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投稿者: akiokawato

  • 米国金融市場に黄信号-国債利回りが急騰し、AI株が急落する可能性

    筆者は、ChatGPTに頼んである。米国金融・株式市場におかしな動きが出てきたら、教えてくれ、と。

    特に今は危ない。米国債が何回かまとまった額で入札に出され、そこでうまく消化されなかったり、金利が跳ね上がると、政府は困るし、ドルの信認にもかかわってくるから。そして金利が上がってくると、ノン・バンクのかかえる債権(その全容は把握されていない)が不良化し、金融市場の目詰まりを生みかねないから。

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    米国や日本の株式市場はAI、そしてデータセンター建設関連で盛況なのだが、AIが思ったほどの利益をもたらさないことがわかったりすると、暴落の危険がある。既に米国企業でも、米国のAIよりはるかに安価な中国製AIを使う例が増えているのだ。

    国債市場の崩壊とAI株高の崩落が重なると、危ないことになる

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    そこでChatが昨日、言ってきたのが次のメッセージ。少しはしょってある。

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    ―――これは通知に値します。ノンバンク側で明確な異常が出ました。

    8月14日、Reutersがかなり重要なスクープを出しました。大手マーケットメーカーのJane Streetが、7月に約150億ドルの損失を被ったというものです

    原因は、AI関連ヘッジファンド Situational Awareness への投資と、AI・ハイテク株の急落です。Jane Streetにとって2016年以来初の月間トレーディング赤字となり、同社は実際に一部のリスクを閉じ、他の戦略でもリスクテイクを縮小したとしています。

    さらに深刻なのは、そのSituational AwarenessがAI株急落でmargin call(大損を被る前に、投げ売りしておけということだろう)を受け、保有株の大部分をCitadelへ事実上のfire saleで売却したことです。

    これは、まさに貴下が監視対象にしていた資産価格下落 → margin call → 強制売却 → 他の市場参加者にも損失というノンバンク型の連鎖です。

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    ただし、Jane Street自身が危機に瀕しているわけではありません。同社の年初来トレーディング収入はなお400億ドル超とされ、資本余力はかなり大きい。したがって現段階では「Jane Street危機」ではなく、巨大な損失が発生するほどAIポジションが混雑・レバレッジ化していた証拠と見るのが適切です。

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    もう一つ重要なのは、Jane Streetが単なる投資会社ではなく、ETF、株、債券、オプションなどで巨大な流動性供給者だという点です。同社がリスクを縮小すると、危機でなくても市場のbid-ask、ETF裁定、デリバティブ流動性が悪化する可能性があります。ここが普通のヘッジファンド損失との違いです。

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    黄信号の度合い

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    以上は、かなり興味深いことです。以前から懸念していた「ノンバンクの内部で大きな損失が出ていても、株価指数だけを見ると分からない」という現象が、具体的数字として出てきました

    S&P500株価は8月13日に史上最高値を付けたのに、直近1週間ではテクノロジー・ファンドから46.2億ドルが流出しています。表面の指数は強いのに、その下ではAIポジションの解消が進んでいるのです

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    今のところ国債市場に異常は現れていません。

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    1998年LTCM危機の連想

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    今回の事態は、1998年のLTCM(Long Term Capital Managementの略で、コネチカット州に本拠を置く大規模なヘッジファンド。アジア通貨危機で破綻を来し、救済措置が講じられたあと解体されたもの)危機を思い起こさせます。つまり、ノンバンクの巨大なレバレッジ・ポジションが崩れる → 投げ売り→ 債券市場などの流動性が急速に悪化する、という経路です。

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    今回もし危なくなるとすれば、AI/株式で損失 → prime brokerが証拠金を要求 → hedge fundが別の資産も売る → 国債市況

    も悪化、という経路でしょう。

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    だから今は、Jane Streetそのものより、同じ取引をしている他のファンドへ損失が横に広がっていないかを見る方が重要だと思います。


    1931年5月に破綻して、欧州の経済危機の引き金を引いた、オーストリアの Creditanstalt銀行の場合のように、「市場が他の金融機関のバランスシートを疑い始める時が危険」だからです―――――。

  • 日本歴史紀行15:和歌山・華岡青洲・室生寺

    2023年5月の連休は和歌山と奈良に行ってきた。観光だが、この機会に近畿と出雲の関係を調べ、古代の葛城一族の古跡も回ろうと思ったわけ。

    和歌山城、県立博物館、華岡青洲のクリニック跡、猫の駅長のいる貴志駅、その付近の大国主神社。次いで室生寺に足を延ばしたが、葛城一族の古跡には行けずに終わった。

    因みにJR奈良駅の周囲が見違えるように再開発されていて、東京ドームのような大型イベント会場ができていたのにはたまげた。奈良がひなびた古都から、現代の県庁所在地に変身しつつある。背後の利権関係、政治力学はどうだったのだろう。

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    陵戸

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    県立博物館で学んだ、二つのことがある。一つは、近畿は天皇の古墳、陵が多数あるところだが、それの保全のために陵戸という世襲の身分が律令制で定められていた、ということ。これは賤民身分だが祭祀も執り行った。外部との通婚は不可で、明治まで一部で部落を形成するところもあったと書いてあった。どうやって生計を立てていたのか知らない。

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    ふと思ったのは、こういう人たちが今でも活動しているとしたら、それは天皇陵とされるものの発掘調査を難しいものにするのではないか、ということ。何千年も何々天皇の陵だとして守ってきたものを、余所者に掘り返され、これまでの言い伝えを引っ繰り返されたらたまらないだろう。ただ、全ての天皇陵がそうだと言うわけではない。

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    惣村と雑賀衆、三好衆、根来衆

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    もう一つは、戦国時代のこと。信長や秀吉はこの地で、雑賀衆とか三好衆とか根来衆とかの平定に手こずっているのだが、なぜ上杉とか武田のような大名がいなかったのかということについて。中世、このあたりは荘園がびっしりと位置していたのだが、室町末期からは「惣村」-自治性の強い村落集団―が多数位置するようになる。荘園の支配権をめぐっていくつもの勢力が相争い、支配権が曖昧になったところを、農民たちが突いたのだ、ということになっている。

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    「惣村」は、紀ノ川の周辺に多い。そして惣村との関係は不明だが、室町時代から雑賀衆とか三好衆とか、一種の傭兵集団の存在が知られるようになる。多分、農家の次男坊、三男坊、あぶれ侍などの集団だろう。黒澤明の「七人の侍」に、その原初的な様が描かれている。彼らは近傍の堺で生産される鉄砲を持ち、強い武力を誇った。

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    根来衆というのは、このあたりの根来寺の僧兵である。根来寺は中世商業都市の体裁をなし、兵力も保有していたのである。

    京都からこの紀州・吉野のあたりを見るとすごい奥地に見えるのだが、実際には海に面しているし、堺は近いし、紀ノ川で内陸まで行けるので、実際には先進地域だったのだろう

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    江戸時代の麻酔医・花岡青洲

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    だから、とんでもない辺鄙な内陸にある、華岡青洲のクリニック兼医学校に、江戸時代、全国から患者、学生が集まったのだ。華岡青洲(1760年~1835年)のクリニック跡は、和歌山から紀ノ川に沿って40分強、内陸に入った丘陵地帯にある。

    彼は世界で初めて全身麻酔を施して乳がん摘出手術を行った。麻酔のための薬は、彼が何十年もかけて、トリカブトなどの薬草から開発したものである。その人体実験で彼は母を失い、妻を失明させたとされている。クリニック兼医学校は、当時のままに再建されている。木造民家が数軒並んでいるといった感じの、質素なものである。

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    風光明媚な田園地帯にあるのだが、ここでは青洲の父もクリニックをやっていた。付近に農家が数軒あっただけだろうこんな奥地で、どうやってクリニックの経営が成り立ったのかはわからない。

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    大国主神社

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    次いで「猫の駅長」のいる貴志駅に行った。「駅長」は、勤務時間なのに寝ていた。

    この近くに「大国主神社」がある。出雲や大国主は飛鳥近辺でその名が頻出する。この紀ノ川流域にも大国主神社がある。

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    大国主氏は、その昔、兄弟の迫害を逃れてこの地にやってきたのだそうだ。これは古事記や日本書紀に書いてあることがここで起きたのだという、後世のフィクションで、神社も古来からあるものではない。嵯峨天皇が右言い伝えを事実にするためか、この地に818年に造営している。

    これがフィクションだとしても、和歌山で銅鐸が多く発掘されているのは事実である。銅鐸は北九州・出雲の方から伝わってきた可能性が強いとされている。

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    室生寺

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    最後に室生寺だが、これは和歌山から紀ノ川沿いに鉄道で行こうと思っていたが、大阪経由の方が速いということで、大阪に戻って奈良からレンタ・カーで行った。

    室生寺には昔、修学旅行か何かで行った記憶がうっすらある。当時は寺社見学が嫌いで、なんでこんな山奥まで時間をかけて来るんだ、自由行動の時間がなくなってしまうじゃないかと思ったものだ。

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    今回は、感嘆した。景色の美しさに。談山神社と似たような、山腹に木々に包まれてある社堂の数々。すばらしい。西欧の教会はこれほど大きな領域を取らない。こういう寺は、教会よりは修道院に似ている。

  • 日本歴史紀行14:富山ふたたび、そして越中八尾

    2023年10月                  

     久しぶりに富山に行ってきた。今回は京都をまわり(京都ではマスクをしていない人の方が多数派。流石、自分で考えて決める人間の多い関西)、金沢から出来立ての新幹線に乗ると富山までたった22分(!)。

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    富山はなんとなく、洗い立てのさっぱりした感じがあって、好きな街。近くには、江戸時代からの廻船問屋町もある。それに海から望むと、富山の街のうしろにヒマラヤのように聳え立つ、立山連峰の魅力は何とも言えない。火山と造山運動の二つが重なってできている。氷河もある。

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     前回富山に来たのは13年前だが、何となく経済が沈滞していた。今回は、気のせいか活気が感じられる。新幹線が通った効果か? 確かに以前の富山は東京とは、別の世界にあるかのように遠かった。それが今では東京からでも大阪からでも2時間半ほど。関東、関西との経済の円環の中に入ってきた。

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    富山県には大きな企業が随分ある。コマツの工場とかYKKの事業所とかIT大手のINTEC本社――富山駅前に印象的な高層ビルがそびえる――など。医薬品製造額、人口当たりの製造業従事者の率では日本一だ。

    共稼ぎが多いためか所得水準は日本でも上位、持ち家率、家の広さでは日本一となっている。三世代が同居して、祖父母が孫の面倒を見るから、女性の就業率が全国で三位。そして三世代同居できる家を作るために、県が補助をしている。目の前は1000米の深さの富山湾で、ブリの消費量は日本一。刺身のうまさも日本一と言われるが、筆者にはわからない。

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    数年前に比べても新しいビルが増えたし、若者が街で目立つ。彼らのセンス、言動は東京と変わらない。隈研吾設計の「ガラス美術館」というのができていて、これは全国ブランド。富山市が約30年にわたり進めてきた「ガラスの街とやま」を目指したまちづくりの集大成なのだそうだ。美術館のデザインも抜群だし、展示品もガラス美術の多方面を紹介するものになっている。

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    富山も人手不足で、レストランではいろいろな対処法をとっていた。配膳ロボットは珍しくないが、食券を買って、料理ができると番号で呼ばれるので、自分で配膳窓口に取りに行くマクドナルド方式を、普通のレストランで採用していたり。

