(これは2017年10月の紀行記。酒田は江戸時代の北前船海運の拠点の一つ。北前船は北海道から昆布、ニシンを積み、日本海側にいくつもある河口の港で肥料として販売。代わってその地域のコメなどを買い上げつつ、関門海峡・瀬戸内を通って大阪堂島のコメ市場にまで至る、当時の物流の大動脈。酒田はそれより以前には大陸との交易もあったようだし、東北の山脈を超えると藤原氏の治める地域ともつながっていた。酒田をベースに江戸時代に栄えた廻船問屋兼、一帯の大「地主」、本間家の屋敷は今も残っている。少し南の庄内平野とともに、豊かなところだ)
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もう8月末のことになるが、生まれて初めて山形県の酒田、鶴岡に行ってきた。日本のこのあたりには本当に無縁で、今回初めて、山形県は日本海に面していて、新潟県にも接していることを認識した次第。スミマセン。
なぜ行ったかと言うと、日本の経済史の観点から関心があったから。外務省時代の僕の部下は酒田出身だったが、「何もないんです」と謙遜していた。しかし酒田は江戸時代の北前船の一大拠点。山形県の内部深くに入り込む最上川を伝って運び出される米やその他物資の積出港だ。「何もない」はずがない。それに近くの鶴岡という街は、ポスターで見るとすごく瀟洒で神秘的だ、行ってみよう、と思ったわけである。
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そしてもう一つは、酒田を本拠にしていた「本間家」という存在は何だったのかを知ること。江戸時代から大地主だったということだが、江戸時代は土地は基本的には幕府のもので、農民は自分で耕している土地の占有権を保証される代わりに年貢を納める義務を持ち、藩主には土地の所有権は与えられない。だからこそ、いつでもお取りつぶしや配置換えの目に会っていたので、地元の土地を所有していた西欧、ロシアの貴族とはそこが違うのだ。農地の私有と売買が認められるようになったのは明治6年以降の話しなので、それ以前に「大地主」になっていたという本間氏の話しはホンマなのかどうか、そして本当ならどうやって土地を私有化したのか調べたいということだった。
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問題は、あの方面への列車の接続は悪くて時間がかかること。仙台からレンタ・カーで行くのが一番速い。既に殆どハイウェーが通じている。
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日本は火山島
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ハワイなど、火山がそのまま島になったようなものだが、旅行をしてみると、日本もまるで湿疹のようにそこらじゅう火山、または火山の痕が見える。それは瀬戸内でもそうだし、山陰でもそう、そして今回の鳥海山、湯殿山、月山の出羽三山はもちろん、仙台周辺でも夕暮れの山稜はまるでジュラシック・パークのような火山性の荒々しさを露わにしたからたまげた。
要するに日本はマグマの上に乗っているカサブタにブツブツができたような地形で、その儚さたるや、中国や韓国にやられる前にいつ自分でぶっ飛ぶかわからない、そういう運命なのだ。もっとも、ボイラーの上で生活しているようなものだから、地熱発電をすれば十分ではないかと思うが、報じられている限りでは日本の地熱は原発数基分しかないそうで、日本人が生活するには不十分なのだそうだ。ホンマかいな、と思ってしまう。
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桃源郷と究極の貧困が並列していた出羽の国
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明治初期、お供を一人連れて東北、北海道を行脚した英国女性イザベラ・バードが残した「日本紀行」は面白いし、貴重な記録である。彼女は東京から日光経由で新潟に出て、そこから米沢方面に馬、籠、徒歩で行くのだが、日光から新潟の間の山岳地帯では究極の貧困、蒙昧、不潔に出会っている。講談社学術文庫版の上巻236頁にはこんなくだりがある。
