(「意味が解体する世界へ」より。2003年頃の情景)
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ソ連脱却・改革をめざす中央アジア
河東哲夫
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ウズベキスタンの春は足が速い。三月末まだ寒い中、桜によく似たアンズの花が街じゅうに咲き乱れたかと思うと、四月のある日突然夏のように晴れ上がり、若葉がたった一日で吹き出たかのように何くわぬ顔で風に揺れている。
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そのウズベキスタンも旧ソ連諸国のご他聞にもれずまだ改革中、いや実はこれから本格的な改革に着手しようとしているところだ。でもこの改革はウズベキスタンの春のように足早に進むかどうか。
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ある日曜日テニスを終わって公園を歩いていくと快晴の中、木もれ日が躍る。家族連れがブランコなどで遊び、広いサッカー場にそびえる手入れのいい白い建物のスピーカーから流行歌が流れ出る。僕は、ソ連時代モスクワ川のほとりのルージニキ公園を思い出す
。夏の木もれ日、スピーカーから流れ出る哀愁を帯びた流行歌、テニスのパコーン、パコーンという長閑な音・・・・。
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猛烈になつかしい。タシケントにはあの頃の安定した生活が、まだ壊れていなかった頃のソ連の生活が残っている。ロシアもあんな無茶な改革をしなければ今でもこうだったのでは、とつい思う。
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ウズベキスタンの初代大統領カリモフ氏は、ソ連時代にすっかり綿花栽培に特化させられてしまったこの国を、独立以来何とか自分で食べられるようにしてきた。綿花を減らして小麦を増やし、石油とガスを自分で掘って、食糧とエネルギーは自給できるようになったから偉いものだ。
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だが、ソ連的な計画経済の体質は根強く残る。綿花や小麦は播く種も作付けの面積もお上から指示が出るし、集団農場は自営農に分解されるとは言え、トラクターやコンバインは高くて買えずお上から借りるしかない。そしてこれだけ国家のグリップがきくのは、土地がすべて国有だからだ。農民は自営農ではなく公務員のようなものなのだ。
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経済の基本は市場経済であれ共産主義経済であれ、実はあまり変わらない。共産主義経済でも、マーケティング、簿記、そして利潤計算は必要だ。だが市場経済は私有、共産主義経済は国有に基づくことが、両者の決定的な違いをもたらす。
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前者は生産手段を所有する人間達の欲望を満たすため、放っておいても大きくなっていく。ところが共産主義経済は、国全体が政府予算システムにどっぷり浸かってしまったようなもので、企業をあずかる者は自分で新しい価値を作るより、上部の指令を遂行して自分の地位を守ることの方が大事になる。そして社会の富を少しでも、自分や自分の企業のために「分捕って」来ようとするのだ。
あるウズベク人の政治家がこぼしていた。「集団農場を分解して自営農を作りたいと思っても、なり手がない。めちゃくちゃに働いてまで生活を良くしたいという意欲がないんだ」と。
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要するに共産主義社会では、国全体が一つの会社になったみたいなもので、驚く程多くの権限と決定がトップに集中する。このような社会では、いくら民主主義を導入したいと思っても難しい。全国民が生きるすべをトップに握られていれば、思ったことも言えなくなるからだ。
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で、共産主義社会は刑事罰への恐怖で社会の秩序が維持される。それがなければ、社会には盗みがはびこる。何しろ僅かの私有財産を除いては、そこらにあるものは無主物のようなもので、目はしのきく者はこれを盗み売り飛ばしていい目を見る。資本主義社会にも刑事罰はあるけれど、それよりも人々は社会的制裁を怖がっているから、不正に手を染めない。信義を破ればもう商売させてもらえなくなり、雇ってももらえなくなるからだ。資本主義社会はクレジット・カードの番号のやり取りに見られるように、信用によって成り立っているけれど、共産主義社会から出てきたばかりの人間にはこれがナイーブそのものに見え、つい不正に手を出す。