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    越中八尾

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     この前NHKで「おわら風の盆」とかいう番組で、越中八尾(やつお)の存在を知った。富山から南へ20キロ弱ほど。富山から飛騨へ伸びる街道の上――JR高山線――にあるし、以前は製紙、製糸(養蚕)の中心地だったのだが、今は5月の曳山祭りと9月の「おわら風の盆」で知られる。

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     レンタカーで行ったが、山の腹にへばりついた街で、みつけにくかった。近くまで行くと、カーナビが狂い、同じところをぐるぐる引き回されたので、「勘ナビ」に切り替える。そうすると、すぐ見つかった。

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    ここは1636年に、町としての法的地位を認められている。テレビで見たとおり、江戸時代からの古い街並みが続く。「曳山展示館」と「八尾おわら資料館」との二つがあって、両方とも面白い。「曳山展示館」には祭りで使う山車の類が収蔵されている。

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    風の盆は盆踊りの一種だが、風の出る9月にやるから「風の盆」という優雅な名がついている。その実、暴風が稲を吹き倒さないようにとの願いをこめてのもので、若い男女が浴衣姿で街の坂道を踊り下る。編み笠をかぶっているので、顔が見えない。伸びやかな肢体で優美な所作の女性と、それにからむ男性の踊りに魅せられる。

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    この町は、江戸時代から文化水準が高かった。というのは、家督相続で街から外に出ることもままならず、ろくな教育も受けられなかった長男連中が、「惣領の甚六」とかバカにされていたのに奮起して、文化活動に励むようになったからだそうだ。

    江戸時代は全国的にこういう機運があったから、松尾芭蕉は弟子を頼って全国を旅することができたし、葛飾北斎は小布施に絵をかきに出かけることができたのだ。

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    こういった長男連中が、地元の民謡「おわら節」を大正時代に完成している。そしてこの「おわら節」は、全国民謡コンクールでいつも上位を占める常連となった。

    この「おわら節」の歌詞は様々で、林秋路という版画・明笛の名手の書いたものは面白い。彼は女好き、酒好きで、1903~1974年に生きた人。写真を見ると、素朴な感じの人だ。歌も素朴。変にこねくりまわして作った風がない。

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    「花をみたよな覚えはないが、

    たしか酔うたは、オワラ、花見酒。

      蟹の甲羅でつい呑み過ごし

    横にはわねば、オワラ、帰られぬ」

  • 皇室典範改正に寄せて・天皇制は神話より事実に基づいて語りたい

    今年上半期の国会では、皇室典範改正が大きなイシューになった。皇室典範とは、憲法とは別建てで、天皇家の様々なことを定めている法律。今回の改正は、皇族(皇室典範で、天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族、およびその配偶者と定められている。敗戦で財産を奪われ、国費で諸費用を支給されている)の数が14名に減少してしまい、公務の負担が大変になったので、その数を少し増やすことを主眼としたが、女性天皇を認めるかどうかも隠れた焦点となったため、議論は対立を内包するものとなった。

    一部の保守派は女性天皇を認めないので、今回の改正でも女性天皇出現の道をふさぐ工夫がされている。

    高市首相は、党内保守派を自分の存立基盤の一つとしているため、自分は女性でありながら女性天皇の出現は推進できないという、微妙な立場に置かれた。

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    天皇・皇族とは

    憲法はその第一章で、天皇の基本的なことを次のように定めている。

    第1条 天皇は、日本国および日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

    第2条 皇位は世襲。詳しいことは皇室典範の定めるところによる。

    第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う。

    第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない。

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    (その「国事」とは第6条、第7条によれば、国会の指名に基いて内閣総理大臣、及び最高裁判所長官を任命すること[形式的な行為である]、憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること、国会を召集すること、衆議院を解散すること、国会議員の総選挙の施行を公示すること、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること、儀式(神道の)を行うこと等、とされている。いずれも決定は内閣=政府が行うので、天皇に実権はない。第二次世界大戦での敗北で、天皇の権限は大きく削減されたのである)

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    皇室典範

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    皇室典範は法律で、国会がその改正をできる。皇室典範は、天皇・皇位継承および摂政の設置、皇族の身分、天皇や皇族の陵や墓(皇室財産)、皇室会議のあり方を定めたもの。その第一条は、皇位継承について、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と定める。

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    今回の皇室典範改正は、次の手段で、皇族の数の維持・増加をはかった。

    ひとつは、これまで女性皇族は一般市民との結婚後は皇族離脱が求められていたのを(昭和天皇は、皇族の数が無暗に増えるのを避けたかったようだ)、今回の改正で結婚後も皇族でいることができることになったこと。

    次に旧宮家(戦後、皇族の数を減らすため、一般人とされた旧皇族)から男性養子をとって皇族とし、それに男子が生まれた場合はこれを天皇の後継とすることもできるようになったこと。

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    つまり、皇族の数を少々増やすが、あくまでも男系継承を維持することが、今回改正の主眼と言える。

    社会の一部には、愛子親王による継承を望む声もあるが、女性天皇を認めるかどうかという問題は今回棚上げになった。今の天皇はまだ丈夫だから、国論を割ってまで後継の問題を議論することはない、ということなのだろう。

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    理性的な議論を

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    筆者は、天皇制について何の思い入れも意見もないけれど、21世紀の現代、天皇制にまつわる多くの「神話」はよく吟味して事実だけ拾い出し、理性的でオープンな議論をして欲しいし、人間としての皇族の権利、お気持ちにも配慮するべきだと思う。天皇や皇族は、憲法の定める人権-言論・移動・職業選択の自由等-を享受できない人たちなのだ。

    だいたい、天皇は君主でも元首でもない「象徴」。生きた人間が象徴であるとはどういう意味か。いったい自分は何をしたらいいんだ、してはいけないんだ、ということで思い悩んでいるに違いない。

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    で、日本の天皇をめぐる議論を合理化するために、天皇をめぐるいくつかの「神話」(思い込みという意味)を吟味してみたい。

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    万世一系なのか

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    (神武天皇)

    神武天皇は紀元前660年に奈良の樫原で建国したことになっている。当時、大陸の中国は春秋時代で統一国家はなく、やっと秦が中原だけ統一したのが紀元前221年。

    大和朝廷は、唐が成立してから百年もたった紀元720年にやっと編纂した、日本書紀を唐の朝廷に見せて、日本の国の格を制定してもらおうとした。隣の朝鮮半島の諸王国より起源を古くしておかないと、新羅や百済より末席に位置付けられる。それではかなわない、というわけで、神武天皇なる人物を持ち出した。その事績は、史料や発掘で裏づけることができない。

    神武天皇は実に127歳、第11代の垂仁天皇は140歳で崩御したことになっており、第6代の孝安天皇は102年間天皇の座にあったとされている。その後初めて実在を何とか裏づけることのできる第10代の崇神天皇までの9人の天皇は、実に平均100年間在位したことになっている。

    神武天皇の陵があったということは、いくつかの史料に出てくるが、平安以降、言及はなくなり、その所在地は不明になった。現在、樫原神宮の横に神武天皇陵があるが、これは幕末、いくつかの候補地の中からそのように認定しただけの話しだ。

    (崇神天皇)

    第10代の崇神天皇になると、日本書紀その他での言及は多くなる。それら記事が示すのは、彼は外部からやってきた勢力だったのではないのか、ということ。

    彼はまず、天皇家の祖神であるはずの天照大神を宮廷から外に出してしまう。代わって地元の大物主大神を崇拝することとし、宮司としてこれも地元に以前からいた三輪氏をあてる。三輪氏は出雲(日本海に面した今の島根県)との関係を云々される勢力で、大物神と大国主は同一だともされる。だから崇神天皇こそ、九州方面から東征で大和地方に乗り込んだ勢力なのだ、神武天皇はその事績を900年以上も昔に引き伸ばすために措定された存在なのだ、と言う人もいる。

    (「応神王朝」)

    この崇神天皇の皇統が絶えた可能性があるのが、第15代の応神天皇。崇神系の第14代・仲哀天皇(伝説の英雄、日本武尊の子息で身長3米の由)は366年(推定)、九州の熊襲征伐に出かけ、翌年その地で急死してしまう。

    同行していた彼の皇后、神功皇后(実在は証明されていない)は摂政に就任、なぜか朝鮮半島に「三韓征伐」に出かけて、半年ほどで帰ってくる。神功皇后とか三韓征伐は、朝鮮諸王国の史書には出てこない。倭国の軍がやってきたとの記録は何回かあるが、いずれも朝鮮側が撃退したことになっている。

    それはそれとして、神功皇后は帰国するとすぐ、それまで陣痛をおさえていた誉田別皇子(ほむつわけのみこと)を出産し、その後も69年間摂政を続けて、390年(ここらへん、計算が合わない)に譽田別皇子、転じて応神天皇が即位したことになっている。その時70歳になっていたはずの応神天皇は、それから実に41年間も在位したから、111歳で崩御したことになる。

    神功皇后、誉田皇子は実在したのかどうか、実在したとしても70年間の摂政とはありえないのではないか、実際はこの頃の日本は内乱気味になり、九州、あるいは朝鮮半島南部のあたり(日本の拠点があった)で台頭した勢力が東征して、応神天皇となったのではないか。現に応神天皇は大和盆地まで入り込むことはなく、その入り口、大和川の河口、河内地方に本拠を構え、それによって応神天皇陵、仁徳天皇陵などがこの地方に集中することになった。

    (「継体王朝」)

    これを「応神王朝」とすると、その男系の血は第25代の武烈天皇で途絶える。彼は暴君であったらしく、その死の真相はわからない。いずれにしても遺臣たちは合議して、遠い福井(近江からという説もある)から、遠縁の男大迹王(おおどおう)を招請する。ところが招請されたはずなのに、彼は大和盆地に入ることができず(応神天皇後、権力は河内に存在したようだが、その後雄略天皇の時代には大和盆地に入っていたようである)、507年河内で継体天皇として即位を宣明するも、諸方を19年間も転々とするのである。

    この継体天皇の血筋が今の天皇に至る。つまり、天皇家の歴史は長いし、多分世界最長の皇家なのだろうが、「万世一系」は疑わしく、王朝の交代は何回かあったし、神武天皇に至っては後世の者が考え出した可能性大、ということになる。

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    女性天皇はいなかったのか?