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――鶏、犬、馬、人間が薪をたいた煙で黒くなった粗末な平屋にいっしょくたに暮しており、山になった家畜の糞尿が井戸に流れ込んでいます。幼い男の子で着物を着ているのはひとりもいません。ふんどし以外になにかみにつけている男性はわずかで、女性は上半身裸のうえ、着ているものはとても汚く、ただただ習慣で着ているにすぎません・・・家屋は汚く、正座したりうつ伏せに寝ているときの人々は未開人とたいして変わらなく見えます。風体と慎みに欠ける習慣にはぞっとするばかり・・・――
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それが米沢盆地に向けて山を下りていく時には、目の前にこんな光景が開けている(同320頁)。
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――好天の夏の日・・・米沢の平野は・・・申し分のないエデンの園で、「鋤ではなく画筆で耕されて」おり、米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、瓜、きゅうり、柿、あんず、ざくろをふんだんに産します。微笑みかけているような実り豊かな地です。繁栄し、自立した東洋のアルカディアです。・・・圧迫とは無縁――東洋的な専制のもとではめずらしい光景です。・・・いたるところに豊かで美しい農村があり、彫刻を施した梁とどっしりした瓦屋根の大きな家々が、それぞれ自分の敷地に柿やざくろや杉のていねいに刈り込まれた高い生垣で守られています。――
このあたりは江戸時代、米沢藩。例の上杉鷹山の経済改革で名高いところ。最上川で米や商品作物を上方や江戸方面に売りさばいて繁栄していたのだろうし、それゆえ幕府もこのあたりに天領をいくつも作って財政の支えとしていたのだ。天領というのは国立農園のようなもの。今でもそうだが、「国立」というのは待遇が良くて、年貢率も低かったから、農民の暮らし向きはますます良くなったのだ。
そしてこの出羽の国、江戸時代はいくつかの藩があり、天領も虫食いのように諸方にあった。幕府は、政治・経済上重要なところは天領として抑えていたのだ。
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酒田の成り立ち
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酒田は最上川の河口にある。河口に砂州が岸に沿って鳥のくちばしのように長く伸びていて、岸との間に良港を形成している。幅と深さが現代の貨物船には足りないかもしれないが、江戸時代から明治にかけてここは千石船(今で言えばコンテナを一つ積めるくらいの大型艀だ)がひしめいていた。現代風に言えば、超大型トレーラー・トラックがひっきりなしに出入りする道の駅の風情だろう。
ここが物資積み出しのハブになったのがいつ頃かはわからないのだが、地元では「平泉の藤原家が源頼朝に滅ぼされた時、泰衡の縁者「徳尼公」が36名の護衛に守られて酒田に落ちてきて住み着いた。その36名は海運で身を立てて、これが江戸時代になると「酒田の36人衆」と言われ、まるで戦国時代の堺のように酒田を自治で治めたのだ、ということになっている。
36人衆による自治は、戦国時代末期からで、3人が一組になり、1カ月毎にローテーションの当番制になっていた。町内会のようなものだ。江戸時代には、酒井藩の下部組織として組み入れられている。36人衆は「株」=仲買商売のライセンスのようなものを売っていたので、酒田には米問屋が増えていく。
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以上については、いくつかの疑問が起きる。まず平安時代末期の酒田はどんな感じのところだったのかということだ。いくら落人と言っても、平泉家と縁もゆかりもない所にいきなり行くわけもない。現地の資料を見ると、平泉家の力は当時、鶴岡まで及んでいたそうなので、人気のないところに避難したわけではない。
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そしてこの時の36人はいきなり海運業を営むようになったわけではないだろう。まあ、江戸時代にできた浄瑠璃の「義経千本桜」では、壇ノ浦を落ち延びた平知盛が今の尼崎で船問屋を営んでいたことになっているので、落人が海運を手掛けるのは古来からのことだったのかもしれないが。現代と同じで、港湾、海運には暴力組織がからみやすい。それだけ儲けの大きいビジネスだから、利権を守るのも必死なのだ。そして、このあたりの日本海は幅が広いのだが、対岸の契丹あたりと提携していたかもしれない。
