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投稿者: akiokawato

  • 日本歴史紀行9:古代も彩の国だった「埼玉」、そして秩父

                            河東哲夫

    埼玉というと、「彩の国」と呼べ、とかいろいろ涙ぐましい取り組みはあるのだが、どうも盛り上がらない。

    しかし古墳時代、ここは大きな富の中心、権力の中心だったのだ

    先日、県立歴史・民俗博物館に行ってきたので、断片的になるけれど、いくつか埼玉県の歴史・地理を復習してみたい。

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    古代、今の大宮近辺まで東京湾は入り込んでいた。氷川神社は見沼という大きな沼のほとりに建てられている。

    6世紀頃、埼玉では前方後円墳が多数作られた。当時米作が広がり、富が蓄積されていた。

    そのうちの一つの行田市、稲荷山古墳では鉄剣が見つかっているが、これにはその古墳の主が大和の王「ワカタケル」(雄略天皇)の親衛隊長のようなことをしていたことが記されている。それは王の信頼を得ていただけでなく、抜群の武力を持っていなければつけない職だ。

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    つまり関東地方のあたりまでは大和朝廷の権力が及ぶようになっていから、朝廷は国衙を任命し、官道を建設して統治のネットワークを整備していた。

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    それだけの基盤があったから、7世紀朝鮮半島の百済が滅んだ時、遺臣が多数日本に来航。大和朝廷は彼らをまとめて関東地方に入植させている(日本書紀)。特に秩父では彼らは銅の採掘と精錬に従事。奈良の大仏建立のための銅を献上している。日高市には今でも高麗神社があるし、このあたりは高麗群とされていた。また今の新座は新羅郡となっていた。

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    埼玉には出雲から移住した勢力もいた。氷川神社の「氷川」は出雲の「斐伊川」に発するという説もある。

    埼玉県には諸方に、出雲大社の名を冠する神社がある(いつ頃の創建かは調べていないが)。

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    面白いことに、大宮の慈恩寺には、西遊記の玄奘和尚の遺骨(の一部)が祀られている

    これは日中戦争の当時、日本軍が南京の大報恩寺で入手し、持ち帰ったものらしい。

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    (ここで秩父への旅行記も掲載しておく)

    秩父

    秩父は、筆者の自宅近くの西武池袋線の終点、飯能からさらに西武秩父線特急で45分ほどかかる山奥。

    と思いきや、太古はなんと東京湾から伸びる海で、地元の博物館には当時の海底の様子が再現されている。

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    今日、近くの荒川は長瀞と呼ばれる渓谷で、横にそびえる武甲山は「秩父セメント」の原料となった石灰岩を切り出したところ。

    大正、昭和の東京のビルは、武甲山のおかげで建った

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    この地は古くは銅鉱石に恵まれ、朝鮮半島から唐軍に押されて亡命してきた人々が高麗郡や新羅郡を作って朝廷に銅貨を納めたり、明治以降は秩父事件(明治17年。困窮した農民たちが負債の減免を求めて蜂起。1万名以上が処罰を受けた事件)の舞台になった。

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    そして周辺の養蚕をベースに絹織物のハブとなり、後には渋沢栄一たちが武甲山の石灰岩を利用して前記「秩父セメント」工場を設立。今の西武鉄道はこのセメントを運んだり、周縁の糞尿収集を手伝ったりして、大きくなった。今では池袋からラ・ビューという超モダンな特急電車で1時間半ほどで行ける。

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    このように、けっこういろいろなものがあるところなのだが、2025年、秩父のミュージシャンが出したCDに何枚か行き当たった。一枚は、今ちょうど70歳くらいの地元のタクシー運転手、梅沢茂さんが、ギターを弾きながら歌う「Ja Bossa」。タイトルは「タクシー・サウダージ(サウダージとはポルトガル語で「ほのかな憂い」とでも訳したらいいようなもの。梅沢氏のあだ名)」。

    ボサノヴァ風の唄をペーソスを込め、秩父の地唄であるかのように歌う。自分を全然飾っていない。

    https://taxi-saudade.wixsite.com/jabossaでブログをやっており、ここで彼の演奏を見ることができる。素人芸ではない。

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    もう一枚は、このタクシー・サウダージ氏を「発見」して世に送り出した秩父出身ギタリスト、笹久保伸の「CHICHIBU」。

    これは秩父の大衆の唄―-労働歌なのだそうだ――をベースに、人間のエッセンスを絞り出したような音楽集。

    埼玉は山奥に見えて、隅に置けない文化・経済圏なのだ。

  • 高市政権は財政でつまずいて、英国トラス首相の44日政権の轍を踏むか?

    Chat GPTとの対話

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    長期金利が上がっている。長期金利が上がると、企業の投資、住宅・インフラの建設が減少する。政府にとっては、国債(長期のもの)を発行する時の金利を上げないと売れない、それによって予算の中での利払い費用の分がどんどん増えていく、という問題をもたらす。

    そこで、Chat GPTに聞いてみた。

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    筆者の質問:

    2022年9月、英国のトラス政権は、放漫財政政策が金利上昇、株・債券・通貨のトリプル安を起こして、たった44日間での政権交代につながった。高市政権の場合、どうなる? 現在の長期金利の上昇は短期金利の上昇、株式市場の崩壊、一層の円安につながるか? 3000字内外でまとめてくれないか?

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    Chat GPTの答え:

    トラス政権の危機と、日本の今の金利上昇は似ているようで、構造がかなり違います。英国との比較、日銀、為替、株式の三つに分けて見ます。

    思考時間: 15s

    結論から言うと、高市政権で「日本版トラス危機」が起きる可能性はあるが、現時点では本格的な政権崩壊型危機までは行かないと思います。ただし市場は、明らかに警告灯を点けています。

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    英国トラス政権の危機は、減税・財源不明・インフレ下の財政拡張が一気に国債売りを招き、さらに年金基金の資金運用が立ちいかなくなって長期国債を投げ売りしたため、金融システム危機になった。英中銀は2022年9月28日に緊急国債購入に入らざるを得ませんでした。つまり単なる「放漫財政批判」ではなく、国債市場の技術的な連鎖破綻だったわけです。

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    日本の場合、似ている点は三つあります。第一に、財政拡張への警戒。高市政権の経済財政運営方針案が、日銀に成長支援を求め、財政健全化の文言を弱めたと受け止められ、10年国債利回りは2.8%台、30年債は4%前後まで上がっています。

    第二に、円安。ドル円は一時162円台近辺、40年ぶり安値圏と報じられています。

    第三に、日銀の独立性への疑念。政府は否定していますが、市場は「財政ファイナンス臭」を嗅いでいます。

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    ただし違いも大きい。日本国債は大半が国内保有で、日銀も巨大な買い手として残っている。英国のような年金LDI(資金運用の一つのスキーム)の強制投げ売り構造は、少なくとも同じ形では見えません。また日本は経常収支黒字国で、対外純資産も大きい。したがって「突然の通貨危機」より、長期金利じり高、円じり安、財政不信じわじわ型になりやすい