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大衆は「改革」を望まない
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特権や不正はあるにしても安楽な共産主義社会を一度味わった人間は、市場経済の厳しい競争には中々なじめない。指導者が改革を叫んでも国民は、それは他人のことで自分のことじゃない、改革が実現されれば自分の生活は良くなるのだと思い込む。
だが国民が期待する改革とは大抵、「自分達の暮らしを悪くした張本人」を見つけて処罰し、今までの体制の中で甘い汁を吸ってきた悪者達の財産を没収して皆で分けることなのだ。改革のために苦しむのは自分達だと気がついた時、国民は指導者に牙をむきかねない。だからどこの国にとっても、民主主義の中で経済改革を遂行するのは至難の業だ。
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普通の人間には、国家がアパートの配分から年金まで何でも面倒を見てくれる共産主義社会の方がよほどいい。ウズベキスタンの農村で経済援助の案件に署名したりする時、周りの農民が僕に向ける真摯で素直な期待の眼差し、これはロシアの地方都市で講演する時、聴衆が向けてくる眼差しと似通っている。つまり豊かな外国の政府は、彼ら自身の政府に代わって「自分達の面倒を見てくれるお上」に見えるらしい。
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この安穏から国民を引き剥がし、新たな経済成長に向けて駆り立てるには、どうしたらいいのだろう? さもなくば、共産圏に住んでいた者達は一向に良くならない生活に業を煮やし、ある日一斉に立ち上がって国全体を保守化させ、先進国に支援を強要するようになるかもしれない。
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そして、旧共産圏だけではない。この世界では、富の分捕り合戦と妬み、嫉みに終始して、経済はいっこうに良くならない国の数は先進国よりはるかに多い。 ウズベキスタンはこれから五十年の間に人口が倍増して五千万人になる。今の平均収入は国民一人で月四十ドルくらいだろうが、二〇五〇年にはこれをせめて五百ドルにはしておかねば国民はおさまるまい。ということは五十年間でGDPを実質ベースで二十五倍にするということで、それは戦後日本の半分のペースで伸びるということだ。
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ある日僕は、タシケントの空港に着いて荷物が出てくるのを待っていた。向こうのソファにはマフィア風のまだ若い一団がたばこの煙をもうもうとくゆらせて、のべつまくなししゃべっている。二言目には四文字言葉、馬鹿野郎、そして次には乾杯の繰り返し。酔いのまわった男が目をすえて何度も同じ言葉に戻りながら、乾杯をしたいと言う。「この難しい改革の時代に、俺達の子供がしっかりした基盤に立てるように。俺達が自分の両親を好きなように、俺達の子供も俺達を好きでいてくれるように、乾杯しよう。
この時代を子供達に説明してもわからねえだろう。そして、俺達が何をしていたかが子供達にわかれば、親と子の間は切れちゃうかもしれねえんだ」 いや、この男が真剣にそう考えているんなら、子供達も父親をわかってくれることだろう。
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アフロシアブの丘の上で
サマルカンドの漆黒の闇。チムール大帝のモスクが聳えるレギスタン広場がイリュミネーションに照らしだされると、古代の夢が繰り広げられる。モスクのタイルのブルー 、金の飾り、そして衣装の黒や黄色が色彩の交響楽を織りなす中で、ペルシア風の舞姫は古の胡弓と鼓のささやきを背に、裾を翻し頭飾りを振り立てて静かに舞う。
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二年に一度の、サマルカンド国際音楽サマー・フェスティヴァル。これは豪華で、歴史そのものを感じさせる・・・