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そして、この時の36人が江戸時代の36人衆にそのままなったわけではない。例えば江戸時代以来の大手廻船問屋の鐙(あぶみ)屋は、西鶴の「永代蔵」(当時のビジネスの副読本のようなものだ。鐙屋の経営ぶりを詳しく叙述している)によれば、「(以前は)しがない旅籠を営んでいた」。本間家は後で佐渡の方から入って来たのだが、後に36人衆の一人として迎え入れられている。相撲部屋と同じで、36人衆の顔ぶれは時に変化していたのである。
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そして江戸時代、酒田の統治は36人衆が独占していたわけではなく、形式的には鶴岡に城を構える酒井家の庄内藩の一部、しかし酒田は亀ヶ崎城の存続を許され、強い自治を維持していたのである。いわば庄内藩にとって、鶴岡はワシントン、酒田はニューヨークという地位であっただろう。
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流通ハブとしての酒田
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酒田は農産物、特にコメの流通ハブだった。天和年間(17世紀末)には、春から秋までに2500-3000隻の船がやってきたとの記録がある。全部千石船でもあるまいが、最大で45万トンの米の移動を意味する。これは今の米価で、約1400億円だ。
江戸中期、酒田には廻船問屋が97軒。1軒でも蔵の中に200万両相当の貨物を蔵していた。廻船問屋と言っても、その形態は様々で、今でも当時の屋敷を見学できる鐙屋は、廻船問屋と言いながら、自分で船は持っていなかった。鐙屋は、もっぱら船長のための無料ホテル、そして米を買入れ、船長に売り、口銭を取ることに徹していた。要するに、陸上だけの仲買人である。
酒田の扱う貨物としては、最上川流域で集荷される藍などの商品作物もあったものの、庄内平野でとれる米がダントツで重要だった。米を納入すると米券が預かり証として発行され、これは通貨のように通用した。一俵、60キロが普通で、持ち上げるのは大変だ。
酒田を拠点とする船は「北前船」とも呼ばれるが、これは航路が北海道に伸びてからのこと。これは北海道でニシンを大量に積むと、日本海側の大河の河口にある港々に寄っては、ニシンを肥料として売り、米その他を買い入れて関門海峡から瀬戸内に入り、大阪の米市場を終点とする。その一回の航海で、北前船は千両(=一億円)を稼いだ(利益なのか売り上げなのか不明)と、現地の資料に書いてある。別の資料には、米百石の江戸(大阪から江戸までのルートもある)までの運賃は約20両とある。北前船は千石ないし千五百石だから、積み荷全部が米なら200両にしかならない。多分、ニシンや商品作物の取り引きも含めて千両になったのだろうが、よくはわからない。
酒田で一般的だった千石船は、150トンに相当する。それは大型漁船なみの大きさで、かなりの迫力を持つ。ところが江戸末期、ロシアでエカテリーナ大帝に謁見したことで有名な高田屋嘉兵衛(淡路島生まれの廻船問屋)は、酒田で本間家の出資を得て、当時としては型破りに大きい1500石積みの船を建造した。
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北前船については最近、面白い本が相次いで出版されているが、現地の博物館などの資料をまとめると、いくつかの航路があった。と言うより、基本的には今のトラック運送会社と同じで、無数の業者が様々なルート(と言っても、港がないと駄目だが)やスケジュールで運行していたのだ。
