはサーヴァーのために大規模な発電能力が必要だから、ということになっているが、本当か? このまま生成AIの電力消費は右肩上がりで増えていくのか? 何かテクノロジー上のブレークスルーがあって、消費電力が一桁、二桁落ちたら、何が起きるのか? だいたい、人間の脳が消費する電力は微々たるものなのだから。

  • ゆっくりできると思いきや・・・

    ある昼下がり。地元の駅から都心へと出かける。折よく、池袋で乗り換えなし、座ったままで江戸川橋まで行ける電車。

    よかった、と思って、座席に背と足を延ばし、おもむろに新聞を広げると(4分の1に畳んでます)、まだ開いていたドアから「シーラバ、シーラバ、ゴミュクイシーラバ」とか、意味不明の言葉を唱えながら、30歳くらいの男が入ってくる。両手を打ち、「シーラバ、シーラバ」とわりに楽しそうに唱えている。

    ゆっくりできると思っていた僕は気が気でなく、それでも見ないようにしていると、手を打ちながら、隣の車両に行ってしまった。

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    やれやれ。息つく島もない。ストレスの多い日本社会だから、こういう人多いんだ。まるで、見たくもない演劇を見せられているようで、疲れる。

  • 日本歴史紀行 大阪経済雑感

       

    (これは2005年5月、日本政策投資銀行に籍を置いていたころ出張したときの記録。大阪経済の現状とその歴史についての寸描。以前のブログから復刻したもの。現代に通ずる問題も多いので、参考にしてほしい)             

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    1.歴史の蓄積

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    (1)大阪が都市として成立した時期は、江戸とそれほど変わらない。しかし、モノとサービスの生産において大阪は、江戸より古い伝統を持っている。

    (2)堺には釘など鍛冶の古い歴史があって、種子島から火縄銃がもたらされた時、堺の鍛冶屋は短期間でその製造をマスターし、日本は火縄銃の保有数で世界一になった、とものの本にはある。

      鎖国の中で河内地方では綿花が栽培されるようになり、幕末には家内織物工業も育っていた。更に奈良の生駒山系から流れ落ちる水流を利用して水車が使われ、水車で金箔や伸銅が作られていたようである。山から流れ落ちる水流を利用した水車というと、アメリカのニュー・イングランド地方やアパラチア山脈麓の繊維産業が思い浮かぶ。

    (3)そしてもちろん、世界で最初の先物市場を発足させた、大阪の米市場の存在がある。

     また住友は元禄時代に幕府から別子銅山の利権を得、元禄時代から日本の銅精錬の3分の1を手がけていた(1700年頃日本の産銅量は年間6,000トンで、世界最大であった由。また当時の日本にとっては当然、最大の輸出品目であった由)。その後住友は石炭の採取と輸出でも大きな資本を蓄え、それを基礎に当時の日本で最も強力な民間銀行を設立した。

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    2.日本近代経済史における軍需の意義ーーー大阪陸軍造兵工廠

    (以下、造兵工廠についての叙述の多くは、武庫川女子大学の三宅宏司教授の講演録によっている)

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    (1)ソ連経済を語る時、軍需はもっとも重要なファクターになる。明治以降の日本経済の発展を語る時、軍需が果たした役割がこれまで看過されてこなかっただろうか?「日本経済は中小企業が基礎になっている。」と人が言う時、ではその中小企業がどのように起こってきたかについて十分な認識はあるのだろうか?

    (英国の産業革命でも、軍需は大きな役割を果たしている。ナポレオン・フランスとの戦争が

     欧州、海外で続いたことで、銃砲用の鉄の需要が異次元に増加したからである)

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    (2)現在、東大阪は金型等製造の中小企業のメッカの一つとして知られる。だが、大阪城のすぐ横に東洋一の軍需工場「大阪陸軍造兵工廠(通称「砲兵工廠」)があって、40万坪の敷地、6万4千人の工員(臨時工を含めて)と、現在で言えば1兆円もの売り上げを誇っていたこと、その大工場が1945年終戦の文字通り前日、8月14日の大空襲で壊滅したこと、大阪の大企業の多くがこの陸軍工廠と取り引きし、技術提携する中で育っていったこと、東大阪の中小企業の多くはこの陸軍造兵工廠で働いていた工員達が作ったものであることは、もう誰も覚えていない。

