昨年7月、「『自由と民主』の世界史―失われた近代を求めて」という二巻本を藤原書店から公刊した。
そのさわりを、このブログに残しておきたい。今回はその第一回。
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文明とは
生産が拡大し、人々が集まってそれを束ねる者が現れると、「文明」が出現する。「文明」の定義は一定していない。文明は、英語のcivilizationの訳語だが、このcivilizationという単語は近世になってからのものだ。Civil(自分の権利を自覚した都市住民)という単語はギリシャ・ローマの時代にあり、ラテン語ではcivisである。つまり人々がcivil化された状態がcivilization, civilisationというわけで、それは物質生活・精神生活のあり方を包含したものだ。
似た言葉としてcultureがあるが、これは物質生活の水準の高低には関係なく、人々の習俗、芸術を指す。ここで論ずるのは、civilizationの方である。それも、よく研究されているメソポタミア、エジプト、インダス、黄河文明のいわゆる四大文明以外のものにまず目を向けてみたい。
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欧州の古代文明
人類の起源とされるアフリカの「ルーシー」からはずっと後代、ローマ帝国時代になってもただの森林地帯と思われていたアルプス以北の欧州にも、古い文明の跡が発見されている。今のトルコ東部では、農業用水の跡を思わせる約一万年前の遺跡群がある。これは、世界で農耕が始まったと考えられている時期よりずいぶん古い。
黒海のほとり、今のブルガリアの瀟洒な港町ヴァルナでは、紀元前五千年頃のものと思われる墓地・集落跡が一九七二年に発見されている。墓地などからは三千点、合計六キロくらいの金細工、銅器、陶器が発見されている。金細工の工芸の水準は高い。カスピ海北部や地中海のエーゲ海のキクラデス諸島と交易していた跡もある。
そして地中海のマルタ島南部には、紀元前四千五百年から二千五百年頃のものと推定される巨石神殿が多数発見されている。これはヴァルナの遺跡より大規模だが、集落の跡は発掘されていないようで、文明の有様についての手がかりはない。
イギリス南部のストーン・ヘンジ(紀元前2500~2000年頃のものと思われている)は良く知られているが、他にも今のアイルランドにはNewgrangeという大型遺跡(巨大な円形の塚)が発見されている。これは紀元前3100年から紀元前2900年の間に作られ、エジプトのギザの大ピラミッドよりも500年ほど、そしてストーンヘンジよりも約1000年古い。ただ、この天文施設か墓所かまだ確定されていない円形塚の他には何も発見されていないので、エジプトほどの整った国家機構は持っていなかったことだろう。
こうしたことからわかるのは、エジプトで統一国家が成立する(紀元前3000年頃)かなり以前から、欧州の各地でも都市国家規模の文明は起きていて、遠方とも交易していたということになる。未開の暗黒の中で、突然エジプトに文明の灯りがともった、というわけではないようだ。
この広いユーラシア・アフリカ大陸で、この四カ所だけに文明がほぼ同時期に始まった、というひと頃前までの「世界史」は、宇宙のビッグ・バン理論と同じで不自然、眉つばものなのだ。ユーラシア大陸は一つながりで、「四大文明」の間は空白ではない。その実例をいくつか訪れてみたい。
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今の中央アジアやトルコのあたりには、エジプト・メソポタミア・インダス・黄河の文明をつなげていた存在があっただろうと思う。ウズベキスタンやトルクメニスタンの南部は広い砂漠におおわれているが、そこここに突き出る丘の上には、昔ふもとが川で洗われていた時代に栄えていた都城の跡が残る。今でも砂の下に埋もれたままの遺跡も多いだろうと思う。
その中に、「オクサスOxus文明」遺跡群というのがある。紀元前2400年には都市文明を築いていたとされている。青銅器文明に属する。これは戦後、ソ連の考古学者たちによって発掘が続けられたもので、今のトルクメニスタン南部からアム川に沿ってウズベキスタン、タジキスタンの南部、アフガニスタンの北部に及ぶ。
今のトルクメニスタンの南部では、16世紀まで「オクサス川」が東西に流れ、灌漑農耕文明を支えていた。オクサス川は、ヒンズークシ山脈から流れ出すアム河が西へと流れてアラル海に注ぐあたりで別れ、ウズボイ谷を通って今のトルクメニスタンを東西によこぎり、カスピ海の東岸、今のトルクメンバシのあたりで注ぎ込んでいた川。1557年、この地方を通過したイギリスの商人、アントニー・ジェンキンソンは、オクサス川の水を灌漑に使い過ぎて、今に川が涸れるかもしれない、果樹が豊かになっていたところが荒野と化している、と書いている。
「オクサス文明」の別名は、バクトリアーマルギアナ遺跡群という。バクトリアはアフガニスタン北部のことを、そしてマルギランはトルクメニスタンのあたりを指す。これは灌漑農耕文明で、この北方には遊牧民のアンドロノヴォ文明が存在した。
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バクトリアーマルギアナ文明の出土品は、インダス・メソポタミア文明、そしてペルシャ文明との共通性を示す。一方、アンドロノヴォ文明の騎馬民族は、後にペルシャ・北部インドに浸透したアーリア系文明の先駆けかもしれないと言われる。このようにして、メソポタミアとインダス文明の間の空白が埋まってくるのだが、この遺跡群はソ連崩壊後はじめて注目を浴びるようになった存在で、文字史料がみつかっていないこともあり、研究はまだ初期の段階にある。