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    実はこれまで、8名の女性天皇が存在している。飛鳥時代に3名、奈良時代に3名、そして江戸時代に2名である。初めて遣隋使を派遣した推古天皇、目の前で蘇我入鹿が中大兄皇子に斬り倒された皇極天皇、それが一時退位して再び別の名で即位した斉明天皇-ー新羅征伐の軍を九州まで進めてそこで客死している――、夫の天武天皇崩御のあと即位して藤原京建設を成就した持統天皇、等々、錚々たる顔ぶれだ。

    ただしいずれも子を成さず、彼らの後はまた男系が続いている。

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    ユーラシアの中の日本

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    天皇家をめぐる議論をすると、万世一系とか女系を認めるか認めないか、とかで、目が点になる人が多いのだが、実際の天皇一族は生きた人間。他の日本人同様、もとはシベリアか、満州か、朝鮮半島あたりの豪族だったかもしれず、神のように絶対的なものとして崇めるのもおかしな話しなのだ。

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    大和盆地には三輪氏、漢(あや)氏、葛城氏などの先住部族がいた。漢氏の居住していた地区からは高松塚古墳、キトラ(亀虎)古墳が発掘されている。この古墳の石室は、宮廷(おそらく中国)の官女とか、玄武、青龍、白虎、朱雀-中国神話の四神-を鮮やかに描いた壁画で彩られている。古墳に葬られている高貴の人物が中国、あるいは朝鮮半島と緊密な関係にあったことを思わせる。

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    そしてここから北西の大阪方面に25キロほど行った斑鳩に発見された藤ノ木古墳からは、金銀の絢爛豪華な副葬品が山と出てきて、現地に陳列されている。ユーラシアのスキタイ文明を思い起こさせる精巧な仕上げ。一つの冠の意匠はアフガニスタンで発掘された昔の冠に意匠が酷似している由。

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    そして、応神天皇と朝鮮半島の関係については、日本書紀でも記事が多い。応神天皇は百済と頻繁に交流しているし、我々が学校で習った「ワニ(王仁)が朝鮮半島から千字文と論語を携えてやってきた」のは、応神天皇が百済から招聘したものだ。また、古墳に馬具の類が多く出土するのも、応神天皇以後のことらしい。

    つまり、日本人の祖先はユーラシア大陸、あるいは東南アジアからやってきたに違いないのだが、天皇家もその一員であったのだろう、ということ。

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    それで何か不都合はあるのか? ないだろう。天皇家は朝鮮半島経由で来たのだから、現代の日本は韓国・北朝鮮に従う、ということにはならないのである。天皇については憲法・法律でその権限をよく定め、天皇御自身の人間としての権利も認めて、是々非々で付き合っていけばいい。目を点にして自分の思い込みを他人に押し付けることはないのだ。

  • 日本歴史紀行13:利根川、佐原

    2024年5月

    先日、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館、そして江戸期の利根川水運ハブ、佐原(さわら)に行ってきた。

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    国立歴史民俗博物館

    ここは、歴史について唯一の国立博物館なのだそうで。そもそも、明治100年記念事業の一環として構想され、「考古、歴史、民俗」の3分野の研究、展示を使命とする。

    開館は1983年なのだが、問題はその後の予算と管理が不十分なようで、落成当時、この建物は建築関係の賞も取っているのだが、今は廊下の雨漏りの修理もされず、ボタンを押せば画像が出たり、何かが動くはずの装置はいくつも故障したままだったり。

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    民俗はまだしも、歴史学、考古学は年と共に「変わっていく」。天孫降臨、出雲の国譲り、そして古代の九州王朝、邪馬台国と大和の関係、応神天皇、継体天皇等の性質、律令制国家の実態、幕末の政治力学、日米開戦の経緯など、歴史問題については、論争が絶えず、昔の定説も今では否定されているものが多い。博物館での展示をどう変えるかについては、なかなか結論は出ないだろうが、変えずにいれば、「古いなあ」と思われてしまう。

    論争があるならあるで、その現状を簡単に説明するコーナーを設け、そこだけ3年に1度くらい更新していけばいい。

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    考古学にしても、せっかく佐倉という位置にあるのだから、古代、利根川中流・下流の湿地地帯を境に北日本で栄えていたはずの、縄文人、アイヌ人の社会について、新しい発掘・研究成果が年替わりででも紹介されるコーナーが欲しい

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    ところで佐倉市は、学校の歴史で習った佐倉宗吾の故地なのだ。重い年貢に苦情を述べるも、藩主に聞き入れられず、遂に将軍に直訴して聞き入れられるも、夫妻ではりつけに会ったという人物。奥さんもたまったもんじゃないなと思って調べてみたら、伝説はそういうことになっているが、しっかりした史料はないそうだ。

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    佐原

    で、次の日は佐原に行った。ここは、江戸時代から明治初期にかけての河川通商のハブの一つ。利根川に流れ込む小野川の両岸に、岡山県の倉敷によく似た、江戸時代の商家が立ち並ぶ。どうして、こんな内陸に商業ハブがあるかと言うと、それは江戸時代の利根川の歴史に関わってくる

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    もともと利根川は東京湾に流れ込んでおり、佐原周辺は香取海という大きな入江や湖沼の入り乱れる沼沢地帯であったのを、江戸時代初期に利根川が銚子方面に流れるよう「付け替え」が行われた、ということになっている。その経緯は不明だし、付け替えの目的も「江戸で洪水が起きるのを防ぐため」ということになっているのだが、それを否定する説もあり、本当のことはわからない。そのあたりは、小出博氏の「利根川と淀川」に詳しい。

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    とにかく、利根川が銚子で海に出ることになったことで、江戸をめぐる物流ルートに大きな変更が生じた。それまでは、東北地方の豊かな農産物・物産を船で江戸に運びこむのに苦労していた。それは、房総沖が荒海で、季節によっては江戸時代の小船で航海するのは危なかったからだ。

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    利根川の「付け替え」で、東北の荷は銚子で下ろし、川船に積み替えて利根川を遡り、中流の関宿で左折して江戸川に入り、新設の小名木川(運河)を通って、隅田川の蔵前屋敷街に至る、という水運路が成立した。小名木川と隅田川が交差する岸辺には、松尾芭蕉の借り家があったとされ、今でも句碑が立っている。この小高い地点から茫洋とした隅田川を眺めるのも、自分が芭蕉になったようが気がして(貧乏なことも含めて)乙なものだ。

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    利根川に話を戻すと、このあたりの紀行記としては安岡章太郎の「利根川・隅田川」が面白いのだが、彼は佐原についてはものすごく素っ気ない。何か気を悪くするようなことが起きたのだろう。宴会で出てきた芸者が年増だったとか。

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    佐原はこの関宿と銚子の間にあるのだが、多分貨物を小型船に積み替える拠点として使われたのだろう。当時の商家が細い小野川の両岸に軒を並べる。その街並みは大変な観光資源になり得る。インバウンドの観光客もちらほら見えたが、まだ倉敷には及ばない。もったいないことだ。大体、JR成田線は1時間に1本だけで、東京からは車で1時間半もかけて行くしかない。

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    因みに佐原にある(と言っても、高齢者が歩いて行ける距離ではない)香取神宮は、付近の鹿島神宮と並んで、当時の香取海のほとり。海の向こうの蝦夷の地に攻め上る基地として機能していたようだ。そして鹿島神宮の地は後の藤原氏、中臣鎌足の故地とも言われる。中臣氏は朝鮮半島から渡来したという説もあるので、ここにいたとしても、蝦夷を討つためにこの地に派遣されていたのだろう。

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    歴史の話しを続けると、江戸時代に精細な日本地図を作った伊能忠敬は、実に佐原の裕福な商家の入り婿。測量は自分の趣味で勉強し、後に幕府の後押しで大事業になったもの。更に、江戸時代に利根川の「付け替え」工事で名を挙げた地元代官・伊奈氏の子孫、故伊奈久喜氏は、日本経済新聞の特別論説委員だった人。名前の久喜(ひさよし)は、付近の久喜市にちなんだものだったのかもしれない。

  • 外国首脳の残念な名前

    このたび、ハンガリーの新大統領にAndras Baka氏が就任した。この国の大統領は国家の象徴としての機能しか果たさないが、それにしても日本のメディアは、困るだろう。「ハンガリーのバカ大統領は今日、・・・」などと言おうものなら、視聴者から抗議が殺到する。

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    同じようなことは過去にもあって、1991年8月ソ連での反ゴルバチョフ・クーデター(失敗)を主導したKGBに、トップとして降下、組織の弱体化を指揮したのはなんとバカチン(実際の発音はバカーチン)。それまで内相も務めた秀才で、バカチンどころか大いに冴えた人だったが、真面目過ぎて、KGB解体という荒療治はとてもできずに終わった。

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    ところで1991年4月、フィンランドの首相にはアホ氏が就任している。フィンランドの名前には「・・・カイネン」という語尾がつくことが多く、日本でも有紗・アホカイネンというタレント(ハーフの留学生という見立てのアニメ・アイドル)が活躍している。覚えやすい名前だ。

  • 日本歴史紀行12 富山と北前船経済

                                       .河東哲夫

    (北陸は本当に面白い。裏日本と言われるが、もともとは大陸に面していて、ここが日本の表玄関だったのだ。しかも、日本海側の河口都市には、北海道から始まって大阪のコメ市場まで廻航している北前船の寄港地があって、ここでコメが集荷されていたのだ。古い港町は、富山などには結構残っている。加えて北陸には先端技術から織物まで産業が集積していて面白いのだ。これは2010年7月の紀行記である。2007年の酒田・出羽紀行記(「日本歴史紀行11」と合わせてお読みください)

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    6月に、富山の商工会議所に講演でよばれて行ってきた。富山というと、僕は40年前の学生時分に1泊して通り過ぎたきりなのだが、それ以来、僕にとって「地方都市」の原風景となっていた。全国同じような退屈な駅前風景のなか、古びた市電のレールがループを描いている。そして安旅館のこたつで食べる鍋料理。それだけだった。

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    だが今の日本はどこも、都市は小奇麗になっている。仙台とか広島とか、その瀟洒な街並みには本当に魅せられる。富山もその点、昔とは様変わり。それにこの街はけっこう大きく、駅前から乗るポートラムという、モダンな市電を2両つなげたような電車も、スピードをあげ延々と終点の港まで20分ほども走る。そしてその間ずっと、市街地が続いているのだ。

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    だから富山は、日本海側の中心になる風格を持っている――と書くと金沢とか秋田などから猛然と反発の声があがるだろうが。ああ、そして街はずれを流れる神通川も川幅が広くて、けっこうな大河なのだ。

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    ホテルに着いて窓を開けると、三味線の音がした。真向かいの大きな公民館のどこかで練習しているのだが、この北陸で奏でるのが、なぜか陽気な沖縄音階。江戸時代、富山は北前船の寄港地だったし、沖合では薩摩の船が中国からの船と密貿易をやっていたとの説もあるので、沖縄文化がけっこう忍び込んでいたのかもしれない。

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    僕は地方に行くときは、街を足で歩き回るだけでなく、県庁、市役所、日銀などの方にも会って、その地方の経済、社会を勉強することにしている。どの地方も、経済史、郷土史を調べると特色があって面白いのだ。で、富山について見聞きしたことをここに書き連ねてみる。

    付け加えておくと、北陸は保守王国と呼ばれており、議員の数も多いそうだ。富山にも「自由民主会館」というのがそびえているが、これは東京の民主党本部くらいに大きいのだ。

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    住みやすい富山

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    富山に移住した人の話を聞くと、人付き合いはけっこう大変らしいが、それでも大変住みやすいところらしい。例えば持ち家率は全国最高水準で、家の大きさは全国一なのだそうだ。

    共働き率が全国でも最高水準だと言うから、女性にとってもいいところだろう。そして道路整備率は全国でも最高水準、かつ渋滞が少ないので、自動車族にはこたえられない。

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    ほくほく線

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    富山へは、鉄道でどう行くか御存知ですか(2026年の今はもう、新幹線で行ける)? 東京から行くのだったら、長野、直江津経由で北陸線、と思われるでしょうが、普通使われる最短路線はなんと上越新幹線の越後湯沢で「ほくほく線」の特急「はくたか」に乗り換えて、直江津からJRに入って計3.5時間という路線。合計400kmもある。

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    この「ほくほく線」、面白いことに途中までほとんど直線なので、「はくたか」は無人駅ばかりのレールを時速160キロでぶっとばす。山岳地帯を直線で突っ切るのだから、ほとんどがトンネルだ。この鉄道は地方自治体などによる第三セクターとして運営されていて、JR以外では日本最長の10kmの赤倉トンネルや、泥火山と言われる粘土の塊、鍋立山に難工事の末通した9kmの鍋立山トンネル、そしてトンネル内での追い越し車線など、調べてみると至極面白い鉄道なのだ。何か今でも、こういう鉄道があるとはどこか信じられない。

