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投稿者: akiokawato

  • 古代トロイを襲ったのは「海の民」、いやプーチンかトランプか

    昨日、前評判の高かったクリストファー・ノーラン監督の映画「オデュッセイア」を見に行った。素晴らしい出来栄え。

    それはいいのだが、映画の中でオデュッセイアの夫人ペネローペが言っていた言葉が気になった。「この頃、『海の民』と呼ばれるならず者が方々の都市を襲っているそうです。文明が終わってしまう」と。

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    「海の民」とは古代、地中海沿岸の諸都市を襲った正体不明の勢力のこと。これが、オデュッセイの参戦したトロイ戦争と同時期のことなのか?

    と思って調べると(ChatGPTに調べさせると)、双方とも伝承通りの年代に起きたのが事実なら、ほぼ同時期に起きていた。紀元前1100年代初頭。

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    (エーゲ海を横切るのが、オデュッセイの航海だった)

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    となると、いろいろ面白い仮説が成り立つ。ChatGPTとだべるうちに、トロイに押し寄せたギリシャ諸都市連合軍こそ、「海の民」だったのかもしれない、ということになった。もともと「海の民」は一つではなく、その正体は今でも不明なのだ。

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    で、ふと思いつく。あとは筆者とChatGPTの会話を再現すると・・・

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    筆者:

    なるほど、同時代だったか。アカイア人が「海の民」とは面白い。あり得る話しだ。いっそ不条理コメディー映画で、「海の民」はプーチンに率いられたロシア軍、あるいはトランプとその一党に率いられた米軍、というのを作ってみたくなるね。

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    ChatGPT:

    ははは。これは題材になりますね。しかも歴史的な構造を残したまま現代政治を重ねると、単なる物真似よりずっと効きます。

    たとえば紀元前1200年。東地中海の宮殿国家が次々崩壊している。そこへ正体不明の「海の民」が船団で現れる。沿岸都市では「奴らは何者だ?」と大騒ぎになる。

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    ところが海の民自身もよく分かっていない。

    「我々はロシア軍だ」と言う一団をプーチンそっくりの男が率いている。その隣ではトランプそっくりの男が「いや、我々こそ史上最大の海の民だ。Nobody has ever seen Sea Peoples like this」と演説している。アカイア人は「いや、そもそも俺たちが海の民じゃないのか」と首をかしげる。

    そしてエジプトの書記だけが真面目に全部を石壁に記録している――という構図。

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    ---このハチャメチャさはたまらない。ChatGPTも不条理コメディーを書ける。

  • 作られたタクシー不足 西武ハイヤーに回答を求める

    西東京市に住んでいるが、コロナが終わって以降、タクシー不足がひどい。特に西武池袋線の駅前タクシー乗り場。

    ここは、西武ハイヤー社が差配していて、他社(例外は一社)のタクシーは客を乗せるのを禁じられている。

    と言うか、乗せると、あとで社の方に西武ハイヤーから猛烈な抗議が入るそうだ。

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    これで、西武のタクシーがいつも待っているなら(以前はそうだった)いいが、コロナが終わってからは10分、20分と待たされるのが普通。今日は雨の降っている中、重い買い物袋を下げて20分待った。後ろは5人を超える行列。その間、他社のタクシーが駅前で客を下すと、そのまま尻尾をまいてどこかへ去ってしまう。こちらはキレて、公共のミニバスを使うことにした。

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    そこでもう公開するのだが、僕は8月11日、西武ハイヤーの社長に次の手紙を送った。

    もう1カ月経とうと言うのに、駅前の事態は一向に改善されない。

    手紙の返事も来ない。この会社、誰か働いているのかな?

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    (以下が小生の手紙の書面)

    〒359-1131

    埼玉県所沢市久米546-1

    西武ハイヤー(株)

    代表取締役社長 刈屋輝彦様

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    冠省

    酷暑の折、ご清栄のこととお慶び申し上げます。

    私は西東京市在住の一顧客です。頻繁にひばりヶ丘駅から自宅までタクシーを利用します。しかるに、コロナが終焉して以降、ひばりヶ丘駅南口のタクシー乗り場にタクシーがいないことが多く、酷暑、極寒の中、15分以上待たされることもあります。

    私も78歳ですし、タクシー乗り場には高齢者が行列を成すことが多々あります。これは、高齢者の多いこの地域では殺生なこと。西武沿線の評判、地価も落とすことでしょう。

    運転手を増やすには限りがあります。この際、ひばりヶ丘駅南口タクシー乗り場に、貴社、××交通以外の社のタクシーも着けられるよう、手を打っていただければ幸甚です。

    草々

    2026年8月11日   (住所)                   

    河東哲夫

                               

  • 日本歴史紀行20:日光明智平 天海僧正は明智光秀か

    2024年11月中旬、日光に行ってきた。戦場ヶ原の紅葉と、中禅寺湖の向こうにそびえる白根山の雪山姿を見に・・・。両方ともなかった。戦場ヶ原の紅葉はもう終わっていて、白根山にまだ雪は積もっていなかった。それでも中禅寺湖畔に泊まって、快晴の湖を満喫した次第。

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    (インターネットで借りた、明智平からの眺めの写真。向こうに日光白根山が見える)

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    白根山を見に、ロープウェイで明智平にも行ったのだが、そこの看板の一つが、明智光秀との関係を指摘していて、面白いと思った。インターネットhttps://tabiiro.jp/likes/articles/view/pl588703/は、次の面白い話を伝える。

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    ――信長は家康の暗殺を光秀に命じたが、光秀がその計画を家康に話し打倒信長の密約を結んでいた……とする説がある。

    それゆえに、その後も3代将軍・徳川家光の乳母に明智光秀の重臣の娘である春日局を重用するなど、光秀と家康が深いつながりをもっていたことを示す、とする。そしてそれが日光の「明智平」につながる。

    一方、1610年徳川家康に招かれて駿府城で講義を行った天海僧正。家康はこれに感銘を受け、彼を参謀としても重用する。この時天海僧正は75歳。

    彼は3年後の1613年に日光山の住職となり、1616年に家康が亡くなると、以前から残されていた遺言により日光東照宮の造営に着手。1617年3月に完成する。

    日光にある「明智平」、そして日光東照宮にある「桔梗紋(光秀の家紋)」、また、天海の出自に謎が多い点などから、天海僧正は、山崎の戦いで秀吉軍に破れた後にひっそりと生き延びて僧となった光秀ではないか、という説も生まれた――。

     

    面白い。明智光秀の生年は1516年、あるいは1528年と推定されているが、後者なら天海僧正が家康に見いだされたのが75歳の時というのと平仄が合う。そして更にWikipediaによると、前記の通り徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三(本能寺の変の時、明智側の突撃大将)の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。

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    決定的に怪しいのは、天海僧正の墓所(慈眼堂)が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。天海僧正は、信長が焼き討ちした(明智光秀も加わった)延暦寺の復興にも尽力しているのだが、なぜ?とも思う。天海の前身、光秀が延暦寺にひどいことをしたので、天海がその罪をぬぐおうとしているのか?