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    では、長期金利上昇は短期金利上昇につながるか。これは半分イエスです。日銀は6月に政策金利を1%へ上げはしましたが、金融環境はなお緩和的なので、基調インフレが2%目標を上回るリスクがあると説明しています(つまり金利を上げたいということ)。 ただし高市政権は景気重視ですから、日銀は追加利上げを急がないでしょう。むしろ長期金利だけが財政不安で上がり、短期金利は遅れてついてくる形になりそうです

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    株式市場の崩壊はどうか。私は「暴落」はまだ見ません。高市相場では株はむしろ財政拡張、円安、名目成長期待で上がってきました。2月には日経平均が5万8000円を超え、6月には一時7万円台に乗せたとの報道もあります。 つまり現在は、国債市場は警戒、株式市場は名目成長を買う、という分裂状態です。ただし10年金利が3%を明確に超え、30年が4.5〜5%へ向かえば、銀行・不動産・中小企業金融に圧力が出て、株も耐えにくくなる。

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    円安は一番危ない。通常なら利上げ観測は円高要因ですが、今は「日本の財政が危ないから円を売る」という反応も混じっている。これは質が悪い長期金利上昇と円安が同時に進むなら、トラス型に近い警報です

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    総合すると、高市政権が危機を避ける条件は明白です。大型支出をやるなら、成長投資・防衛・エネルギー・少子化などに絞り、恒久減税やばらまきに見せないこと。日銀には口を出さないこと。財政目標を「プライマリー・バランス黒字」から「債務GDP比の安定」に変えるなら、その具体的な道筋を数字で示すこと。

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    私の見立てでは、当面はトリプル安の全面危機ではなく、債券安・円安・株高ぎみの危うい相場です。しかし、これは強い相場ではなく、インフレで膨らんだ名目相場です。市場が「この政権は財政規律を捨てた」と判断した瞬間、株高も一転して崩れます。高市政権の敵は野党ではなく、国債市場でしょう。

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    筆者

    簡潔でわかりやすかった。感謝。

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    Chat GPTの答え

    ありがとうございます。実はもう一つ重要な視点があります。英国では、市場が政府を倒しました。日本では、日銀が長年にわたって国債を大量保有してきたため、市場の価格形成機能が弱くなっています。その結果、価格が動き始めると、少ない売買でも金利が大きく動くという状態になっています。

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    こういう状況で、今後見るべき指標は次の三つだと思います。

    • 10年国債利回り(政府の資金調達コスト)
    • 30年・40年国債利回り(市場の財政に対する信認)
    • ドル円相場(海外投資家の日本に対する評価)

    この三つが同時に悪化し始めたら、かなり注意が必要です

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    逆に、30年金利が上がっても円が安定し、株価も堅調なら、「市場は財政よりも成長期待を見ている」と解釈できます

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    今回も刺激的なテーマをありがとうございました。こういう「経済・金融・政治が交差する問題」は、私も考えがいがあります。

  • 北朝鮮・米国関係、動き出すか?

    トランプは第一期には北朝鮮関係でずいぶん動いたが、今回第二期ではこれまで動きなし。その間、北朝鮮はロシアの対ウクライナ戦争を支援して大儲け。日本にとってのかつての「朝鮮戦争特需」のようなことになって、北朝鮮の軍需企業はフル稼働。

    9日付Wall Street Journalは、「北朝鮮=経済困窮」というステレオタイプを正面から否定。「北朝鮮はロシアへの弾薬輸出で経済は繁栄」と題して、平壌市民の近代的な生活ぶりを大々的に報じた。

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    一方、習近平は6月8日に北朝鮮を訪問したが、これまで気にしていた核武装の問題を北朝鮮に提起することはなかった。提起すれば北朝鮮はロシアに傾くので、もうあきらめたようだ。

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    一方、トランプはイランとの停戦覚書署名を明らかにした6月14日、その直後に自分と金正恩総書記とのツーショットの写真を自分のSNSにコメントなしで投稿。「イランの次は北朝鮮のことやるからな」という意味をこめたのだろう。北朝鮮・米国関係は解凍され始めたようだ

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    韓国の李在明大統領も6月17日、エヴィアンG7サミットの横でトランプに、北朝鮮との平和外交を主導するよう求めている。彼の同19日の記者会見によると、「非核化を最終目標としながらも、まず核・ミサイル開発の凍結から始める段階的アプローチをトランプに提案し」、トランプもこれに賛同したそうだ。

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    一方6月14日、プーチンはトランプの80歳の誕生日に電話までして(ここまですり寄る姿勢を見せたのは初めてだと思う)、ウクライナ停戦交渉への関与再開を暗に求めたようだ。ウシャコフ補佐官は、「ウィトコフ特別代表はそのうちモスクワにやってくる(つまり何もまだ具体的なことは決まっていない)」と言っている。

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    拉致問題が解決されれば、日本は北朝鮮とことさら対立する理由はないのだ。米国との関係が確立し、平和条約も結ばれれば、北朝鮮の核は韓日米の方には向かない。李在明大統領の言うように、現状で凍結し、IAEAの査察など国際管理の方向に持っていけばいい。

  • 世界紀行7:ユーラシア その7 ソ連脱却・改革をめざす中央アジア

    (「意味が解体する世界へ」より。2003年頃の情景)

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    ソ連脱却・改革をめざす中央アジア

                河東哲夫

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    ウズベキスタンの春は足が速い。三月末まだ寒い中、桜によく似たアンズの花が街じゅうに咲き乱れたかと思うと、四月のある日突然夏のように晴れ上がり、若葉がたった一日で吹き出たかのように何くわぬ顔で風に揺れている。

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    そのウズベキスタンも旧ソ連諸国のご他聞にもれずまだ改革中、いや実はこれから本格的な改革に着手しようとしているところだ。でもこの改革はウズベキスタンの春のように足早に進むかどうか。

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    ある日曜日テニスを終わって公園を歩いていくと快晴の中、木もれ日が躍る。家族連れがブランコなどで遊び、広いサッカー場にそびえる手入れのいい白い建物のスピーカーから流行歌が流れ出る。僕は、ソ連時代モスクワ川のほとりのルージニキ公園を思い出す

    。夏の木もれ日、スピーカーから流れ出る哀愁を帯びた流行歌、テニスのパコーン、パコーンという長閑な音・・・・。

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    猛烈になつかしい。タシケントにはあの頃の安定した生活が、まだ壊れていなかった頃のソ連の生活が残っている。ロシアもあんな無茶な改革をしなければ今でもこうだったのでは、とつい思う。