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    この路線、上越・信越本線の中間地帯の開発も兼ね、もう戦前から誘致運動があったらしいが、採算性が問題で、着工したのは1968年(一部は信濃川発電所建設用の専用線も利用したらしい)、開業したのは1997年、まだごく新しい路線なのだ。

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    だが採算が問題になるどころか、第三セクターが手がける鉄道としては全国でも珍しく黒字を続ける。東京から富山、金沢への最短経路として使われているからだが、2014年には信越新幹線が直江津まで伸びるらしく、そうなるとほくほく線は活路を他に求めざるを得なくなるだろう。

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    富山から東京への最短経路は長野経由だろうが、途中に立山山塊が立ちはだかる。だがトンネルだらけの「ほくほく線」を作れたのだから、富山―長野線を作れば北陸―東京間は本当に短くなるだろう。今、3時間半かけて旅行しているが、直線の250kmに鉄道を敷けば1時間になる。

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    富山の歴史

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    富山には糸魚川、神通川のふたつの大河が流れる。糸魚川は本州をまっぷたつに断ち切る糸魚川―静岡構造線(フォッサマグナ)で知られているが、地殻の圧力を受けたためかヒスイの産地として有名だ。この糸魚川のヒスイ、朝鮮半島の「任那」にあたると思われる地方の遺跡からも発掘されているらしい。この「任那」地方には前方後円墳が多いのだが、このヒスイもこの地方と日本の大和朝との関係を推論する根拠になっている。ただ面白いことに、糸魚川のヒスイは6世紀くらいから捨て置かれ(白村江の戦いで、大和王朝が朝鮮半島での足場を完全に失ったのは663年だ)、「再発見」されたのは昭和になってかららしい。でも採掘が禁止されでもしないかぎり、そんなことは簡単には起こらないはずで、不自然な話だ。

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    日本には、海岸沿いとか山間の盆地とかに結構平野が広がっている。水田が生み出す富の上に、多数の大名が存在したのだ。富山周辺もそうで、立山山塊のあたりまで見渡すかぎりの水田が広がる。

    奈良時代、このあたりは既に東大寺の所領になっていて、大伴家持が越中国守としてその差配に当たっていた。この家持、万葉歌人としても名高いが、当時有力だった藤原家から生涯圧迫されていたらしく、富山ではいい歌を随分詠んでいるのだが、その後の半生はすっかり沈黙してしまったらしい。役人の地位にしがみついたりするからだ。

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    応仁の乱のころには、この地方は3人の守護と一向一揆が入り乱れての領地争いとなり、そのうちの神保氏が富山城を築いたとされる。この富山城、ついに天守閣が建てられることがなかったが、今に残る富山城は犬山城などを参考に天守閣を「復興」したものだ。

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    その後富山城は上杉謙信や佐々成政などが保有して、最後には前田家の分家が差配した。10万石もあったが、公務員(侍)が多すぎたため財政が大変で、そのためもあって振興されたのが「富山の薬売り」だったらしい。もっともこの薬売り、考えてみれば大変な諜報網でもあるわけで、江戸時代、どういう使い方をされていたのか、面白いところではある。

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    江戸時代、富山城のすぐ横を神通川が流れていて(今は別のところを流れている。昔の神通川のあとは小さな松川となって残っている)、ここには全長430メートルの舟橋(小さな舟を綱でつないだ上を、人間が渡って行った)が明治15年まで使われていたそうだ。これが当時の北陸道だったのだが、長い舟橋は流れに押されて弓なりに湾曲し、その上を渡る旅人は随分落ちて亡くなったというからおそろしい。当時の絵はここに出ている。

    http://www.goodlucktoyama.jp/yuuran/yomimono/funahashi.html

    富山市には日枝神社があり、山王という地名もある。東京の日枝神社と同じだ、面白いと思って調べてみたら、日枝神社というのはもともと京都比叡山の日吉社がおおもとで、山王というのはそこに祀ってある神様のことなのだそうで、納得。その山王というのが大国主神でもあると言うから、出雲の方にも関係あるかも。考えてみれば、江戸の日枝神社など富山のものより随分あとにできたのだろう。そう言えば江戸は16世紀までは東国の、「みの一つだになき」辺境だったのだ。東京が本家と言えるのは、読売巨人軍くらいのものか。

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    経済史

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    富山のあたりは、昔から米一筋で生きてきたのだそうだ。それで廻船(北前船)が北海道から運んでくる肥料のニシンが重要で、これを買うカネに困って小作農化する農民も多かったらしい(江戸時代、表向き小作はなかったはずになっているが)。

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    富山駅から真新しい郊外電車ポートラムに乗って20分ほどで、神通川の河口、富山港に着くのだが、ここには江戸時代の廻船問屋が密集する岩瀬という古い街が残っている。いちばん大きな問屋の「森家」の隣には岩瀬銀行というのがあって、これが現在の北陸銀行(地銀最大手)に発展したのだそうだ。ヴェニスと同じで、海運と金融は切っても切り離せない存在なのである。そしてこの岩瀬には、ニシン蔵というのもあって、江戸時代ニシンがどんなに重要だったかがわかる。港で荷揚げされたニシンは、神通川をさかのぼって農村地帯に肥料として販売されていったのだろう。

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    因みに、北海道には福井や秋田など日本海側出身者が多いが、これはおそらく廻船業者が斡旋して連れて行ったものではないか? 廻船は明治の初期に最盛期を迎えていたのだから。

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    富山には第1次世界大戦のあたりに工場が進出し、水力発電が盛んになった。電気が豊富だったことが、アルミニウムの精錬などを呼び寄せた。そして昭和10年以降になると、安い労働力を求めて大手紡績企業が疎開も兼ねて進出してくる。疎開と言うが、当時の日本海側は実は満州への近道でもあったのだ。現在の北朝鮮にある羅津港から満州までは数10キロしかない。

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    そして第2次世界大戦の時、富山周辺は軍需工業化した。今でも不二越の工場が立地しており、それを核にネジ、ボルトなど部品工業も発達した。1944年の工業生産額は、4大工業地帯の6府県に次いだのだそうだ。前記のように、大陸に近いのだから、当然の立地である。これは1945年8月の空襲を受けて壊滅するのだが、朝鮮戦争特需で盛り返す。だがそのあおりは神通川のイタイイタイ病のような被害をもたらした。

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    富山の経済

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    富山県の人は自らを「1%の経済」と呼ぶ。それは富山県の人口が120万人くらいで日本全体のちょうど1%、GDPで計ってもちょうど全国の1%くらいを生産しているからだという。世界を見渡してみると、ちょうどスロベニアあたりが富山と同じ規模になる。スロベニアと言えば、絵のように美しい国のようだから、富山にぴったりだ。

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    そこで日本政策投資銀行が作った「地域ハンドブック」をひもとく。これは日本の各都道府県を一つの経済単位と見立て、それぞれのGDP、他県との「貿易」、その内容までを詳しく分析した、稀有の資料だ。で、それによると富山の経済はまさに日本の1%なのだが、構成に特色がある。製造業が県GDPの30.2%を占めて(但し2002年の数字)、全国平均の20.8%を上回っているのだ。戦前から安い電力に育まれた工業が、今に至るも健在なのである。他方第3次産業は54.1%で、全国平均の65.5%を下回る。

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    富山は東京への往来は不便なのだが(2010年当時)、名古屋近辺とは最近高速道路で結ばれた。これが、世界遺産の白川郷近くを通る東海北陸自動車道で、なんでこんなところに高速道を作るのかと思っていたら、名古屋のトヨタと富山工業地帯、そして伏木富山港を結ぶ意味があったらしい。ウラジオストックを経てシベリア鉄道で完成車や部品をロシア欧州部の工場、そして市場に運び込もうというのである。東北の仙台、山形のあたりもそうだが、今や自動車工場の展開ぶりが全国の高速道整備をかなり方向づけている。

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    富山県には有力企業がいくつかある。北陸電力は言わずもがな、ファスナーのYKKが有名だが、富山駅近くに威容を見せる高層ビルのインテックも、新時代の企業だ。昭和39年に創業して既に売り上げ1000億円近く、中国にも拠点を持ってコンピューター・システムを開発している。

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    他にも日立国際電気が半導体製造装置を生産するし、パナソニックも大きな拠点を持っているらしい。ウィキペディアを見ると、ベアリングで国内シェア第4位、タービン工作機械世界シェア25%、半導体ポリッシングマシン世界シェア1位、産業用ロボット世界シェア5位、アルミサッシ生産国内シェア1位、銅製品国内シェア1位、フェロアロイ国内シェア1位などとある。

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    2008年の世界金融危機で富山の経済も沈んだが、金融関係者に聞いたところでは今では危機前の7~8割までに回復した由。手元の資金でやっているので、今のところ銀行による貸し渋りがあってもさして問題ではないらしい。

    しかし、富山駅周辺を中心に、なぜか年寄りの男性が何人も路上生活していた。その背景はわからない。

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    観光の宝庫――立山など

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    着いたその日に、立山に行ってきた。富山はなんと黒部ダム観光の出発点なのだそうで(これまでは大町の方しか知らなかった)、まず電車で立山、次にケーブルカー、バスなどを乗り継いで黒部に至る。その電車がなんと懐かしい、「昭和45年 西武所沢車両工場製」。僕の地元だ。まだ新しい感じ。登山電車仕様だから、多分秩父の方の路線を走っていたのだろう。中学の頃から世話になっている「所沢車両工場」に、この富山でまためぐりあうとは。

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    今回はケーブルカーの終点でとんぼ返り。このあたり、冬は積雪15メートル、気温零下40度にもなるそうだ。ケーブルカーの駅での表示はハングルと中国語だけで、英語がない。その代わりケーブルカー車内の字幕説明は日本語と英語だけ。それも、英語の方が日本語より2倍も長く、どこやら可笑しい。

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    富山県は観光の宝庫である。日本人だけでなく、これからは中国、韓国、台湾などからの観光客を飛躍的に増やせるところだ。金沢から入って冨山、立山、新潟、喜多方、会津、福島、東京とでも回るツアーを開発したら、自然美、グルメ、温泉、そして最後に買い物をたんと味わえるドリーム・コースができるだろう。そのためには、古い廻船問屋の街岩瀬には夜イルミネーションでもするなど、もう少し色気を持たせた方がいい。

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    富山と「国際化」

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    富山県庁はレトロ調、明治のようなレンガ作り。映画のロケもできそうだ。県庁舎がこうして質素なのは好感を持てる。それにこの県庁はそこここに「県民サロン」と名付けた談話室があって、県民が茶でも飲みながらおしゃべりしたり、雑誌を見ることなどできるようになっている。温い。

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    そしてその廊下に1枚の地図が貼ってある。土産物としても売っている。ユーラシアが下にあり、日本海をはさんで日本列島が上にかぶさる。まるで地中海をはさんだアフリカとローマ帝国のような構図。地図の向きを変えてみると、世界がいかに変わって見えるかという典型例だ。この変わり地図では、これまでどこかよそよそしい、縁の薄い感じだった日本海が、にわかに瀬戸内海のような内海に見えてくる。

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    「見えてくる」だけではない。日本海は実際に、日本を朝鮮半島、中国東北部と結びつける内海のようなものだったろう。長い歴史を通じてだ。だから太平洋岸が「表」日本であったことなど、ペリー来航以来の短いことで、日本では実は日本海岸がずっと「表」であったのではないか? 糸魚川のヒスイが朝鮮半島まで運ばれていたのなどは、その好例だ。