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    もう一つ面白いのは、「東照宮に隠された徳川の埋蔵金とかごめ、かごめの関係」。

    インターネットで見つけた一説によると、「かごめ、かごめ」の唄は江戸時代初期のもので、「夜明けの晩に鶴と亀がすんべった」という歌詞は、東照宮にある鶴と亀の夜明けの影が交わる(何月何日のことか書いてないのが残念)ところに、徳川の財宝が埋めてあるそうで、それは今の値段でいくと200兆円に及ぶ由。ChatGPTに聞いたら、これは金15,491トンに相当するのだと。見つけると、税金がハンパない。東照宮一帯は、さぞかし地磁気に異常を示していることだろう。

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    ところで日光は、すごい観光地なのにどうも投資が足りない。わくわく感がない。さびれた感じを受ける。湖畔にホテルがたち並ぶ芦ノ湖との差は歴然としている。夜、食べるところもろくにない。泊まった中禅寺湖の北岸、中当たり、湖畔のホテルも、日本人スタッフは見当たらず、従業員はスリ・ランカの人達だけで、けなげにやっていた。

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    日光には中国人観光客が少なく、中国語の標示もない。それは良かれあしかれなのだが、学者風のロシア人女性が率いるロシア人のツァーに出くわして、仰天。それもロシア人の若い女性がほとんどで、極東の大学の日本専門の学生たちだろうか? 東照宮横の五重塔の解説に熱心に聞き入っていた。因みに箱根でも、子連れのロシア人カップルに出くわした。戦中閑あり。 

  • ロシア人の反米は、「俺たちもアメリカのように好き放題やりたい」欲望の裏返し

    今、ChatGPTと面白い話をしたので、アップしておく。

    Chatが「米国批判もいいですが、ロシア人に自分たちの反米に日本が加わった、と思わせない方がいいですね」という趣旨のことを書いてきたので、小生から、こう言った。

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    「その通りだよ。ロシア人の過度な反米は、僕も時々からかうんだよ。『君たち、アメリカみたいに好き放題やりたいんだろ? それができないから、反米。本当はアメリカが好きで、アメリカみたいになりたいと切望しているくせに』と。僕の友人は「そのとおり。図星だ」と言って、笑ってた」

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    Chatが答える。

    「そうですね。そのからかい方は、かなり核心を突いていると思います。ロシアの反米言説には、単純な『アメリカ嫌い』だけでは説明できない、妙な羨望との同居があります。アメリカの一極支配、域外制裁、軍事介入などを激しく非難する一方で、『ではロシア自身が同じだけの力を持っていたら、それを慎ましく使うのか』と問うと、話が怪しくなる。

    だから、『アメリカが嫌いなんじゃない。アメリカだけが好き放題できるのが嫌なんだろう』と突くと、案外『そうだ』となる(笑)。

    しかもロシアの知識人には、アメリカを非常によく知り、英語を話し、アメリカ映画や大学や技術やビジネスのダイナミズムを評価しながら、政治的には激烈な反米論を唱える人もいる。これは矛盾というより、“Why them, not us?” という大国意識と結びついている、と見るとかなり分かりやすい」

  • デンマーク その近代化の途をたどる

    (これからデンマークの経済について書くので、手始めに中世から現代に至る、近代化の途をたどってみる。拙著「『自由と民主』の世界史―失われた近代を求めて」の一節 「自由と民主」の世界史―失われた近代を求めて Ⅱ 〔産業革命と近代の構築、そしてその先〕 (「自由と民主」の世界史―失われた近代を求めて(全2巻)) | 河東 哲夫 |本 | 通販 | Amazon)

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    ヴァイキングの頃のデンマークでの経済のありさまはよくわからない。ヴァイキングの動きは、彼らがノルマンディーやイギリス、そしてシチリアなどに拠点を作り上げたことで収束し、デンマークの地域は域内の権力集約化に努める。十四世紀半ば、ちょうどペスト禍が終息して直後のあたり、デンマークは、ドイツ諸都市の「ハンザ同盟」に対抗する新興強国として登場した。

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    一三四〇年に即位したデンマーク国王ヴァルデマー四世は、属領だったエストニアをドイツ騎士団に売却して財政を立て直すと、領土の拡張――ヴァルデマーの立場からは「回復」――に乗り出す。その一環として、彼はバルト海の要衝ゴットランド島にあるヴィスビューを占領したので、ここを貿易のハブとしていたハンザ同盟との戦争になる。デンマーク海軍は一度はハンザ同盟の連合艦隊を破るが、ハンザ諸都市、プロシア、オランダの諸都市はケルンで会議を開き、「ケルン同盟」を結んでコペンハーゲンを攻略する。これでデンマークは矛を収める。

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    ここにうかがわれることは、十四世紀のデンマークはかなりの経済力を持つようになっていた、ということだ。またペストは欧州の人口の三分の一もの人々を死に追いやり、欧州を壊滅状態に導いたとされるが、そのペストが収まった直後にバルト海沿岸ではこのような戦争をしている。ペストは、言われるほど中世欧州を変えたのではないのかもしれない。

    ペスト禍のあと、デンマークの人口が回復し始めたのはやっと一五〇〇年頃のこととされている。その頃、人口の八十%以上が農村で暮らしており、一六五〇年頃までは輸出はGDPの五%程度だったと推定されている。英国の歴史・経済学者のAngus Maddisonは、一六〇〇年頃デンマークでの一人当たりGDPは世界で六位だったと想定している。

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    農業の高い生産性・高い民度

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    彼や他の識者があげるデンマーク経済の利点は、国土は狭くともその殆どを農地として利用できることにあった。どんなに「奥地」でも、海からは五十キロしか離れておらず、輸送に便利でもあった。

    もう一つの強味としてあげられるのが、農家一戸当たりの耕地の大きさである。これは、前述のように国土が小さいものの、ほとんど全土を耕地として利用でき、人口が少なかったためである。それは現代でも、デンマークを鉄道や車で旅行してみれば実感として納得できることである。地平まで続く耕地に、人ひとり見えないのである。

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    自分の耕地を「所有」する自営農は、十八世紀半ばまでは農民全体の十%に過ぎなかったが、十八世紀末からのナポレオン戦争によるインフレで、地主の地代収入は大幅に目減りし、地主はたまらず耕地を「小作人」に売却した。これで「小作人」が自営農に変身し、十九世紀末には、農地の七十五%は五十エーカー程度の中規模自営農家によって占められるようになった。

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    そして他の北欧諸国と同じく、デンマーク人の識字率は高く、知識や技術の伝播が速かった。そして少数の自営農が海外での需要に機敏に対応して動いたことが、あとで言う「酪農産業革命」を可能にしたのである。ここでは、日本の学校でも教えられた、十九世紀Nicolai Frederik Severin Grundtvigの国民高等学校建設運動と農民協同組合結成運動の双方がうまくシナジー効果を生んだと言えるだろう。

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    話しを十六世紀に戻す。ここで面白いことが起きている。国王クリスチャン三世がルター派に改宗して一五三六年にはすべてのカトリック教会の領地を没収、今に続くデンマーク国教会を樹立したのである。教会領地の没収と国教会の樹立と言えば、イングランドのヘンリー八世によるものしかないと思っていたのだが、実に同じ年に北欧でも同じことが起きていたのである。但しデンマークの国教会は、財政的には国に依存――教会のための特別税が徴収される――しているも、教義はルター派のものに従い、聖職者の人事等では地域毎に自治が認められている。

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    デンマーク王室はこれで全国の土地の五十%を所有するに至るが、以後土地は売却される。十七世紀半ばにはデンマークは王室領からの収入で費用を賄う中世的な「家産国家(domain state)」から、国民への課税で費用を賄う近代国家に一歩踏み出す。

