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日本歴史紀行 坂本龍馬の墓

                                         

2012年5月はじめ、小雨の京都、清水寺のあたりを散策していたら、坂本龍馬の墓という標示があった。龍馬は僕が若い頃憧れた英雄だとしても、墓参りをするほど傾倒したわけでもないので、ああこんなところに墓が、それにしても本物かと思いながら行ってみると、そこには国家のために殉じた者たちの霊を祀る「京都霊山護国神社」があった。

志士たちの霊を祀るための社をここに作れという天皇の勅令が、明治維新直前の慶応4年(1868年)に出ていて、靖国神社より少し古い。そして神社の傍らには東山幕末維新ミュージアム、霊山歴史館がある。

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護国神社と護国寺

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「護国」と言えば、僕は池袋の護国寺を思い出す。だが、他ならぬ京都の東寺も真言宗の護国寺で、他にも日蓮宗の護国寺もあって、それらは必ずしも戦没した英霊を祀るためのものではない。京都の宇治には、曹洞宗の靖国「寺」というのが昭和24年に開かれているが、これは戦争の英霊を祀ることを目的として設立され、靖国「神社」から約240万あまりの御分霊を得たと、ホームページには載っている。複雑なことだ。

他方、護国「神社」というのは日本中にいくつもあって、それは英霊をお祀りすることを目的としている。東京では靖国神社がその目的のために作られたのだが、ここは設立の時には軍の影響力が強く、以後も特別の地位を保持してきている。

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で話を戻すと、この小雨にけぶる京都霊山護国神社では山腹に坂本龍馬と中岡慎太郎の質素な墓石が並び立ち、その両脇の山腹をずっと上の方まで幕末勤王の志士1356柱の墓石がずらりと固める。これはすごい気を感じさせる地だ。

ここには他にも日清戦争、日ロ戦争、太平洋戦争などの戦死者も合わせ、約73000柱が祭神として祀られている。戦後の極東裁判で犯罪人として死刑の判決を受けたいわゆる戦犯の方々が、ここでどのような扱いを受けているかは調べていないが、こういう施設があること、そして日本全国に護国神社があることは、これまで全然知らなかった。因みに、この京都霊山護国神社は2002年に神社本庁との包括関係を解消した由。

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「志士」の実像

傍らの霊山歴史館には、池田屋事件とか龍馬暗殺とか、志士たちと新選組の死闘などをめぐる数々の話しがヴィデオも交えて陳列されている。まあわりと興味本位の、ありきたりの説明ぶりなのだが、京都の先斗町あたりで連日、こうした死闘が繰り返されていたかと思うと、臨場感がある。

攘夷を旗印にレジーム・チェンジを狙う志士たちを、幕府に雇われた新選組が夜の街に襲って血祭りにあげる。新選組はこうして、いつか幕府に本雇いの武士に取り立ててもらうことを夢見ていたのだ。

幕末の脱藩者たちが今では「志士」と呼ばれ、その一部は坂本龍馬のように英雄視され、明治維新をほとんど一人、二人の手で成し遂げたように喧伝されているわけだが、そのような英雄史観が実際の史実にどのくらい見合ったものなのかどうか。

歴史は個人、組織、政府が相絡まって織りなす、複雑な産物だ。史上名高い薩長同盟も、同盟のきっかけとなった薩摩から長州への兵器供与は、英国のJardin&Matheson商会に連なるグラバー商会の支援を仰いだものである。

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当時、フランスが幕府、英国が薩長の肩入れをしていたので、薩長同盟も実は英国資本の意を受けたもの、坂本龍馬はその兵器を薩摩から長州まで自分の船で運ぶことを受諾して、活動資金を稼いだ一匹狼。その程度の存在であったかもしれない。もともと彼が1864年に作った海運・亀山杜中は、薩摩藩がグラバー商会等を通じて最新兵器を入手するための、ダミーとして使われていたのだ。日本人である龍馬との取引ならば、たとえ兵器購入を幕府に咎められても、言い訳がたつということだったのだろう。

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だがそれにしても、龍馬はどうして殺されたのだろう。犯人は今でもわかっていない。脱藩し、独立した人間として大きなことを成し遂げた坂本龍馬は、僕も大好きなのだが、彼をあまり英雄視しすぎると、「一人のすぐれた政治家がいれば日本はよくなる」という、現在の日本社会における未成熟な政治理解を助長するものになってしまう。

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彦根城――井伊直弼のSPは一族郎党皆殺し?

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この後井伊直弼の居城だった琵琶湖畔の彦根城に行ったのだが、桜田門外の変を説明した文で、旧役人としての僕にいちばんショッキングだったのは、井伊大老暗殺を防げなかった護衛たちのその後の運命だった。浪士たちに殺害された護衛は除き、無事だった者たちは一部は死罪、家名断絶の処分を受けている。これが現代の日本だったら、SPのなり手はいなくなることだろう。

江戸時代は、市民社会と言っていいほど人々の暮らしは良かったことになっている。だが実際には、こういう有無を言わさない、苛烈な権威主義的社会でもあったことは忘れてならない。

                                  

河東哲夫