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    富山ではけっこう「外人」の姿を目にする。ロシア人が400人近く定住しているのだそうだ。数年前まで伏木港がロシア極東への中古車積み出し中心地だったので、その名残だろう。この中古車積み出したるやハンパでなく、最盛時には年間50万台、30億ドル分もの中古車が日本からロシア極東へ積み出されていった。今ではロシアが輸入関税をつりあげたため、輸出は年間5万台に急減してしまったが。夜、学校の横を通ったら、校庭で消火訓練をやっているようで、それがなぜかロシア語でやっていた。日本海側ではロシアや中国はごく普通の存在になっているらしい。なお、富山県には中国人が約6000人定住しているそうだが、これはもう日本人と見分けがつかない。

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    富山県庁は国際化に向けて音頭を取っていて、知事は上海、瀋陽、大連、そしてロシアなどをこまめにまわっている。中国の東北地方への玄関である大連には県の事務所があって、北陸銀行から一名出向、現地職員を2名雇って斡旋業務をやっている。大連には伏木富山港から週4便のコンテナ船が出ており、釜山、上海、バンコクなどにもこれは出ている。ウラジオストックへも隔週に出ている由。韓国、台湾、タイ方面への定期船もあり、航空路では大連、ソウル便が頻繁に出ている。

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    富山伏木港は新潟とならんで、日本海側では二つしかない「特定重要港湾」に指定されている。だが今のところコンテナ数では新潟が2~2.5倍と、富山の先を行っている。富山港は神通川の河口を2つに仕切ったうちのひとつにあるのだが、1万5000トンの船が同時に4隻係留でき、沖合には28万トン級タンカー用のバースもある。精油所、発電所が港にあるので、サハリンや東シベリアの原油、LNGを輸入するには便利な港だろう。

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    2009年、富山県の貿易相手は中国が500億円強、韓国が450億円、ロシアが350億円の順番だった。米国とは100億円強しかない。これからの日本海交易は、何と言っても人口1億2000万人の中国東北地方が相手なのだが、中国は清の時代にウラジオストック周辺の沿海地方をロシアに渡してしまったために、今では日本海への出口がない。国境延辺州から一番近い港は北朝鮮の羅津港なのだ。

    この港は昔、日本が満州への入り口として整備したらしいが、今では中国が一つの埠頭を長期租借、延辺州への道路を修復しようとしている。羅津港から中国船が定期的に日本海岸に来るようになれば、そして羅津と延辺州の輝春市、延吉市が鉄道で結ばれれば、日本海は本当の地中海になってくるだろう。

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    ロシア極東部と富山、北陸諸都市

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    ロシア極東方面はどうか? この機会に富山だけではなく、日本海側諸都市全般の動きについて書いておく。

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    ロシア極東部から日本へは既に、サハリンのLNG、原油だけでなく東シベリアからも原油が入るようになっている。ところが日本からロシア極東部への輸出、あるいは直接投資となると、めっきり難しくなる。

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    ロシア極東部はもともと、人口はわずか650万人で、中国東北地方の1.2億人の20分の1である。にもかかわらず2012年ウラジオストックでのAPEC首脳会議特需を期待してか、あるいは東京から補助金が出ているのか、日本海側諸都市はロシア極東、特にウラジオストックに殺到している。だがAPEC関係の建設案件の成約は、モスクワで行われており、これまでロシア企業が殆どを成約している。

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    日本から消費財などを輸出しようと思っても、ロシア沿海州ではまともな「バイヤー」の数も限られていて、相次いでやってくる各県代表団への応対で忙殺されている。日本の各県は競争で彼らを日本に招待し取り入ろうとするので、最後には足元を見られて不利な条件を吹っかけられる。うまくいっているのは、現地での人脈、ノウハウを有する日本人商社OBを見つけ、現地でのリエゾンをやってもらっている場合だ。役所は自分で商談はできないので、リスクを取れる企業家が前面に出てこないとどうしようもない。

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    直接投資となると、話しはもっと難しくなる。ロシア極東は労賃、物価とも日本より高いほどになってしまっている。それに日本の中小企業にとっては、ロシアでの直接投資はリスクが大きすぎる。なんでもトップ・ダウンの国柄だから、何か問題が起きると、こちらも社長が数週間現地に貼りついたままでロシア側と折衝しないと話が進まない。

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    ロシア極東の港を使って中国東北部に輸出することも考えられるが、ロシアの港は特定の企業に実質的に「専属」していることを忘れてならない。たとえばボストチヌイ港はクズバス炭のみでヤクート炭を扱おうとしないし、石炭会社のメチェルはポシェット港を「購入」しているのだそうだ(以上、ロシアNIS貿易会で聴取)。

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    今の富山は、国際化という面では日本海側他県に後れを取っている。外国へ行く人の数が全国で2番目に少ないのだそうだ。話を聞いてみると、「十分食っていけるがゆえの、国際化の遅れ」の典型例のようだ。「大陸に農産物を出してみても値が低くてもうからない、リスクばかりで大変なだけだ」とか、「輸出用の生産までできる人手がない」とかの文句を聞いた。

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    それでも、中国へのミネラル・ウォーターの輸出を始めた企業がある。これは本当にいいところに目をつけたと思う。今年に入って、富山市の広貴堂は遼寧省の医薬品メーカーと協定を結び、漢方薬原料の安定調達を目指す。他方、2003年、地元の漢方薬メーカー「三九製薬」が後継者難などから中国企業に買収された例もある。だが中国資本は富山ではまだあまり活動していないようだ。

  • プーチンの北方領土行き―そのトリセツ

    昨日、プーチンが北方領土に行った、ということで、日本のメディアは大騒ぎ。みっともない。領土を他国に取られたままで何もできない恥を、世界にさらすばかり。騒げば騒ぐだけ、ロシアはこれを日本との取引の道具にするだけ。「何、そんなにいやなのか? じゃ、ロシア制裁の一つでも解除したら、もう行かないと言ってやるよ」というわけ。

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    だからこういう時は、総理が世界に向けて発言する。ぶら下がりで言えばいいのだ。「ウクライナを武力で襲ったプーチンは、北方領土のことを思い出して急に怖くなったのでしょう。『日本が武力で島を取り返しに来たらどうしよう』と。大丈夫、日本はあくまでも話し合いでこの問題を解決しようとしています。プーチン大統領、あなたも早くウクライナを攻撃するのを止めて、話し合いに移りなさい。そうすれば、制裁も解けて、日本とも平和条約を結ぶ交渉を再開することができるでしょう」と。

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    ロシアだけを相手にして理屈で攻めても、向こうに動く気がないのだから、意味がない。世界の世論を自分の方にくっつけるーこういうやり方を、日本はいい加減身につけるべきだ。河内女の気質を持つ高市総理だったら、できるでしょう。

  • 日本歴史紀行11 出羽の国(酒田・鶴岡)

    (これは2017年10月の紀行記。酒田は江戸時代の北前船海運の拠点の一つ。北前船は北海道から昆布、ニシンを積み、日本海側にいくつもある河口の港で肥料として販売。代わってその地域のコメなどを買い上げつつ、関門海峡・瀬戸内を通って大阪堂島のコメ市場にまで至る、当時の物流の大動脈。酒田はそれより以前には大陸との交易もあったようだし、東北の山脈を超えると藤原氏の治める地域ともつながっていた。酒田をベースに江戸時代に栄えた廻船問屋兼、一帯の大「地主」、本間家の屋敷は今も残っている。少し南の庄内平野とともに、豊かなところだ)

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    もう8月末のことになるが、生まれて初めて山形県の酒田、鶴岡に行ってきた。日本のこのあたりには本当に無縁で、今回初めて、山形県は日本海に面していて、新潟県にも接していることを認識した次第。スミマセン。

    なぜ行ったかと言うと、日本の経済史の観点から関心があったから。外務省時代の僕の部下は酒田出身だったが、「何もないんです」と謙遜していた。しかし酒田は江戸時代の北前船の一大拠点。山形県の内部深くに入り込む最上川を伝って運び出される米やその他物資の積出港だ。「何もない」はずがない。それに近くの鶴岡という街は、ポスターで見るとすごく瀟洒で神秘的だ、行ってみよう、と思ったわけである。

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     そしてもう一つは、酒田を本拠にしていた「本間家」という存在は何だったのかを知ること。江戸時代から大地主だったということだが、江戸時代は土地は基本的には幕府のもので、農民は自分で耕している土地の占有権を保証される代わりに年貢を納める義務を持ち、藩主には土地の所有権は与えられない。だからこそ、いつでもお取りつぶしや配置換えの目に会っていたので、地元の土地を所有していた西欧、ロシアの貴族とはそこが違うのだ。農地の私有と売買が認められるようになったのは明治6年以降の話しなので、それ以前に「大地主」になっていたという本間氏の話しはホンマなのかどうか、そして本当ならどうやって土地を私有化したのか調べたいということだった。

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    問題は、あの方面への列車の接続は悪くて時間がかかること。仙台からレンタ・カーで行くのが一番速い。既に殆どハイウェーが通じている。

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    日本は火山島

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     ハワイなど、火山がそのまま島になったようなものだが、旅行をしてみると、日本もまるで湿疹のようにそこらじゅう火山、または火山の痕が見える。それは瀬戸内でもそうだし、山陰でもそう、そして今回の鳥海山、湯殿山、月山の出羽三山はもちろん、仙台周辺でも夕暮れの山稜はまるでジュラシック・パークのような火山性の荒々しさを露わにしたからたまげた。

    要するに日本はマグマの上に乗っているカサブタにブツブツができたような地形で、その儚さたるや、中国や韓国にやられる前にいつ自分でぶっ飛ぶかわからない、そういう運命なのだ。もっとも、ボイラーの上で生活しているようなものだから、地熱発電をすれば十分ではないかと思うが、報じられている限りでは日本の地熱は原発数基分しかないそうで、日本人が生活するには不十分なのだそうだ。ホンマかいな、と思ってしまう。

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    桃源郷と究極の貧困が並列していた出羽の国

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    明治初期、お供を一人連れて東北、北海道を行脚した英国女性イザベラ・バードが残した「日本紀行」は面白いし、貴重な記録である。彼女は東京から日光経由で新潟に出て、そこから米沢方面に馬、籠、徒歩で行くのだが、日光から新潟の間の山岳地帯では究極の貧困、蒙昧、不潔に出会っている。講談社学術文庫版の上巻236頁にはこんなくだりがある。

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    ――鶏、犬、馬、人間が薪をたいた煙で黒くなった粗末な平屋にいっしょくたに暮しており、山になった家畜の糞尿が井戸に流れ込んでいます。幼い男の子で着物を着ているのはひとりもいません。ふんどし以外になにかみにつけている男性はわずかで、女性は上半身裸のうえ、着ているものはとても汚く、ただただ習慣で着ているにすぎません・・・家屋は汚く、正座したりうつ伏せに寝ているときの人々は未開人とたいして変わらなく見えます。風体と慎みに欠ける習慣にはぞっとするばかり・・・――

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     それが米沢盆地に向けて山を下りていく時には、目の前にこんな光景が開けている(同320頁)。

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    ――好天の夏の日・・・米沢の平野は・・・申し分のないエデンの園で、「鋤ではなく画筆で耕されて」おり、米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず、ざくろをふんだんに産します。微笑みかけているような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディアです。・・・圧迫とは無縁――東洋的な専制のもとではめずらしい光景です。・・・いたるところに豊かで美しい農村があり、彫刻を施した梁とどっしりした瓦屋根の大きな家々が、それぞれ自分の敷地に柿やざくろや杉のていねいに刈り込まれた高い生垣で守られています。――