    それでも、課税、徴兵、治安、司法の面で国王は、王室から土地を払い下げられた貴族、民間大地主に実質的に依存していたのであり、この貴族、大地主という特権層が後退するのは、前述十八世紀末からのインフレで、土地の多くを自営農が取得した時なのだ。この時にデンマークは、本当の意味で近代国家になったと言える。

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    一六六五年の憲法は、欧州でも最も国王の力が強いものだったが、一八四九年の憲法は私的所有権の不可侵、契約の自由、結社の自由を保証するものとなった。また一八一八年には中央銀行、Danmarks Nationalbankが設立されている。

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    なおデンマークは十七世紀初頭、クリスチャン四世の音頭取りで海外植民地の取得に乗り出した。イングランドやオランダと同じく、「東インド会社」を作り、インド南東部のトランケバルに根拠地を作り上げる。その後デンマークは三十年戦争で敗北側にまわって衰勢に向かい、トランケバルも一八四五年には英国に売却されている。なおデンマークはアフリカ黒人奴隷の輸送にも関わり、十九世紀半ばまでの累計で十一万人を輸送したと見られている。

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    「酪農産業革命」

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    一八四六年、英国議会が「穀物法」を撤廃し、穀物への関税を撤廃したことは、デンマークの農業を大いに刺激した。デンマークの農民は、英国への穀物輸出を大幅に増大させ、国内での農法も改善して生産性を高めた。

    しかし一八七〇年代にはデンマークの穀物は、ロシア、米国からのものに競争で負けるようになった。デンマークの農家は中規模で、生産性の向上に限りがあったのである。ここでデンマークの農民は、酪農に転じる。飼料を海外から無関税で輸入し、高品質の酪農製品、畜産品を輸出することで、生き残りをはかったのだ。

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    一八八〇年頃からは自営農たちが協同組合を形成して、蒸気機関を使っての牛乳攪拌とクリーム・バター製造、協同組合による販売促進を行った。一九〇三年には、乳牛所有者の八十一%は協同組合に牛乳を供給していた。酪農と工業化が一体化して生産性を飛躍的に高める、一種の酪農産業革命を行ったのだ。これにより、農業生産のうち輸出が占める割合は、一八〇〇年の十%から一八七〇年の三十%に上昇し、農業製品輸出は一九一四年には輸出全体の六十%を超えていた。

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    酪農への転化とほぼ同時、一八七〇年以降はデンマークでも近代的製造業が立ち上がり、世紀末には手工業を含めて人口の三十%を吸収するようになっていた。

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    デンマーク――先進国への途

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    第一次世界大戦ではデンマークは中立国で、戦っている双方に輸出することができた。このため貿易黒字が増えている。そして第二次世界大戦ではドイツに占領されたものの、工業設備は破壊されなかったし、戦後は米国のマーシャル・プランで優遇的扱いを受けた。

    しかしこの頃でも、普通の労働者家庭の居住環境は貧弱で、今の質素ながらも満ち足りた生活ぶりとは全く違った。農業の生産性も十分ではなかった。一九二九年、農業は労働力の三分の一を吸収していたが、それが上げる利益はGDPの二十%に及んでいなかった。それでも、輸出の八十%を数えていたが。

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    一九五〇年代、工業が雇用する者の数は農業に従事する者の数を上回るようになった。今では、Vesta(風力発電装置製造)、薬品Novo Nordiskのように世界的な企業もある。Maerskは世界一の海運企業だが、これは製造業ではない。そしてデンマークの農業は、IT、AIの活用で、工業と区別がつかないようにもなっている。

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    なおデンマークの工業化においては、外国からの借り入れ、外国からの直接投資が大きな役割を果たしている。デンマークは一八九〇年からは資本の純輸入国となり、第一次世界大戦前には外債はGDPの四十%を超えていた。

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    福祉の充実

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    一九六〇年代になると、デンマークは社会保障や転職用の職業訓練を中心とした公的セクターの大々的な拡充に乗り出す。一九九四年までは、実に七年間もの失業保険が供与されていた。現在でも四年間の失業保険が出る。これは、戦後の英国の「ゆりかごから墓場まで」の社会保障政策を参考にしたのかもしれない。

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    公立の保育園、介護施設が大幅に拡充された。一九六五年、保育園、幼稚園に行く児童は全体の七%に過ぎなかったが、二〇〇〇年には七十七%に達している。公的介護施設は、一人で四十平米ほどの1LDKを使える立派なもので、日本では月に二十~三十万円を取る民間施設にしか見られないものである。それでも入居者は年金から実費を払わなければならないし、裕福な者は資産の一部を政府に拠出しなければならないが。戦後、一九八二年に至るまで、社会民主党が政権を担っていたことが、こうした政策の転換と完遂を可能にしたのである。

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    これによってデンマークは、公的支出の拡大で経済を支える、ケインズ的な政策を取ることとなった。社会は安定したが、その代償としてデンマークはスウェーデンなどと並んで世界でも有数の高税率国となっている。失業保険や職業訓練など、現役世代も福祉から利益を得ているため、重税への不満が大きく表面化することはこれまでなかった。しかし最近では、病院での診察予約が数カ月先でないと取れないなど、これまでの体制が瓦解する兆しが現れている。

    ただ、人々が政府を信頼していると言うか、「自分たちが作っているもの。自分たちのために存在し、機能しているもの」として、同等の目線で扱っていることは、日本人に大きな参考になる。

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    参考書籍

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    [1] Wikipedia “Economic History of Germany”

    [2] 「デンマークにおける形成期農業協同組合の思想・組織・事業の特質」 白石正彦

    農村研究75号、1992年9月

    [3] “An Economic History of Denmark” Ingrid Henriksen University of Copenhagen

    [4] 「北海・バルト海の商業世界」 斯波照雄・玉木俊明www.slavevoyages.org/tast/index/facesを引用している。

  • 日本経済への処方箋--デンマークの場合に寄せて

    (これは、旧ブログに2010年7月アップしたものの復刻です。数字は古くなっていますが、基本はそれほど変わりません)

                                  

    「もっといい生活」のモデルを持とう

    (1)成長と分配の間を右往左往する、日本の経済政策

    もうこの20年間、日本の名目GDPは増えていない。その間たとえば洋服とか肉の値段はずいぶん下がったので、それほど惨めな感じもしていないのだが、増えない税収をどう配分するかについて、社会各層の間での奪い合いは激しくなっている。老齢化が進行しており、若年世代は国民年金の負担に抗議の声をあげている。

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    小泉政権は構造改革、リストラ、円レートの低位維持によって経済の活力を回復させ、それによって税収も上げようとした。だが財政赤字削減のために同政権が道路族等の既得利権を崩そうとしたこと、また社会保障・医療補助の一部を削ったことへの反発が、自民党総理を一年ごとに代え、遂には2009年夏衆院選挙で与党交代まで実現するエネルギーを生み出した。

    だが民主党がこども手当に見られるように、「成長よりも配分」に過度に傾いたことで、世論は財政赤字が心配になり、今度は増税だ、いやまだ増税は早すぎる、まず成長確保だ、あるいは増税を通して成長するのだと、極端論、あるいは謬論に惑わされている。

