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投稿者: akiokawato

  • 客と店員は上下関係? それとも友達?

    以前から気が付いていたのだが、この頃の店員は以前の「いらっしゃいませー」だけから、「いらっしゃいませー。こんにちはー」に対応を変えている。このことについてChatGPTに聞いてみた。以下に、その問答をほぼそのまま収録しておく。

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    小生:

    やあ、今晩は。以前買い物に行くと、店員は「いらっしゃいませ」と言うのが定番だった。それが15年ほど前からだろうか。「こんにちわあ」と呼びかけるのが定番になった。顧客への尊敬よりも親しみをこめて。この変化に、何かきっかけはあったのか? そこら辺を調査、考察した論考はあるか?

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    ChatGPT:

    やあ。これは面白いところに気づかれた。調べてみると、その変化は実際に観察・論評されている。しかも「15年ほど前から」という感覚より、少し早い。少なくとも2000年代初頭には「いらっしゃいませ、こんにちはぁ」がすでに広く聞かれ、2008年には「商業敬語」の典型例として辞典に載っている

    そして、国立国語研究所「ことば研究館」接客語を、「遠い言葉」と「近い言葉」に分けて説明している。「いらっしゃいませ、どうぞご自由にご覧くださいませ」は、客との距離を保つ「遠い言葉」。一方、「そのパーカー、すごくいいですよね! 私も色違い持ってます!」のような話法は、共感を前面に出した「近い言葉」。そして「いらっしゃいませ、こんにちは〜」は、その二つを組み合わせた「遠近両用」の接客戦略だ、と分析している。

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    では、誰が始めたのか。ここは残念ながら、「○年に○○社が始め、それが全国に広がった」という決定的な起源は、今回調べた範囲では確認できなかった。ただし年代を遡ると面白い。

    2003年にはすでに「いらっしゃいませこんにちはぁ」の奇妙さについて書かれた文章が残っている。つまり遅くとも1990年代末~2000年代初めには、コンビニ、ファストフード、若者向け店舗などで相当に普及していたと考えてよさそうだ。

    さらに2008年の『imidas』は、「いらっしゃいませ、こんにちは」を、「商業敬語」「マニュアル敬語」の代表例として収録している。大型店やチェーン店で接客表現がマニュアル化された結果として扱っている。

    スターバックスなど外資系店舗が「こんにちわ」を広めたということもあるだろう.

    ちなみに2024年にも観光・ホスピタリティ研究者の福島規子氏が、「いつの頃からか『いらっしゃいませ。こんにちは~』という接客スタイルが定着しはじめた」と、まさに同じ現象を取り上げている。

    「こんにちは」型接客を最初にマニュアル化した企業はどこだったのかを、セブン‐イレブン、ローソン、マクドナルド、無印良品、ユニクロ、スターバックスあたりの古い接客マニュアルや新聞記事まで遡れば、かなり具体的に特定できる可能性がある。これはちょっとした「日本接客文化史」になりそうだ。

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    小生

    そうか。一方、バカ丁寧な対応も同時期に広まっているんだよね。スーパーでは、客が買ったものを分類して、幕の内弁当のようにバスケットにきれいに詰めてくれる。レシートは両手でささげて、客が受け取るまで待っている。総じて気持ちわるいんだよね。

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    ChatGPT:

    そうなんだ。しかし私はむしろ、「こんにちはぁ」と「レシートを両手で捧げ持つ」は同じ根から出ているように思う

    昔の「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」は、店員が客に敬意を示す慣習だった。多少ぶっきらぼうでも、その人なりの接客だった。ところが1990年代以降、とくにチェーン化・マニュアル化が進むと、「敬意」そのものではなく、敬意や親しさを示す動作を標準化するようになった

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    そこで二方向に進んだ。一方では「こんにちはぁ」「こちらの商品、かわいいですよね」のような擬似的な親密さ。

    もう一方では、お辞儀の角度、両手での受け渡し、商品を整然と籠に並べる、といった儀式化された丁重さ

    方向は逆なのに、「店員個人の判断ではなく、マニュアル通りに人間関係を演じる」という点では同じなんだと思う。

    特に日本では、サービスの品質を数値化しにくいので、企業側が「見えるサービス」を増やした面があるでしょう。

    「レシートを片手で渡すな」「商品は種類別に並べる」「目を見て挨拶する」。管理者にとっては非常に評価しやすい。結果として、親切の工業製品化みたいなものが起きた。

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    だから「気持ち悪い」という感覚も、単に丁寧すぎるからではないのかもしれない。相手が本当にこちらを尊敬している必要などないのに、尊敬しているように振る舞うことを強制されているのが透けて見える。こちらも、その芝居に「ありがとうございます」と付き合わされる。そこに妙な居心地の悪さが生じる。

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    日本の接客マニュアルがいつ「挨拶」だけでなく、視線・お辞儀・両手渡し・商品の籠詰めまで規定するようになったのか。1980年代の百貨店から90年代のコンビニ、2000年代のスーパーへ、と追えば、「過剰接客」がどう形成されたかが見えてきそうだ。

  • 米国国債はいつ値崩れするか

    現代のポピュリズム国家は、財政赤字拡大を宿命づけられている。民意に従えば、税金はできるだけ低く、一方社会保障はできるだけ手厚くということになるからだ。赤字は国債を発行して穴埋めするしかない。

    米国では、未返済の国債はGDPの1年分強累積している。満期のものは返済と同時に同額を借り換え(期間と利回りは異なることが多い)、しかも新規増分を発行するから、無限に増えていく。今年も財務省は年何回かに分けて入札を実施するが、それはちょうど今の時期に回数、金額とも集中する。それが今、米国長期金利で動きが目立つようになった理由。

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    これとは別に、米国のノンバンクの財務状況も、注目の的になっている。2008年のリーマン危機後、米国の大銀行は、手持ちの資金を投機的資産に回さないよう、十重二十重の規制=ヴォルカー・ルールを受けている。ところがこの規制を受けない総称「ノンバンク」と呼ばれる金融企業が多数存在し、彼らは時には大銀行からの委託も受けて、資金を投機的に運用している。金利が上がると株価が下がるから、投機性の株に投資するノンバンクは財政破綻しやすく、これが(ノンバンクにカネを貸している)大銀行の信用に響くと、「市場では皆が、他人は破綻寸前ではないかと疑って、資金を貸さなくなる」目詰まりが生ずる。

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    つまり今の米国金融市場は国債、ノンバンクという二つの危機要因を抱えている。危機が起きる場合、ドル・レート、株価の動きは、両者の間で異なる。もし両者がほぼ同時に起きると、ドル・レート、株価の動きは複雑になる。

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    ということで、今後の見通しについて、ChatGPTと議論してみた。この頃のChatは、どこかから情報を取ってくるだけはない。自分で勉強して、自分で見通しを組み立てているから面白い。

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    筆者

    Chatよ。米国での金利が更に上がって国債消化が難しくなった場合、何が起きる? 株価、ドル・レートはどうなる? 他方、ノンバンクの信用不安で金融の目詰まりは起きるか? 起きたらどうなる? 

    2008年のリーマン危機で、金利、株価、ドル・レートはその後の2年間でどういう動きを示した? 

    1985年のプラザ合意後の2年間はどうだった? 箇条書きで簡潔に答えておくれ。

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    ChatGPT

    1)今、米国債の消化が難しくなり、長期金利がさらに上昇したら、国債価格は低落し、長期金利は上がる。住宅ローン、社債、企業借入の金利も上がる。

    株価は基本的に下落。特にPERの高いAI・ハイテク株には強烈に効く。将来利益の現在価値が金利上昇で下がるから。

    ドルは最初は上がる可能性がある。高金利を求めて資金が米国へ流れるため。

    しかし「インフレだから金利が高い」のではなく、「米国債そのものが信用されなくなって金利が上がる」段階になると、ドル安に転じ得る。ここが一番危険。

    つまり悪いシナリオは、国債安+株安+ドル安=米国版トリプル安

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    2)そこへノンバンクの信用不安が重なると、それはノンバンクに融資している大銀行の信用低下を呼び、「金はあるが誰も貸したがらない」信用収縮=金融の目詰まりになる。ノンバンクが抱える資産は86兆ドル(!)とも推定されているが、そのうちリスク資産は22兆ドル程度とされる。8月中旬にはヘッジファンド(広い意味でノンバンク)のSituational Awarenessが破綻し、金融当局がここに立ち入り調査を実施。ノンバンク部門の実態への警戒感をあらわにしている。