     このあたりは江戸時代、米沢藩。例の上杉鷹山の経済改革で名高いところ。最上川で米や商品作物を上方や江戸方面に売りさばいて繁栄していたのだろうし、それゆえ幕府もこのあたりに天領をいくつも作って財政の支えとしていたのだ。天領というのは国立農園のようなもの。今でもそうだが、「国立」というのは待遇が良くて、年貢率も低かったから、農民の暮らし向きはますます良くなったのだ。

     そしてこの出羽の国、江戸時代はいくつかの藩があり、天領も虫食いのように諸方にあった。幕府は、政治・経済上重要なところは天領として抑えていたのだ。

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    酒田の成り立ち

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    酒田は最上川の河口にある。河口に砂州が岸に沿って鳥のくちばしのように長く伸びていて、岸との間に良港を形成している。幅と深さが現代の貨物船には足りないかもしれないが、江戸時代から明治にかけてここは千石船(今で言えばコンテナを一つ積めるくらいの大型艀だ)がひしめいていた。現代風に言えば、超大型トレーラー・トラックがひっきりなしに出入りする道の駅の風情だろう。

    ここが物資積み出しのハブになったのがいつ頃かはわからないのだが、地元では「平泉の藤原家が源頼朝に滅ぼされた時、泰衡の縁者「徳尼公」が36名の護衛に守られて酒田に落ちてきて住み着いた。その36名は海運で身を立てて、これが江戸時代になると「酒田の36人衆」と言われ、まるで戦国時代の堺のように酒田を自治で治めたのだ、ということになっている。

    36人衆による自治は、戦国時代末期からで、3人が一組になり、1カ月毎にローテーションの当番制になっていた。町内会のようなものだ。江戸時代には、酒井藩の下部組織として組み入れられている。36人衆は「株」=仲買商売のライセンスのようなものを売っていたので、酒田には米問屋が増えていく。

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    以上については、いくつかの疑問が起きる。まず平安時代末期の酒田はどんな感じのところだったのかということだ。いくら落人と言っても、平泉家と縁もゆかりもない所にいきなり行くわけもない。現地の資料を見ると、平泉家の力は当時、鶴岡まで及んでいたそうなので、人気のないところに避難したわけではない。

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    そしてこの時の36人はいきなり海運業を営むようになったわけではないだろう。まあ、江戸時代にできた浄瑠璃の「義経千本桜」では、壇ノ浦を落ち延びた平知盛が今の尼崎で船問屋を営んでいたことになっているので、落人が海運を手掛けるのは古来からのことだったのかもしれないが。現代と同じで、港湾、海運には暴力組織がからみやすい。それだけ儲けの大きいビジネスだから、利権を守るのも必死なのだ。そして、このあたりの日本海は幅が広いのだが、対岸の契丹あたりと提携していたかもしれない。

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    そして、この時の36人が江戸時代の36人衆にそのままなったわけではない。例えば江戸時代以来の大手廻船問屋の鐙(あぶみ)屋は、西鶴の「永代蔵」(当時のビジネスの副読本のようなものだ。鐙屋の経営ぶりを詳しく叙述している)によれば、「(以前は)しがない旅籠を営んでいた」。本間家は後で佐渡の方から入って来たのだが、後に36人衆の一人として迎え入れられている。相撲部屋と同じで、36人衆の顔ぶれは時に変化していたのである。

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    そして江戸時代、酒田の統治は36人衆が独占していたわけではなく、形式的には鶴岡に城を構える酒井家の庄内藩の一部、しかし酒田は亀ヶ崎城の存続を許され、強い自治を維持していたのである。いわば庄内藩にとって、鶴岡はワシントン、酒田はニューヨークという地位であっただろう。

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    流通ハブとしての酒田

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    酒田は農産物、特にコメの流通ハブだった。天和年間(17世紀末)には、春から秋までに2500-3000隻の船がやってきたとの記録がある。全部千石船でもあるまいが、最大で45万トンの米の移動を意味する。これは今の米価で、約1400億円だ。

    江戸中期、酒田には廻船問屋が97軒。1軒でも蔵の中に200万両相当の貨物を蔵していた。廻船問屋と言っても、その形態は様々で、今でも当時の屋敷を見学できる鐙屋は、廻船問屋と言いながら、自分で船は持っていなかった。鐙屋は、もっぱら船長のための無料ホテル、そして米を買入れ、船長に売り、口銭を取ることに徹していた。要するに、陸上だけの仲買人である。

    酒田の扱う貨物としては、最上川流域で集荷される藍などの商品作物もあったものの、庄内平野でとれる米がダントツで重要だった。米を納入すると米券が預かり証として発行され、これは通貨のように通用した。一俵、60キロが普通で、持ち上げるのは大変だ。

    酒田を拠点とする船は「北前船」とも呼ばれるが、これは航路が北海道に伸びてからのこと。これは北海道でニシンを大量に積むと、日本海側の大河の河口にある港々に寄っては、ニシンを肥料として売り、米その他を買い入れて関門海峡から瀬戸内に入り、大阪の米市場を終点とする。その一回の航海で、北前船は千両(=一億円)を稼いだ(利益なのか売り上げなのか不明)と、現地の資料に書いてある。別の資料には、米百石の江戸(大阪から江戸までのルートもある)までの運賃は約20両とある。北前船は千石ないし千五百石だから、積み荷全部が米なら200両にしかならない。多分、ニシンや商品作物の取り引きも含めて千両になったのだろうが、よくはわからない。

    酒田で一般的だった千石船は、150トンに相当する。それは大型漁船なみの大きさで、かなりの迫力を持つ。ところが江戸末期、ロシアでエカテリーナ大帝に謁見したことで有名な高田屋嘉兵衛(淡路島生まれの廻船問屋)は、酒田で本間家の出資を得て、当時としては型破りに大きい1500石積みの船を建造した。

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    北前船については最近、面白い本が相次いで出版されているが、現地の博物館などの資料をまとめると、いくつかの航路があった。と言うより、基本的には今のトラック運送会社と同じで、無数の業者が様々なルート(と言っても、港がないと駄目だが)やスケジュールで運行していたのだ。

    酒田発で南下し、佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、岩見の温泉津、下関に寄港、大阪、鳥羽、下田を経て江戸に至るルートは、出羽地方の天領の米を江戸に運ぶ事業を委託された大商人、河村瑞賢が様々のルートを踏破し、可能性を比べた上で各地の港と合意、受け入れ態勢を整えた上で1672年、発足させたもの。酒田から江戸まで45日かかった。地理的には出羽の国から太平洋岸に出る阿武隈川を使うことも検討したが、この川は途中の難所を改める工事は難しい。津軽海峡を通って太平洋岸を南下、江戸に至る航路もあったが、黒潮に逆らっての南下は困難ということで、酒田から日本海を南下することにしたのだ。

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    日本海側には、新潟、富山(伏木)、敦賀、小浜、境等、他にも北前船が寄港した港が多数あるが、河村が開発したのは、江戸の侍たちが食いはぐれないよう、急行で米を運ぶためのルートだった。このあたりは最近出た、伊藤潤氏の時代小説「江戸を造った男」に詳しい。ものすごく面白い小説だ。この河村という人は明暦大火の後、木曽の木材を買い占めて江戸に送って財を成した人。

    伊勢出身だが、その組織能力で幕府要路の信頼を得て(小説では無私廉潔だったことになっている)、淀川河口地域など大型インフラ工事をいくつも請け負った。

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    山形県というのは、真ん中の細長い平野を最上川がぐっと奥まで、ほとんど山裾まで貫き、平野が産する富を根こそぎ酒田に出荷できる地形になっている。そしてそれができるように、最上川の急流部分などは江戸時代に改修されている。奥の米沢になると川はぐっと細くなるが、地元の博物館には小型の船が陳列してある。細い流れでも集荷できたはず。なお、鶴岡は最上川のほとりにはない。別の赤川という独立した川のほとりにある。

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    よく言われることなのだが、室町時代の頃から日本は単一市場化し、貨幣経済が全国的に浸透したと言われる。単一市場化したということは、それだけ販売先が増え、生産も増やせるということ。そして貨幣経済が普及したということは、相手を見つけるのが難しい物々交換を脱却し、成長への基盤ができたということである。僕は以前半信半疑だったのだが、酒田や「最上川経済圏」、そして北前船のビジネス・モデルなどに触れると、「単一市場化」、「貨幣経済の浸透」が実感として会得できるのだ。

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    本間家

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    戦前の大地主、本間家は戦後、農地改革で小さくなった。それでも終戦直後、日本中をまわった米国の記者、マーク・ゲインの「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫)107頁には、酒田で本間家の末裔と話しをした場面が出てくる。それによると、土地を差配する50がらみの「見るからに弱々しい男」、政治方面を担当する「スフのみどりがかった洋服を着て眼鏡をかけた、なかば禿げ上がった男」、そして本間家の官房と政策を担当する「丸顔の美青年」の3名が「態度は慇懃だが、顔の表情は敵意を示して」応対している。この3名が本間家の代表(先代が娘しか持たず、後継を指名せずに死去したため)で、彼らは農地改革が間違っているゆえんを説明する。

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    「本間一族は合わせて4100エーカーの土地(これでは16平方キロにしかならない)を所有し、5150人の小作人の家族がこれを耕している・・・成績のいい小作人は平均(年間)117ドル稼ぐが(今なら5万円程度)、本間家はその中から47ドルをとる。残りの70ドルが小作人家族の一年の報酬である・・・家族は平均7人・・・」

    「300年以上にわたって私たちは小作人との間に安定した関係を打ち立ててきたのです。新しい(農地改革の)法律は、このバランスを破壊するものです。・・・夫婦共稼ぎでも耕せるのはせいぜい7エーカーぐらいのものです。」

    そしてゲインは計算する。今度の農地改革で本間家の土地売却代金は600万ドルに上るだろう(今の金でせいぜい24億円だ)・・・。

    そして会話の中で本間一族は、戦前は満州農業銀行、朝鮮殖産銀行も所有していたことを明らかにする。川崎重工業にも大きな投資をし、地元の電力会社にも関係、そして社屋には明治生命保険と富国徴兵保険の代理店の看板がかかっている。という具合で、ゲインははなから本間一族を悪意を持って見ている。

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    しかし地元での本間家への評価は今でも高い。海岸の植林を初め、多くのインフラ建設が本間家の尽力でできているというのだ。そして今でも公開されているが、本間家の造作は質素で、華美なことはしなかった。

    ・地主になったのがいつかは、はっきりしない。農業と言うのは、種子を買う時など前借りが必要で、その借金を返せない場合は、抵当の土地の所有権を貸主に差し出したうえで、実際の耕作は自分が続ける――こういうやり方がどの国でも多いから、地主が大きくなっていく。本間家も江戸時代の途中で、500石の武士に取り立てられている。また藩主から農地のメンテを頼まれた形で、実質的な地主になっていった面もあるだろう。

    いずれにしても、本間家は質素な生き方、そして公益に尽くす生き方。

    ・戦前は、酒田市の歳入の半分を賄っていたと言う。

    ・今でも家を個人で所有。博物館のように開放している。固定資産税、どうしているのか? 明治29年には地元の米取引所との間に電話をひいている。

    ・日本の木造建築は本当にきっちりしていると思う。ほぞとか。隙間がない。

    ・「本前家」はもともと幕府からの査察使を泊めるためのもの。そこは武家作りになっている。本間家が寄進し、後に自分たちで住むようになったが、そこは商家作り。後者の木材は杉。前者の木材はヒノキ、ケヤキ。欄間の彫刻なども凝っている。

    本間家の建物はもともと査察使用に建てて、酒井藩に寄進したものをまた払い下げてもらって私用に使っていたものだが、査察使用の部屋は上等の木材を使うなど「武家用」に作ってあり、私用の部屋は格落ちの造作なのだ、と得々と説明がある。