    ここには、なぜ日本経済が今のような状況に陥っているのかについての根本的な理解が見られず、ただ右往左往している感がある。歴史認識が足りない。

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    単純化して言えば、日本は1985年プラザ合意(円の大幅切り上げを米にのまされた合意。日本が対米輸出に過度に依存し、米国の財政赤字・貿易赤字の際限なき拡大を生んだことが、その原因だった。現在の米中関係に酷似)の後始末に今でも悩んでいるのである。

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    つまり、プラザ合意で日本は、輸出よりも内需に依存して成長することを求められたのだったが、その「内需」が今にいたるも十分ではなく、成長を輸出に依存する体質は以前にも増して強くなってしまったのに、輸出産業が海外に流出してしまったり、海外の景気が落ちて輸出先がなくなったりしているから、にっちもさっちもいかなくなっているのである。

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    (2)作るだけで、需要面での政策が足りない

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    なぜ日本の内需は盛り上がらないのか? 2007年には家計貯蓄率が僅か2.2%にまで落ち、けっこうカネを使っているというのに。

    ひとつには、日本政府の経済政策がいびつであることがある。つまり生産・供給面についての政策は経済・産業省が中心になって懸命にやるし、財政・金融面についての政策は財務省、日銀がしっかり支える。ところが需要面についてはどの役所も筋道立てては考えていないようだ。内需拡大と言っておきながら。

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    つまり生産・供給はきちんとしても、それを国内で消費しきれない。だから国債を発行して市場から余剰の資金(つまり消費や投資に向かいきれていない資金)を吸い上げては、予算として配分することで、貯蓄を強制的に消費・建設に回しているのだ。そしてそれでも余った分は輸出に向けられる。

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    確かに、輸出は必要だ。自分で輸入する分くらいの輸出はしていないと、経済が持たない。だが日本の輸出は輸入を賄って余りがある。その分はもっと輸入を増やすなり、収益を国内で投資・消費に向けるなりして、生活水準を上げていくことが、経済の目的ではないのか? 

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    これからの生活モデル、社会整備のモデル・目標を社会が共有していないから、需要が盛り上がらない。供給増大、競争力向上、あるいは財政バランスの回復だけに努力が集中して自己目的化し、需給ギャップを生じさせてしまう。いつも家計の財布のひもをきつく絞り、働け、働けと尻をたたく一方では、小遣いはぜんぜんくれない女と結婚しているようなものだ。

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    (3)「生活レベル大国」を目指し、そのためにカネを使おう

    (イ)日本の戦後には坂の上の雲に相当するような、モデルがあった。目標があった。それはまず第一に戦前の都市中産階級の生活レベルを回復すること、次にテレビ、電気冷蔵庫、電気掃除機、電子レンジ、クーラーを買って、「お隣さんと同じ」になり、ピアノと車を買って隣りを抜き去ることだった。だが住宅は高いし、それに退職後は田舎に帰るかもしれないから、うさぎ小屋のままだったのだ。

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    モデル、目標・・・。「需要面での政策がない」と書いたが、経済学上の需要政策のことを言っているのではない。社会心理学上のことを言っている。つまり、われわれ自身が生活水準向上における当面のモデル、目標を持つことを言っているのである。

    そしてその場合ヨーロッパ諸国(すべてではないが)における住宅水準、田園・都市景観、社会保障の水準(つまり住みやすさ、住み心地)は、目標とするに最も適しているのではないか? 日本と所得水準がほぼ同じであるし、米国よりは格差の小さな(特に北欧)社会だからだ。

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    広いリビング、家族それぞれのための個室、客が家族で何日も泊って行ける部屋をそなえた家、アパート、そして交通を妨げ、景観を害し、カラスをはびこらせる電柱・電線のない落ち着いた景観、人口は少なくても十分ある経済の活気、人口が少ないゆえに生ずる住みやすさ(経済で過当競争が少なくなり住み分けができている、渋滞がすくない、交通機関がすいている、託児・介護サービスが充実している等)などをわれわれが目標として共有し、それを実現する方向で政府や個人のカネを使っていったら、これまでのようなバラマキではない、消費が更なる消費と投資を呼ぶ、意味のある需要喚起ができるだろう。家が大きくなれば、そこに置けるモノも増えるので、需要は恒常的に高いレベルに移行するだろう。

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    ここに述べた政策のうちいくつかは既に施工されている。例えば一定以上の面積を持つ家を建てると、税の優遇措置が受けられるなど。だがそれら措置のほとんどは知られていない。もっと発信が必要なのだ。たとえば総理が「みんなでもっと、いい家に住もうじゃないか」というスローガンを広く行き渡らせることが必要だ。

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    (ロ)国債についてはあとで議論するが、市場金利を過度に押し上げないかぎり、増税よりましなものだろう。増税は経済を縮小スパイラルに陥れるが、(適度の)国債は経済を拡大させるからだ(注:金利が上昇してきた2026年現在、筆者の意見はこことは違う慎重なものに転じている)。

    今のように需要が足りないときは、国債で資金を吸い上げ、生活水準をいちだんと高いレベルに移行させたうえで、経済をまわしていけばいいだろう。具体策はあとで論ずる。

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    (4)デンマーク・モデル?

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    品のいいデザイン、世界一と言えるほどおいしい食材の数々。シャイで親切な国民性。だが、この国が日本に似ていると思ったら大間違い。デンマークは小国だから、外国との関係なしには生きていけない。外国に取り囲まれているとは露知らぬかのように、「善い国」とだけ時々付き合っていけばいいと思っている日本人とは違う。デンマーク人は昔から、他を侵略し(アングロ・サクソンと言われる英国も、実はデンマークに支配権を乗っ取られたのだ)、あるいは他から侵略されて(近くは第2次大戦中、ドイツに占領されていた)生きてきた。

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    国内では昔から、英語やドイツ語のテレビを受信できたし、英語もドイツ語もデンマーク語に近いので学校で少し習っただけでできてしまう。輸出はGDPの33%分に相当し、これはドイツの約40%には及ばずとも、日本の約16%をはるかに上回る。自分の言語、自分の文化、自分の社会に強烈な誇りを持ちつつも、デンマーク人が生きていく上で外国で働くこと、外国人と通婚することは常にごく当たり前のオプションとしてある。つまり日本語で言う「国際化」された国なのだ。

    そして人口が550万人だから、社会にいつもゆとりがある。過当競争があまりない。それでいて、大都市の繁華街にはにぎわいもある。

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    そして、北欧人はもともとはヴァイキングなのだから、日本人よりよほど自立心がある。個人と政府との関係ももっと合理的で、ドライである。

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    北欧というと、われわれはスウェーデンの方を思い浮かべがちだ。確かにスウェーデンは世界的大企業も多く(随分少なくなったが)、社会保障も整っている。自分はスウェーデンに在勤もした。だが今回は家内の国デンマークのことを少し真面目に勉強したので、そちらの方を紹介したい。

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    (イ)デンマークは、大企業こそ少ないものの工業国だし、食品の質の高さと美味しさは世界最高だ。工業製品も高い文化水準に支えられているので、性能はもちろんデザインの面では世界をリードしている(家具、Bang and Olufsenのオーディオ機器、Georg Jensenの装飾品等)。

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    (ロ)そしてデンマーク人の生活水準は高い。それも成金的でなく、質素さを維持しながらごく自然に高い水準で住んでいる。それは社会常識になっている。小中校教師で月給平均約60万円(ただしそのうち半分くらいは税金で持っていかれる)だが、それでも5 LDKくらいの広々とした家に住んで当然と、彼らは思っている。