酒田発で南下し、佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、岩見の温泉津、下関に寄港、大阪、鳥羽、下田を経て江戸に至るルートは、出羽地方の天領の米を江戸に運ぶ事業を委託された大商人、河村瑞賢が様々のルートを踏破し、可能性を比べた上で各地の港と合意、受け入れ態勢を整えた上で1672年、発足させたもの。酒田から江戸まで45日かかった。地理的には出羽の国から太平洋岸に出る阿武隈川を使うことも検討したが、この川は途中の難所を改める工事は難しい。津軽海峡を通って太平洋岸を南下、江戸に至る航路もあったが、黒潮に逆らっての南下は困難ということで、酒田から日本海を南下することにしたのだ。
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日本海側には、新潟、富山(伏木)、敦賀、小浜、境等、他にも北前船が寄港した港が多数あるが、河村が開発したのは、江戸の侍たちが食いはぐれないよう、急行で米を運ぶためのルートだった。このあたりは最近出た、伊藤潤氏の時代小説「江戸を造った男」に詳しい。ものすごく面白い小説だ。この河村という人は明暦大火の後、木曽の木材を買い占めて江戸に送って財を成した人。
伊勢出身だが、その組織能力で幕府要路の信頼を得て(小説では無私廉潔だったことになっている)、淀川河口地域など大型インフラ工事をいくつも請け負った。
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山形県というのは、真ん中の細長い平野を最上川がぐっと奥まで、ほとんど山裾まで貫き、平野が産する富を根こそぎ酒田に出荷できる地形になっている。そしてそれができるように、最上川の急流部分などは江戸時代に改修されている。奥の米沢になると川はぐっと細くなるが、地元の博物館には小型の船が陳列してある。細い流れでも集荷できたはず。なお、鶴岡は最上川のほとりにはない。別の赤川という独立した川のほとりにある。
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よく言われることなのだが、室町時代の頃から日本は単一市場化し、貨幣経済が全国的に浸透したと言われる。単一市場化したということは、それだけ販売先が増え、生産も増やせるということ。そして貨幣経済が普及したということは、相手を見つけるのが難しい物々交換を脱却し、成長への基盤ができたということである。僕は以前半信半疑だったのだが、酒田や「最上川経済圏」、そして北前船のビジネス・モデルなどに触れると、「単一市場化」、「貨幣経済の浸透」が実感として会得できるのだ。
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本間家
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戦前の大地主、本間家は戦後、農地改革で小さくなった。それでも終戦直後、日本中をまわった米国の記者、マーク・ゲインの「ニッポン日記」(ちくま学芸文庫)107頁には、酒田で本間家の末裔と話しをした場面が出てくる。それによると、土地を差配する50がらみの「見るからに弱々しい男」、政治方面を担当する「スフのみどりがかった洋服を着て眼鏡をかけた、なかば禿げ上がった男」、そして本間家の官房と政策を担当する「丸顔の美青年」の3名が「態度は慇懃だが、顔の表情は敵意を示して」応対している。この3名が本間家の代表(先代が娘しか持たず、後継を指名せずに死去したため)で、彼らは農地改革が間違っているゆえんを説明する。
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「本間一族は合わせて4100エーカーの土地(これでは16平方キロにしかならない)を所有し、5150人の小作人の家族がこれを耕している・・・成績のいい小作人は平均(年間)117ドル稼ぐが(今なら5万円程度)、本間家はその中から47ドルをとる。残りの70ドルが小作人家族の一年の報酬である・・・家族は平均7人・・・」
「300年以上にわたって私たちは小作人との間に安定した関係を打ち立ててきたのです。新しい(農地改革の)法律は、このバランスを破壊するものです。・・・夫婦共稼ぎでも耕せるのはせいぜい7エーカーぐらいのものです。」
そしてゲインは計算する。今度の農地改革で本間家の土地売却代金は600万ドルに上るだろう(今の金でせいぜい24億円だ)・・・。
そして会話の中で本間一族は、戦前は満州農業銀行、朝鮮殖産銀行も所有していたことを明らかにする。川崎重工業にも大きな投資をし、地元の電力会社にも関係、そして社屋には明治生命保険と富国徴兵保険の代理店の看板がかかっている。という具合で、ゲインははなから本間一族を悪意を持って見ている。