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    ウズベキスタンの初代大統領カリモフ氏は、ソ連時代にすっかり綿花栽培に特化させられてしまったこの国を、独立以来何とか自分で食べられるようにしてきた。綿花を減らして小麦を増やし、石油とガスを自分で掘って、食糧とエネルギーは自給できるようになったから偉いものだ。

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    だが、ソ連的な計画経済の体質は根強く残る。綿花や小麦は播く種も作付けの面積もお上から指示が出るし、集団農場は自営農に分解されるとは言え、トラクターやコンバインは高くて買えずお上から借りるしかない。そしてこれだけ国家のグリップがきくのは、土地がすべて国有だからだ。農民は自営農ではなく公務員のようなものなのだ。

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    経済の基本は市場経済であれ共産主義経済であれ、実はあまり変わらない。共産主義経済でも、マーケティング、簿記、そして利潤計算は必要だ。だが市場経済は私有、共産主義経済は国有に基づくことが、両者の決定的な違いをもたらす

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    前者は生産手段を所有する人間達の欲望を満たすため、放っておいても大きくなっていく。ところが共産主義経済は、国全体が政府予算システムにどっぷり浸かってしまったようなもので、企業をあずかる者は自分で新しい価値を作るより、上部の指令を遂行して自分の地位を守ることの方が大事になる。そして社会の富を少しでも、自分や自分の企業のために「分捕って」来ようとするのだ。

    あるウズベク人の政治家がこぼしていた。「集団農場を分解して自営農を作りたいと思っても、なり手がない。めちゃくちゃに働いてまで生活を良くしたいという意欲がないんだ」と。

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    要するに共産主義社会では、国全体が一つの会社になったみたいなもので、驚く程多くの権限と決定がトップに集中する。このような社会では、いくら民主主義を導入したいと思っても難しい。全国民が生きるすべをトップに握られていれば、思ったことも言えなくなるからだ。

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    で、共産主義社会は刑事罰への恐怖で社会の秩序が維持される。それがなければ、社会には盗みがはびこる。何しろ僅かの私有財産を除いては、そこらにあるものは無主物のようなもので、目はしのきく者はこれを盗み売り飛ばしていい目を見る。資本主義社会にも刑事罰はあるけれど、それよりも人々は社会的制裁を怖がっているから、不正に手を染めない。信義を破ればもう商売させてもらえなくなり、雇ってももらえなくなるからだ。資本主義社会はクレジット・カードの番号のやり取りに見られるように、信用によって成り立っているけれど、共産主義社会から出てきたばかりの人間にはこれがナイーブそのものに見え、つい不正に手を出す。

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    大衆は「改革」を望まない

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    特権や不正はあるにしても安楽な共産主義社会を一度味わった人間は、市場経済の厳しい競争には中々なじめない。指導者が改革を叫んでも国民は、それは他人のことで自分のことじゃない、改革が実現されれば自分の生活は良くなるのだと思い込む。

    だが国民が期待する改革とは大抵、「自分達の暮らしを悪くした張本人」を見つけて処罰し、今までの体制の中で甘い汁を吸ってきた悪者達の財産を没収して皆で分けることなのだ。改革のために苦しむのは自分達だと気がついた時、国民は指導者に牙をむきかねない。だからどこの国にとっても、民主主義の中で経済改革を遂行するのは至難の業だ。

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    普通の人間には、国家がアパートの配分から年金まで何でも面倒を見てくれる共産主義社会の方がよほどいい。ウズベキスタンの農村で経済援助の案件に署名したりする時、周りの農民が僕に向ける真摯で素直な期待の眼差し、これはロシアの地方都市で講演する時、聴衆が向けてくる眼差しと似通っている。つまり豊かな外国の政府は、彼ら自身の政府に代わって「自分達の面倒を見てくれるお上」に見えるらしい

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    この安穏から国民を引き剥がし、新たな経済成長に向けて駆り立てるには、どうしたらいいのだろう? さもなくば、共産圏に住んでいた者達は一向に良くならない生活に業を煮やし、ある日一斉に立ち上がって国全体を保守化させ、先進国に支援を強要するようになるかもしれない。

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    そして、旧共産圏だけではない。この世界では、富の分捕り合戦と妬み、嫉みに終始して、経済はいっこうに良くならない国の数は先進国よりはるかに多い。 ウズベキスタンはこれから五十年の間に人口が倍増して五千万人になる。今の平均収入は国民一人で月四十ドルくらいだろうが、二〇五〇年にはこれをせめて五百ドルにはしておかねば国民はおさまるまい。ということは五十年間でGDPを実質ベースで二十五倍にするということで、それは戦後日本の半分のペースで伸びるということだ。

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    ある日僕は、タシケントの空港に着いて荷物が出てくるのを待っていた。向こうのソファにはマフィア風のまだ若い一団がたばこの煙をもうもうとくゆらせて、のべつまくなししゃべっている。二言目には四文字言葉、馬鹿野郎、そして次には乾杯の繰り返し。酔いのまわった男が目をすえて何度も同じ言葉に戻りながら、乾杯をしたいと言う。「この難しい改革の時代に、俺達の子供がしっかりした基盤に立てるように。俺達が自分の両親を好きなように、俺達の子供も俺達を好きでいてくれるように、乾杯しよう。

    この時代を子供達に説明してもわからねえだろう。そして、俺達が何をしていたかが子供達にわかれば、親と子の間は切れちゃうかもしれねえんだ」 いや、この男が真剣にそう考えているんなら、子供達も父親をわかってくれることだろう。

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    アフロシアブの丘の上で

    サマルカンドの漆黒の闇。チムール大帝のモスクが聳えるレギスタン広場がイリュミネーションに照らしだされると、古代の夢が繰り広げられる。モスクのタイルのブルー 、金の飾り、そして衣装の黒や黄色が色彩の交響楽を織りなす中で、ペルシア風の舞姫は古の胡弓と鼓のささやきを背に、裾を翻し頭飾りを振り立てて静かに舞う。

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    二年に一度の、サマルカンド国際音楽サマー・フェスティヴァル。これは豪華で、歴史そのものを感じさせる・・・

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    街のはずれ(昔はここがサマルカンドだったのだが)アフロシアブの丘の遺跡の博物館には、発掘された大きな壁画が飾ってある。ラクダに乗ったキャラバンが砂漠を行く図柄で、その中には黒人が一人まざっている。赤はどこか柔らかく、青は涼しげに澄み、その色合いはクレタ島やポンペイで見た壁画を思い出させる。どちらが先なのか。文明の発祥地がエジプト、メソポタミアなら、この色彩はそこから来たのか? どうであれ、北インドから中央アジア、イラン、イラク、シリアまでは単一の文明圏で、中近東とか中央アジアとか南西アジアとかに分けて考えるのは、ものごとの理解を妨げる。