    介護つき(但し軽度のもの)老人ホームは市営のものでも待つことなしに入ることができ、1人で80平米ほどの1LDKを使うことができる(但し入居者の切実度に逆比例する料金が年金から差し引かれ、貯金を持っていると料金はさらに高くなる)。

    街には石造りで高さ、様式の揃った家がならび、電信柱や電線はあっても景観を妨げないように按配されている。

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    (ハ)1990年以降、労働時間は週37時間で、毎年5週間プラス3日間の有給休暇が取れる。欧州ではこのような長期休暇は常識であり、「同僚に迷惑をかけるから」といった意識は見られない。

    おそらく欧州では競争より住み分けが経済の原則になっていて、担当者が休暇のときはその担当の案件は誰も知らなくて当然、進まなくて当然、というぐあいに許容度が大きいからであろう。

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    (ニ)そして何よりも、高度な社会保障が経済の重荷になっていないようで、経済は活気があり(世界金融恐慌までは)、外国企業もデンマークに立地(して、EU全体をねらう)することを好んでいることが、われわれの関心をひく。日本の場合、大企業は多数あっても、それがもう生産の半分は外国に移してしまったがために、税収や雇用で以前ほど大企業に頼ることはできなくなっている。

  • デンマーク紀行 2026年8月

    7月26日から8月8日まで、家内の里帰りについてデンマークに行ってきた。10年ぶりくらいだろうか。街の表情は変わっていなかったが、気がついたことを記しておく。

    デンマークが何にでも優れているわけではない。日本のモデルにすぐなるわけでもない。しかし、人間の尊厳やら高い生活水準やら、いわゆる「近代」の価値観を割と落ち着いて、着実に維持している点で、我々の参考であり続ける。トランプ米国が19世紀の荒くれ帝国主義に回帰しようとしているだけに。

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    シンガポール経由の長旅

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    ロシア制裁でシベリア上空を飛べないため、モスクワや欧州に行くのは大回りで時間がかかる。北極回りや北京経由もあるが、今回は安いチケットで、しかも信頼性のある航空会社、シンガポール航空を選んだので、えらい目にあった。シンガポールまで7時間、空港で待つこと7時間、そこからコペンハーゲンまで12時間、合計26時間で、これまでで多分最長の旅行。8月末の今も疲れている。

    シンガポール航空の乗務員は、昔は良家の子女という感じ。今は普通の青年たち。英語だがわりとブロークンでしかも早口だから、飛行の騒音もあり聞き取れない。

    成田を出る時は気温34度、シンガポールには夜着いたこともあり、28度になっていた。要するに、地球が傾いて、赤道が日本を通るようになった感じ。

    チャンギ空港、思っていたよりアジア的生活感が漂う。まず人間が、アジア系がほとんど。このあたりに定住していると思われる白人たちも日に焼けて、ヨーロッパ風でなく、アジア風になっている。ただ一見して、「中国人」は少ない。

    従業員たちは、早口のごちゃごちゃ英語。ラウンジ(一般客用の有料)は静かでなく、食器のぶつかる音、水の出る音、赤ん坊の泣き声。そして粗末でべたべたしたソファ。

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    アフガニスタンの灯火?

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    シンガポールからは、12時間のフライトで参った。夜中なのでなんと読書のためのランプも消せという。しょうがないからフライト・マップばかり見ていた。普通なら中東のドバイあたりを経由するのだが、今はイラン戦争で危ない。ひょっとしてアフガニスタンから中央アジアを突っ切り、カスピ海を横切るルートでも通るかと期待して、マップを見ていると、どうもインドを横切ろうとしているらしい。つまらない、と思って、居眠りをして、目が覚めると飛行機はアフガニスタン上空にいた。

    面白い、でも下界は真っ暗だろうと思って窓をあけると、さにあらず。大きな灯火の塊がいくつかある。マップはここはGazojek地方で、近くにはMashhadという町があると言う。アフガニスタンもこの頃は電力事情が良くなったのかと思って、あとで調べると、これはもうトルクメニスタン領だった。残念。

    とは言え、地方都市でもあれだけ夜景がきれいというのは、トルクメニスタンもけっこううまく統治されているのだ。

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    海のようなカスピ海を横切り(最近は水量がどんどん減っているが)、コーカサスを横切って黒海上空に出ると、トルコ沖合は船(の灯火)が多い。しかしウクライナに近づくと、動く船はない。下界は本当に「黒」海になった。そしてルーマニアのあたりから下界は曇ったが、ハンガリーのあたりで雲の切れ目から、広大な無人の湿地地帯のようなものが見える。ChatGPTに聞いたら、多分ナジ・シャーレートという大湿原だろうと言う。いくつかの川が流れている。こんなのがあるとは知らなかった。昔オスマンの軍隊がハンガリーを攻略する時、ここは森林だったのか、それとも今の湿原だったのか。いずれにしても簡単に行軍できるとは思えない。

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    旅券審査の行列

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    昔、デンマークに入るのは簡単だった。ところが今は難民を防ぐためかテロ対策か、旅券審査にやたら時間がかかる。旅券審査の窓口の前は大行列。待ち時間は1時間ほどだった。それを知っていた僕は、折り畳み式の小さな椅子を持って行って、待ち時間をしのいだ。

    考えれば、車椅子を貸してもらえばいいのだ。

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    デンマークは広い

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    デンマークは広い。車で走ると、果てしがない感じ。グリーンランド等を除く土地の面積は42,957 km²で、関東平野の2.5倍。ここに僅か600万の人々が暮らす。人口密度は1平方キロあたり139人で、日本の326人の2.3分の一。日本では「可住地」での人口密度は約1000人なので、実感はデンマークと比べ物にならない。

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    風が草を吹き分けて渡る音。小鳥がどこかで鳴いている。典型的なデンマークの夏。薄青い空。丘を森(森はけっこうある)が彩り、その上に風車がそびえて大きな腕を振り回している。巨人のよう。しかし目立たない。1つか2つが散在。時間は悠揚迫らず滔々と流れる。

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    日本は人口が減ると大騒ぎするが、僕には全然わからない。ゆったり生きて、デンマーク並みの生活ができたら、それほどいいことはないではないか。我々団塊世代が消えれば、余計な医療費・社会保障費の負担もぐんと減って、日本は少子化社会のメリットを享受できるだろう。

    今のデンマークでは、高齢でも本雇いの職を見つけるのは割と簡単だと、知人が言っていた。「雇い主にとっては、高齢者の方が若者より信頼できる。若者はSNSに没頭したりして」と。

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    デンマークでも人間は、離婚・再婚を繰り返し、愛憎・遺産関連はこんがらかる。それでもデンマークに着くと、何となく安心感、開放感がある。たぶん、「個人」の重みがあるからだろう。日本では初対面の人に会うと、無意識に格付けをし始める。どのくらいの敬語でしゃべったらいいかの品定め。息が詰まる。

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    社会のデジタル化、そして紙幣の消滅がもたらす生活の不便

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    デンマークは政府の事務の電子化では、世界の最先端をいっている。昔から個人ナンバー制度が定着しているからだ。

    ただ、電子化は不便ももたらす。昔、汽車の切符は窓口で買った。今は、少し郊外に出ると、電車の切符も器械が一つ置いてあるだけ。もし殺到したらどうなるのだろう? 今回、違う日付の切符を買ってしまい、変えようと思ったのだが、器械は対応していない。駅員もいない。便利なはずが、決められた経路から外れると、どうしようもなく不便なのだ。まあ、駅の事務室を見つけて直してもらったけど。