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街のはずれ(昔はここがサマルカンドだったのだが)アフロシアブの丘の遺跡の博物館には、発掘された大きな壁画が飾ってある。ラクダに乗ったキャラバンが砂漠を行く図柄で、その中には黒人が一人まざっている。赤はどこか柔らかく、青は涼しげに澄み、その色合いはクレタ島やポンペイで見た壁画を思い出させる。どちらが先なのか。文明の発祥地がエジプト、メソポタミアなら、この色彩はそこから来たのか? どうであれ、北インドから中央アジア、イラン、イラク、シリアまでは単一の文明圏で、中近東とか中央アジアとか南西アジアとかに分けて考えるのは、ものごとの理解を妨げる。
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だが近世になって中央アジアはイランやトルコから切り離され、「ロシア文明」、「ソ連文明」に組み込まれてしまった。ロシア文明・・・、これは中央集権、専制のビザンチン帝国を模倣することから出発し、モンゴルの軛を振り払うため、自らモンゴル並の専制主義を取り入れて成立したものだ。ロシア民謡にはアジア遊牧民族の音階がそこはかとなく入り込み、女声が時々裏声に引っ繰り返るところもそっくりだ。
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だが十九世紀のロシア帝国は、ペルシア湾に南下するための橋頭堡として中央アジアに攻め込んだ。ウズベク人が今言うように、当時の中央アジアはロシアの植民地以外の何物でもなかった。経済のインフラは作ってくれたし、女性の社会進出を実現してくれたにしても。中央アジアの人達はモスクワに出ていくと、「サヴェーツキー 」つまり「ソ連人」と呼ばれて蔑視されていたのだ。
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でも長い間超大国ソ連の中で暮らしたことは、ウズベキスタンの人の心を変え、彼らは今でも「ロシア文明」の中に生きている(2002年当時)。ロシアのテレビは地元のテレビよりはるかにナウだし、モスクワは今でも世界の学術と文化の中心地なのだ。それにモスクワに行ってウズベキスタンと言えば皆知っているが、西側に行くと自分達の居場所はないのだ。
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だから、ウズベキスタンはまだ戸惑っている。今の国境で独立国となったのは史上初めてのことだから、無理もない。統一のシンボルとしてチムール大帝やその孫で学者のウルグベクを掲げてみせても、ウズベク民族がこの地にやってきたのは彼らの後だし、チム
ールの帝国は今のウズベキスタンよりはるかに大きな国だったので、どうもぴんと来ないのだ。
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ウズベキスタンのある友人がいい加減酒に酔った時、僕にぽつんと言った。「君、この国にいて退屈じゃないかね?」 で、僕がそんなことはないと言うと、彼は頷き自分で自分を納得させるように力強く言った。「カリモフ大統領はもぐりじゃない。この国は二流の国なんかじゃない」
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この国では多くの学生の目は燃えている。でも戦後独立したアジアの国に比べるとどこか後ろめたいというのか、自分の国に自信を持ちきれていない様子が見える時がある。それはウズベキスタンの独立は戦って得たものではなく、エリツィンのロシアにむしろ捨てられて得たものであるからかもしれない。
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ウズベキスタンでは九十年代初期のロシアで起きたような、エリートの急激な若返りは起きていない。ソ連時代の古いエリートが今でもエリートのままでいる。だから考え方も古く、法律と規格を変えれば経済は変わるものだと思い込んでいたり、日本製品の品質が高いのは軍需生産に傾斜していたためだなどと、したり顔で言ってみせたりする。(注:2026年の今は、もっと現代的な若手が増えている)
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でも学生達は現代的で、その考えは宗教的戒律に縛られているわけでもない。日本から生け花の師匠が来て花を生けたりすると、手伝いのウズベク女性はいつも何かやることはないかと見ていて自分で動きまわるのだ。旧社会主義圏の若者は指示がなければ動かなかったり、尊大に構えて動こうとしない者がいるかと思えば、スタンドプレーで取り入ろうとする者がいたりするが、ウズベクの若者にはこれが少ない。チームワークと個性がうまくバランスしているのかもしれない。ロシアで七年暮らした僕の娘は、ウズベキスタンを見て言った。「この国、もしかするとロシアより発展しやすいかもしれない」