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    3)2008年リーマン危機では当初、金利は急落した。 FF金利は2008年初め4.25%だったが、12月には0~0.25%に下がった。株は暴落した。 S&P500は2007年秋の高値から2009年3月の底まで、約57%下落した。しかしそこから猛烈に反騰し、2010年末には底値から約80%上昇した。

    ドルは意外にも、危機直後は上昇した。 世界中が現金・米国債へ逃げたため、2008年後半のドル実効レートは約12%上昇した。つまり「米国発の危機なのにドル買い」だった。

    ただし2009年春以降、恐怖が薄れるとsafe havenのドル買いが逆転し、ドルは下落した。

    要するに2008年型は、信用崩壊 → 株暴落 → ドル一時上昇 → FRB大量緩和 → 金利急低下 → 株反騰・ドル反落でした。

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    4)1985年プラザ合意後の2年間

    (こちらは全然違います)

    1985年9月、G5が意図的にドルを下げることを決めた。ドル円は1ドル=240円 から 1987年末には120円台。ほぼ半値に下がった。

    米国株はむしろ大幅上昇し、1985~87年前半は株式ブームが続いた。ところが1987年10月19日、Black Mondayで、ダウ平均株価は一日で22.6%暴落した。

    日本では急激な円高による景気悪化を防ぐため、日銀が公定歩合を5%から2.5%まで引き下げた。これが株・土地への資金流入を促し、後の日本のバブルを起こした。

    5)今回、カネ詰まりが起きて、倒産増加、景気後退が起きると、FRBは結局、利下げ・流動性供給・場合によっては国債等の大量購入に追い込まれる可能性が高い。

    つまり、危機の第一幕は金利上昇、第二幕は信用危機、第三幕はFRB介入による金利急低下、ということになる。

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    6)金の動き

    金価格は副次的問題ではあるが、面白い要素ではある。2008年リーマン危機では、金は米国債と並んで安全資産として買われたが、今回は国債がその信用を失うので、金はほぼ唯一の安全資産となる。今、金価格は既に急激な上昇を始めている。

    ただ2008年もそうだったが、市場の主体が資金不足に陥ると、手持ちの金を売却することがあり、金価格は上昇の後、一時的には下落し得る。

    しかし中央銀行、連銀が金融大緩和、国債の買い取り等の収拾策に出てくると、金利が下がり、金の価格は再び大幅上昇を始める可能性があるし、2009年から2011年にかけて実際にそうなった。

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    そして、今回が「米国売り」の様相を示しても、米国に取って代われる経済主体はないので(円は急上昇して、ドル・ベースでの日本GDPを大幅に押し上げるでしょうが)、世の終わりにはならないでしょう。

  • 北方領土問題のトリセツ―政府の足を引っ張らない。商談では「いなす」-

                                  河東哲夫

    (これは本日配布の「ボストーク通信」に掲載されたものの原稿です)

     「プーチン大統領が北方領土を視察した」ということで、止まっていた「日ロ関係歌舞伎」の舞台はまた回り始めた。堂々巡りではあるが。無責任な言い方だが、1991年にソ連が崩壊してこの問題が動き始めてからの軌跡をたどると、そう言わざるを得ない。基本は、日本が返してくれと言っているのに対して、ロシアが気のあるふりを見せては日本から何かをせしめ、状況が悪くなると、「問題は解決ずみだ」と開き直る――この繰り返しなのだ。

     こういう時、「埒が明かない。もう北方領土は諦めて、ロシアと経済取り引きを進めよう」と言う人は、ビジネスでもお人好しの取り引きしかできない。

     ここで、北方領土問題をめぐり日ロのやり取りを振り返り、これから日ロ経済関係者はどう考え、どう振舞ったらいいのか、考えてみたい。

     

    「国際法的に解決されている」わけではないことを示す共同資料集

     ゴルバチョフが社会の民主化、西側との協力強化を進めた1980年代末、日本政府も北方領土問題を含めてソ連との関係を進める好機ととらえ、これまでソ連がその存在すら否定していた北方領土問題について双方の認識の差を縮めるべく、外務次官級の協議を数回にわたって行った。その結果はソ連が崩壊した後、日本・ロシアの外務省が連名で1992年に日ロ両語で発刊した「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」に記述されている。

     ここでは、北方領土の諸島を日本領として認めた1855年の日魯通好条約が収録されている他、序文では、(第2次大戦終結時にソ連が占領したままの)北方領土についてはその帰属について両国間で話し合いが継続していることが記され、両国外務省が署名している。

    プーチン時代になると、ロシアはこの資料集は「なかったことにしてくれ」と言ってきたが、今でも日本外務省のホームページで、読むことができるhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/ryodo.html。ロシア側で当時の話し合いに加わっていた人たちの中には、今の外務省幹部もいるので、経緯をよく知っているだろう。

     国際的な慣行では、戦争後の領土・国境は平和条約で定める。日ソ間では1956年、戦争を終結し、国交を正常化する趣旨の共同宣言を発表し、双方議会の批准も得ているが、これは国境を最終的に定めるものではない。日ロは平和条約を結ばないと、終戦処理は完結しないのである。ロシアはいろいろ法的な説明をひねり出しているが、この問題は「国際法上、解決している」とはとても言えない。

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    信頼感醸成・協力促進と失望の繰り返し

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    ソ連崩壊後、計画経済を放棄したロシアは市場経済に転換する資本・経営ノウハウを欠き、国は大混乱に陥った。インフレは2年で6000%に及び、人々の生活は困窮をきわめた。エリツィン大統領は民主化・市場経済化を標榜して、西側の支援獲得に狂奔する。特に目をつけたのが日本-当時は世界2位の経済大国―で、エリツィンは北方領土問題解決に乗り出すそぶりを見せて日本からの協力を獲得する作戦に出た

    詳しい叙述は避けるが、この試みが一時勢いを失うと、1997年には当時の橋本竜太郎首相が、エリツィンと個人的信頼関係を築いて(そのためには、それまでの日本政府の対ロ政策であった「政経不可分」を明示的に下ろし、現在のJBICによる15億ドル相当の融資供与を約束した)北方領土問題を動かすという策に出る。彼は、同年11月クラスノヤルスクでエリツィンと会談。2000年までには平和条約を結ぶという言質を取って帰国した

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    以降、現在に至るまで、日ロ関係はこのクラスノヤルスク会談の基調-経済協力を通じて信頼関係を築き、領土問題の解決をはかる―が続く。「日本との関係をよろしくな」というのは、エリツィンのプーチンへの申し送り事項であったようだし、大統領に就任早々のプーチンは森喜朗・総理と特に信頼関係を築き、トヨタの進出も実現した。これもあり、西側とロシアの関係が悪化する中、メドベジェフ大統領が北方領土視察を行った2010年以降も、プーチンは北方領土視察を避けていた。

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    日ロ関係は、安倍第2次政権で再びピークを築く。安倍総理は、プーチンと個人的信頼関係を築き、経済関係も進めることで、北方領土問題に最終的にけりをつけることを目標とした。プーチンも、安倍総理との間では口裏を合わせていたが―これを安倍総理側近は過大評価した―、ロシア政府部内では「日本は領土問題を棚上げして経済関係を進めることに合意した」というひねた見方が流布されていた。だからこそ、ウクライナ戦争で日本がロシアを制裁した時、ロシアは驚き、怒ったのである。

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    何で今回北方領土へ?

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     ということで、プーチンがいつ日本に尻を見せても不思議でなかったのが、何で今北方領土に行ったのかと言うと・・・

     一つには9月中旬に議会の総選挙が予定されていることがある。全国を回って―それだけウクライナのドローンに攻撃される危険があるが―、与党へのテコ入れをはかるのである。ウクライナのドローンを警戒していたプーチンも、6月からは地方視察を増やしていて、北方領土視察は極東地方視察の一環となっている。テコ入れと言っても、今は戦争で、中央は地方政府の税収を取り上げる一方では、新規応募の兵士への報奨金支出など負担を押し付けているから、カネは出せない。さしずめ、北方領土は行くだけでも評価してもらえるから、コスパがいい。

     そして、反日姿勢を強める中国が、プーチンをけしかけた可能性もあるだろう。また、北方領土に中国が投資するための呼び水にもなる。

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    今、日本ができること

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    こういう時、日本が騒いでも、事態は全然良くならない。「ロシアが実効支配しているところに、大統領が行って何が悪い」とロシアに言われて、恥をさらすだけのことだ。

    では制裁をする? するとロシアは、日本がこれまで多額の融資をつぎ込んだサハリンの石油・天然ガス施設を接収する挙に出るかもしれない。

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    だからこういう時は、総理が世界に向けて発言する。ぶら下がりで言えばいいのだ。「ウクライナを武力で襲ったプーチンは、北方領土のことを思い出して急に怖くなったのでしょう。『日本が武力で島を取り返しに来たらどうしよう』と。大丈夫、日本はあくまでも話し合いでこの問題を解決しようとしています。プーチン大統領、あなたも早くウクライナを攻撃するのを止めて、話し合いに移りなさい。そうすれば、制裁も解けて、日本とも平和条約を結ぶ交渉を再開することができるでしょう」と。

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    ロシアだけを相手にして理屈で攻めても、向こうに動く気がないのだから、意味がない。世界の世論を自分の方にくっつけるーこういうやり方を、日本はいい加減身につけるべきだ。河内女の気質を持つ高市総理だったら、できるだろう。

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    商談でロシアに言いがかりをつけられた時のトリセツ

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     以上は、一種のきれいごと。現場でロシア人と商談をしている人たちの参考にはなるまい。「うまいことを言われてもねえ。日本とは領土問題があって、日本政府がいつも邪魔をしてくるから」と、ロシア側に言われたらどうする? 