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    デンマークでは現金を、ほぼ使わなくなった。すべてスマホとカードで済む。それがないと、市電もトイレも使えない。「通貨」が日常では意味を失った。デンマークで使ったものは、自動的に日本の口座にチャージされる。ここでは通貨というのは、銀行間の交換率でしかない。

    しかし現金が使われない社会は、結構地元の人しか生活できないclosedなものになってしまう。昔のデンマークは諸方に公共トイレがあった。今でもあるが、ほぼ全ては有料になって、国内で使う何とかカードを持っていないとドアも開けられない。まあそこは出てくる人がいたら、ドアを押さえてそのまま入ってしまうとかの便法で切り抜けたが、これを本当の便法と言うのだろう。これも過度のIT化の弊害。

    カードがあっても器械が壊れていることがあって、こうなると二重にどうしようもなくなる。駅の外の観光案内所とか商店でお世話になるしかない。

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    デンマークの鉄道・様々の様相

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    デンマークの駅の建物、列車などは大きく、ごつく、加えて古いものは薄汚れているから、少々気が疲れる。日本のは手入れがよくて女性的と言うか。

    構わない気質と言えば、60両ほどの貨物列車が目の前を通り過ぎていったが、すべての貨車(有蓋)にペンキ絵が施してあった。壮観。そして結構、現代美術として鑑賞できるものになっている。ドイツからやってきた貨車も紛れていて、やはりペンキ絵を塗られていた。

    電車は2階建ても多い。1階が全部、自転車と大きな荷物用になっているものもある。客は、壁に埋め込まれたベンチを引き出して使う。

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    列車の多くは時間通りやってくる。しかしディーゼルが多い。数十年経っているのをまだ使っているのだ。デンマークと言えば風力発電で発電量の約6割を賄っているから、多分すべて電車になっているのだろうと思っていたが、さにあらず。中には電車とディーゼル車が連結されているものがある。どうやって車輪の回転を同調させるのだろう?

    面白いことに、二つの車両を一つの車台でつないでいるものがある。車輪の数を節約できるのだ。だが、これでカーブを曲がれるのか? 曲がっていたが。

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    電車のトイレも故障しているものがあった。そして電車はキャンセルになることが多いが、駅のアナウンスがあるだけ。表示で=になるだけ。外国人にはわからない。

    最近では酷暑に悩む南欧諸国からの避暑客が増えていて、切符の買いにくい鉄道は、いつも立客でいっぱい。

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    暮らしぶり

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    日本の暮らしは10年前まで「世界一」だったように思えるが、それは都心。郊外ではデンマークと雲泥の差。かなわない。コペンハーゲンから電車で30分ほどの郊外で、6000万円で広大な一戸建てを買うことができる。

    海岸の公園に行くと、キャンピング・カーが並び、大勢の人でにぎわっている。無料の遊具が充実していて、子供達の楽園。全部白人で、かつての野尻湖外人村を思わせる。

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    都市は荒れている所と繁栄している所に分化している。端の方では投資する者もなく、店も閉まったままの所が多い。家内は、「これでは第三世界。東京の方がいい」と言った。デンマーク第三の町、オデンセは、滞在最初の日は天気も悪く、さびれた感じ。空の店が多い。廃墟を歩く感じで生命感がない。しかし次の日からは快晴で、昔のオデンセ。明るく豊かで自由な街に戻ったから、印象というものは当てにならない。

    (Odense駅前 アンデルセンの彫像)

    それでも、ヨーロッパはヨーロッパでなくなりつつある。雑然としてきた。昔のローマ帝国末期ほどではないが、白人が治める小帝国化してきたと言うか。

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    社会の変化を如実に示すものは、墓地の変化だ。変化というか消滅の方向。多分、家系が絶える例が多いのだろう。公営の墓地では、更地が増えている。そして20年程前までは、「何々家」という立派な、ロミオとジュリエットに出てくる一戸建ての家のような墓が並んでいたのに、だんだん減っていって、今回はほとんど皆無。普通の墓も、公営墓地では年数が経つと更地にされてしまう。社会はバラバラになってきたのだ。

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    そして完成された社会の窒息感。デンマーク、ノルウェーは社会の完成形に見える。双方、自制が効いていて、米国でのような勝者一人取りを許さない。しかしそのためか、芸術は何かが足りない。作曲家ニールセン、彫刻家のニールセン夫人にしても、突き抜けるようなエゴがない。

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    沈滞か繁栄か――デンマーク経済

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    デンマークの経済は1970年代には対外債務も増え、失業も増える等、沈滞していたのだが、1970年代に始まった北海油田開発が1980年代から経済への寄与を強め、1990年代には石油・天然ガスの純輸出国となって、経常収支や国家財政を支える重要な収入源となった。そしてドイツを筆頭に外国資本も入ってきて、経済は基本的に好調である。ここらへんは、この紀行文の近くにアップしてある論文「デンマーク・モデル――日本でどこまで有効か」に詳しいことを書いているので、ご参照いただきたい。

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    デンマークや北欧諸国の経済は、投資・成長と分配の間のバランスがいいことだ。デンマークの場合、最近では「産業財団」という企業形態が注目されている。これは、普通の企業の上に「財団」を乗せる。この財団は企業の多数株を保有しているが、非営利団体で、公益を目的に掲げる。その長は保有企業のCEOが兼ねることもあって、保有企業の長期戦略を定める。

    企業は上場されていて他者の投資を受けるが、多数株は財団が保有しているから敵対買収はされない。そしてその配当が、財団の収入となっていて、この収入をR&Dや環境問題などの社会事業、あるいは慈善目的に寄付すると、その分は税が控除される。

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    このやり方は1984年の「商業基盤法」で法制化され、今ではこの方式の企業の株価総額が、全体の半分以上を占めるに至っている。実例たるや錚々たるもので、株価総額で世界29位の製薬大手ノヴォ・ノルディスク、ビール大手のカールスバーグなど。世界一の海運企業モラー・マースクも、多数株を外部の財団が保有する。

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    この方式が優れているのは、株式を上場しながらも、ハゲタカ・ファンドやモノ言う株主の短視眼的要求を気にせずに企業経営をできること、そして企業活動を営利と公益の間でうまくバランスさせやすいということだ。

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    英米系の事業家は、所有権を絶対視しがちだ。幹部や株主のエゴが優先されて、社員は簡単にクビになったり、企業ごと身売りされてしまう。人間のエゴを抑制し、謙譲と思いやりの精神を大事にしないと、格差丸出しの米国経済のようなことになるのだが、この点でもデンマークの産業財団は参考になる。

    人口縮小は怖くない。ゆとりのある暮らしができるチャンスなのだ。

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    デンマークの外国人

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    デンマークでは昔からトルコ人移住者が多かった。彼らの多くは社会に同化して、働いている。問題になるのはアラブ系で、社会にまだ同化していない者が多い。デンマークの手厚い社会保障に依存する気持ちが強いと言われる。

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    しかし街では、一発でイスラム系とわかる外見の人間は少なくなった。目元まで黒づくめの装束でぎょっとさせる女性から(完全に異質で、同化の意志なし)、洗練されていて、スカーフを被っていることでだけ、イスラムと知れるような女性まで様々。