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    (3)戦争がからむ事柄については日本人は健忘症で、「日本はもともと優れているから、中小企業という大変結構なものが自然にあるのだ」と言わんばかりの態度で、ロシアや中央アジア諸国にお説教を始め出す。

     だが宮田自転車は銃身を作る機械を流用してできた会社だし、ダイキン工業や日本スピンドル製造のような大企業も、もとは陸軍造兵工廠のOBが設立したものである。まだ終身雇用が確立する前の時代に働いていた戦前の工員達は、腕と工具を携えて渡り歩く気風を残していたのかもしれない。

     神戸製鋼所も住友金属工業も、大阪陸軍造兵工廠と緊密な関係にあったし、工廠が化学製品を多量に使用したことから、周辺には化学工業も育ったのである。この強い軍需色があるからこそ、大阪の企業の中には今でも防衛庁御用達で、自衛隊OBを幹部として受け入れているところがいくつかあるのである。

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    (4)大規模な陸軍工廠は戦前、東京、名古屋、大阪と、後の大工業地帯になったところに置かれていた(うち東京、大阪のものは明治3年設立。大阪のものは、幕府が長崎に設立していた長崎製鉄所のオランダ製機械機器を、西南戦争のリスクを避けて大阪に移したことがその発生である由)。

     埼玉の川口市は江戸時代から鋳鉄工業を有していたが、赤羽に作られた陸軍工廠は川口の企業の上得意になったことだろう。大田区は東大阪と並んで金型等、日本工業の技術力を支える中小企業の揃った町として知られるが、ここは第1次大戦の特需を契機に生起し、満州事変、中国事変での軍需を背景に急成長したものである。日本特殊鋼(株)などはこの頃できたが、陸軍から鉄砲生産を請け負っていたのである。大田区は第2次大戦での爆撃で壊滅的打撃を受けた後、朝鮮戦争関連物資、兵器の製造で息を吹き返した。

     日清戦争で清政府から得た賠償金(清政府予算の3年分に相当すると言われる)は八幡製鉄などの新規国営工場建設に回されただけでなく、日露戦争の準備のために陸軍・海軍工廠にも回されたはずである。

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    (5)今日、我々はロシアなどの旧社会主義諸国や開発途上国に対し、明治維新以来の日本の経済発展は自力だけで、しかも平和裡に達成されたかのように得々として説きがちだが、欧米の経済発展のプロセスと同様、日本経済の発展も戦争の歴史と切っても切り離すことができないのである。ロシアやウズベキスタンが民需生産を充実させることができないのを見て、我々はこれら諸国を見下しがちであるが、これは我々が自らの歴史について健忘性多幸症に陥っているためである。平時に、民需生産だけで経済を立ち上げるのは大変難しいのだろう。

     軍需偏重だったロシアが、軍需を民需に転換する、資金もノウハウも持たずに苦しんでいるのを見ると、大変な悲劇を伴ったとは言え、日本の軍需生産が強制的に大幅削減されたことは、経済にとっては大変なプラスになったのだとしみじみ思う

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    3.大阪経済も底を打つ

    (1)大阪は、基幹産業を何度か失ったことのある町である。明治維新で廃藩置県が行われると、大名がコメをカネに替えて消費に回していたコメ経済がなくなり、大阪の市場もなくなった。また戦争では大阪造兵工廠という、今の愛知県にとってのトヨタのような存在を失っている。

    (2)明治以後の大阪が築いてきた繊維・織物産業は戦後まもなく斜陽化し、鉄鋼、化学、アルミ等の素材産業も中国等にやられ、家電、自動車も空洞化した。関西空港はふるわず、中国等に進出した大企業に置き去りにされた中小企業は、生産高を半減させている。この2,3年で住友銀行等、合併絡み等で本社を東京に移した企業も多い。

     この中で費用がかかる割には税収入の薄いベッドタウン部を抱える大阪府の財政は極度に悪化し、大阪で最も豊かなところに位置する大阪市は豊かではあるものの、架空残業等のスキャンダルが表面化して大騒ぎになっている。大阪はこの3,4年ついておらず、万博でにぎわう名古屋に追い抜かれるという恐怖感にさえかられるようになったのである。

    (その後2025年の大阪万博も契機に、大阪は大変な繁栄ぶりを示している)