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しかし地元での本間家への評価は今でも高い。海岸の植林を初め、多くのインフラ建設が本間家の尽力でできているというのだ。そして今でも公開されているが、本間家の造作は質素で、華美なことはしなかった。
・地主になったのがいつかは、はっきりしない。農業と言うのは、種子を買う時など前借りが必要で、その借金を返せない場合は、抵当の土地の所有権を貸主に差し出したうえで、実際の耕作は自分が続ける――こういうやり方がどの国でも多いから、地主が大きくなっていく。本間家も江戸時代の途中で、500石の武士に取り立てられている。また藩主から農地のメンテを頼まれた形で、実質的な地主になっていった面もあるだろう。
いずれにしても、本間家は質素な生き方、そして公益に尽くす生き方。
・戦前は、酒田市の歳入の半分を賄っていたと言う。
・今でも家を個人で所有。博物館のように開放している。固定資産税、どうしているのか? 明治29年には地元の米取引所との間に電話をひいている。
・日本の木造建築は本当にきっちりしていると思う。ほぞとか。隙間がない。
・「本前家」はもともと幕府からの査察使を泊めるためのもの。そこは武家作りになっている。本間家が寄進し、後に自分たちで住むようになったが、そこは商家作り。後者の木材は杉。前者の木材はヒノキ、ケヤキ。欄間の彫刻なども凝っている。
本間家の建物はもともと査察使用に建てて、酒井藩に寄進したものをまた払い下げてもらって私用に使っていたものだが、査察使用の部屋は上等の木材を使うなど「武家用」に作ってあり、私用の部屋は格落ちの造作なのだ、と得々と説明がある。
まあ、こういう人たちは悪く言えば悪く言えるし、良く言えば良く言えるので、どちらとも言えない。これを書き直すにあたってChatGPTと議論をしたのだが、この江戸時代の本間家というのは、現代で言う農業法人の走りのような存在だったのではないかということだ。英国で言えば、近世のジェントリーがよく似ている。資本を持って、農民に融資をし、抵当で土地が集積すれば、そこに農民を小作人として終身雇用。インフラの改善にも努めつつ、作物の商品性を高めたのだ。
このような存在は、戦後の農地改革で、強制的に切断され(補償金は出た)、以後は零細な自営農が米価に支えられつつ何とかやってきたが、もはや立ちいかない、というのが日本の農業の現状。
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官軍と戦っても許された庄内藩
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このあたりの歴史は、明治維新の時に何かきらりと光る断面を残す。ウィキペディアで「庄内藩」を見れば詳しいことが書いてあるが、幕末、幕府に組して会津藩と提携、官軍と戦った(本間家の資金で欧州の先進兵器を購入。佐賀藩兵力が官軍に加わるまで連戦連勝で、最後まで官軍を藩内に入れなかった)にも関わらず、会津藩のように皆殺しにはならなかった。明治になっても、元藩主の酒井家は華族となって生き延びている。
僕には、長岡藩や会津藩と比べて、この庄内藩の幸運の背景がよくわからない。
わからないながらも、一つの理由に「徂徠学」があるのではないかと思って、調べているところだ。何かというと、庄内藩の首都の鶴岡には1805年、致道館という高等教育機関が開設されたのだが(これは今でも昔通りの建物が残っていて、一室では現代の少年少女たちが和服を着て、論語か何かを唱和していた)、これは江戸の湯島聖堂の朱子学と違って、当時は異端扱いされていた荻生徂徠の「徂徠学」を教えていたのである。
徂徠学は陽明学の流れにあって、型にはまるのを嫌い、後世の解釈よりも原典に当たって「自分で考える」ことを奨励する。少人数のクラスでの、個別指導と自習が重視されていたそうだ。学生は全寮制だが、大部屋ではなく個室。西欧で言えば、カトリック教会に反旗を翻して個人を前面に出したプロテスタントに類似、そして体制変革に結び付きやすい思想なのだ。