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    ロシア人が面白くて、この戦争の時代、ごく当たり前に外国の街を歩いている(ロシア語をしゃべっているからわかる)。外見・挙動とも洗練されて西欧的な若者カップルから、コペンハーゲン駅の傍らでは、初老の男2人がベンチに腰掛け、ロシア語で会話している。ベレー帽をかぶった労働者風。まるでペーソスあふれるソ連映画を見ているような。

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    日本は昔と同じく、目立たない。日本人の僕の方も、日本を特にアピールしたい気も起きない。もう諦め。それでもスシ・レストランはかなりある。もう定着している。コペンハーゲンの遊園地チボリの一角には、日本横丁「光」があった。大きな面積を占め、タイ焼きまである。フジヤマ・ゲイシャの異国趣味ではなく、マンガの時代、Japanクールの時代の名残り。日本車は少ない。街を走る車は欧州系を中心に本当にばらばら。一番多いのはTeslaであるように見えた。

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    中国、中国人も目立たない。ある知人は、「我々は中国人を信用していない」と言った。彼は、「ロシアが攻めてくるとも思わない。攻めてくるというのは、何かの宣伝だ」そうだ。

    以上

  • 円キャリートレードの逆転近づく

    米国経済(金融)は今、黄信号がついている。国債の出し過ぎで長期金利が上昇、これは米国債の値崩れと財政危機、ドル価の低下を招きかねない上、株価も暴落して米国中産階級の資産を大きく減らしかねないからだ。

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    ベッセント財務長官は、日本にあからさまに利上げを求めている(それは高市首相にタカイチノミクスを止めろという意味も持つ)。日銀が利上げをすれば、それは米国でも利上げへの圧力になるだろうからまずいのではないかと思うのだが、ベッセント長官は考えを変えない。彼は、円安が進んで、それがある日急激に巻き戻されると(日銀の利上げ)、資金は米国から日本に急激に向かうことになり、米国の金利を急騰させ、米国債の値崩れを招く、と考えているようだ。円安を「徐々に」巻き戻したいのだろう。

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    しかし、金融市場を「徐々に」動かすのは難しい。1985年のプラザ合意では、米日独の協調介入で、「適度のドル安」を実現しようとした。しかし市場は雪崩を打って一方向に動き、円は1ドルに対して合意前8月平均237円から、1年後の8月には平均154円に切りあがっている。

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    今、日銀が利上げに動いた場合、それが「徐々の」変化を狙ったものであっても、市場は雪崩を打つ可能性がある。ベッセント長官は出遅れて、既に時宜を失した圧力をかけ続けることで、市場の暴発を招くことになるかもしれない。

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    円は実は怖いのだ

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    大げさなことを、と思うかもしれないが、日本の円が米国の金融市場で実は大きな役割を果たしてきたことを見ておきたい。日本の低利の円でドルを買って、高利回りの(日本に比べて、の意味)米国債、そしてその他の債券・株式を購入して利益を得る、いわゆる「円キャリー取引」のおかげで、米国の金融市場は延命されてきたからだ。

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    円キャリー取引は日本人も外国人も

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    「円キャリー」のせいで、円安はどんどん進む。日本の食品価格はどんどん高くなっていく。ドルで測ったGDPでは、世界での日本の地位は無限に小さくなっていく。

    いったいこの「円キャリー取引」は誰がやっているのか。外国人だったら許せない。日本人だったら筆誅だ。と思って、調べてみると・・・。

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    結論は他愛ないもの。日本人も外国人も「円キャリー取引」をやっている。動機はいずれも、「円よりドルで持っている方が儲かるから」という単純なもの。日本人は「円キャリー取引」で自ら無限の円安を招いていることになる。

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    円キャリー取引の規模

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    何が「円キャリー取引」なのかというきっちりした定義は難しい。その中には、国際収支統計にきちんと載っているものと、犯罪ではないが統計には出てこない取引の二種がある。

    前者には、例えば日本の金融機関(郵貯、年金基金GPIF、農林中央金庫、生保、都市銀行、地方銀行による米国債の購入)による米国債等の購入、後者の代表的なものには、FXで円でドルを買う行為(ドル/円ペアの平均日次取引量は推定で1.3兆ドル)、各種デリバティブやオフバランスの取引、銀行・ヘッジファンドなどによる非公開の取引などである。中にはレバレッジのついている商品もあるので、額面の数倍の影響を市場に与える。

    両者が一度に動くと、米国の長期金利は数十bp(0.1の単位)変わり得るものと評価されている。

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    この中では、日本の公的金融機関による買い付けが大きな意味を持っている。というのは、2001年の小渕政権が開始した財政投融資改革で、郵貯や年金基金はその資産を大蔵省の資金運用部に全額差し出す義務を免除されたため、郵貯や年金基金は集まってくる金を、利益を求めて米国債等に投資するようになったからである。

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    最近でも郵貯は約88兆円、GPIFは約79兆円相当の外国証券等を保有している。ChatGPTに更に細かい集計をしてもらったところ、GPIFが保有している米国債は、2026年3月末時点で36兆8,414億円(2300億ドル)相当。GPIFの総資産の約8分の1に相当する。GPIFはこれを一度に処分することはしないが、大きな重みを持っていることは事実。

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    なお、財務省の管理する「外貨準備」も、「円キャリー」の性格を持っている。というのは、1972年に政府への外貨の強制売却制度が廃止されて以来、日本の企業は対外取引で得た外貨を自分の裁量で運営、支出しているからだ。つまり財務省は特別に国債を発行して円を入手。その円でドルを購入しているのである。これは、貿易黒字で円高が無限に進まないよう、ドルを買っていたのだが、今はそれで溜まったドル=外貨準備を少し放出して過度の円安を防ごうとしているのである。

    これは、ドルが上がる方向に作用するので、ここで問題にしている無限の円安を生む悪性の円キャリーとは全く違う。

  • 米国債値崩れの前例

    今、米国の長期金利が上がっている。つまり長期資金が足りなくなってきたので、10年もの以上くらいの米国債はよほど高い利回りをつけないと売れなくなる。それは、財政危機を意味する。

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    そこで、戦後の米国で、国債がかなりの期間にわたって値崩れをしたことはあったのか、ChatGPTに調べてもらった。以下がその対話。

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    小生:

    やあ。昨日も聞いたかもしれないが、戦後、米国国債がかなりの期間にわたって値崩れしたことはあったっけ?

