日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。


米国旅行記2 2005年ハワイ

(同じ2005年の秋には、ハワイを経てロス・アンジェルスに夫婦で行ってきた。ここではまず、ハワイでの印象)

平成十七年十月八日

河東哲夫

Ⅰ・ハワイ

1.「帝国の肌は荒れている」

 ハワイで空港の外に出るのは、実に今回が初めてでした。ホノルルは思っていた通り、「アメリカ的」な街でした。緑の芝生の公園では、スプリンクラーが惜しげもなく水をまいていて、水路のほとりには路上生活者が寝転がっています。一見立派なコンドミニアムが立ち並んでいますが、近くに寄って見れば、建物のラインはどこかでこぼこで、ペイントの表面はつやがありません。「帝国の肌は荒れている」ことが普通なのです。

おそらく、低賃金労働者を使って建設やペンキ塗りをやっているため、神経が行き届かないのでしょう。こんなことはロンドンでもパリでもモスクワでもそうです。しかしここは楽天的で、観光客用の木組みのバスが目の前ですごい音を出して加速したかと思うと、混血のアジア風の運転手がその加速に頭を後ろにそらしたまま走り去っていきました。

2.抹殺された王朝と観光資源と

 カメハメハ大王の名前は知っていましたが、これほど偉大な人とは知りませんでした。ハワイ諸島が彼に統一されたのはやっと19世紀の初頭。彼はオアフ島ではなく、溶岩と密林のハワイ島の王だったのです。彼の作った「砦」の跡を見に行きましたが、どこまでも碧い海の岸辺にまあ100メートルくらいでしょうか、割と原始的な組み方をした石垣が残っているだけです。まあ彼としては、白人の植民地主義がどんどん進みつつあるのを肌で感じ、ハワイの近代化と独立維持を何とか達成したかったのでしょう。

 で、オアフ島に「アメリカ唯一」だとアメリカの白人達が自慢する「王様の宮殿」(Royal Palace)-――イオラニ宮殿-–というのが残っています。暑いハワイに赤坂離宮をこぶりにしたようなフランス風の瀟洒な石造りの宮殿が造られたのです。そこでは、アメリカによるハワイ併合の哀しい歴史が展示室で写真と説明つきで観覧に供されています。

アメリカ本土に無数にあるカジノは多くの場合、アメリカ・インディアンに利権が与えられ、そこには「何何族の歴史」が白人による弾圧の事実も隠さずに展示されているのと、よく似た現象です。少数者による権利の主張と、白人のうちの良心的な勢力の努力が合わさって、こうなっているのだと思います。

カメハメハ大王も街頭に立っている褌姿の英雄ではなく、きゅうくつそうに背広を着た写真を残していますし、彼以降の国王、女王は皆、まるで明治時代の日本のエリートそっくりの「最近欧化したばっかり」ルックで写真に収まっています。当時はイギリス帝国主義全盛期で、王族達もロンドンに留学するのが普通だったようですが、アメリカのインディアンと同じく、ヨーロッパの病原菌に免疫がなかったために、ロンドンでハシカ(!)にかかって病没したりしています。

 独立を守るための遮二無二の欧化、強い白人の文明に対するねじれた憧れと劣等感、これらは明治期の日本を想起させるものがあります。そして面白いことに19世紀後半のハワイのカラカウア国王は、一八八一年初めての世界歴訪で日本を最初に訪れ(日本にとっては最初の国賓来訪だったようで)、明治天皇と会っているのです。彼はそこで、日本とハワイが「太平洋同盟」を結ぶことを提案したのですが、日本側から拒絶されます。その代わり、「白人の持ち込んだ病原菌で人口が4万人にまで減ってしまった」ハワイを助けるためとして、日本側は移民を送ることを約束します(以上は、ガイドを無料で立ち聞きしていた結果。実は明治元年から移民は行っていたようです)。

 アメリカ人やフランス人たちは、全島を入会地みたいにして共同体的な社会を作っていたハワイの原住民達を馬鹿にして、「近代的な所有権」で島をどんどん侵食、最後はアメリカ人がLikiulokalani女王を宮殿に幽閉までして、ハワイをアメリカに併合してしまいました。女王は、アメリカ資本と結びついて利益を上げていた地元実業界から裏切られたようです。そして幽閉された女王がやるせない思いを歌にしたのが、あの「アロハ・オエ」。