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幕末の革命思想を担った吉田松陰は陽明学を信奉していた。ウィキペディアでは西郷隆盛も陽明学の流れに位置付けられている。しかし西郷の若い頃の薩摩藩校は乱れていたはずで、それほど明確に陽明学を修めたかどうか明確でないのだが、いずれにしても思想と実学を区別する徂徠学は薩摩藩の実学志向と親和性が高いので、西郷も庄内藩の武士たちと肌が合ったのかもしれない。そのせいか、庄内藩は西郷隆盛となぜか馬が合い、明治になってからは地元から大挙して鹿児島に彼を訪問し、長期滞在している。
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なお会津藩と比べると、庄内藩では上下階層間の結びつきが強い。1840年には川越の松平氏が豊かな庄内地方への「転封」を狙って画策をしたが、庄内藩では農民達が「自発的に」江戸に出て転封中止を嘆願して、成功している。
また酒田では戊辰戦争の時、官軍と戦うために、百姓・町人兵から成る軍隊が形成されている。いずれもどこまで自発的なものだったかはわからないが、「戦うのは侍ばかり。一般人は野次馬見物」という会津藩(多分、禁門の変の際、会津藩と敵対した長州藩の高杉晋作が発した言葉)とは時代感覚が違っていた。そしてその背景には本間家の存在があったようだ。
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多士済々
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最後に、庄内地方の出身者で有名な人たちをあげておこう。
まず最初に、清河八郎。これは僕は丹波哲郎主演の映画「暗殺」で初めて知ったのだが、幕末の志士の走り。1863年、松平春獄をだまして、公金で浪士を募集。「将軍警護」の触れ込みで、彼らを京都に連れだし、天皇に献上しようとしたのだ。
もっとも途中でその企みがばれ、武蔵野の田舎で徴募した近藤勇や土方歳三等17名が脱退して京都で新選組となる。清河本人は同年、京都から江戸にもどり、攘夷をやろうとしたところで、佐々木只三郎等に暗殺されている。34歳だった。泥酔していて、斬られたあとの血からは酒の臭いが漂ったと言う。
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次にがらりと変わって「おしん」。彼女の実在のモデルはもともと関西の人なのだが、NHKの台本では、山形出身にされていて、酒田の「加賀屋」(鐙屋でロケ)に奉公したことになっている。
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そして、感動的なのは酒田大仏(人ではなく、仏像)。明治27年、当地の地震で母を亡くした持寺院住職が建造を発起。募金活動の最中に日清戦争、日ロ戦争。供養の対象を増やし、苦労の末完成。しかしその息子の代に、太平洋戦争で軍に巻き上げられる。戦後、募金活動を始め、さらに息子の代1992年にやっと開眼。13米、台座含めて17米で日本最高の立像。威厳がある。
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なお相撲の名門、出羽海部屋の初代出羽ノ海はこの地方出身と考えられている。戦後の名横綱羽黒山は、名前にもかかわらず新潟県の出身。若羽黒も名前にもかかわらず、神奈川県出身。そして出羽富士は力士ではなく、鳥海山の別名だ。
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シャンソンの名歌手で、57歳の若さで膠原病で亡くなった岸洋子は、まさに酒田の出身である。
変わり種としては、即身仏がおられる。真っ黒なミイラで、僧侶が家督を譲ると、湯殿山に籠る。地上の食物を食べず。仙人沢の聖なる湯に詣でる。そのうち生きながら埋められて、鈴を鳴らし、その鈴が聞こえなくなると掘り出す。真言宗。
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鶴岡から仙台に帰るハイウェーでは月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山を通り過ぎる。月山は過去、羽黒山は現在、湯殿山は未来を象徴し、三山で一体なのだそうだ。秋田寄りには鳥海山が美しくそびえる。どれも火山。仙台地方のジュラシック・パーク的な気味の悪さはないが。