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    ChatGPT:

    ありました。しかも、かなりの長期。戦後最大の例は、広く見れば1946年ごろから1981年までの約35年間です。債券史ではこの期間を米国債の長期的な「bear market」と捉えることがあります。

    ただし、「35年間ずっと毎年値下がり」という意味ではありません。途中には何度も国債価格の反発があります。しかし大きな流れでは、国債利回り上昇 = 既発国債価格下落が続きました。

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    数字を見ると非常にはっきりしています。10年国債利回りは、

    1953年:約2.8%
    1965年:約4.3%
    1970年:約7.4%
    1979年:約9.4%
    1981年9月:約15.3%

    まで上昇しました。

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    つまり、戦後直後に2~3%の利回りで発行された長期債をずっと持っていた人から見ると、市場価格は長期にわたり猛烈に圧迫されたわけです。特に1965~81年は、「長期国債の値崩れ」という言葉がかなり適切です。

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    原因も今との比較で面白い。最初は戦争(第二次世界大戦)で膨らんだ政府債務を抱え、Fedが金利を低く抑えていました。

    その後、財政支出拡大、ベトナム戦争、インフレ、石油ショックなどが重なってインフレ期待が定着し、投資家が国債に高い利回りを要求するようになった。

    最後はVolcker連銀総裁がインフレ退治のため猛烈な金融引締めを行い、10年債利回りが15%を超えます。

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    そして1981~82年が大転換点です。インフレが沈静化すると金利が下がり始め、逆に国債価格は上昇。1982年の長期国債リターンは非常に大きくなりました。

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    以上から言えることは、「米国債は安全資産だから、長期間値崩れすることはない」とは必ずしも言えない、ということです。

    デフォルトしなくても、インフレ・財政への不信が何年どころか何十年というbear marketをもたらすことはあり得るのです。

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    ただ、現在との決定的な違いがあります。1946~81年は基本的に「インフレと金融政策」が中心でした。今われわれが気にしているのは、それに加えて巨額の国債供給そのものと財政信用、外国人需要の低下が長期金利を押し上げる可能性です。実際、直近では30年債利回りが2007年以来の高水準まで上がっています。

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    小生:

    だから、今回は危ないんだよね。基本的に「米国売り」になる。

    そう。今回は「米国売り」に発展する経路が、過去の典型的な金利上昇局面よりはっきり存在する、というのが怖いところです。

    ただし、まだ「米国売りが始まった」と断定する段階ではないと思います。

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    普通なら米国債が売られて長期金利が上がると、金利差からドルは上がる。これは「債券売り」ではあっても「米国売り」ではありません。ところが今回は、もし市場の解釈がインフレ懸念 → 金利上昇から, 財政不安 → 国債供給過剰 → 買い手不足 → 金利上昇

    へ移ると、話が変わります。

    その場合には、米国債↓+ドル↓+米株↓という「トリプル安」が起こり得ます。これは金利上昇がドルを支える通常のメカニズムより、「米国資産そのものから逃げる」力が強くなった状態です。

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    そして私が特に危険だと思うのは、その次です。

    国債価格下落 → 長期金利上昇 → ノンバンク等が持つ債券・ローンの評価悪化 → 証拠金・資金調達圧力 → 資産売却 → さらに国債・株が下落、という自己増殖的な回路です。

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    ただし一つ面白い逆作用があります。危機が本当に深刻になれば、世界中でドル建て債務の返済や担保差し入れのためのドル需要が急増する可能性があります。2008年や2020年3月に近い現象です。

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    だから私は、危機が来るなら単純な一直線ではなく、

    第1幕:国債安・金利高・ドル安・株安=「米国売り」
    → 第2幕:信用収縮・ドル不足=ドル急騰
    → 第3幕:Fed介入・流動性供給=金利低下、ドル反落

    という展開も十分あり得ると思っています。

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    そして金は、この三段階を考えるうえで非常に面白い。第1幕では金が最も素直な逃避先になりやすく、第2幕ではドル調達のため金まで一時的に売られる可能性がある。2008年にも似た動きがありました。

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    ですから、今回本当に見るべきシグナルは単なる「10年債5%」ではなく、長期金利上昇と同時にドルが下がり始めるかです。そこに株安まで重なれば、「金利上昇」から「米国売り」へ質が変わった、と見るかなり強い材料になります。

  • ワーグナー「指環」の思い出

    この8月は、バイロイトでワーグナーの「二―ベルングの指環」4作が初演されて150周年になるのだそうだ。

    バイロイトや「指環」には思い出がある。外交官としての初任の地が西ドイツの首都ボンで、そこにはなんとライン川が流れていた。着いて早々行ってみて、「ああ、これがラインか。これがヨーロッパか。でも結構川幅狭いな」という感慨にひたったことを思い出す。狭いと言っても少し上流にいくとそこはDrachenfels(竜の岩)という火山丘が岸にそびえる滔々たる流れで、そこを渡し舟(フェリー)で渡るとけっこうな幅があったものだ。

    火山丘と言ったが、このラインのあたりは昔、けっこう火山活動が盛んで、Drachenfelsのあたりは「七つの山」という地形になっていて、ここが白雪姫の小人たちが住んでいたところ。

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    そしてワーグナーに話を戻すと、「ニーベルングの指環」の第1話「ラインの黄金」はまさに、この竜の岩のふもとのライン川、その水中から始まる。3人の「ラインの乙女」=妖精が色好きの男を愚弄する。

    Wikipediaによれば、「ニーベルング族のアルベリヒは3人のラインの乙女たちに言い寄るが、乙女たちは彼を嘲弄する。憤るアルベリヒは河の底に眠る黄金を見つける。黄金の守護者でもあるラインの乙女たちから、『愛を断念する者だけが黄金を手にし、無限の権力を得て世界を支配する指環を造ることができる』『でもお前のような色ボケには無理な事』と聞かされたアルベリヒは、『ならば愛などいらぬ、力で全てを支配すればいい』と黄金を奪い、愛を呪う言葉を残して去る」ということ。

    なんとなく、今のアメリカの指導者を思わせる。

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    僕が「ラインの黄金」を初めてみたのは、モスクワのボリショイ劇場。当時のソ連では、ワーグナーはヒトラーと同一視され、しばらくご法度だったのが復活したのだ。で行くと、舞台の正面に確か透明なビニールのカーテンが下がって水を表し、その後ろで乙女=歌手たちが何と宙を舞っている。ベテランの歌手たちで重量があり、彼らをロープで吊り下げた滑車がギーギー言って、鑑賞を妨げた。

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    次に見たのは、あこがれの本場バイロイト。モスクワから監督のヴィーラント・ワグナーに手紙で、「これこれこういう者ですが、昔からワーグナーが好きで、特にバイロイトの公演はいつか見たいと思っていました。ついては一枚、割り当てをお願いできませんか」と書くと、事務局から返事が来て、買うことができた。こうでもしないと、とても手に入らない。

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    で、夏の休暇をとって、バイロイトの一番安い宿に泊まった。屋根裏。そして空いている時間は、公園のベンチで仕事のソ連関係の資料を読みふける。

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    第一夜「ラインの黄金」、第二夜「ワルキューレ」と来て、これは素晴らしかった。僕はコンサートやオペラでは大半を居眠りで過ごすのだが、これだけは全部起きていた。

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    で、第三夜の「ジークフリート」で問題が起きた。初めにヴィーラント・ワグナーさんが舞台に出てきて謝罪する。

    「皆様にお詫びします。ジークフリート役の××は風邪で声があまり出ません。ご容赦願います」だと。普通、代役を出すものだけど。

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    で、英雄ジークフリートのパートになると、音量がにわかに半分になって、これはボリショイの滑車の音より気になった。

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    そんなところが僕の「指環」についての思い出だが、後にソ連の崩壊を扱った大河小説「遥かなる大地」(熊野洋の筆名)では、末尾でアイデアを使わせてもらった。

    小説の主人公イリヤ―が暗殺されかけて意識を失い、モスクワが大水に覆われていくシーン。

    種を明かすと、これは「指環」の第四作「神々の黄昏」の終幕で、神々の城ワルハラが崩壊し、ラインの水に覆われていく場面から盗用したもの。まあ、ソ連崩壊にふさわしいではないか。

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    もっとも、今年は旱魃で、ラインの水も涸れているそうだから、どうしようもない。

    気候変動は文明を破壊する。