(これは2012年5月、滋賀県の安土に旅行した時の記録。安土はもちろん、織田信長の最後の居城。壮麗な夢が数年で、文字通り灰燼と帰し、あとは廃墟となったまま。それでも現地に行ってみれば、沢山のことがわかる。因みに安土が廃止された後は、城下に招聘されていた商人の多くは近くの近江八幡に拠点を移し、「近江商人」の名をはせる。)
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滋賀県とは
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まず滋賀県について。滋賀県と言えばこれまでは、琵琶湖の周辺の僅かな陸地を束ねた小さな県とばかり思っていたが、今回彦根や安土を訪ねて認識を一変した。陸地の部分も大きく、これがまた豊かな地なのだ。
その中で琵琶湖はこれこそ地中海のようなもので、通商路として古来多くの付加価値を生む存在だった。米原や近江八幡は美濃、木曽、そして越前方面に京都からの道がわかれる通商のかなめとして、これも付加価値を生む存在だった。だから「近江商人」という人たちが生まれたのだ。
(それにしても、今回再認識したが、京都と名古屋は東西ほぼ同じ緯度にあるのに、高速道も新幹線も大津から米原へ大きく北上したあと、名古屋に向けて南東に下りていく。京都と名古屋の間が鈴鹿山脈で隔てられているからで、ここを一直線に横切ることができれば、東京・大阪間はさらに近くなるだろう)。
そして湖岸に広がる水田の広さと豊かさときたら半端なものではない。それだけではなく、琵琶湖東岸を米原まで北上する名神高速道路の脇には三菱重工などの大工場が立ち並ぶ。産業構造が多様で、経済の足腰がしっかりしている感じだ。それでも大都市は少ないので、県の人口は全国の約1%、GDPでも全国の1%強程度に過ぎない(一人あたりのGDPでは全国上位)。そしてその中ではモノづくり、つまり第2次産業の比重が全国平均より大きいようだ。
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安土
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中国は早い時代から皇帝の権力が強く、隋・唐の時代には既に、日本の封建領主に相当する豪族はいなかった。地方に「城市」(城壁に囲まれた都市)はあったが、日本のような「城」はない。そして中世日本の「城」たるや、琵琶湖沿岸の彦根のような小都市であってさえも大変な規模を持ったもので(名古屋城、熊本城になると、もう大変なものだ)、当時の日本農村の生産力の高さをうかがわせる。
信長が安土に城を築いた理由については、定説がないようだ。安土の山頂―-まさにその100米余の山頂に、安土城は30米の高さでそびえていた――からは、琵琶湖の北半分はほぼ一望に見渡せるので、湖上の通商ルートの支配と敦賀港と京都の間の密輸品流通を取り締まるためかとも思った。
当時、日本海沿岸こそ日本の表玄関で、敦賀は古来、朝鮮半島などとの通商拠点だったのだ。だがその敦賀から京都に至る通商路は、琵琶湖西岸を通っていたので、「通商路としての琵琶湖」という僕の仮説も怪しくなってくる。そこで、安土は須弥山を思わせる地形であるとか、琵琶湖の聖地と目されていた竹生島の真南に位置するという風水のために選ばれた、とかの説もあることを紹介しておく。
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琵琶湖周辺の通商・経済について言えば、北東岸の長浜を根拠地とした浅井氏、湖を隔てた比叡山の延暦寺、そして北方敦賀の港を差配した朝倉氏のいずれも、信長に敵対して滅ぼされるのだが、この三者は通商路をめぐって結びついていたのだろう。延暦寺は琵琶湖の対岸の近江にまで荘園を持っており、僧兵を派遣してはにらみを利かせてもいた。延暦寺は、西欧で言えば、周辺に大領地を持つ修道院のようなものだったのだ。
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安土城
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安土城は、湖とは反対側から登る100メートル強(海抜では199米)の険しい丘の上に30メートルの高さでそびえていたので、相当な建築物である。大手門から城へと登る石段は写真にすると大したことがないように見えるが、実際には殺人的な段差と勾配で、敵軍がここを一気に駆け上ることは到底無理だっただろうし、山上の鉄砲隊の餌食になったことだろう。そして、丘のふもとに近いところに屋敷を構えていた秀吉は、山上の主君信長から伺候を命じられるたび、両手をつきつき、悪態を吐き散らしながらこの石段を攀じ登って行ったことだろう。
かつては、安土の丘の麓まで琵琶湖の一部が張り出していた。水に浮かぶ丘、その真上にそびえる金色の天守(第6層は壁も金で張ってあったので)といった風情で、当時城を訪れた宣教師フロイスは後述のように書き残している。
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因みに、天守の第5層と最上階の第6層(地下に一層あったので、7層と称された)を復元してセヴィリアの世界博覧会(1992年)に出品したものが、近くの「信長の館」に陳列してある。豪華絢爛そのもの。日本、中国、「南蛮」の趣味がキッチすれすれに、ないまぜになっている。そこらじゅう、金。戦国の当時、日本は世界でも2番目くらいの金産出国で、安土城の瓦も金で葺いてあったので、マルコ・ポーロが「日本の家は金で屋根を葺いている」と書いたのもあながち嘘ではなかったのだ。
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そして第4層までは中央部が吹き抜けになっている。そのあとは礎石を見ればわかる。因みに3年かかった築城の際、ものすごい大石が山頂に引き上げられ、それが天守の礎石として地下に埋まっているとの仮説もある。それにしても、第5層と第6層は今で言えばペントハウスみたいなもので、大事な客はここでもてなしたとしても、エレベーターもトイレもないので、信長がここで常時執務していたとは思えない。
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金箔と朱、黒の漆、極彩色の螺鈿、そして狩野一門の金泥の絵で飾られた安土城天守は、本能寺の変から間もなく原因不明の火事で夜焼け落ちる。100米の丘の上、火の粉が天に吹き上げる中、崩れ落ちていく金、そして朱の壁、金泥の書画の数々は、この世のものとも思えない凄絶な美しさを演出したことだろう。
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フロイス「日本史」から
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では、フロイス「日本史」からの引用。
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――「(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我ら(ヨーロッパ)の塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術で造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に描かれた金(色、その他)色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。
外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他の(あるもの)は赤く、あるいは青く(塗られており)、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で覆われている。それらは青色のように見え、前列(の瓦)にはことごとく金色の丸い取り付け(頭)がある。屋根にはしごく気品のある技巧をこらした形をした雄大な怪人面が置かれている。
このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。(それらは)すべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。」――
このような、一代限りの英雄の夢の跡は、他にどんなところがあるだろう。強いて言えば、坂本竜馬かな。




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