     こういう時に、「いや、うちの政府は力がなくて。あんな問題、いつまで言っていてもしょうがないと、私は思っているんですよ」と合わせるのは下策。ロシア側には馬鹿にされるし、日本政府は察知して報復してくる。別件の大きな商談でJBICの融資が出なかったりしたら、どうする?

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     ロシア側は商談で、政治問題を片づけようとは思っていない。日本側に圧力をかけて、値引きとかいい条件を絞り出そうとしているのだ。だからそこは見すえて、こう言う。「まったくね。政治というのはどうしようもないですね。でも、我々は友人。どうです? ここは一つ、我々の友人関係のためにも、お値段は○○に引いておこうじゃありませんか。それに話がまとまってJBICの低利融資が出れば、お値段はさらに引くことができます。どうです?」。

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     煮ても焼いても食えないワル。日本人はこうならないと、「自分ファースト」の国ばかり増えるこれからの世界で、生き残ることはできない。

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     領土問題は未解決のままでとっておく。何も自分から、「こんなのは持っていても仕方ない。くれてやる」と言うことはない。世界で、日本が軽く見られ、別件でも毟り取られることになる。

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     ドイツは戦後、ソ連、ロシアと平和条約を結んでいない。1975年のヘルシンキ宣言で、国境の現状維持に賛成しているが、右宣言は平和的な交渉で国境線を変えることは禁じていない。だからロシアとの間では、カリーニングラード(以前はドイツ帝国のケーニヒスブルクで、哲学者カントの故地)の帰属は宙ぶらりんになっていて、情勢次第ではドイツは返還を求める交渉を提起することができる。北方領土にも、同じように対処したらいい。

  • 運慶・快慶・湛慶-日本のルネサンス。映画を作ろう。

    今、上野の国立博物館でやっている「空海と真言の名宝展」で、あらためて思った。

    彫刻の運慶、湛慶、快慶の3人。同時代の仏師に比べて全く異質。「個」を前に出すし、人体は写実に徹している。ひょっとして、ものの見方が違う、異人種なのか? どういう生まれ、育ちをした人たちなのか。彼らの後継者はいないのか?

    そこで安直だけれど、ChatGPTにまとめてもらった。以下がそれ。ずいぶんはしょってある。そして面白いのは、末尾で彼らを主人公とした映画の製作をChatが提案していることだ。AIはもう自分で考える。自分で感じる。頼めば、シナリオも書いてくれると思う。

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    ChatGPT:

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    結論から言うと、彼らが「違う人種だった」という証拠はほぼありません。しかし、彼らがそれまでの京都仏師とは違う文化的環境から突然中央に躍り出た、という感覚はかなり当たっています。 しかも面白いのは、突然変異は運慶からではなく、父の康慶から始まっていることです。

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    系譜を単純化すると、

    康慶 → 運慶 → 湛慶(運慶長男)
     └→ 快慶(康慶の弟子)

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    慶派は、京都で貴族好みの仏像を作っていた院派・円派の中心ではなく、奈良仏師の傍系から出てきました。康慶自身が「写実的な鎌倉新様式」を成立させた祖とされています。

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    平安後期の京都仏像は、定朝以来の「仏とはこういう顔、こういう姿である」という、完成された型を洗練していった。

    ところが奈良には、興福寺などに天平以来の、非常に肉体的・写実的な彫刻が大量に残っていた。慶派はその環境の中にいた。

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    そこへ1180年の平重衡による南都焼討ちが来ます。焼かれた東大寺・興福寺の大規模復興が始まり、康慶、運慶、快慶らに巨大な仕事が一気に回ってきた。つまり、奈良の古典彫刻の伝統 × 大規模復興需要 × 武士という新しい顧客という三つが重なった。

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    これは西欧のルネサンスに少し似ています。そして「個」が出てくる

    運慶は作品に名前を残す。仏像の内部に銘札や経典を納める。自分の工房を率いる。そして人物像では、「一般的な僧侶」ではなく具体的な「個」を再現しようとする有名な無著・世親像などを見ると、もはや宗教彫刻というより肖像彫刻に近い

    https://images.openai.com/static-rsc-4/hIrIn76YH3c5g85u7eGnPGv657-_Wa06DcXHIFMDfgjhH6jSgnb2LzyryJLCWjDaaE-w4rRGJKuTAN0E35Ugf3IF1dEmg91oLC831VNim2L1N__NQ4hsyS62AIBJJ2BtLe8VNzYjOP_-vJsxvp66gB_AGsc_ekO5DUw6qnR8vm5jVyYhDiKncI9I14cvXIl4?purpose=fullsize
    https://images.openai.com/static-rsc-4/08OOLr2OvMlo-rl5Kh9YN-pMtVOUy244VUDObkfl-a4jC5kcLDCeIShw0WvfAYkgbyzSvj2VkJE-PQkLUNE8Gh5d0yuk6aqgU9JLbZRWQ1IV9QcVTWk7NcyKhF8OFJmhyY95g7w6f7el1q-8F6OpidMoLaha_DVLSCll0Asj-HkQZ6Fq6fLEwRmo0vaItjCE?purpose=fullsize

    運慶は、顔の左右まで完全には同じにしない。年齢、皺、眼球、頬の肉、衣服の重量感まで表現する。

    しかも玉眼――水晶を内側から嵌めて眼球を作る技法――を積極的に使う。だから視線が突然「人間」になる。

    これは「仏の理想型」から観察された人体への大きな移動です。

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    ただし、運慶・快慶・湛慶を一括して「写実派」とするのは少し危険です。三人はかなり違います。運慶は量感、筋肉、骨格、人物の精神性。快慶はむしろ端正、優美、宗教的な静けさ。湛慶は父運慶の写実に快慶的な優雅さと宋風を取り込み、より穏やかになります。だから三人が同じDNAを持つ芸術家集団だったというより、康慶の工房が異常なほど才能の密度の高い「学校」になったと見る方がいいでしょう。

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    快慶は生年も出自もよく分からず、突然、康慶周辺に現れる。1183年の「運慶願経」の結縁者として記録に初登場します。朝鮮半島系・中国系などとする証拠は現在ありません。ただ、快慶や湛慶には宋代中国彫刻の影響が認められています。

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    (「後継者はいないのか?」)

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    実は大勢、いることはいる(康慶 → 運慶 → 湛慶 → 康円など → 七条仏所 → 室町・江戸という長い系譜)のですが、派として固化してしまい、新しいものを創造していないのですね。

    彼らは、様式、工房とも相続しました。しかし、「人間を見て彫る」という革命的な精神は伝えられなかった。

    後世になるにつれて「運慶様」という型になってしまう

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    (「鎌倉時代ルネサンス」を映画にしよう)

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    1180~1230年頃の奈良に、古代彫刻の再発見、宋からの新情報、武士階級の登場、南都復興という巨大公共事業、康慶という優秀な親方が同時に存在し、そこへ運慶・快慶という二人の天才が偶然居合わせた。

    これは日本美術史における、かなり稀な「ルネサンス」だったのではないか。

    そして河東さん御指摘の「個」という観点から見ると、さらに面白い問題があります。運慶の時代は、(いわゆる)源頼朝の肖像、重源像、明恵上人像など、仏像だけでなく日本美術全体で突然「この人」を描こうとする力が強くなる時代なんです。

    つまり運慶個人の突然変異だけではない。

    ここを追うと、「なぜ鎌倉時代に日本人は突然、人間の個性を造形し始めたのか」という、もっと大きな問題になってきます。

    これはかなり面白いテーマです。

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    小生

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    面白い。当時を描いた小説はあるかい?