時代を下り、今のウズベキスタン南部からタジキスタン南部にかけて栄えた「ソグディアナ」地方のソグド人商人たちは――彼らが作った王国はジンギスカンに滅ぼされている――、中国とオリエントを結ぶキャラヴァン交易をになった。そのルートの終点などには一族が居住して、ネットワークを成した。彼らはさまざまな人々から資金を集めて商品を購入し、交易で得た収益を出資者たちに配分したというから、当時ヴェネツィアなど地中海で行われていた航海を砂漠のラクダでやっていたようなものである。こうした遠距離交易はかなり以前から行われていただろう。紀元前四千年には既に、アフガニスタンの貴石ラピズラズリがメソポタミア、エジプトに運ばれていた跡がある。だからこそ、黄河・インダス・メソポタミア・エジプトという離れた文明圏でほぼ同時に青銅器文明とか鉄器文明が始まり、終わっていったのだろう。
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文明が他の地域に伝わる方途の一つには通商がある。そしてもう一つは征服がある。征服によって文明を伝えるのは、遊牧民族である。特に、遊牧民族が馬と矢を使用するようになると、それは無敵の兵力となり、大きな帝国を生むことになる。モンゴル帝国はその典型で、最後のものは中央アジアのチムール帝国あたりであろう。
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古来、ユーラシア大陸の北半分には様々の遊牧民族が暮らし、それぞれの歴史もあまりわからない。どの民族がいつの時代にどのように動いたせいで、青銅器文明が、あるいは鉄器文明が他の地域に伝えられていったのか、その跡をたどることはできない。
その遊牧民族の一つ、スキタイを見てみよう。これは今のウクライナの南部を中心に活動した民族で、インド・イラン語系のいわゆるアーリア人と推定されている。この「アーリア人」というのは白人の別名で、白人優位主義の連中はこの名称を神聖視し、ヨーロッパ人でない諸民族も競って「アーリア人」を自称するのだが、漠然とした概念で、きちんとした定義はできない。
で、このスキタイ人はゲルマン人(これも漠然とした概念なのだが)と交わってスラブ人を形成したとされている。そのことはスラブ人の遺伝子を分析するとわかるのだそうだが、スラブ人と言ってもいろいろいるし、ゲルマン人と言ってもいろいろいるので、ほんとうのことはわからない。
わかっているのは、彼らスキタイの文化に属する遺跡はシベリア南部のトゥヴァで発見されているものが紀元前9世紀で最古のものとなっていること、そしてロシアのエルミタージュ美術館などに保存されているスキタイの金銀細工は本当に水準が高いものだということくらいである。ただこれは紀元前8世紀から同4世紀にかけてのもので、中国の「周」時代(紀元前1046年頃 ~ 紀元前256年)の高度の金属細工よりも後世のものだ。それに、今のイランのあたりを統治していた時代のスキタイ族は、その略奪一辺倒の野蛮な統治ぶりを嫌われて地元勢力に追い出されていることもあり、文明度はそれほどでなかったのだろう。
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だから、「世界四大文明」の間を媒介したのが遊牧民族だとしても、それはスキタイではないかもしれないし、スキタイの金銀細工が優れていたとしても、その年代は金属細工が既に完成の域に達していた中国の「周」朝よりも後のものなので、彼らが技術を媒介してまわったという証拠にはならないのである。中国では、周の前の殷の時代から青銅器は発達しているのだから、なおさらである。
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鉄器が世界に広がったもとを作ったのは誰かということについては、ヒッタイトの関りが有力視されている。ヒッタイトは別名ハッティ、あるいはヘテ、ヘト。どこが故地かはわからないがインド・ヨーロッパ語族で、今のトルコ中部を拠点にかなりの帝国を作っている。紀元前17世紀末に建国し、同1595年にはすぐれた鉄製武器でメソポタミアを征圧した。
当時のヒッタイトはエジプト、バビロニア、キュプロス、ミュケナイなどとともに地中海周辺の有力勢力で、互いに合従連衡、交易を繰り広げていた。エジプトの昔の首都アマルナ(Amarna)などで、当時の外交文書(粘土に楔形文字)が多数発掘されている。ヒッタイトの王とエジプトのファラオの間の手紙(粘土に楔形文字)など、医者や薬を送って欲しいなど、素朴なもので、外交の本質は昔からそれほど高級なものではなかったことを示している。
それはそれとして、このヒッタイトは鋼鉄の製法を発明した民族ということになっている。銑鉄ならそれまでもあったが、炭素を入れて兵器に使える鋼鉄を開発したのはヒッタイトなのだ。彼らはその技術を外部に出さなかったが、紀元前1177年頃、「海の民」と呼ばれる素性不明の勢力が地中海周辺諸国を軒並み破壊して回った時に滅亡して、鋼鉄技術は世界にひろがることになった――というのである。中国で鉄製武器がひろく使われるようになったのは秦による統一の前、紀元前5世紀からの戦国時代だから、平仄があっている。
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というわけで、「四大文明」の間には互いに交流があったのだろう。ただ、その交流を担っていたのはどういう人たちなのか、交流と言っても、それは貿易よりも征服活動だったのかについて、答えは出ない。宇宙の星の間には「暗黒物質」がつまっていて、その正体はわかっていないのだが、ユーラシア大陸にも同じような存在がいたのだろう。




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