日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。


日本歴史紀行 飛鳥・奈良-ユーラシア文明の一部としての

(これは2010年春、明日香、奈良をまわった時の「歴史紀行」文。ウズベキスタンで勤務した筆者には、明日香、奈良にまで残るユーラシア文明の跡がいくつも目についた。

あとは談山神社の横を登っていくと御破裂山になり、頂上には藤原鎌足の古墳がある。

日本に異変があると、この御破裂山が鳴動するのだそうだ。奈良のあたりは四国からの火山帯が東西に伸びていて、日本書紀にも地震の記録は多いので、あり得る話しだ。)

.

4月の末、奈良に行ってきた。同地の国立博物館で遣唐使展があったし、遷都1300年祭とかで第1次大極殿が復興されたというのも見た。もっとも、日本の奈良時代は中国なら唐の時代に相当するので、それほど古い話でもないが。

.

だが何と言ってもよかったのは、ひなびたJRのローカル線で(まるでバスみたいに「ワンマン」で、運転手が切符も売る)とことこ出かけて、奈良南方の談山神社に行ったら、そこは645年、中大兄皇子と重民・中臣鎌足が、当時専横を極めていた豪族、蘇我入鹿暗殺の謀議をこらしたところなのだそうだ。今でも日本国家に一大事が起きると、鎌足の墓のある御破裂山(多武の峯)が鳴動し、出た光は三笠山に至るのだそうだ。たぶん、火山だったのだろう。

.

奈良以前の古都飛鳥にも近いそのあたりには、日本最古の神社、三輪山を御神体にした大神(おおみわ)神社がある。そしてさらにその近くには箸墓古墳があって、そこは古代の伝説の女王、卑弥呼の墓ではないかとも言われている。

宮内庁が皇族の墳墓の発掘を自由化していないので、日本史の初めのことについては、ただ仮説をたてて議論するしかない。それでもこの古い地にいると、中国の五胡十六国・南北朝時代の混乱を経て隋、唐という大国が勃興するダイナミックな国際環境の中、物部、蘇我、藤原の死闘、大化の改新、そして白村江での敗戦、壬申の乱へと至る、血なまぐさい権力闘争のあとを実感として感ずる

そしてそれに万葉集の歌の数々を重ねると、もう僕の心のなかで、ロマンがうねり始める。

.

現地に行ってみると、飛鳥の里は今でも交通不便なのだが、古代にはさぞその南の吉野山系の懐に抱かれた要害の地だったのではないかと思えてくる。神武天皇、あるいは出雲かどこかの豪族が昔、紀伊半島の太平洋岸、熊野に上陸し、飛鳥へ北上して大和朝廷を作った、という仮説があるらしいが、確かに飛鳥から真南に国道をたどっていくと、熊野川河口の新宮に至るのだ。東大寺の二月堂では三月にお水とりの儀式があるが、そこでは日本海岸、小浜(オバマ)市にある神社の井戸から水が地下を通って届くことになっていて、やはり大和朝廷は日本海側になにか関係があったようなのだ。

.

そこここに顔を出すユーラシア文明の跡

.

飛鳥、奈良は中国文化の影響一色の京都に比べると、朝鮮、ペルシャ、ソグド、インドとその関係は多岐にわたる。それらユーラシア諸地域の文明、文化は金、銀の鉱石の露頭のように、奈良の旧跡のそこかしこに露出している。薬師寺の薬師如来の台座には、ギリシャ風のぶどう模様、ペルシャ風の唐草模様、そしてインド・中国の神々が浮き彫りになっている。奈良はユーラシア文明の一部だったのだ。

.

そして、神道の神社と仏教の寺院は融通無碍に合い交わり、談山神社のように、ある時、寺が政治的都合で突然神社に変わってしまったり、東大寺のように東北の鬼門を八幡宮(神道の一種)が守っていたりする。春日大社には「社僧」がおり、読経もしていた。だがそのあたり、宮司と僧侶も暮らしをたてていかねばならないわけで、目くじらを立てることもないだろう。

 .