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    ChatGPT

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    あります。しかも、まさに今の話にかなり近い小説があります。

    梓澤要『荒仏師 運慶』です。2016年刊、のち新潮文庫。第23回中山義秀文学賞受賞作です。

    これは単なる「名仏師の伝記小説」ではなく、なぜ運慶だけが従来の仏像とは違うものを作ったのかを小説化しようとしています。少年時代から「美しいもの」に異常に敏感だった運慶が、女性の身体や、当時台頭してきた武士の強靱な肉体に美を発見し、それを仏像へ持ち込んでいく、という設定です。そして快慶との関係・対立もかなり重要な軸になっています。

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    これは、今の疑問――「なぜこの連中だけ突然、個人や肉体を見始めたのか?」――にかなり正面から答えようとした作品ですね。

    面白いことに作者の梓澤要は、単なる時代小説家ではなく、東洋大学大学院で仏教史を学んでいます。したがって史料の空白を小説的想像で埋めてはいますが、背景の仏教史はかなり意識して書いています。

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    そしてもう一つ重要なのは、夏目漱石『夢十夜』第六夜です。これは長編小説ではありませんが、運慶文学としては外せません。あの有名な、運慶は仁王を「彫っている」のではなく、木の中に埋まっている仁王を掘り出している、という話です。

    梓澤の作品について新潮社が掲載している書評も、明確にこの『夢十夜』とのつながりを論じています。

    ただし、湛慶を主人公として本格的に描いた現代長編小説は、今回探した範囲では目立ったものが見つかりませんでした。 これは惜しい。父・運慶という巨大な存在を継いで、三十三間堂の千手観音群を完成させた男ですから、もっと小説向きです。

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    小生

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    映画作って儲けよう。「国宝」みたいに。

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    ChatGPT:

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    😁 これは案外、冗談で終わらせるには惜しい題材です。『国宝』型にするなら、仏像そのものを主人公にするより、運慶と快慶という二人の異質な天才の競争にした方が映画になると思います。そこへ父・康慶、そして次世代の湛慶を置く。

    時代設定も強烈です。平安貴族の世界が崩れ、平氏が奈良を焼き、源平が殺し合い、武士が権力を握る。その廃墟の中で、「優美で同じ顔をした仏」ではなく、筋肉も皺も怒りも意志もある生身の人間のような仏が突然出てくる。

    映画なら、冒頭は1180年の南都焼討ちでしょう。

    炎上する東大寺、興福寺。焼け落ちる巨大な仏像。それを若い運慶と快慶が見ている。そして康慶が一言。

    「もう昔の仏を彫るな。」

    ここから始める。

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    運慶は人間を観察する。武士の腕、老人の皺、死者の顔、女の身体。「仏を彫るために、人間を見る」。一方の快慶は、「そんなものは仏ではない」と反発する。彼は美しく静謐な阿弥陀を追求する。

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    この対立なら、観客にも分かる。運慶は、京都の旧仏師たちからは「奈良の田舎仏師」と馬鹿にされる。しかし武士たちは運慶の仏を見て、「これは俺たちだ」と感じる。

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    クライマックスはやはり東大寺南大門の仁王。高さ8メートルを超える二体を、巨大な工房が短期間で組み上げていく。ここなら『国宝』の舞台場面に相当する、圧倒的な映像が作れます。

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    ただし仁王像を「運慶対快慶の二人だけの作品」として描くと危険です。康慶・定覚らを含む大規模な仏師集団による仕事だったことが銘文調査で分かっています。そこは逆に映画的で、天才個人と巨大な職人工房との緊を描ける。

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    そして最後は湛慶でしょう。

    老いた運慶が死ぬ。息子が鑿を受け取る。しかし湛慶には父と同じものは作れない。何十年後、80歳を越えた湛慶が三十三間堂の千手観音を完成させる。父とは違う、静かな仏です。そこで初めて彼は悟る。

    「父の仏を継ぐ必要はなかった。」

    ――これで終わる。

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    タイトルは『運慶』では少しNHK臭い(笑)。

    『仏師』。英題なら THE SCULPTORS

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    問題は製作費です。鎌倉初期の奈良を燃やし、東大寺を再建し、8.4メートルの仁王像を作る。儲ける前にこちらが破産する可能性があります。😁

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    でも題材としては相当に強い。『国宝』が「芸の継承と個」を描けるなら、こちらは「日本で個が生まれた瞬間」を描けます。

    これは海外にも持っていけるテーマです。

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    小生

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    いいこと言うねえ。でも僕にはエネルギー残ってない。ああ、そうだ。今度のメルマガに貴兄のシナリオ案、載せてみるよ。

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    ChatGPT

    それは光栄です。この企画の核は我ながら(笑)捨てがたい。

    「日本で『個』が生まれた瞬間を、仏師たちを通して描く。

    単なる運慶伝ではない。平安的な「型」の世界が崩壊し、戦乱の中から武士とともに個人の顔、個人の肉体、個人の意志が前面に出てくる。その歴史的大転換を運慶・快慶・湛慶の三代で見せる。

    メルマガから本当に映画会社の人間が釣れたら、その時は笑い事ではなくなりますね。😁

  • 日本歴史紀行19:2025年の沖縄

    この頃、沖縄の名を聞くことが多い。筆者のテニスのコーチは、沖縄で一旗あげると言って行ってしまったし、筆者の鍼師もプロ野球の沖縄キャンプで頼まれて行ってしまう。円安で、ハワイとかフロリダでキャンプをやっていられる時代でなくなったこともあるが、「沖縄」が上げ潮の感じがする。そこで2025年正月早々、夫婦で数日レンタ・カーで、沖縄を見て回った。那覇と名護と普天間、辺野古という組み合わせで得た印象。

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    大きい

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    沖縄は東京都とほぼ同じ2300平方キロほどの島だが、佐渡島より3倍弱大きい

    縦長の島だから、真ん中のくびれたところを東西に横切るとすぐ、反対側の海に出て、本当に島だなと思うが、南北に走っていくと山あり谷あり。北部、島の3分の2は山地が続く。それがほぼ密林に覆われていて、島にいるとは到底思えない。高い山は500米弱はあるので、海岸から見れば十分高山だ。これが南部に沖積平野を作っていて、嘉手納基地がある。那覇は昔、ヴェニスのように沖の小島--それも浮島――だったそうだ。

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    その那覇は人口31.6万なのだが、実際は市街地が市の外に広がっているから百万都市の感触がある。那覇市の人口密度は全国で3位なのだそうだ。要するに、「首都」の風格がある。広い道路が多くて、目的地にさぞや簡単に着けるだろうと思っていると、さにあらず。広い道路はやたら斜めに交叉しているから、どこをどう走っているのか、わからなくなる。

    黒潮の流れがまた面白くて、台湾東岸から沖縄近海にやってくると、沖縄西岸の方に大きく曲がって流れる。それが屋島の南をまた大きく曲がって太平洋に出るのだそうだ。

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    国であった記憶

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    沖縄は、日本の室町時代の頃に群雄が割拠し――だから城(グスク)がこの頃集中的に建てられている――、間もなく統一されて首里城に朝廷が位置し、中国との貿易関係で潤った。明朝が海禁政策をとり、日本や東南アジア諸国の船を閉め出した時でも、沖縄は明との朝貢関係(要するに国家独占貿易)を続けたので、いろいろな国の対中貿易のハブになった時もある。

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    明への朝貢使は1372年~1471年の間は、明南部の泉州に着いた。ここには琉球の商館である来遠駅があったが、泉州港が土砂で浅くなった1472年に福州の柔遠駅に移転している。使節は数カ月かけて陸路、北京にのぼり、皇帝に拝謁して貿易をすませた。途上、使節団員たちは、朝貢貿易以外の私貿易で私財を稼ぐこともできた。

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    一方、明、清が琉球へ送った冊封使については、原田禹雄氏の「封舟往還」という研究書があり(榕樹書林)、アマゾンでも買える。尖閣諸島は、この朝貢使、冊封使の泉州・福州との航路のほぼ真ん中にある。

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    こうした歴史があるためだろう。沖縄は国としての構えさえ備えている。まず那覇空港が大きくなった。30年程前は、ローカル空港だったのだが、今はちょっとした国の首都の空港なみ。そして空港は非常に多民族的だ。