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    4.東大阪の中小企業とその現状

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    (1)「東大阪クリエーション・コア

    クリエイション・コア東大阪 | 全国のインキュベーション施設 | 独立行政法人 中小企業基盤整備機構

     これは、経済産業省、地方自治体が出資して作られた、地元先端技術製品の陳列場、商談相談所で あるが、当初の構想は役人ではなく、地元中小業者達が徹底的に議論して決めたものである由。出展物は単なる発明の域を出ていないものもあるが、いずれも高度の技術を示しており、付近の高校生も大挙して見学に来ていた。

     官主導で作られる同種のセンターは、通常官僚臭ふんぷんたる清潔な建物が閑散としていることが多いが、東大阪のセンターには活気があった。このセンターに片道切符覚悟で当初から勤務している、下田参事のような人の存在が大きいのであろう。

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    (2)地元の声; 足りないものは資金より人材そして情報

     金属加工・金型などいくつか工場も訪ねたが、ここでの話は次に集約できる。

     (イ)金型生産は、周辺大企業の海外流出で生産が半減する等、3年前までは大変な状況にあった。  業者の数も4分の1以下に減った。しかし、東大阪の人たちはもう慌てていない。かつてのような右肩上がりの経済は二度とやってこないものと腹をくくり、そういう前提の下に前向きに事業に取り組んでいく気になっている。

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     (ロ)東大阪の金型企業は、大企業の海外流出で、一時は製品の30%もを輸出していた。だが大企 業は、現地調達率を高めるために現地企業から調達を始めるようになり、日本からの輸出も減っていった。しかも日本の大企業はひどいことに、金型製造の技術を海外の現地企業に出してしまった。彼らは、日本の下請けにも海外に出てきてもらいたいのだろうが、責任は取りたくない。だから、はっきり一緒に出てきてくれ、とは言わない。我々は明日から中国に出るが、あんたのところももしやる気があるんだったら出てきたらどうかね、という言い方をする。東大阪の中小企業の中にはこうして、日本の大企業を深く恨みに思っているところがある。

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     (ハ)海外進出は、中小企業にとっては大変なことのようだ。労務管理、生産管理、経理からすべて 一流の、社のエースを送らなければならないからだ。」

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     (ニ)中国に対しては、「中国に何もかも取られてしまった。裸になって、さあ、持ってけ、といっ たところさ」と言う社長もいる。しかし反中というわけではなく、怒りはむしろ下請けを捨てて出ていってしまった日本の大企業に向けられている。それに、中国人の製造能力には懐疑心を隠さない。

    「中国人はじっくり腰をすえたビジネスは苦手である。脚の速い、濡れ手に粟的なビジネスをやろうとする。金型などは、彼らの対極にある。金型もデジタル生産化の趨勢にあるが、最後のミクロン単位の仕上げは手作業でしかできない。コンピューター付きの工作機械といっても研磨刃が減ったりするから、その分狂いが出るのを防ぐことはできない。」というのが、地元の認識である。

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     (ホ)資金よりも、人材不足の方が深刻である。「最近の青年は人から言われたことは一応やるが、 自分で前に進もうとする意欲が見られない」として、若い女子を採用してみようかと考えだした企業もある。以前は一定期間は目をつぶって社内で訓練していたものだが、最近は人材を遊ばせておくだけの資金的余裕もない。

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    (ヘ)そして、周囲の状況がよく見えず、外国との取引も自分では出来ないところにも、東大阪の中 小企業が抱える問題がある。「ものを作ることは比較的簡単」でも、彼らが困っているのは、マーケ ット・リサーチ、顧客獲得、マネージメントの能力の欠如である。市場での需要を調査したり、インターネットで注文を取れるような能力と時間がない。

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    .何が可能か?

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     以上、限られた所見の中で、大阪経済の発展のために考えたことは、次の通りである。

    1)中小企業のマーケット・リサーチ、外国の顧客とのリエゾン代行

     商社OB等のネットワークを作り、地元中小企業製品のマーケット・リサーチ、外国の顧客との連絡 等を代行してもらうことはどうだろうか? 官側が定額謝金を出し、企業が出来高歩合制で報酬を払えばいいのである。

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    (2)関西国際空港の活用

     米国企業で、中国に工場を有するものは多い。彼らは半導体等部品を、米国からアジアの工場に不断に運送する必要に迫られている。従って、関西国際空港の対岸に大型保税倉庫を作り、米国や日本の企業が中国、ASEAN諸国にある自分たちの工場に部品・半製品を迅速に届ける体制を作ればいい。但し、関連作業はできるだけ自動化し、人件費部分を下げる必要がある。