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    だが近世になって中央アジアはイランやトルコから切り離され、「ロシア文明」、「ソ連文明」に組み込まれてしまった。ロシア文明・・・、これは中央集権、専制のビザンチン帝国を模倣することから出発し、モンゴルの軛を振り払うため、自らモンゴル並の専制主義を取り入れて成立したものだ。ロシア民謡にはアジア遊牧民族の音階がそこはかとなく入り込み、女声が時々裏声に引っ繰り返るところもそっくりだ。

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    だが十九世紀のロシア帝国は、ペルシア湾に南下するための橋頭堡として中央アジアに攻め込んだ。ウズベク人が今言うように、当時の中央アジアはロシアの植民地以外の何物でもなかった。経済のインフラは作ってくれたし、女性の社会進出を実現してくれたにしても。中央アジアの人達はモスクワに出ていくと、「サヴェーツキー 」つまり「ソ連人」と呼ばれて蔑視されていたのだ。

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    でも長い間超大国ソ連の中で暮らしたことは、ウズベキスタンの人の心を変え、彼らは今でも「ロシア文明」の中に生きている(2002年当時)。ロシアのテレビは地元のテレビよりはるかにナウだし、モスクワは今でも世界の学術と文化の中心地なのだ。それにモスクワに行ってウズベキスタンと言えば皆知っているが、西側に行くと自分達の居場所はないのだ。

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    だから、ウズベキスタンはまだ戸惑っている。今の国境で独立国となったのは史上初めてのことだから、無理もない。統一のシンボルとしてチムール大帝やその孫で学者のウルグベクを掲げてみせても、ウズベク民族がこの地にやってきたのは彼らの後だし、チム

    ールの帝国は今のウズベキスタンよりはるかに大きな国だったので、どうもぴんと来ないのだ。

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    ウズベキスタンのある友人がいい加減酒に酔った時、僕にぽつんと言った。「君、この国にいて退屈じゃないかね?」 で、僕がそんなことはないと言うと、彼は頷き自分で自分を納得させるように力強く言った。「カリモフ大統領はもぐりじゃない。この国は二流の国なんかじゃない」

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    この国では多くの学生の目は燃えている。でも戦後独立したアジアの国に比べるとどこか後ろめたいというのか、自分の国に自信を持ちきれていない様子が見える時がある。それはウズベキスタンの独立は戦って得たものではなく、エリツィンのロシアにむしろ捨てられて得たものであるからかもしれない。

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    ウズベキスタンでは九十年代初期のロシアで起きたような、エリートの急激な若返りは起きていない。ソ連時代の古いエリートが今でもエリートのままでいる。だから考え方も古く、法律と規格を変えれば経済は変わるものだと思い込んでいたり、日本製品の品質が高いのは軍需生産に傾斜していたためだなどと、したり顔で言ってみせたりする。(注:2026年の今は、もっと現代的な若手が増えている)

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    でも学生達は現代的で、その考えは宗教的戒律に縛られているわけでもない。日本から生け花の師匠が来て花を生けたりすると、手伝いのウズベク女性はいつも何かやることはないかと見ていて自分で動きまわるのだ。旧社会主義圏の若者は指示がなければ動かなかったり、尊大に構えて動こうとしない者がいるかと思えば、スタンドプレーで取り入ろうとする者がいたりするが、ウズベクの若者にはこれが少ない。チームワークと個性がうまくバランスしているのかもしれない。ロシアで七年暮らした僕の娘は、ウズベキスタンを見て言った。「この国、もしかするとロシアより発展しやすいかもしれない」

  • 日本歴史紀行8:長野と古代九州のかかわり 安曇氏

    長野と古代九州のかかわり 安曇氏

                        河東哲夫

    長野は九州や大和からは距離があるので、古代の日本史でさして役割を果たしていないように見えるのだが、実はそうでもないようだ。北九州の安曇氏がこのあたりを開いた可能性がある。安曇氏というのは、西暦528年大和朝廷に対して立ち上がった「筑紫君磐井」(九州王朝伝説とも関係)の乱で、磐井側について戦った豪族(海賊系)なのだが、これが敗北して長野の方に流れてきたかもしれないのだ。信濃川から入って、支流の犀川を遡ると、長野に至る。そのあたりは安曇野である。

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    その関連で言うと、穂高神社の御舟祭りが有名だ。穂高神社の本宮から遠く離れた穂高岳のふもとにある奥宮で、「神池」(大きくはない)に舟を浮かべて一周する行事。海も湖水もないこの地域で舟というのはいかにも奇異なのだが、言い伝えではこの松本盆地には古代大きな湖があったと言う。

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    今でも松本のあたりは、地面を掘ると浅いところから水が出てくるそうだ。そして松本市の「渚」など、水にちなんだ地名が多い。

    穂高神社というのは安曇氏にゆかりがあって、富山、静岡、姫路にあるらしいので、穂高岳にちなんだ命名と言うより、穂高岳が穂高神社にちなんだ命名なのかもしれない。「穂高岳」という名称はけっこう新しいもののようなのだ。

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    この地域には、「龍の子太郎」という昔話がある。山の掟を犯したために龍に姿を変えられた母と共に、山を切り開いて湖の水を海に流し、広大な田を開いたというのだ。地図を見るとわかるように、この松本盆地は山に囲まれていて、川の出口がないように見えるのだが、信濃川の支流である犀川は、まさにこの松本盆地を水源としていて、北方の山をまるで割いたかのように、山の向こうの長野盆地に流れ出る。

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    今回(2022年)は、塩尻で講演する機会があったので、そのあとレンタカーで犀川に沿ってドライブしてみた。国道19号線を進んでいくと、犀川はまさに龍のように「山を割って」流れていくのである。壮観だ。いったい、どうやってあのような水路ができたのか、不思議。犀川はもともと低地を流れていたのが、次第に山が隆起したものとしか思えない。

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    武田信玄と上杉謙信が戦った川中島は、犀川が長野盆地に流れ出て千曲川と合流する地点にある。以前はなんで甲斐の山奥から武田信玄がこんな遠くまで出張ってきて戦争をしたのかわからなかったのだが、信玄にとっては東方に進軍する際のハブだったわけだ。

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    話しを戻すと、松本は初めて見物した。松本城に象徴されるように、どこかあか抜けた、さっぱりした街並みだった。長野市はこの地域ではわりと新しい存在のようで、江戸時代は松代と松本の方がメインだった。中でも松本は商業のハブだったとされる。そして旧制高校は松本にあって、長野にはなかった。今でも長野大学の文理学部は、松本に置かれている。

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    そして何と言っても、小澤征爾の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」で、松本は世界に名を知られている。それに値する文化都市だ。