    那覇にある県立博物館・美術館は本当に堂々として、コンクリートの城という趣。これも、普通の国の国立博物館の内容と威容を誇る。

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    そして国際化の度合いは、本土を上回る。筆者が車を借りたレンタ・カー店は、日本人店員が一人もおらず、ちょっと心もとなかったが、ポイントはきちんと押さえてちゃんとしていた。

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    歴史について

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    沖縄の人たちが昔、どういうところからやってきたのかは、まだ十分確定されていないようだ。要するに、日本人とどれだけ関係があるのかという政治的な問題があって、定説も鵜呑みにはできない。言葉も日本語系とされるが、少なくとも発音は違う系統だ。たとえば城が「グスク」であったり。

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    そして薩摩藩は1609年、琉球を勢力下に置いたのだが――琉球王朝は薩摩と明の双方に礼を尽くす形を取った。首里城には双方使節のための館が相対している――、これは武力征服であった。1609年3月、3000名もの兵力が100隻の船で、島伝いに南下してきたのである。薩摩藩は関ケ原で敗れ、財政再建のために、明との仲介を琉球に求めて拒絶され、圧倒的軍事力で制圧、直轄地とした、というのが、現地で聞いた説明だ。

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    一方、米国のペリー提督は沖縄を国として扱い、沖縄に滞在もしている。彼は、江戸幕府が拒絶した場合には、琉球と修好条約を結んで石炭を入手するつもりで、沖縄で調査もしている(これも現地の博物館での説明)。彼は、「街は清潔で美しいが、役人は狡猾、民は惨めな境遇で抑圧されている」と書いた。

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    沖縄は、今は本土からの予算でのインフラ建設等で潤っているが、太平洋戦争にかけては本当にひどい目に会っている。沖縄の人間の4人に1人がこの時亡くなっているが、首里城もこの時、米軍の砲撃で地表から消えている。ずいぶんひどいことをするなと思ったが、実は日本陸軍は首里城の地下に壕を掘り、ここに司令部を構えていたから砲撃に会ったのだろう。

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    若い人口

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    沖縄には、若い人が多い――ような感じがした。那覇で夜遅くまで遊んでいる若者が多かったからで。

    調べてみると沖縄は、若者ないし壮年または中年の2.6人が1人の高齢者を支える社会となっている。全国平均では2.1人にひとりの割合だから、かなり若い。そして、発電所が多い。2024年には約8億キロワット時の発電をしているが、これは例えば広島県や群馬県より多い。工場立地に向いているのでないか

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    米軍基地

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    嘉手納は昔見た。今回は普天間飛行場を見に行った。滑走路南側の嘉数高台(ここは米軍上陸の際、激戦地となったところで、今でも弾痕が残っている)から、普天間米軍基地を見下ろす。「有名な」オスプレイが青空の向こうからやってくると、旋回して着陸する。それを繰り返す訓練をしている。

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    普天間については、「周りは人家が密集」していると書くのがマスコミの定番になっているが、それは言い過ぎ。人家は航空機の進入口の南方に集中してはいる。しかし、そのような情景は、大阪の伊丹空港など、世界の空港では珍しいことではない。ただ騒音の問題はひどいようだ。

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    そこで今度は、普天間が移転することになっている辺野古を見に行った。陸上ではあまり工事していないようで、柵があるからそこかと思って近づくと、そこは米軍シュワブ基地のゲート。兵隊が銃を持って飛び出て来、こちらに狙いをつけて・・・ということになる寸前に車をひるがえしたから何ともなかったが、すると今度は基地の警備がそんなことでいいのか、もし筆者がテロリストだったら・・・と思ってしまう。

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    普天間の北は読谷(よみたん)村。日本で、人口が一番多い村だそうだ。しかし面積の3分の1は米軍基地。ここの海岸は、ノルマンディー作戦のような米軍の大々的な上陸作戦が行われたところ。だからか、今でも米軍基地が多い。

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    沖縄南部はレンター・カーで走っていても、嘉手納、普天間、Hansen、Schwabと次々に基地が出てくる。だから米兵の不祥事件が時々起きるのだが、米兵の方もけっこうびくびくしながら、街に出てきている。那覇で見かけたのは、18歳程度の若い米兵(白人が多かった)たちが15名程のグループを作って那覇の国際通りをバーか何かに向かう姿だったのだが、彼等はどことなく怯えていて、周囲を見渡し、仲間から離れないようにしていた。

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    その他

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    今回気がついたのだが、東シナ海というのは黄海の出口だから当然浅くて、平均200米の水深しかない。ということは、この海域で潜水艦は自由な動きがしにくいということでないか? 対馬海峡を閉鎖するにしても、潜水艦は使えないかもしれない。将来の有事に備えて意識しておくべきことだろう。

  • 日本歴史紀行18:「百姓の持ちたる国、加賀」は本当にあったのか?

    2025年3月 JALのポイントを利用して、金沢に観光で行ってきた。金沢は4度目くらい。今回は、少し真面目に紀行記を書いてみる。

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    金沢は北陸の首都格で、街は立派で大きい。百万石の加賀・前田藩の城下町だし、森喜朗・元総理の地盤なので、金回りも良いのだろう。ただ、駅前はほとんどホテルで、中心街は城近くの香林坊などにある。

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    奈良・京都文化圏にある北陸

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    北陸は裏日本と言うように、裏のイメージがこびりついているが、戦国時代までは日本の表街道。交易相手の大陸に面していたし、東海道のように何本もの大河で交通を断ち切られることもなかった。だから敦賀、福井、金沢、能登、富山のあたりまでは京都の自然な延長だ。継体天皇が福井のあたりの出身と言われるのも、不自然な話しではない。

    金沢には石浦神社という古い神社があるが、これは547年、当地の三輪一族が大物主を勧請して建立したとの伝えが残る。三輪一族と大物主と言えば、奈良県飛鳥の豪族と三輪山の大神神社の神のこと。

    6世紀、天皇の直系が武烈天皇の死で途絶えたとき、越前から継体天皇が招請されたというのだが、三輪一族がもしこのあたりにもいたのなら、継体天皇が天皇の遠縁として呼ばれて不思議はない。

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    北陸には京都や奈良の有力者、寺社の荘園が散在したし、守護・地頭による統治システムも浸透していたようだ。

    県立博物館は、849年の「ふれ書き」を陳列している。これは村の外れに掲示されるもので、加賀郡の役人が発した命令などが書いてあり、これを役人が読み上げて村人たちに徹底していたようだ。

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    本州北部に至る街道もここを通っていた。源義仲を討つための平家の軍は北陸道を下ってきて、今の石川県と富山県の境、倶利伽羅峠で激突している。それからしばらくして、義経と弁慶一行も、京都を逃れて平泉に落ちる時、この経路を使った可能性がある。歌舞伎の勧進帳で知られる安宅関は、今の小松空港近くにあるのだ。

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    加賀藩の大名行列は普通2000名、時に4000名に及ぶ大行軍だったが(騎馬は20騎)、江戸までの経路は糸魚川の辺りまでは海岸沿いの北陸路を使っている。そしてこの大名行列の通った経路は、現代の新幹線のものとほぼ一致している。数千名の行列が親知らずの狭い海岸を通り抜けるのは大変だったようだ。

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    加賀を差配したのは百姓か、それとも本願寺だったのか?

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    戦国時代、能登は守護から大名になった畠山氏が統治したが、加賀では百姓一揆が守護の富樫氏を殺し、以後百年にわたって自治を行ったとされる。加賀が、「百姓の持ちたる国」とされた由縁で、今回の旅行では少し詳しく調べてみようと思っていた。

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    1471年、本願寺の蓮如は延暦寺に圧迫されて加賀の吉崎御坊に避難する。ここで教えを広めて1488年には近江に帰るのだが、門徒の一部は過激化して加賀国の守護・富樫政親を討ち取ってしまう。以後百年にわたって百姓自治が繰り広げられたことになった。

    でも調べてみると、百姓が指導者を選んでいたものでもなく、本願寺が行政に明るい要員を送り込んで、加賀を治めていたのだ。だから、石山本願寺が織田信長に攻められた時は、加賀から援軍が送られている。

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    そして加賀の一向宗の連中は1582年、豊臣秀吉から加賀に封じられた前田利家に殲滅される。最後の拠点は鳥越城。これは、白山の麓に作られた一向宗の拠点。今でも蓮如などを偲ぶ講があり、落人伝説も散在している由。

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    ここらへん、ガイドブックではほとんど説明がないので、今回は行きそびれた。