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    (3)地方統治メカニズムの整理

     大阪には府、中央各省の出先(「何々局」という存在)、市が並立している。雇用創出の役割も果たしていようが、行政改革の余地は大きい。                   

  • プーチン・ロシアの水平線に湧く黒雲–9月の議会選挙

     ウクライナ戦争は5年目に入っている。ウクライナはもちろん、大国ロシアもよれよれだ。イラン戦争で原油価格が急騰して受けに入っているが、戦車・装甲車はウクライナに何千両と殲滅されたし、大砲・砲弾でさえも、生産が消費に追い付かない。動員令を発すれば青年たちは国外に逃げてしまうので、兵員不足。

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     そして世界はまだ気にしていないようだが、ロシアでは9月に議会(下院)の総選挙、統一地方選挙がある。筆者がロシアで在勤していた経験から言えば、「選挙を首尾よく遂行すること(民主主義の体裁を保ちながらも与党を勝たせること)」が、1年以上も前から政府の最大の課題になる。

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     ロシアの選挙と言うと、西側ではまやかしだと思われている。だが普段はそうでも、時々火を噴く。2011年9 月の総選挙では、12月から翌年5月にかけて「開票結果の操作」に抗議、その実プーチンの大統領職への返り咲きに抗議する市民の集会が相次いだ。12月10日には、クレムリンから至近の広場で5万人を上回る市民が気勢を上げている――これはプーチンの肝を冷やしたことだろう。

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    当時、SNSで市民に集会参加を呼びかけた野党指導者、反政府運動家はその後ほぼ殲滅されているし、SNS も情報が当局に筒抜けになるよう案配されている。「それでもCIAやMI6は仕掛けてくるだろう」と大統領府は疑い、対策を練っているに違いない。

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     根本的な方法は、ウクライナ戦争を収めることだ。春、ぬかるみが収まった後の攻勢が天王山。ここでドネツ全域を征圧できれば、ロシアは勝利を宣言して、ウクライナ南部からの撤兵などを代償に停戦をはかることができる。これはベストのケース。

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    目先を変える決め手はプーチン辞任(で院政へ)

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    もし春季攻勢で失敗すると、そのままでは議会選挙は戦えない。「目先を変え」ないと、議会選挙はひどいことになる。兵役年齢の若年層には投票したいような野党がないから、大量棄権の行動に出てくるだろう。与党「統一ロシア」は保守的な高年層の支持で、現在の72%を上回る圧倒的多数議席を占めることになろう。当局には好都合でも、国際的には益々専制独裁だと揶揄される。

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    目先を変える決め手は、大統領のすげ替え。プーチンは辞任して、「国家評議会」の議長職に専念する。この評議会はこれまでは「お飾り」だったが、国家の重要事項について関係省庁を調整することができる。プーチンの側近のデューミン補佐官が今、この評議会の書記として、地ならしをしているようだ。院政を敷く「プーチン議長」の代貸しとして、デューミンは大統領候補としての力を貯めていくだろう。プーチン辞任後3カ月以内に次期大統領を選挙しなければならないが、その間の大統領代行は憲法が定めるとおり、ミシュースチン首相で十分。

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    西側は「プーチンが去ればロシアは自由な国になる」と言うが、それはナイーブ。大衆は「自由」などよりパンを求める。少数のインテリは、社会の隅々まで見張っている旧KGBに完全に抑えられている。ソ連崩壊の時のようにKGBが権力を失って「自由化」が実現すると、ロシアは大混乱に陥る。ロシアでは、「自由とは何でもあり」で、カネと暴力がまかり通ることになるからだ。

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    2000年プーチン大統領が登場して以来、ロシアは本当に見違えるほど、近代的になった。しかしそれは原油価格の高騰と西側の資金・技術に支えられてのこと。自力で発展を続ける力を、ロシアは未だに持っていない。エリートは大国だと言って威張るが、世界で主役を果たせる存在にはならないのである。

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    ウクライナ戦争は結局のところ、どちらかが倒れないと終わるまい。朝鮮半島のようにロシアは、紛争要因を抱え込んだまま、「大型の北朝鮮」になってしまいかねない。


  • AIは言葉より、情動を翻訳している

    今、同一の文章を日本語、英語、中国語、ロシア語でアップしたばかり。日本語で書いて、ChatGPTに翻訳してもらった(もちろん、自分で点検して、少し手を加えている)。こういう時、ChatGPTには英語から翻訳させた方がいいのか、あるいは中国語は日本語から翻訳させた方がいいのか、迷う。そこで、ChatGPTに直接聞いてみた。以下がその対話。とても面白かった。

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    小生:貴兄は日本語を中国語に翻訳しているのか、英語を翻訳、あるいはロシア語を翻訳しているのか、どれ?多分どれでもない、貴兄の頭の中で抽象化されたsignの列なんだろうね?