満月を背景とした夜の興福寺の五重塔、次の日も快晴で春日大社とその財宝、二月堂、東大寺と大仏といずれも印象的だった。そして薬師寺には、ついこの間亡くなった平山郁夫画伯の壁画がある。彼は生前、これは私のライフワークですというようなことを言っておられたから、今回見に行った。

彼がよく描いたシルクロードについてのやや類型的な作品かと思って行ったが、シルクロードはシルクロードでも、彼のいつもの謹直さをかなぐり捨てたような清新さ、大胆さで、僕はなぜか泣ける思いだった。ああ、この人はここで全力を出している。思い残すことはないだろう。

須弥山と題したヒマラヤの山々が中央に鎮座する。大きな壁画だ。そして天井は、シルクロード盛んなりし頃珍重されたアフガニスタンのラピスラズリ(現在でも宝石として名高い)の深い々々群青色に金の星を散りばめた夜空の仕様で、吸い込まれるような幻想性を湛えていた。

.

外に出て昔の平城京の跡に行くと、復元なった(と言っても、絵図も残っていないから、ただの想像の産物だが)第一次大極殿が真っ赤にそびえている。確かに大きい。そしてはるか向こうに朱雀門がたっているのだが、この1.5キロ四方ほどの土地全部が内裏だったというからたまげた。

一般人が住む右京、左京はその数倍にわたって広がり、真ん中の大通り朱雀大路のあった辺りには今、「洋服の青山」が店を出している。

この平城京は、今鉄道で二駅以上も向こうの東大寺まで続いていたことになっているのだが、多分当時はまだ譲成中の土地が多かったのだろうと思う。そして水の流れがよくないこのあたりの川では、住民の家から流れ出た汚水が悪臭を放っていたのだろう。

.

ユーラシア諸文明のごった煮

.

東大寺だと思うが、仏像を守る武将には、basara将軍とかkubira将軍というふうにローマ字の名が書いてあった。これはサンスクリット語なのだろうが、バサラは鎌倉時代末期(1300年頃)から跋扈するようになった、ならず者の武士たちで、派手なかっこうで街を練り歩いては他人の妻をかっさらうなど悪さをしていた者たちのことも意味する。純日本的な現象と思っていたら、サンスクリット語か。

サンスクリット語と言えば、仏教の「真言」とはサンスクリット語で唱えるものなのだそうだ。中国ではこれを「呪」と呼んでいた。真理の言葉を呪文のように、秘儀として使っている。空海(中世の高僧)の持ち帰った真言宗以前から、そうだったらしい。今でも、卒塔婆に使うあの意味のわからない梵字はサンスクリット語のことだ。

.

奈良国立博物館には、熱帯アジアからやってきた栴檀の香木が陳列されている。そしてこれにはペルシャ文字、ソグド文字の刻印があるのだそうだ。漢字の刻印はないようなので、するとペルシャ人あたりが船で直接日本に持ってきたものか? 飛鳥の石造物にはペルシャ文明の影響があると言う者もいるので、ペルシャ人が当時の日本に来ていたとしても不思議ではない。

.

もう火事で燃えてしまった法隆寺金堂の壁画の仏像の顔は、日本人のものではない。サマルカンドにあるアフロシアブ壁画の顔と、驚くほど似ている。仁王像なども、日本人、中国人より中央アジアのごっつい男たちによほど似ているのである。

.

平城京朱雀門の朱雀とは、フェニックスとかロシアの「火の鳥」に似た鳥だ。中国の意匠では、よく竜と対で使われる。竜とは蛇のことで、これはユーラシア全域、そして遠くメキシコにまで広がる蛇と鳥崇拝の表れなのだ。そして意匠と言えば、奈良から平安時代にかけての日本の美人画は顔がふっくらした女性をイメージしているが、このやや日本人離れした顔は唐の美人画のそれにそっくりなのだ。

.

大和川水運

.

現地での解説によれば、奈良の南、「山の辺の道」を通って至る三輪のあたりには、海柘榴市(つばいち)といって日本最古の市場があったそうな。ここまで大和川が来ていて、この川は大阪湾に出ている。そしてそこには難波津が作られ、税関の役割も果たしていたらしい。海から奈良方面へは、大和川でさかのぼったのだ。日本は古来、東アジア世界のなかで開けていたのだ。