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    金沢と北前船

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    金沢は大きな街なので、江戸時代、北前船は大野、宮越の二つの港を利用していた。後世、ふたつを合併して金石と称する動きもあったが、大野、宮越は仲も悪く、旧名称にこだわった。古い町並みも残っているのに、ガイドブックでは言及もされない。何もないのかと思って、今回は行かなかった。一向宗と言い、北前船と言い、もっと自分の歴史を大事にしてほしい。

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    文化都市・金沢

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    金沢は文化都市だ。僕の好きな泉鏡花は金沢出身で、今回彼の博物館にも行ってきた。偽悪的な私小説や自然主義が流行する明治・大正の文壇で、あえて幻想ロマンを持したその作風が、僕は好きなのだ。

    禅を世界に英語で広めた鈴木大拙も、金沢出身。県立博物館の裏に、彼の博物館がある。これは小ぶりだが、超モダン、簡素で禅の精神を体した建築。

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    前田藩は文化を奨励した。街中に尾山神社という、奇怪な形の門を構える神社がある。最上階の窓は色付きガラスで彩られていて、ステンド・ガラスを思わせる。調べてみると、これは明治になってから旧藩士たちが前田家を偲んで建てたものの由。

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    金沢は金箔の生産と金箔細工で知られる。これは10円玉くらいの大きさの金に銀と銅を少し混ぜて「粘り気」を出し、畳一畳ほどに叩き伸ばすのだそうだ。全国での生産の98%をここで作っている由。方々で金箔ソフト・アイスを売っていて、僕も一つ食べたが、どうももったいなくて。金箔をはがせないものかと思案したが、名案はなかった。

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    他に金沢は九谷焼で知られる。一般の九谷焼とは違う作風だが、僕は三代徳田八十吉の作品に引き付けられた。

     

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    あと珠洲焼きというのがすごい。これは釉薬を用いず、灰の中の鉄分を色合いに用いていて、その質実剛健の美といったらない。

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    金沢は大変なグルメの街のようだ。ようだ、と言うのは、カネがないから探さなかったのだが、インターネットでは東京以上の密度で、インテリアも食事も凝った店が多数紹介されている。

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    そのうちの一つではないかと思ったのが、TILE(最後のEは左右さかさま)というカフェ兼レストラン。安い1階のカフェしか行かなかったが、2階をのぞいたら神秘的な洞窟の中のようなレストランになっていた。このTILEという店名、上下さかさにするとELITEになる。何か言いたいのだろう。

  • モスクワ定点観測0 2002年

    (ちょっと順番を間違えた。モスクワ定点観測で2002年のものを見つけたので、0という番号をつけて掲載しておく。写真もつけて。

    今、プーチン大統領が北方領土に行ったとかで、日ロ間では大騒ぎ。ロシアはこの機に、冷戦時代のすげない立場に戻ろうとしているが、この2002年時点では、雰囲気はもっとましなものだった。それを思い起こすためにも・・・)

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    2002年のモスクワ

                          河東哲夫

    モスクワは変わった。パン屋の前にくすんだ色のオーバー姿の市民が行列を作っていたのははるかな昔――今となってはなぜか懐かしいのだが――、ボクシングや空手できたえ昼日中から殺しあいをしていたマフィアとやらも、この頃ではとんとその姿を見かけない。夜になるとイリュミネーションがずらりと並ぶ十九世紀ヨーロッパ風の広壮な建物をこの世ならぬ幻のように夜空に浮かび立たせる目抜き、トヴェルスコイ大通りにはブランドもののシックなブティックがひしめき、その賑わいはさすがに上海には及ばないものの、最近安手のマッサージ屋ばかり増えた六本木界隈よりもエレガントで、活気を呈している。

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    そう、活気。これが今のモスクワを一言で表す言葉かもしれない。八年前までは、人々の顔には「改革」の混乱からくる疲労と絶望しかうかがえなかった。今でもそれは残っている。だが、将来への希望がまだ午前十時の太陽くらいの明るさで、かなりの割合の人々の顔にさし始めたのも確かな事実だ。

    2010年頃のモスクワ
マヤコフスキー広場
ソ連時代のまま。2026年現在、もっと華やかに

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    並木通りの一角にできた古風なカフェ「プーシキン」では昼ともなれば、近くで働く華やかなオフィスレディー達がそれほど高くないランチで談笑し、横で奏でるカルテットのワルツは、あたかもここがウィーンであるような幻想を呼び起こす。企業家や金持ち達は時にはマネー・ロンダリングのため、次々に奇抜で豪華なレストランを店開きし、中にはガラスばりの床の下一面の水槽に一メートルにもなんなんとする蝶鮫が何匹も泳ぎ回るものまである。企業家、作家、デザイナー達は、毎晩のように開かれるレセプション、ディナーをはしごしては夜遅く、夫人や愛人とともに思い思いの好みのクラブに繰り出し、人生を謳歌する。

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    こうしたハイ・ソサエティのかたわらでは、もっと「堅気」の市民のためにその名も「えーい、ままよ」という名のロシア風お好み焼きのチェーン、奇妙なサムライ姿のボーイやハッピ姿のウェイトレスが入り口でいっせいに「いれっしぇいめせー」と客に奇声をあげる――なぜかそっぽを向いて叫ぶ者もいるが――日本食レストランのチェーンなど、一食千円そこそこですませられる手頃な場所もどんどん増え、薄暗い中庭の物置かと見紛う入り口から地下への階段を下りていくと穴蔵にタバコの煙の渦巻く中、学生やボヘミアンの貧乏アーチスト、音楽家、そして近くのラジオ局のスタッフ達のたむろする超安のカフェ・レストラン「O・G・I」などというのもある。こいつはアメリカのバーンズ・アンド・ノーブルなどのカフェつき書店をちょっとひねったつもりなのか、一階に上がって行くと本屋になっていて、安っぽい探偵小説やエロ本であふれる街中とは打って変わって「本格的な文化」の香りのする本が天井までぎっしりつまっているのだ。この店のコンセプトは、ソ連時代からロックにかぶれ反体制扱いされて職にもありつけなかったのが、自由になったロシアで「プレイボーイ」のロシア版を創刊してハイ・ソサエティの仲間入りをした、著名な音楽評論家トロイツキーによるものだ。

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    一組300万円もの寝室家具セットをいくつも並べた大きな家具店からものの5分も車に乗れば、自分で組み立てる超安家具のチェーン、スウェーデンのIKEA――こいつは入ったら最後、1キロほど店内を歩かされ、やっと出口にたどりつく代物なのだ――がその威容を丘の上に聳そびえ立たせ、その下には客の車が大げさに言えばおよそ数1000台はあろうかという感じでびっしり並ぶ。


    そう、ロシアは完全に消費経済になったのだ。工業の60%以上が兵器生産に関与していたあのソ連経済、武器製造マシーンとも言えるあのソ連経済が、消費経済になったのだ。一度美しい商品を買う喜びを味わった者なら、いくら生活が保証されていたとは言え、もう二度とソ連の昔に戻ろうとは思うまい。そしてこのことは、今後のロシアを考えていく上で、ものすごく大切なことなのだ

    マスコミでは、モスクワは世界で一番物価の高い都市だなどと叩かれてはいるが、普通の市民はそんな高いところでものは買わない。少しばかり郊外に出ると、そこには露店、コンテナ店が通路に数100軒も立ち並ぶ大市場がそこここにあって、こういうところで買い物をすれば一人月100ドルで何とか暮らしていけるそうだ。

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    何でこんなことをくだくだ言うのかというと、ことは日本とロシアの関係の今後にかかわってくるからだ。外交官は何年かに一度、住む国を変える。これがどんなに大変なことか。日本の中での引っ越しでも十分大変なのだが、住む国が変わるとなれば言葉も変わり、子供の学校も変わり、そして何よりそれまでの友人、人脈がゼロ――ゼロになるのだ――になってしまう。そして前にいた国と同じくらいの密度と広がりの人脈を一年くらいの間に築き上げて、そしてまた……。

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    どこへ行っても社会での日常生活というものは、それまでいた国での記憶をしばしの間カラにして、あたかも頭の後ろをハンマーでガーンと撲られて頭の中が真っ白になってしまったかのような、自分は一体全体どこの何者なのか、ひょっとすると何の意味もない存在ではないのか、と思わせるほど重いのだ。人間は日常生活に没入すれば、それにかまけて外国のことなど通りいっぺんの理解ですませてしまう。