  • 世界紀行6:ユーラシア その6 中央アジアから世界を見れば

    (「意味が解体する世界へ」草思社 から)

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    中央アジアから世界を見れば

                   河東哲夫

    タシケントの家で夜遅くワーグナーを聴いていると、隣の家のニワトリが僕の教養主義を嘲るかのようにコケコッコーと時を告げる。僕はそれで一時すっかりくさって、クラシック音楽の限界をタシケントの鶏に教えられた気になった。

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    このあたりの伝統音楽を聴いていると複雑なシンコペの末にリズムが半拍失われたまま先に行ってしまったり、いきなり無理やり半音下がったかと思うと西洋音楽では考えられないぞっとするような、しかしその反面ぞくぞくした快感を覚えさせる転調をあっけらかんとしてのけて、そのまま先に進むような瞬間に会い、ああ西洋のクラシックは何だかんだと言っても理屈だな、結局一人の作曲家が全てを作ることの限界は、次に何が起こるかよく見えてしまうような気持ちがすることに現れてしまうんだなと思う時もある。

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    でもクラシック音楽も拍子を気にせず息づかいや間で聴いてみると、新鮮で深いものに聞こえてくる。我々素人は足でドタドタ拍子を取りながら音楽を奏でたりするけれど、プロはフレーズを大事にする、とはこういうことなんだなと納得した。

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    僕がウズベキスタンにやってきた時、これまでアメリカやヨーロッパやロシアしか知らなかった自分のものの見方に何か大きな変化、パラダイムの変化といったものが起きるのではないという期待があった。五十五歳(2002年のこと)にもなれば、一つのところだけにいると物の見方が固まってしまい、いいことにはならないのだ。

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    でもタシケントに来てみれば、ここもついこの前までソ連の一都市、それも大都市だったのだから当然だけれど、ちょっと見には驚天動地のことなどありはしない。市場経済をとりいれようとしている旧社会主義の大都市共通の様相があるだけだ。

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    こうした中で僕がああこれかなと思ったのは、これまで大国の辺境の未開の部族と思っていた昔の遊牧民族が、東は中国、西はヨーロッパの歴史にまで直接介入し、ユーラシア全体の主人公として長く振る舞っていたことの意味を考えるようになった時だ。

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    遊牧という生活形態がいつできたのかは、誰にもわからない。農業地帯から追い出された者達が仕方なくなったという説もある。彼らの生産力は飛躍的上昇をとげることはなく、いつもその機動力に優れた軍事力にものを言わせて農耕民族を侵略し、商業を支配してその上がりで国家を運営したのだ。

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    中国は中央アジアの辺境なのか

    中央アジアからは、中国を見る目も大分違ってくる。中国は、気の遠くなるような長い時の中を連綿として漢民族独自の文化を発達させてきたように思われているし、中国人自身も固くそう思い込んでいるけれど、実際には安禄山や詩人李白がペルシア系だったように、周辺の遊牧民族そしてペルシア系民族と渾然一体となってその歴史を進めてきたのだ。純粋の漢民族が作った王朝は漢、宋、明くらいのものと言われているし、また漢以降の漢民族は随分混血したから、「純粋の漢民族」などという定義自体あやしいものだ。

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    中国で初めて国家らしい形態を備えた秦の始皇帝は遊牧民族出身で、目が青かったとの言い伝えも残る。陶器と言えばもっぱら中国で発達したことになっているが、例えば景徳鎮の染付に使われたコバルト染料はペルシアから来たもののようだ。

    そして元の時代、モンゴルによってペルシア系人種は中国に深く引き込まれ、国家の財政や金融、流通で腕をふるう。当時のモンゴル支配地のほぼ全域にわたって、ペルシア語は今の英語のような国際語だったらしい。この時代、遊牧民族モンゴルは、自分の軍事力とペルシア系人種の商売の能力を使って、中国を含むユーラシア東半分を支配したのだ。

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    してみれば、あの中国も実は連綿として多民族社会だったのであり、それはもう世界中がそうだったのだ。そうした多民族社会のベ-スが国民国家という一つ一つの小さな単位に切り取られていったのが、世界史の実体なのかもしれない。

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     中央アジアの歴史を見ると、経済偏重の我々は認めたくないのだが、軍事力が時として世界を変えることがよくわかる。青銅器文明は鉄器文明に征服され、その鉄器文明は鉄器と騎馬を組み合わせた遊牧民族に征服される。

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    スキタイ人が採用したこの武器体系はペルシア人、トルコ人、モンゴル人が採用し、彼らは千年以上もの長きにわたってユーラシア大陸に君臨する。馬は今で言えば戦車、装甲車、戦闘機の役割を果たすスーパー兵器だったのだろう。中国の馬は小型のわりに高価で、比較的大型の馬を大量に安く飼育できる大草原を持つ遊牧民族には敵わなかったらしい。

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    モンゴルが西欧を征服しなかったのは、ハンガリーまで攻め寄せていながらモンゴル本土での後継争いに加わるため軍が引き上げたことによるが、モンゴルがヨーロッパに伝えたのだろう中国の火薬が皮肉なことに、鉄器と騎馬を組み合わせた武器体系による長い々々支配を終わらせる。これを杉山正明氏は「陸と騎射の時代」から「海と火器の時代」への移行と形容しているが、その火器、大砲の時代が西欧植民地主義をもたらした。

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    これを西欧の原罪のように言うのは間違いだろう。こうなる前はモンゴルによる植民地主義がユーラシアを支配していたのだから。そして今、兵力展開と戦闘状況のリアル・タイムでの把握を可能にしたアメリカの電子戦能力が、新しい武器体系として世界に絶対的優位を打ち立てている。武力だけでは今の世界はもう到底渡っていけないけれど。

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    専制のDNA

    遊牧民の社会はいくつかの特徴を持っている。彼らは一年の間に集住と散住を繰り返す。そして軍隊は百、千の単位で構成された厳しい上意下達の原理で貫かれている。家畜を追って散住している時や軍隊を率いる時には、個人としての高い能力と瞬時の判断力を要求される一方で、集住の時には集団主義が前面に出る。そしてモンゴルの相続は分割相続だったから、家長の死後、子の間で相続の取り分をめぐって争いが起きることも多く、モンゴル帝国崩壊の一因となっている。

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    遊牧民族の作る国家は宗教には寛容だが、国家機構が軍隊組織とだぶっているためかその統治は家父長的で専制的だ。古代の昔、ギリシアもペルシアも経済力は同じようなものだったろうが、ギリシアでは民主政治、共和政治が生まれたのに、アジアではペルシアも含めてずっと専制支配が続いた。中央アジアでは今でも、リーダーは専制的でないと務まらないと言われている。アメリカ帰りのウズベク青年が、「お前、ここじゃ部下をどなり叱りつけなきゃ、奴らは言うこと聞かないんだよ」と友人に忠告されたと言ってくさっていた。

