皇室典範改正では、女性天皇を認めるかどうかという問題は棚上げになった。今上(きんじょう)天皇はまだ丈夫だから、国論を割ってまで後継の問題を議論することはない、ということなのだろう。
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1947年制定の皇室典範第一章第一条は、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と厳かに定める。男女平等を標榜していたGHQは何をしていたのかと思うし、それなら何で「総理大臣は男性に限る」と憲法草案に書いてくれなかったのかとも思うのだ。とにかくこの第1条を変えると国内が割れるから、これを変えずに、将来「万世一系の」皇統が絶えるのを防ぎたい、皇族の数を増やして公務の負担を減らしてあげたいという、ミニマル思考での改正だったのだろう。
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筆者は、天皇制について何の思い入れも意見もないけれど、21世紀の現代、天皇制についての議論はもっと合理的でオープンなものであって欲しいし、人間としての皇族の権利、お気持ちにも配慮したものであるべきだと思う。
今の憲法では、主権は国民にある。天皇は君主でも元首でもない「象徴」。生きた人間が象徴であるとはどういう意味か。いったい自分は何をしたらいいんだ、してはいけないんだ、ということで思い悩んでいるに違いない。
議論を合理化するために、天皇をめぐるいくつかの「神話」(思い込みという意味)を吟味してみたい。
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万世一系なのか
神武天皇は紀元前660年に奈良の樫原で建国したことになっている。当時、対岸の中国は春秋時代で統一国家はなく、やっと秦が中原だけ統一したのが紀元前221年。
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大和朝廷は、唐が成立してから百年もたった紀元720年にやっと完成した日本書紀を唐の朝廷に見せて、日本の国の格を制定してもらおうとした。隣の朝鮮半島の諸王国より起源を古くしておかないと、新羅や百済より末席に位置付けられる。それではかなわない、というわけで、神武天皇なる人物を持ち出した。その事績は、史料や発掘で裏づけることができない。
神武天皇は実に127歳、第11代の垂仁天皇は140歳で崩御したことになっており、第6代の孝安天皇は102年間天皇の座にあったとされている。その後初めて実在を何とか裏づけることのできる第10代の崇神天皇までの9人の天皇は、実に平均100年間在位したことになっている。
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神武天皇の陵があったということは、いくつかの史料に出てくるが、平安以降、言及はなくなり、その所在地は不明になった。現在、樫原神宮の横に神武天皇陵があるが、これは幕末、いくつかの候補地の中からそのように認定しただけの話しだ。
第10代の崇神天皇になると、日本書紀その他での言及は多くなる。それが示すのは、彼は外部からやってきた勢力だったのではないか、ということ。まず、祖神であるはずの天照大神を宮廷から外に出してしまう。代わって地元の大物主大神を崇拝することとし、宮司としてこれも地元に以前からいた三輪氏をあてる。三輪氏は出雲との関係を云々される勢力で、大物神と大国主は同一だともされる。だから崇神天皇こそ、九州方面から東征で飛鳥に乗り込んだ勢力なのだ、神武天皇はその事績を900年以上も昔に引き伸ばすために措定された存在なのだ、と言う人もいる。
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この崇神天皇の皇統が絶えた可能性があるのが、第15代の応神天皇。崇神系の仲哀天皇(日本武尊の子息で身長3米の由)は366年(推定)、九州の熊襲征伐に出かけ、翌年その地で急死してしまう。同行していた彼の皇后、神功皇后(実在は証明されていない)は摂政に就任、なぜか朝鮮半島に「三韓征伐」に出かけて、半年ほどで帰ってくる。神功皇后とか三韓征伐は、朝鮮諸王国の史書には出てこない。倭国の軍がやってきたとの記録は何回かあるが、いずれも朝鮮側が撃退したことになっている。
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それはそれとして、神功皇后は帰国するとすぐ、それまで陣痛をおさえていた誉田別皇子を出産し、その後も69年間摂政を続けて、390年(ここらへん、計算が合わない)に譽田別皇子、転じて応神天皇が即位したことになっている。70歳になっていたはずの応神天皇は、それから実に41年間も在位したから、111歳で崩御したことになる。
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神功皇后、誉田皇子は実在したのかどうか、実在したとしても70年間の摂政とはありえないのではないか、実際はこの頃の日本は内乱気味になり、九州、あるいは任那のあたりで台頭した勢力が東征して、応神天皇となったのではないか。現に応神天皇は飛鳥まで入り込むことはなく、飛鳥の入り口、大和川の河口、河内地方に本拠を構え、それによって応神天皇陵、仁徳天皇陵などがこの地方に集中することになった。
(このあたり、筆者のブログwww.japan-world-trends.comに詳しく書いてあるので参照ください)
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これを「応神王朝」とすると、その男系の血は第25代の武烈天皇で途絶える。彼は暴君であったらしく、その死の真相はわからない。いずれにしても遺臣たちは合議して、遠い福井(近江からという説もある)から、遠縁の男大迹王を招請する。ところが招請されたはずなのに、彼は飛鳥に入ることができず(応神天皇後、権力は河内に存在したようだが、その後雄略天皇の時代には飛鳥に入っていたようである)、507年河内で継体天皇として即位を宣明するも、諸方を19年間も転々とするのである。
この継体天皇の血筋が今上(きんじょう)天皇に至る。つまり、天皇家の歴史は長いし、多分世界最長の皇家なのだろうが、王朝の交代は何回かあったし、神武天皇に至っては後世の者が盛った可能性大、ということになる。
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ユーラシアの中の日本
天皇家をめぐる議論をすると、万世一系とか女系を認めるか認めないか、とかで、目が点になる人が多いのだが、実際の天皇家は生きた人間。他の日本人同様、もとはシベリアか、満州か、朝鮮半島あたりの豪族だったかもしれず、神のように絶対的なものとして崇めるのもおかしな話しなのだ。
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飛鳥には三輪氏、漢(あや)氏、葛城氏などの先住部族がいた。漢氏の居住していた地区からは高松塚古墳、キトラ(亀虎)古墳が発掘されている。この古墳の石室は、中国宮廷の官女とか、玄武、青龍、白虎、朱雀-中国神話の四神-を鮮やかに描いた壁画で彩られている。古墳に葬られている高貴の人物が中国、あるいは朝鮮半島と緊密な関係にあったことを思わせる。
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そしてここから大阪方面に25キロほど行った斑鳩に発見された藤ノ木古墳からは、金銀の絢爛豪華な副葬品が山と出てきて、現地に陳列されている。ユーラシアのスキタイ文明を思い起こさせる精巧な仕上げ。一つの冠の意匠はアフガニスタンで発掘された昔の冠に酷似している由。
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そして、応神天皇と朝鮮半島の関係については、日本書紀でも記事が多い。応神天皇は百済と頻繁に交流しているし、我々が学校で習った「ワニ(王仁)が朝鮮半島から千字文と論語を携えてやってきた」のは、応神天皇が百済から招聘したのだ。また、古墳に馬具の類が多く出土するのも、応神天皇以後のことらしい。
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つまり、日本人の祖先はユーラシア大陸、あるいは東南アジアからやってきたに違いなく、天皇家もその一員であったのだろう。
それで何か不都合はあるのか? ないだろう。別に、天皇家は朝鮮半島経由で来たのだから、現代の日本は韓国・北朝鮮に従う、ということにはならない。天皇については憲法・法律でその権限をよく定め、天皇御自身の人間としての権利も認めて、是々非々で付き合っていけばいい。目を点にして自分の思い込みを他人に押し付けることはないのだ。




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