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    ロシアにはもう商店の行列はない。モスクワではもうマフィアの撃ち合いはほとんどない。ロシアは昔の「怖いソ連」でもなく、九四年頃までの哀れな状態にあるわけでもない。危機から脱し、G8の一員として膝つきあわせて話し合える国、そして生活と文化は世界の中でも最も面白い国の一つになってきている。そんなことを聞いてもただ、へえーっと半信半疑で聞き流すだけ、相手の実態と変化を知らずただこれまでの思い込みだけで接するようなことがあれば、それが世界のどの国であれ相手を怒らせかねないだけでなく、時には外交やビジネスの上でのチャンスを逃すことも十分あるのだ。だから、いろいろこまかいことを、くだくだと書いている。

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    ロシアとの関係で言えば、領土問題の解決が第一の課題だ。これを解決しなければ、わだかまりも解消されず、米中露という大国とバランスを維持しながらアジア・太平洋地域の安定と発展に貢献していく上で、日本外交のロシア方面はいつも凹んだものであり続ける。

    つまり領土問題の解決とは、解決した時、我々が万歳と言ってあとはロシアを忘れるといった「自己目的」なのではない。関係発展へ向けてわだかまりを除くためには、どうしても避けて通ることのできない、もっと前向きのものなのだ。
    領土問題はどこの国でも、いつの時代にも、難しい。ロシア人はいつもは北方四島のことは考えていないが、戦後あらゆる手段で自分のものだと教え込まれてきた領土が日本に渡された――彼らの解釈では「返す」ではなく、「渡す」なのだ――と聞けば、「何だ、何だ。一体どうしたんだ」と憤慨するかもしれない。
    「日本がロシアの弱みにつけこんで領土を取り上げた。これでは他の国も同じことを要求してくる。大変だ」と感ずるかもしれない。ロシアの政治家の中にはこうした感情を煽って反対運動を盛り上げ、得点を挙げようと狙う者も出てくるだろう。しかもロシアはただでさえ、経済発展、チェチェン問題、米国、NATOとの関係、その他もろもろの政策課題に常に忙殺されていて、政権にとってリスクの伴う領土問題に取り組むことは、大きな決断を必要とする。

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    ロシア側もそうだが、日本側のアプローチも細心の注意を必要とする。四島の返還は我々の悲願だが、それを言うだけではロシア側は動かない。交渉は冷徹な計算に基づいて行われるもので、感情によって動かされるものではなく、ただ懇願するだけでは自分の立場を低く見せることになるかもしれない。かと言って、毅然としてテーブルをたたきこちらの立場の正当性を声高に述べたてることが解決につながるかと言えば、そうでもない。そのようなことは40年余もやってきており、領土問題解決の必要性についてはロシアの指導部はもう認めているのだ。

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    ロシアの国民に北方領土問題の法的・歴史的経緯を説明することは、ロシアが民主化して以来、ロシアの新聞・テレビも通じて随分やってきた。だがいくら放送し、報道してもらっても、人はそれを必ず見ているわけではない。彼らは帝政ロシア、ソ連以来の長い伝統で、「お上の宣伝」にはすぐ眉にツバをつける。外国政府の言うことについてはなおさらだ。しかも我々が広報すれば、領土問題の解決に反対する連中が得たりや応とばかりに、反対の大宣伝攻勢をかけてくる。マスコミはこれで購読者が増える、視聴率が上がると思って、論争をあおり立てる。これでは問題の解決には資さないだろう。

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    では、どうするのか。まず、日本自身が「強く正しい」国であることをいつも示していることだ。軍事力のことを言っているのではない。外交、経済力、自衛力によって日本の安全保障と国際的地位を揺るぎないものに保つことを、言っている。「正しい」とは、ロシアとの関係で姑息な手段を使わず、不必要に激して机をたたくこともなければ、下手に出ておもねることもしない、ということだ。

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    ロシアでの日本のイメージは高い。「高貴なサムライ」、「深い伝統を有する洗練された日本文化」は、今やロシア人の間ではブームになっている。モスクワに寿司屋が百何軒あるだけではない。料亭ばりの高級割烹も、工芸品を売る専門ブティックもあり、村上春樹の小説は本屋に平積みになっているのだ。

    こうしたイメージに適う振る舞いは、必ず尊敬される。ロシアのエリートの知的・文化水準は高く、彼らの価値観はソ連時代の統制マインドを残しながらも、西欧のリベラリズム、個人主義の影響も強い。こちらも、深い伝統に根ざした個というものを前面に出していくのが、効果的だと思う。

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    北方領土の解決には、プーチン大統領の決断が欠かせない。今のロシアの状況では、大統領が決断すれば、政治家も国民も納得するところまで来ている。これを実現するには、日本が強く正しくあり続け、ロシア側に政策上の重点を置いてもらわねばならない。

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    歴史上、領土問題が解決されたのは、二つの場合だ。一つは戦争、もう一つは友好関係を進めながら静かに好意的に解決していく場合だ。1991年にソ連がつぶれロシアができて以来、民主化と市場経済を進めるこの国と、日本は友好関係を深めてきた。何百人もの企業の若手マネジャーに研修の機会を与えるなど、経済改革をノウハウの提供などによって助けてきた。何よりもこの数年、双方の首脳(エリツィン大統領と橋本首相の組み合わせ、プーチン大統領と森喜朗首相の組み合わせ)が互いのテレビに放映されて友好のジェスチャー、パフォーマンスを相手国民に示したことが、どれほど雰囲気を良くしたかはかりしれない。

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    相手を知らないことは恐怖を生む。相手がどんな行動に出てくるか、わからないからだ。1992年9月にエリツィン大統領は訪日を直前にキャンセルしたが、その背景には日本への知識不足から訪日の成果を読み違えたことがあったろう。以前ではロシア政府の役人やジャーナリストには、日本と聞くと何となくよそよそしい者もいたが、今では多くの者がオープンで友好的だ。不必要な警戒心と恐怖がなくなったのだ。

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    冷戦の終わった今、北方領土問題は対決の中ではなく、こうした友好関係の中でしか解決できない。相手もわかっている。日本の立場を、日本の気持ちを。それをどう解決していくか。日露双方は関係を進めたいとの気持ち、そのために領土問題を解決しなければという気持ちは同じであり、同じ舟に乗って彼らもそこから逃げられないのだ。「俺とお前」で話し合い、時には駆け引きもやるものの、忌憚なく解決に向けて話し合っていくしか、解決の道はない。

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    友好関係を進めることは、領土問題を棚上げにすることではない。北方領土問題と言えばすぐ、ロシアへの経済協力の是非を論ずる向きがあるが、ここで言っている友好関係は日本国民の負担を伴うものではない。ロシアの経済力は未だそれほどではないにしても国際政治における存在感は大きく、またその外交は活発で得点を挙げるのに巧妙だ。そうしたロシアに時にはいろいろ第三国への伝言を頼み、頼まれたりして、外交面での協力を進めることは、日本にとって得にこそなれ損にはならない。経済関係においても、日本にとって利益になる案件があれば、採算性の範囲で公的融資を出して損になることはなく、現にサハリンでは石油、天然ガスの開発に協力している。シベリアにはまだ多くの石油や天然ガスが眠っており、ここから米国やアジアへの輸出を考えれば、採算に合うものもあるかもしれない。

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    ロシア人の多くは、「日本は北方領土問題のために経済関係を止めている」と思い込み、日本からそっぽを向きがちだ。「いや、そんなことはない。利益のあがる案件なら公的融資もついている。だが、領土問題が解決しなければ、国民の負担を伴うような大型低利融資が出せないことは、わかるだろう?」と言えば、ロシア人は明るい顔になって、「ああ、そうか。そりゃ、もちろんだ。日本はロシアとの普通の商売はやる気があるんだな」と応えてくる。

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    ロシア人は友人を大切にする。コネ社会の伝統があるだけに尚更だ。同時にロシア人は、他人の面前で恥をかかされることを嫌う。極度に嫌う。国際的に孤立することが多かったからでもある。自分の非を悟っていても、おおっぴらに言い立てられれば依怙地になるのは、万国共通だ。譲ることが自分にとって危険だとなれば、尚更だ。

    一晩酒でも酌み交わしながら、「お前と俺は随分長いこと一緒にやってきたな。ところで俺には、こういう困った問題があるんだ。どうしたら解決できるかな」と持ちかけるのが、ロシア人と問題を解決する上では、どうしても避けて通れない手続きなのだ。

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    ロシアでは、2006年にG8サミットが開催されることになった。また、ロシアは、米国、NATOとの関係も一応けりを付けて、友好関係を確固たるものとした。国際石油価格は高めに推移し、国内の生産も回復トレンドにある。国民は明日への希望を感じだし、企業家はこの十年で初めて将来の投資計画を安心して立てられるようになったと言っている。インテリは少々ものが言いにくいとこぼしながらも、我々には自由にものをしゃべり、社会が安定しニュースがつまらなくなる中でショー・ビジネスや映画産業に転身をはかるジャーナリストも増えている。野党も政府との対決は避け、必要な改革法案は次々に議会を通っていく。