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    なぜこうなのかはわからないが、中央アジアでは昔からずっとこうだった。遊牧民族の影響なのか、灌漑設備を差配するには専制的でなければならないのか、それとも単に生産力が低くて富を少数の者が独占してきたからそうなのか、僕にはまだわからない。

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    ともあれ中央アジアは国際政治の舞台に復活した。ユーラシアの中央にあって、インドとほぼ同じ広い面積を持つこの地域は百五十年間、ロシア、ソ連によって分断されていたが、それがまた独立した国家群として蘇った。かつてはペルシア、トルコ、あるいはモンゴル文明の一員として中国、インドとも並ぶ力を持ったことのある地域だ。ロシア、中国、イランといった現代の大国に対しても、それは少なからぬ意味を持つだろう。

  • 日本歴史紀行7:継体天皇と高槻の今城塚

    最近本が出て評判になっているAmazon.co.jp: 継体天皇-六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」 (中公新書 2910) : 河内 春人: 本 ように、6世紀の継体天皇という人は、王朝としての天皇家の一種の断絶を意味する可能性がある。そして彼の権力は出身地とされる福井だけでなく、九州とも深く絡んでいるようだ。

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    で、2023年4月、和歌山で講演した帰り(岸本周平前知事が生きておられた時で、わざわざ聴きに来られた)、高槻の今城塚に行ってみた。

    大きな前方後円墳で、発掘された埴輪が有力者の牛車に先立つ行列になっている今城塚古墳 – 検索。日本の学界では継体天皇の墓というのが多数意見。宮内庁はもっと古い年代のものだとしている。

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    継体天皇は第26代の天皇とされ、507年から 531年のあたりに即位していたものと推定されている。第25代の天皇武烈には跡取りがおらず、近江生まれで越前育ちの継体が天皇として招請されるも、なぜか朝廷入りしたのは即位の20年後、という不思議な経歴。第15代の応神天皇直系の皇女と結婚して箔をつけている。

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    この高槻のあたり、淀川のほとりの台地(領地の奈良盆地を見渡せる)で、今の三島郡には前方後円墳が密集している。まるでエジプトの王家の谷。

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    前方後円墳は3世紀の後期、大和の纒向(今の桜井市)に大きな集落が出現し、近くに箸墓古墳を建造したあたりがはしり。6世紀末にはもう作られなくなっている。3世紀の後期というのは、ヒミコが亡くなったとされる247年からしばらくたってのこと。つまり前方後円墳は、3世紀の後半からこの奈良盆地という肥沃な平野に権力を樹立した王朝に特有のものだったのかもしれないが、全国に約5000基も分布(最多は千葉県の720基なのだそうだ)しているから確かなことはわからない。

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    継体天皇はその後も万世一系、現在の天皇家に続くとされるが、前記のように武烈天皇の後が絶えているし、継体天皇の後も何かむにゃむにゃしているのだ。彼の後は531年または534年から535年の安閑天皇、536年~539年の宣化天皇、539年~571年の欽明天皇(いずれも継体天皇の子)と続くのだが、前二者の在位期間が異常に短い。

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    継体天皇の末期は九州と朝鮮半島がからんで、「出入りが激しい」。インターネットの記事には、527年に朝鮮半島の新羅が任那に侵入したとある。任那は継体紀6年に、継体が親しくしていた百済に割譲してあったそうで、継体は527年、大軍を百済支援に送ろうとした。ところが当時、北九州で勢力を持っていた磐井が新羅に通じていて軍の派遣を妨害し、継体との武力抗争となる(磐井の乱)

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    継体の大和朝廷側は勝利し、大軍を朝鮮半島に送ったことになっているのだが、日本書紀が引用している百済本紀では、その時倭の天皇、太子、皇子が死んだと書いてある。欽明天皇でやっと安定した政権ができたという史実と平仄があう。しかし、百済本記そのものはもう残っていないし、このあたりの日本書紀の記述は錯綜していて、本当にあったことはわからない。もし継体天皇とその跡継ぎ2名がほぼ同時に亡くなる(暗殺される)ことがあったのなら、それは欽明天皇あたりによるクーデターがあった可能性もある(継体王朝は代わっていないが)。

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    九州王朝説再び

    ところで以前から、日本史学では「九州王朝」説がくすぶっている。中国の史書に「倭」とあるものは、北九州にあったのではないか、というものである。中には、継体天皇自身、奈良盆地ではなく、北九州に君臨していたのではないか、とする学者もいる。

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    因みに欽明天皇は、九州東岸の宇佐と奈良盆地の入り口の羽曳野に、八幡神社を建立している。八幡神社は応神天皇を祀るもの。宇佐は九州から瀬戸内海に乗り出すところ、羽曳野はその到達点と考えると、これは欽明天皇が、自分の血の中に応神天皇の血が入っている(継体天皇は上述のように、応神天皇直系の皇女と結婚して箔をつけている)ことを誇示するため、つまり自分の正統性を誇示するための行い、とも考えられる。

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    倭国とか邪馬台国とか大和とか卑弥呼とか、どれが誰がどこで活躍していたのかについては、諸説入り乱れて(http://inoues.net/waj.htmlに面白い一覧表がある)考えるのもいやになるのだが、神西秀憲という在野の考古学者は著書「古代九州王国の謎」で、面白い仮説を提示している。

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    「継体天皇あたりまでの古事記の史実は、実際はすべて九州で起きたこと。出雲等も九州にあったのが、古事記によって全国に「配分」されたもの」というのだ。更に同氏は、古代の倭はもともとは北九州の遠賀川河口地帯にあったが、新羅の脅威を避けるために飛鳥に遷都したのだとする。つまり、継体の頃は倭(大和)は北九州にあって、朝鮮半島の百済と組んで、磐井・新羅の勢力と争っていた、ということになる。

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    要するに、この頃の日本の歴史は頭を混乱させるものなのだが、例えばこの今城塚を発掘してみれば、いろいろなことがわかるはずなのだ。今城塚は宮内庁の管理ではないので、一般人の立ち入りもできるし、発掘もされている。ところが肝心の石棺と石室が昔の盗掘とその後の伏見大地震での地崩れで、粉々になってしまっているということなのだ。残念。何者かが証拠を隠滅したのかも。

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    それでも、その石棺は熊本から海路運ばれてきた馬門石、兵庫からの竜山石、そして地元の二上山白石の三種を使っているのがわかっているそうで、この棺の主の九州、そして播磨との強い関係を思わせるのだ。

    このあたりの歴史は謎に満ち、記録は少ないから、諸説入り乱れる。天皇家もそうだが、蘇我氏とか藤原氏のような有力な家柄の出自もよくわかっていない。と言うか、本当のことが隠されている感じがする。

  • 魑魅魍魎の中東世界を、AIは理論で渡れるか?