    まあ、こういう人たちは悪く言えば悪く言えるし、良く言えば良く言えるので、どちらとも言えない。これを書き直すにあたってChatGPTと議論をしたのだが、この江戸時代の本間家というのは、現代で言う農業法人の走りのような存在だったのではないかということだ。英国で言えば、近世のジェントリーがよく似ている。資本を持って、農民に融資をし、抵当で土地が集積すれば、そこに農民を小作人として終身雇用。インフラの改善にも努めつつ、作物の商品性を高めたのだ。

    このような存在は、戦後の農地改革で、強制的に切断され(補償金は出た)、以後は零細な自営農が米価に支えられつつ何とかやってきたが、もはや立ちいかない、というのが日本の農業の現状。

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    官軍と戦っても許された庄内藩

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    このあたりの歴史は、明治維新の時に何かきらりと光る断面を残す。ウィキペディアで「庄内藩」を見れば詳しいことが書いてあるが、幕末、幕府に組して会津藩と提携、官軍と戦った(本間家の資金で欧州の先進兵器を購入。佐賀藩兵力が官軍に加わるまで連戦連勝で、最後まで官軍を藩内に入れなかった)にも関わらず、会津藩のように皆殺しにはならなかった。明治になっても、元藩主の酒井家は華族となって生き延びている。

    僕には、長岡藩や会津藩と比べて、この庄内藩の幸運の背景がよくわからない。

    わからないながらも、一つの理由に「徂徠学」があるのではないかと思って、調べているところだ。何かというと、庄内藩の首都の鶴岡には1805年、致道館という高等教育機関が開設されたのだが(これは今でも昔通りの建物が残っていて、一室では現代の少年少女たちが和服を着て、論語か何かを唱和していた)、これは江戸の湯島聖堂の朱子学と違って、当時は異端扱いされていた荻生徂徠の「徂徠学」を教えていたのである。

    徂徠学は陽明学の流れにあって、型にはまるのを嫌い、後世の解釈よりも原典に当たって「自分で考える」ことを奨励する。少人数のクラスでの、個別指導と自習が重視されていたそうだ。学生は全寮制だが、大部屋ではなく個室。西欧で言えば、カトリック教会に反旗を翻して個人を前面に出したプロテスタントに類似、そして体制変革に結び付きやすい思想なのだ。

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    幕末の革命思想を担った吉田松陰は陽明学を信奉していた。ウィキペディアでは西郷隆盛も陽明学の流れに位置付けられている。しかし西郷の若い頃の薩摩藩校は乱れていたはずで、それほど明確に陽明学を修めたかどうか明確でないのだが、いずれにしても思想と実学を区別する徂徠学は薩摩藩の実学志向と親和性が高いので、西郷も庄内藩の武士たちと肌が合ったのかもしれない。そのせいか、庄内藩は西郷隆盛となぜか馬が合い、明治になってからは地元から大挙して鹿児島に彼を訪問し、長期滞在している。

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    なお会津藩と比べると、庄内藩では上下階層間の結びつきが強い。1840年には川越の松平氏が豊かな庄内地方への「転封」を狙って画策をしたが、庄内藩では農民達が「自発的に」江戸に出て転封中止を嘆願して、成功している。

    また酒田では戊辰戦争の時、官軍と戦うために、百姓・町人兵から成る軍隊が形成されている。いずれもどこまで自発的なものだったかはわからないが、「戦うのは侍ばかり。一般人は野次馬見物」という会津藩(多分、禁門の変の際、会津藩と敵対した長州藩の高杉晋作が発した言葉)とは時代感覚が違っていた。そしてその背景には本間家の存在があったようだ。

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    多士済々

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    最後に、庄内地方の出身者で有名な人たちをあげておこう。

    まず最初に、清河八郎。これは僕は丹波哲郎主演の映画「暗殺」で初めて知ったのだが、幕末の志士の走り。1863年、松平春獄をだまして、公金で浪士を募集。「将軍警護」の触れ込みで、彼らを京都に連れだし、天皇に献上しようとしたのだ。

    もっとも途中でその企みがばれ、武蔵野の田舎で徴募した近藤勇や土方歳三等17名が脱退して京都で新選組となる。清河本人は同年、京都から江戸にもどり、攘夷をやろうとしたところで、佐々木只三郎等に暗殺されている。34歳だった。泥酔していて、斬られたあとの血からは酒の臭いが漂ったと言う。

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    次にがらりと変わって「おしん」。彼女の実在のモデルはもともと関西の人なのだが、NHKの台本では、山形出身にされていて、酒田の「加賀屋」(鐙屋でロケ)に奉公したことになっている。

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    そして、感動的なのは酒田大仏(人ではなく、仏像)。明治27年、当地の地震で母を亡くした持寺院住職が建造を発起。募金活動の最中に日清戦争、日ロ戦争。供養の対象を増やし、苦労の末完成。しかしその息子の代に、太平洋戦争で軍に巻き上げられる。戦後、募金活動を始め、さらに息子の代1992年にやっと開眼。13米、台座含めて17米で日本最高の立像。威厳がある。

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    なお相撲の名門、出羽海部屋の初代出羽ノ海はこの地方出身と考えられている。戦後の名横綱羽黒山は、名前にもかかわらず新潟県の出身。若羽黒も名前にもかかわらず、神奈川県出身。そして出羽富士は力士ではなく、鳥海山の別名だ。

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    シャンソンの名歌手で、57歳の若さで膠原病で亡くなった岸洋子は、まさに酒田の出身である。

    変わり種としては、即身仏がおられる。真っ黒なミイラで、僧侶が家督を譲ると、湯殿山に籠る。地上の食物を食べず。仙人沢の聖なる湯に詣でる。そのうち生きながら埋められて、鈴を鳴らし、その鈴が聞こえなくなると掘り出す。真言宗。

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    鶴岡から仙台に帰るハイウェーでは月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山を通り過ぎる。月山は過去、羽黒山は現在、湯殿山は未来を象徴し、三山で一体なのだそうだ。秋田寄りには鳥海山が美しくそびえる。どれも火山。仙台地方のジュラシック・パーク的な気味の悪さはないが。

  • 日本歴史紀行10:山陰-火山・大国主・製鉄・石見銀山・長州藩

    2017年5月 5月の連休は松江、出雲、石見、萩、秋芳洞をまわってきた。面白く感じたことだけ気ままに書き散らす。

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    大阪でレンタカーをして、連休の大変な渋滞の中を高速道路で松江に向かう。中国地方は随分大きくて、大阪から下関までの全長は500キロもある。借りた車はスズキのスイフト。スズキを運転するのは初めて。予想外の素晴らしい車だった。オートバイ・メーカーの作るエンジンというのは、粘りがあって、吹き上げる抜けも素晴らしいものだけれど、このスズキのスイフトがまさにそれ。トランクが小さいのが玉にきずだが、排気量1200CCと小ぶりなわりには、出足はBMWのごとく、コーナリングはベンツのごとくで、良かった。スズキと言えば鈴木修社長のワンマンだと思いがちだが、この社と取り引きのある友人の話しを聞くと、社内の雰囲気は自動車会社の中では最も自由闊達な方らしい。

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    山陰は火山の国

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    それで中国地方山地を横に走る「中国道」から分かれて米子、松江方面めがけ、「米子道」に入り、北方へ向かうと、視界が開けて壮大な高原の右の方に大山が見えてくる。僕は大山がどこらへんにあるのか、これまでどうもわからずにいた。と言うのは、山陰では松江に行っても萩に行っても大山ではないかと思われるような山が見えるし、昔「大山は中国地方どこからでも見える」というでたらめを見た記憶があって、なるほどと思っていたからだ。「大山は鳥取県にある。そして大山に似た火山は山陰の諸方にある。山陰は火の国だ」というのが、今回発見したこと。

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    なぜかと言うと、山陰には「大山火山帯」というのが横串にずっと通っていて、山陰地方で多い地震はこの火山帯のせい。死火山(今日の基準では活火山に分類されるものが多い)、活火山が本州の日本海側にずらっと並び、中世に開発された金山、銀山の多く(北から院内、尾去沢、小坂)はこの火山帯の上にある

    あとで言うが、松江と萩の間にあって、16世紀にはボリビアのポトシ銀山と世界一、二位を争った岩見銀山は、まさに「仙の山」という名の死火山そのものを掘ったのだ(現地の博物館で知った)。そして後で言う、タタラ製鉄の原料となった砂鉄(磁鉄鉱)も、地中から噴き出たマグマが固まった花崗岩の中に含まれているものだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%B3%A0#.E4.BA.BA.E5.BD.A2.E5.B3.A0.E5.B1.A4)。ウラン鉱石がとれた人形峠も山陰にあって、やはり火山活動の恩恵だ。

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    そして僕が昔、「山陰ではどこに行っても大山が見える」と思い込んだのは、大きな死火山がそこらじゅうにあるからだ。例えば松江の南に三瓶山(さんべさん)という標高1126米の死火山(今の基準では活火山)がある。長州藩の都だった萩も火山群の真っただ中に所在していて、沖合のいくつものテーブル状の島々は溶岩の噴き出したもの、萩城の天守閣がその麓にあった指月山は標高143米で、海辺に突き出た溶岩ドームなのだ。

    山陰の正体は「火の国」だったのだ。そして火山がもたらした砂鉄で、ここは中世・近世、製鉄の中心地となる。文字通り溶鉱の「火の国」となる。

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    火山ということでは、かのおとなしい瀬戸内海、四国沿岸も火山帯だったことを、今日認識した。今でも火山のようなかっこうをした島や山がぽこぽこあるし、火山特有の安山岩でできた島が多い。小豆島は火山活動の結果できたらしいし、新居浜の別子銅山も火山活動の賜物だろう。この瀬戸内にあった火山帯は奈良の方まで伸びていて、かの畝傍山、そして大津皇子の墓のある二上山も火山だったというからおそれいる。この瀬戸内にあった火山帯はだんだん北に移って大山・白山火山帯になったらしいが、もしかするとマグマはずっと同じところにあるのを、日本列島が大陸から離れて南下したからそうなったのかもしれない。

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    古代出雲王国と大和朝廷

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    山陰に話しを戻すと、このあたりは古代日本発祥の謎を握っている。松江周辺にあったと思われる有力な王国が伝説、神話に残り、神社に残っているからだ。

    まず「国引き」の伝説。大国主命がその昔、前出の三瓶山にロープをかけて朝鮮半島から土地を引き寄せたことになっている(韓国に知られていないことを望む)。余談だが、大国主命がワニ(サメ)をだまして罰に皮を剥かれたウサギを助ける「因幡の白ウサギ」の伝説。あれも子供の頃から、こんなところにサメがいるものかと高をくくっていたのだが、萩のあたりの玉之浦では明治の頃までフカがとれていたことを、地元の博物館で知った。「因幡の白ウサギ」はホントにあった話しなのだ。

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    この「有力な王国」は松江の南(平野が広がっている)の意宇(おう)に本拠を置き、今でもある熊野大社を祀っていたのだろう。因みにこの神社は火発祥の地とされて鑽火殿というお社もある。10月15日には、鑽火祭(きりびまつり)というお祭りもある。京都の北野天満宮など、日本の諸方で鑽火祭は行われるようだが、それは熊野大社に発しているかもしれない。拝火は世界中で行われるけれど、熊野大社とペルシャのゾロアスター教、あるいは東大寺二月堂のお水取りに関係があったら面白い。