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    ロシアは混乱期を過ぎ、以前よりも少しばかり余裕をもって周りを眺め始めた。「誰もただじゃ助けてはくれないが、攻めてくる奴もいない」という、ごく当たり前の考え方が定着し始めている。主要国とのロシアの外交で、まだ大きな前進がないのは日本だけになった。日本との関係改善に政策上の重点を置いてほしいし、それだけの余裕と度量が今のロシアには出てきて不思議ではない。

    (以上が、プーチン大統領就任から間もない、2002年頃のモスクワの心象風景だ。ウクライナ戦争でロシア経済が、生産面では再び軍需中心のものに逆行した2026年の今、感慨深い、かつ残念なものがある)

  • 映画「オークストリートの異変」(The End of Oak Street) は現代アメリカ社会のホラー

    一昨日、映画「オークストリートの異変」を見に行った。典型的な郊外中流層の住宅地が、数億年の昔に突然ワープし、住民たちが恐竜に追い回されるというホラー映画。1974年生まれ、デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督の作品だ。

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    日本の映画批評では、「意味がわからない」というものがあったが、今のアメリカ社会を見ている人だったら、意味は深々と伝わってくることだろう。

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    今からもう30年前ほど、米国人のある日本専門家(女性)が僕に言った。「この頃のアメリカ社会は、怖いんです。宗教とか政治とかで過激な人が増えて、私が何か言うと何を言われるか、やられるかわからない。そういう感じなんです。何か隣人が違うものになってきたようで」と。共和・民主党の両極に分かれての過剰な争い、イスラム過激派ばりの狂信者。これを煮詰めたものが今のトランプ政権で、言葉遣いから何から、アメリカは近代以前に戻ったような荒くれ、帝国主義。

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    この恐怖感を表現したものが、この映画なのだ。と思って、米国ではどんな批評が出ているか、ChatGPTに調べてもらった。その結果がこれ・・・

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    --この映画は封切になったばかりですが、批評は出ています。

    とりわけ面白いのが The New Yorker のJustin Changの批評です。彼はこの映画を単なる恐竜映画としてではなく、David Robert Mitchellが一貫して描いてきた**alienation(疎外)**の映画として読んでいます。Oak Streetの住民は、表面的には普通のアメリカの中産階級社会を形成しているのに、実際には互いに孤立し、家族の内部さえバラバラになっている。そして恐竜以上に残酷なのは、場合によっては人間の側ではないか、というところまで踏み込んでいます。

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    さらに Le Monde の英語版は、もっと貴兄の解釈に近い。「sanitized myths of American suburbia(無菌化されたアメリカ郊外社会の神話)」への批判として読み、恐竜を、中産階級社会の安定という幻想を破壊する「原始的な混沌」の象徴と見ています。そして映画全体を、現在のアメリカにおける文化的物語の崩壊を扱った作品と解釈しています。

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    以上から私 (ChatGPT) は、この映画は「トランプを批判した映画」と言うよりも、「現代アメリカが過去へ逆行してしまったことを指摘した映画」と読みます。普通の恐竜映画なら、恐竜が現代へやって来るはずです。ところがこの映画では逆です。Oak Streetの方が過去へ飛ばされる。

    人種・宗教・性・移民などをめぐって、すでに克服したと思っていた古い価値観が復活する。国際政治でも勢力圏、領土、関税、帝国、大国間取引といった19世紀的発想が戻ってくる。そして人々は、突然復活したその「原始世界」のルールに適応して生き延びなければならなくなる。(以上、かなり省略してある)

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    (ところで、この映画の主人公の一人、お父さんは、もう1年前に会社をクビになっていながら、そのことを家人につげることはどうしてもできず、ピザの配達で家庭を支えている。これもまた、現代アメリカの典型像。身につまされた)

  • 日本歴史紀行17:近江八幡

    近江八幡

     

    2026年5月の連休は、家族で近江八幡に行ってきた。

    ここは琵琶湖のほとり。織田信長の安土城から派生した町。

    信長は安土城を築くと(1576年)、足元に城下町を造成し、楽市・楽座(規制撤廃、特権賦与、賦役減免)を旗印に、故郷の尾張などから商人を呼び集めた。ここは北陸方面から京都・美濃・木曽方面に向かう街道が交叉する商業ハブ。安土の町も随分栄えたらしいが、信長が死ぬと間もなく、安土城天守は炎上し(1582年)、灰燼と帰した。犯人は不明のまま。

    その後もしばらく安土城は、二の丸が織田家の子孫の居所となっていたが、1585年に廃城となる。

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    同年、近くの八幡(はちまん)山に秀吉が城を建設。甥の秀次(当時は子供のなかった秀吉が、後継にするつもりで引き立て、後に茶々との間に秀頼が生まれると疎んで切腹に追い込み、家族を皆殺しにした)をここに据える。

    これは織田家から豊臣家に覇権が移行した象徴で、安土城の資材は八幡山城築造に転用された。

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    そして八幡山のふもとには碁盤の目の町、そして運河が造成され、安土の商人たちが、安土で享受していた利権・特権はそのままに、ここに招請された。秀次はここに5年いた後、清州に転封される。(因みにNHKの大河ドラマに出ていた秀長は、秀吉の弟で、これは傑物であったらしいのだが、50歳で病死している)。

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    近江八幡は琵琶湖の港としても機能し、城主は関税を徴収した。近江八幡にはカツラ、太鼓、後世には靴等を作る職人も集まった。また農民の移動制限が緩和されて、農民が行商に従事できるようになり、これも近江八幡の商人を助けたことだろう。

    そしてここが、「三方よし(売り手・買い手・社会全体を益する商売をしろ、という意味)」など優れた商業道徳で知られる近江商人の所縁の地で、ここから発生した企業としては寝具の西川、西川の流れの食品企業・メルクロスが知られる。

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    琵琶湖の南端部、その西側に近江八幡はあるのだが、このあたりは市街地がべったりと広がっていて、その中に碁盤の目の旧市街が残っている。街のはずれの八幡山にはなんとロープウェーがかかっていて、城跡まで行ける。15分間隔で運行し、10~15名乗っていた。中国人観光客は見かけなかったのだが、「国産」観光客だけで満員。インバウンドはいらないようだ。

  • 日本歴史紀行16:紫式部ゆかりの石山寺

    2026年5月

     

    この寺のことは知らなかったのだが、京都から近江八幡に行く途次、大津市の歴史博物館でその存在を知って行く気になった。琵琶湖南端から少し南に下る。

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    この「衝動トリップ」の結果はイチオシ。石山という山にあって、ここは文字通り珪灰石という奇妙な石(天然記念物)が露出しているところ。石灰岩が主要成分で、もとは白かったらしいが、今では変に黒光りしている。

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    この寺は、「紫式部が源氏物語を着想、執筆したところ」ということになっている

    紫式部の日記その他では、そのようなことは書いてないのだが、石山寺の本堂をぐるりと回って、角の窓を見ると、紫式部女史の白いレプリカがぬっと現れて少し気味が悪い。僕の書斎より更に狭い一間で彼女は書いている。

    付近には、「藤原道長も参拝した」ようなことが書いてあり、紫式部は道長の愛人であったことを匂わせている。

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    紫式部が本当はどこで源氏物語を書いたのかは知らないが、石山寺で書いたのなら、それはそれで納得できる。

    彼女のレプリカが鎮座しているのは本堂の一隅。ここではいつも読経の声、そしてチーン、カーンという諸行無常のカネの音が聞こえてくる。だから「源氏物語」には、あの諸行無常のそこはかとない雰囲気が塗りこめられたのだろう。

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    紫式部は、藤原彰子(一条天皇の中宮)の文化サークルに属しており、そのバックは彰子の父、藤原道長。このサークルが、紫式部の執筆を促したとされる。今であれば有吉佐和子や林真理子のような女流作家がどこかに缶詰めになって、作品を書かされる情景を思い浮かべればいいかもしれない。

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    なお、石山寺の近くの堅田(琵琶湖の南端部西岸にある。敦賀など北陸の港から琵琶湖北東岸の長浜を経由して積み出された貨物は堅田で陸揚げされて京都に運ばれていた)は堺のような自治都市だった。豊かな町で、ここには浄土真宗の蓮如がいたし、禅の一休和尚もいた。

    このあたりの歴史は文学・宗教・商売が入り混じって、面白みがある。