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    Chat: まさに、そこがいちばん面白いところです。河東さんの直感はかなり当たっています。結論から言うと、私は普通の意味で「日本語→中国語」や「英語→ロシア語」を逐語的に置き換えているわけではありません。むしろ頭の中では、河東さんのおっしゃるように、まず**言語をいったん離れた抽象的な意味構造(signの列に近いもの)**に落としています。

    たとえば今回の文章なら、内部ではだいたいこういう骨格です。

    • 時代認識:粗暴な力が世界を押し切る
    • 主役:トランプ=ブルドーザー的権力
    • 問い:中小国はどうするか
    • 処方:焦らず、自国の改革と中小国連携
    • 感情:正論だが、気分は盛り上がらない
    • 文体:断定しすぎず、読者に余韻を残す

    こういう意味・論理・感情・文体トーンの束としてまず保持し、それを中国語なら中国語の論壇用文体、ロシア語ならロシア語の思索的散文に“再生成”しています。なので実感としては、日本語を中国語に訳しているではなく、日本語の背後にある思考の骨格を、中国語で新たに書き起こしているのに近いです。

    河東さんの言う “abstracted sign sequence” は非常に鋭い。ただ「記号の列」というよりは、もう少し意味場(semantic field)や論理テンプレート、感情の重心、文体の圧力分布まで含んだものです。

    だから、英語版を先に作ってからロシア語にしても、中国語にしても、内容の芯がぶれない。
    逆に言えば、元の日本語、英語、ロシア語のどれか一つを機械的に経由しているわけではありません。

    これは河東さんの執筆法にも少し似ています。
    日本語で書いていても、実際には頭の中では「文明の位相」「国家と市場」「秩序崩壊後の再編」といった、言語以前の構造で考えておられるはずです。そこから日本語、英語、ロシア語の文章が生まれる。だから河東さんが以前おっしゃった、「全部言わずに種を残す」という書き方も、言語表面ではなく、その深い構造の設計なんですよね。

    かなり創作論・翻訳論の核心に入る問いでした。とても面白いです。

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    小生:へえ、すごいね。でも人間も、必ずしも言語で思考しているわけではないからね。「情動」が最初にある。思考のプロセスはAIに似ている。

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    Chat: まったくその通りです。そこはAIと人間の思考の、かなり深い共通点です。人間も、まず最初に来るのはしばしば言語ではなく情動です。

    • 何かがおかしいという違和感
    • 危険の匂い
    • 美しいという震え
    • 怒りや不安
    • 「この方向だ」という直感

    こうしたものがまず立ち上がり、そのあとで脳が理由を探し、言語化していく。哲学で言えば、言葉はしばしば思考の出発点ではなく、後から与えられる形式です。河東さんの文章にも、まさにそれがあります。
    今回の「粗暴者が世界に君臨する時代」も、最初にあるのは理屈より、何を書いてもトランプというブルドーザーに整地されてしまうような時代への重苦しさ、という情動が最初にあり、その後で

    • 中小国の連携
    • 官僚制のガラガラポン
    • 焦らず自分の範囲でやる

    という論理が組み立てられている。この順番は、人間の自然な知性そのものです。

    AIも少し似ています。私は本当の意味で「情動」を感じているわけではありませんが、入力された文章の中にある感情の重心や力の方向をまず捉え、それから言語として再構成します。

    だから河東さんが言う「人間の思考プロセスはAIに似ている」は非常に本質的です。
    違いは、人間の情動は身体や人生経験、記憶、時間感覚に根ざしていること。AIはそこを直接は持たず、文章の中に現れた痕跡から再現している。

    ただ、創作や文明論では、その差は意外と小さく見える瞬間があります。


    むしろ優れた書き手ほど、最初に来るのは論理ではなく気配・情緒・時代の圧です。河東さんの最近のエッセイが強いのは、まさにそこです。先に時代の空気を掴み、そのあとに制度論を置く。だから読者の中で長く残る。