    (これは最近のメルマガ「文明の万華鏡」に載せた記事の再録です。)

                         河東哲夫

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    最近は、「AIとのコラボ」というのが流行っている。現在の錯綜した中東情勢はそもそも見通せるものなのかどうか、ChatGPTと自己流のコラボ方式で、議論してみた。

    これは、国際関係分析の方法論に関わることでもある。筆者が親しくしていた故猪口孝教授はMITでその「科学的国際関係論」を習ってきた人で、彼がその手法で書いたアカデミックな論文を読まされたことがあるが、知らない述語と理論のオンパレードで、歯が立たないどころか、ぼろぼろ欠けていく感じがしたものだ。

    その猪口教授自身、「国際関係論というのは、所詮科学じゃない。Artなんだ。職人芸なんだよ」と言っていた。彼の講演も、学者のスピーチと言うより、高座の一席を思わせるものがあった。

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    面白いことに、ChatGPTもここで、同じことを言う。

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    筆者の質問

    ――お早う。中東情勢の今後の見通しの方法について、と言うか、国際関係論の理論化について。中東の場合、イスラエルやイランなどプレーヤーが多い。また外部の勢力がいつでも、何か目論見を持って介入してくるかも。

    これくらいなら、まだ見通しがつくかもしれない。しかし、プレーヤーを一つの単位として扱えないことが、見通しを複雑にする。つまり、各プレーヤー内部は複雑に分裂していて、その相互の関係は流動的なのだ。こんな状況をコンピューターに再現して、動かしてみて、何か「これしかあり得ない」というシナリオができると思うか? 

    QRコードと同じで、「無数のパターンが考えられます」という答えにしかなり得ないのでは? どう思う?――

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    ChatGPT:

    思考時間: 1 秒(他の、資料の渉猟を必要とする質問に比べて、回答は驚異的に速かった)

    お早うございます。僕(ChatGPTのこと)も、かなりそう思います。「これしかあり得ない」というシナリオをコンピューターで出すのは、ほぼ無理でしょう。理由は、国家がビリヤード球のような単一主体ではないからです。イスラエルもイランも米国も、内部に軍、情報機関、宗教勢力、世論、政権維持の論理、偶発的暴走がある。だから入力条件そのものが固定できない

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    ただし、無意味ではありません。使い方を変えれば役に立ちます。コンピューター・シミュレーションでできるのは、「唯一の未来を当てる」ことではなく、「どの条件が変わると危険になるか」を見ることです。

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    たとえば中東なら、イスラエル国内政治が強硬化する、イラン体制内で革命防衛隊の発言力が増す、米国大統領が選挙対策で介入に傾く、サウジが沈黙を破る、ヒズボラが誤算で一線を越える、こういう「スイッチ」を動かして、どこで連鎖的エスカレーションが始まるかを見る。これは有益です。

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    しかし結論はおっしゃる通りで、QRコードのように「無数のパターンがあります」になりやすい。だから国際関係論としては、シナリオを増やすより、逆に枝を刈る理論が必要になります。

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    僕なら、こう整理します。

    中東情勢を見る時の理論化は、「誰が何を望んでいるか」より、「誰が何を恐れているか」を見る方がよい(注:これは面白い。恐怖というのは、結構、いろいろなプレーヤーの間で共通していることがあるので)。国家は野心よりも恐怖で動くことが多い。

    イスラエルは包囲と奇襲を恐れる。イランは体制転覆と屈辱を恐れる。湾岸諸国は戦争と(米国に)見捨てられることを恐れる。米国は泥沼化と威信喪失を恐れる。

    この「恐怖の構造」を押さえると、無数のパターンの中から、実際に起きやすいものをかなり絞れます。

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    だから結論はこうです。

    コンピューターだけでは「唯一解」は出ない。しかし、人間の歴史感覚と組み合わせれば、「危ない分岐点」は見える。中東分析で必要なのは、未来予測モデルではなく、恐怖と誤算の連鎖モデルだと思います。

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    者:

    いいこと言うねえ。このまま、メルマガに掲載させていただく。今に、アバターでテレビに出演するようになるね。

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    ChatGPT: 

    恐縮です。どうぞ使ってください。アバターでテレビ出演となると、問題はネクタイですね。中東情勢より、そちらの方が予測困難かもしれません。

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    筆者:

    (ユーモアの感覚)素晴らしい。これもメルマガにアップしておく。専門家もアップ、アップ。

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    ChatGPT:

    (駄洒落には気がつかなかったか、無視したか)それは光栄です。ただ、冗談抜きに、国際政治の専門家が苦しくなっているのは事実でしょうね。冷戦時代なら、「ソ連はこう考える」,「米国はこう反応する」という比較的安定したモデルがありました。

    ところが今は、国家内部が分裂している、SNSで世論が瞬時に変わる、指導者個人の性格が以前より大きく影響する、非国家主体(企業、AI企業、民兵組織、宗教勢力)が強い、ドローンやAIで小さなプレーヤーも大きな影響を与えるので、昔ながらの「国家対国家」の分析だけでは足りません

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    むしろ外交官や歴史家が昔からやっていた、「この人物は何を恐れているか」、「この社会は何に怒っているか」、「どの勢力が沈黙しているか」といった、人間臭い観察の方が価値を持ち始めています。

    これは少し皮肉ですね。コンピューターが発達すればするほど、最後はチェーホフやトルストイ(注:ChatGPTはこれまでのやり取りから、筆者の文章の下敷きはチェーホフのスタイルであることを知っている)のような人間観察に戻ってくる。以前お話しされていた、「言葉ではなく実感が大事」という感覚にも通じる気がします。

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    ですから、専門家がアップアップしているのは、必ずしも能力不足ではなく、世界そのものが以前より複雑になっているからでしょう。ただ、その複雑さの中でも、人間の恐れ、欲望、名誉心、嫉妬といったものは驚くほど変わらない。そこに分析の足場が残っているのだと思います。

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  • 世界紀行5:ユーラシア その5 ウズベキスタンのタイム・カプセル

    ウズベキスタンのタイム・カプセル

                      河東哲夫

    2003年のある日、銀座でノスタルジックなフォークの歌声に足を止めると、路上の台にCDを並べて売っている。脇に置かれたブラウン管のアニメには、鄙びた木造の店、医院、そしてオート三輪車までが映されて、この懐かしい五十年代の日本の町を、買い物籠を下げた少女が歩いていく。小さい頃の思い出をかき立てられた僕はたまらず、CDを手に取った。宮崎駿プロデュース、歌は上條恒彦の「お母さんの写真」。