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    熊野大社と言えば、和歌山の熊野本宮大社を思い浮かべるし、両者は関連していると見る向きもある。それは大和朝廷の成り立ちにも関係してくることだ。神武天皇東征の軍は南方からやってきて奈良盆地を征服したことになっている。その軍は一時生駒山の麓から奈良盆地に侵入しようとして撃退されたので、紀伊半島にまわって吉野山地を突っ切ったことになっているのだが、それが事実なら熊野本宮大社はそのルート上にあるし、その神武天皇の軍が山陰に発したものなら(九州から来たことになっているが)、熊野大社と熊野本宮大社はまさに姉妹関係にある。熊野大社の社伝では、地元の住民が紀伊の国に移住した時に分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元ということになっているそうだ。

    なお、意宇の熊野大社を司った家はその後出雲大社に移り、出雲大社の方が格が上になったようだが、今でも儀式のための火は後者が前者にとりに来るらしい。

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    もう一つ、奈良盆地の大神(おおみわ)神社は日本最古の神社の一つとされ、神武天皇以前にこの地を治めていた豪族(その後裔は三輪氏なのだそうだ。大神神社の御神体は後方の三輪山である)の守り神だったという説と、崇神天皇が夢のお告げで大物主神をまつったのが始まりだという説の、双方がある。

    この大物主と大国主の関係は諸説入り乱れていて、中には同一神だというものもあるが、いずれにしても大和と山陰には何か歴史上の因縁がある。両者の中間にあたる京都の西、近畿と山陰を結ぶ国道9号線に亀岡という町があるが、ここには出雲大神宮というのがあって、大国主神をまつり、かつ縁結びで有名なのだ。

    昔どちらからどちらに征服のための軍が向かったのかどうか、そしてそれが神武天皇や崇神天皇とどう関係していたのか。インターネットを探っていけばいくほど頭が混乱してくる。

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    なお、周知のとおり、大和朝廷の主神天照大神の弟で黄泉の国を差配する素戔嗚命は、山陰に縁が深い。熊野大社の主神、伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命様は、素戔嗚命の別名だとも言われる。

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    製鉄の中心地

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    先祖たちが歴史をあれこれ書き換えたせいで、古代日本史のことを調べていると、頭が混乱してくる。

    で話しを戻して、車が大山を過ぎて米子にさしかかろうというところ、目の前に大きな溶鉱炉のような工場が現れて驚いた。鳥取県にはろくな産業がないと聞いていたからだ。スマホで調べると、それは本当に溶鉱炉。米子製鋼という大企業のものなのだそうだ。それも不思議ではない。今の鳥取県、島根県のあたりは英国で言えばバーミンガムのような製鉄の中心地だったのだから。

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    江戸時代の記録では、日本の輸出(その多くは中国に向かっていた)品目の一位は銅貨、2位が刀ということになっており(松江歴史博物館での解説)、日本は兵器輸出で食っていた。そしてその刀の原料となる玉鋼は、この出雲で一手生産されていたのだ。当時の松江藩にとっても製鉄は主要な財源で、17世紀になるとこれに綿花が加わっている。松江の歴史博物館での展示によると、明治になっても島根県は全国の鉄生産の半分を支え、中国地方では9割を占めていたそうだ。

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    タタラ製鉄は朝鮮半島から伝わった技術。鉄を握る国は軍事強国となる。となると、出雲にあった王国は、朝鮮半島と緊密な関係にあったもので、地元に鉄を発見したか、あるいはこの鉄を狙って来襲したかどちらかなのだろう。この地方、「砂鉄」から鉄をとると言われるが、砂鉄は早くに取りつくして、中世からは山地の風化された花崗岩を取り崩して「砂」にし、そこから鉄鉱石を浮遊選鉱で得ていたものだ。

    山口大学の貞方昇教授がインターネットで公開している資料「鉄穴流しに由来する中国山地・臨海平野の景観変容とその今日的意義」によれば、最大10米ほどが掘り崩され、それは1万9000ヘクタールに及ぶので、9-12億立米の廃土が出てきた。その後は農地に活用されたところもあるが、廃土は砂となって海に流出。鳥取の砂丘が今では有名だが、これは千代川が運んできた砂によるものである。また天橋立はタタラ製鉄が盛んになるずっと前から基本的地形はできていたようだが、製鉄の廃土がこれを更に大きなものにしたことは十分考えられるだろう。

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    そして僕は西、つまり松江の方角に向かう。このあたりで今回、「境港」というのは松江の東隣り、中の海と外海を結ぶ水路に面していることを認識した。なぜそんなことにこだわるかというと、酒田、富山、小浜、敦賀など、日本海側の港は、現在は知られていないが、古代には朝鮮半島、中国大陸の方を向いた「表玄関」だったし―9世紀、渤海国の使節は敦賀港に着いている―、江戸時代には北海道松前から米を集荷しながら大阪に至る廻船の航路上にあって、経済史上重要な役割を果たしているからだ。

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    松江歴史館の資料によると、日本海廻船航路は1671年に正式に発足したそうだ。多分バルト海のハンザ同盟と同じく、入港しても余計な関税や料金を取らないという合意が集積したものだろう。富山に行くと当時の廻船問屋の家がそのままあって、そこから現在の北陸銀行が発生したことが手に取るようにわかる。

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    松江は素晴らしい街だ。

    近くの石見銀山は幕府直轄なので、この富が松江を潤したのではないかもしれないが。松江歴史館の資料によると、18世紀初め全国で米価が下落し、天災が続いたことで、藩の財政は逼迫した。松江藩は年間歳出の4倍相当の負債を抱えたが、100年以上かけて赤字財政を脱した。ハゼの木から蝋をとったり、朝鮮人参を栽培したり、努力したあげくの話しである。

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    こういう、赤字財政を立て直した話しは諸方にあって(多分、前記の米価の下落が全国的に引き金になったのだろうか?)、例えば米沢の上杉藩主、上杉鷹山の政策が知られている。松江も米沢も、政策が効果を発揮し出したのは、始めた者が去ってずっと後のこと。ひょっとすると、安倍総理も100年後には日本の財政を立て直した英雄として、歴史書に載っているかもしれない。

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    松江藩を治める大名は、江戸時代に3度代わっている。御国替えはよほどのことでもないと起きなかったと思っていたが、結構起きている。最後は譜代の松平氏が治めたのだが、幕末には藩政府総勢は1158名。うち200石以上の扶持を持つ幹部級は70名のみだったそうだ。後者の数は当初はもっと多く、戦国時代の群雄割拠の後を引いていたのだろう。そう言えば、隣りの毛利藩では領地がいくつかの「宰判」という行政単位に分かれていたのだそうで、これも地方の豪族の版図をそのまま認めたものだったのかもしれない。

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    石見銀山

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    石見銀山のことを言っておこう。これは出雲と萩の中間にあって、ユネスコの世界遺産になっている。ずっと以前から銀がとれていたのを、明との貿易で潤っていた大内藩(大内義隆の大内)が本格的に開発、尼子、毛利、次いで徳川の手に渡っている。関ヶ原の戦いで西軍が敗れるや、徳川は石見銀山を直ちに直轄下に収めた、と地元の資料館はいう。そして盛時には家族を含めて20万人が住む一大集落を成したそうだ。墓が1万1000基発見されているので、それもあながち誇張でないかもしれない。

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    地元資料館には、坑道の模型が飾ってあるが、地中で掘られたにもかかわらず、銀の鉱脈を最大限効率的に掘り出すべく、何本もの坑道が並行に掘られて、まるで地中の蜘蛛の巣のような模様を形作っているのには驚いた。測量技術が発達していたのだろう。16世紀末、日本は銀の輸出大国で、マニラ経由で明朝に運ばれた日本の銀は年間100トン。これはボリビアのポトシ銀山等からマニラを経て運ばれる中南米の銀、年間50トンを大きく上回り、明にとっては銀の最大の供給源だった。

    そして銀は佐渡の金とともに幕末までには枯渇して、明治政府は初期の頃、もっぱら石炭の輸出で外貨を稼いだのである。まるで今の北朝鮮だ。と言うより、日本も以前は資源大国だったのだ。

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    萩と長州藩

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    萩は、毛利藩にとっては、豪州のキャンベラのような人工首都。関ヶ原の戦いで西軍の総大将を務めて敗北し、それまで8カ国を領していたのを2カ国に減じられ(それでも37万石で大名の中では10位)、広島を追われて藩都を荻に移さざるを得なかった。

    うらみは大きかっただろう。萩は物流・経済のハブにはなり得ず、仮の都という気持ちがつきまとったことと思う。写真で見る萩城天守閣(明治7年に取り壊されている)も、メンテが悪かった。この毛利藩=長州藩が明治革命の原動力になるのだから、面白い。薩摩は大名の中では前田藩に次ぐ所領の大きさ、かつ沖縄を通じる中国との密貿易で潤っている。長州はその点どうしていたのか知らないが、吉田松陰から始まる一連の志士が貢献をしたのは事実。

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    その松陰塾、萩のはずれで歩いて10分ほどのところかと思っていたのだが、バスに乗って15分ほど。歩いたら1時間は優にかかるところにあった。吉田松陰、今回いろいろ資料を見ると、どうも思い込みの強い、何々と紙一重、あるいは半重の人で、誰々の主張がちょっと気に入らないと思うと、塾生に暗殺をそそのかしていたようだ。

    これでは、あまり尊敬する気にはなれない。まあ、国家が倒される時というのは、こんなもので、フランス革命もそうだけれど、思い込みの強い唯我独尊の連中が押し合い、へし合い、殺し合いをして、誰も残らず、結局保守的なナポレオンとかプーチンとかにまとめられてしまうのだ。

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    その吉田松陰、可哀そうに長州藩から厄介払いされて江戸に突き出され、井伊直弼の安政の大獄であっけなく斬首されてしまうのだが(武士だったのに斬首されたのは、幕臣暗殺を企てたため?)、その遺骸は小塚原の刑場脇に埋められていたのを、彼の学徒の高杉晋作などが掘り出して、今は世田谷区の豪徳寺近くに埋葬し直す。

    これが松陰神社で、考えてみれば、世田谷区に山口県の英雄の神社があるのも、奇異なことだ。このあたりは谷の多いところで、松陰神社から谷をへだてた向こうは、彼を斬首させた井伊直弼の墓がある豪徳寺で、これもまた面白いことだ。

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    ところで吉田松陰の掲げた「攘夷」。これは外国人皆殺しと同義に聞こえるのだが、必ずしもそうではなかったようで、今で言えば反米・自主独立と同程度、要するに植民地主義勢力から日本を守れ、圧力に屈するな、程度のものだった。もちろん、過激分子は皆殺しの方に走ったが、吉田松陰自身、米国の力の背景を自らの目で確かめたいとして、ペリーの船で米国に行こうとしたくらいなのだから―費用はどうするつもりだったのだろう―、攘夷というのも盲目的なものではなかったのだ。

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    その証拠としてよくあげられるのが、長州藩の井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)5人の「英国留学」である。このうち井上聞多は1862年江戸の英国大使館を焼き討ち、1863年6月には下関砲台から英国軍艦を射撃した数日後、藩主の命令で江戸経由、英国に旅立っている。英国は外国人テロリストを受け入れたことになる。

    これは長崎のグラバー商会から資金を出してもらったことになっているが、萩博物館の資料によれば、長州藩が兵器をグラバー商会から購入するための資金を担保に金を借りた形(変な担保だが)で彼らを送り出したようだ。だから、貧乏留学だったようだし、伊藤と井上は激動の日本に早々に帰国している。

    というところで、尻切れとんぼですが終わりです。調べながら書くのは大変でしたが、楽しいことかぎりなしというところでした。