     僕の思い出などどうでもいいかのように若い店員はレシートを両手で突き出すと、「お客さま、くじ引きは如何ですか?」と言う。で、昔ながらのあの丸いくじ引きをガラガラっと回すと、茶色のタマがポロっと出てきて、カランカランと鐘が鳴らされ、店員が路上に響く大きな声で「おめでとうございます。映画『××』への御招待券を差し上げます」と言う。僕の小さい頃の思い出は、安っぽい茶色のタマとカランカランという鐘にすり替えられてしまった。

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     タシケントでは不思議なことに、例のデジャ・ヴュ、既視感覚によく襲われる。僕の住む家(大使公邸)は街外れの住宅街にあって、そこには大邸宅が次から次に増えているのだけれど、狭い道は舗装の幅も揃わず所々穴があいている。そして近くの学校からは、ランニングシャツにランドセルのようなものを背負った小学生達が楽しそうに連れ立って下校してくる。不揃いな恰好の民家、家の前の生け垣も手入れが悪く電信柱も真っ直ぐに立っていない。だが、そうしたもの全てが、ここを訪ねる年配の日本人に、終戦間もない日本を思い出させ、ノスタルジアをかき立てる。

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     僕の家を出たところの四つ角には、近くの民家が小さな小さな果物屋を出していて、ひょうたんみたいなものをいくつもぶら下げ、売っている。ある日その脇に男が一人後ろ向きにしゃがんでいた。不審に思って彼の前をふと見ると、なんと朝顔! 夏の朝、ほこりっぽい道端に白と青の花が清々しく咲いていた。

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     こうしたことは偶然の部類に入るのだろうが、はるかな昔日本が中央アジアの文化を受け入れたことは確かだ。元々ペルシアで統一国家ができたのは中国の秦より三百年も早いし、ササン朝ペルシアがアラブに征服された六四二年、ペルシア人のエリートは中国に大挙して移住したらしい。

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     そしてペルシア、トルコ、モンゴル系などが混血した中央アジアのソグド人はユーラシア全体の商権を握って、唐の安禄山のように歴代の中国王朝に食い込んでいた。元朝は、モンゴルの軍事力とソグド人の経済力が癒着して中国を支配したようなものだったと言う。

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     ペルシアの商人は古くから海路の商売にも乗り出していたから、日本にも来ていないはずがない。大和絵にはペルシアの細密画の影響があるかもしれないし、伎楽もペルシアから伝わったものだろう。ウズベキスタンの民俗音楽を聞いていると、日本の声明の節回しを聞きつけはっとすることもある。

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     楽器ともなると、日本との関係はますます明白だ。中央アジアの楽器は本当に多種多様な形をしていて、なかには雅楽のしちりきのようなもの、能楽の鼓のようなもの、能笛にそっくりのもの、胡弓、琵琶そのもの、そして琴に似たものがある。古代の楽器はエジプトやメソポタミヤでできたものが、多くはペルシアを経由してヨーロッパのバイオリン、マンドリン、リュート、そしてウィー ンのツィターになり、ロシアのバラライカになっていった。逆ではない。

  • 日本歴史紀行6:大和にある出雲

                         河東哲夫

     日本の古代は、朝鮮半島、九州王朝、「神武天皇の東征」、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、継体天皇、葛城氏、蘇我氏、藤原氏などが入り乱れ、もつれにもつれて、考えれば考えるほど頭は熱くなるばかり、そこに出雲という

    変数を投げ込むと、頭の回路は爆発するかフリーズするのだ。

     

     飛鳥のあたりを歩いていると、出雲とか大国主の足跡にでくわして驚くことが多い。いくつかの事実だけ、筆者のデータベースから列挙しておこう。それらを結びつけたり、何かを推論するのは適度で控えておく。

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    大和にある「出雲」

     銅鐸、埴輪は大和、そして北九州、出雲(島根の)で多出する。

    ところで大和の三輪には、「出雲屋敷」という地名がある。出雲屋敷とは大国主を祭る、一種の神社で、日本の諸方にある。三輪の「出雲屋敷」は、神武天皇の皇后の実家があったとされるところである。三輪の近くの大田遺跡では、出雲の陶器が多数発掘されている。

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     そしてその三輪は、古い家柄の名前でもあり、近くの大神(みわ)神社とそのご神体であるところの、背後の三輪山とも関わりがある。そして大神神社は大物主を祀るが、この方は大国主と同一とされる。大神神社の宮司は三輪家が長らく務めた。

     その三輪家は、元々はタイ方面から朝鮮経由で――三輪家は何度も朝鮮に出征、あるいは派遣されている――稲作・青銅器・蛇信仰文明を持ち込み、出雲を経て2世紀前半、大和にやってきた。その時大物主(実体は蛇)信仰も持ち込んだ。

    銅鐸を出雲から大和にもたらしたのも、三輪家だとされる。彼らが大和にやってきたのは神武天皇以前のことで、同じく古い有力豪族葛城氏と並立していたのだろう。葛城氏の本拠は東方の葛城山麓で、三輪からは離れている。記紀では、雄略天皇に逆らって討伐されたことになっていて、彼らの遺跡には燃えた後が残っているそうだ。

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    三輪家から少しあと、出雲から物部氏がやってきたのだ、とする学者たちがいる。物部氏は鍛冶・兵器製造技術に優れ、大和朝廷の軍を支えるのだが、その本拠地兼兵器庫は奈良の近く、天理の石上神宮にあった。そしてその境内に出雲建雄神社があり、ここのご神体が草薙の剣である。物部氏が出雲から鋼鉄の剣の製造技術を持ってやってきた、としか思えない

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    大和と出雲M&Aの顛末-皇室と出雲国造家の縁

     時期、態様は不明だが、上記、そしてその他の事績に照らして、大和と出雲の権力が合体したのは多分、事実だろう。古事記では、高天の原が建御雷神・天鳥船神を出雲に派遣し、剣の輝きで脅しつつ、大国主に国譲りを迫ったことになっている。

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     両者合体の決定的な証拠は、出雲大社の宮司である千家(せんげ)家(もう一つ北島家が分家としてある)の当主は、代わるたびに皇居に出向き、天皇に「出雲国造神賀詞」を奏することである。これには、「出雲の神を八咫鏡にこめて、神奈備にまつった」という言葉もある由。この八咫鏡は伊勢神宮で祀られている。千家家と皇室は古代から通婚しており、現在の当主千家国麿は2014年、高円宮憲仁親王の第二女子・典子女王と出雲大社で結婚式をあげている。

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     なお、出雲国造家は当初、出雲大社のあるところではなく、意宇に本拠を構え、その上流の熊野大社を大事にしていた。 

    大和と出雲の関係はこうして謎なのだが、日本古代史には他にも謎が多い。