それをハリウッドの白人達がスチール・ギターなる奇妙な楽器で「ハワイアン」なるヨーデルの変形のような(ヨーデルにポルタメントをつければ、ハワイアンのメロディーになるでしょう)音楽を仕立て上げ、これもオリジナルとは全く違うセクシーなフラダンスの伴奏に使うようにしてしまったのです。今の「ハワイ」のイメージは、白人が「未開の地」に対して抱くイメージを自己演出し、誇張したものなのでしょう。

しかしこれは、日本が朝鮮を併合した時の経緯を想起させるものがあります。日本は千九百十九年、李朝の末裔、高宗を毒殺した、と物の本にはあります。

 アメリカ人がハワイに魅せられた理由の一つには、あの真珠湾があったようです。地図を見ればわかるように、真珠湾は大きな割には外洋の荒波から完全に遮断されていますし、当時世界中で鯨を殺しまくっていたアメリカの捕鯨船の寄港地、アメリカの西漸の基地としては理想的なものがあります。

 当時は、ロシアもハワイに色気を示していました。ロシアの荒くれ者はサンフランシスコ近くにまで、植民地化の企てをしていたのですから。日本も完全なシロではありません。併合の時に起きた住民の暴動の際、日本も軍艦を派遣しています。それにアメリカは一九九三年に「謝罪法案」と呼ばれる130-150法案を採択し、策謀の存在を公式に認めているそうです。

 昼下がり。イオラニ宮殿の横の公園には、”Royal Hawaian Band”と横腹に大書したトラックが止まり、近くにはブラスバンドの一隊が演奏前のウォームアップを始めています。Royalというのは、カメハメハ王朝を持ち上げているのでしょうが、このブラスバンドのメンバーは殆んど白人。皆、白いユニフォームで芝生の木陰で、ぶかぶか、どんどん演奏を始めます。

3.「パール・ハーバー」

 ハワイに来たのであれば、パール・ハーバーを見に行かない手はありません。ワイキキからタクシーで行ったのですが、地図で見るのとは違って随分遠くてメーターが上がり、気が気ではありませんでした。

パール・ハーバーでは戦艦アリゾナが米兵の遺骨を抱えたまま沈んでいる上に作られた「アリゾナ記念館」に行きます。これは海上にあるので、船で行くのです。アリゾナ記念館の近くには、筆者が小学生の頃作った「戦艦ミズーリ」の模型によく似た船がもやっていましたが、後で聞くとやはりミズーリでした。記憶では十年くらい前まで現役で、今も完全に廃役になったのではないと思います。思ったより小さくて、戦艦大和や武蔵はあれより二倍弱も大きかったんだぞと思うと、妙に誇らしい気になりました。

 アリゾナ記念館は、人を本当に神妙な気持ちにさせます。日本攻撃の時亡くなった方々の名前が壁にずらりと記されています。浅い海底には、アリゾナが横たわっているのが見えるのです。こんなことは絶対繰り返してはいけません。自殺的な行為しかできないほど日本政府を追い詰めてしまった、一部の日本人の独善的な行為、そして世界情勢の複雑さをあえて無視した蛮勇には今でも反吐が出ます。

アリゾナ記念館行きのボートが出る建物だったかと思いますが、日本の真珠湾攻撃の模様が詳しく説明されています。しかしそこにはもはや、”Remember Pearl Harbor”とかそれに類するような敵意ある言葉はもはや見られず、聞かれませんでした。勝者の余裕だと言ってしまえばそれだけなのでしょうが、靖国神社の遊就館における「欧米植民地主義」への敵意に満ちた好戦的言辞と比べると対照的でした。僕の方が真珠湾のことを覚えておこうと思って、ゼロ戦の図柄にパール・ハーバーとあるTシャツを買ってきた次第です(これは20年後の2026年後の今でも、テニス用の現役として活躍しています)。

4.長閑さとセグリゲーションと

 バスに乗っていたら、小さな白人の老婆がリュックに犬を「つめ」、ミネラル・ウォーターのペット・ボトルと本を持って入ってきました。彼女が片手でカネを出し、のろのろとバスの後ろに歩いていって座るまで、運転手は発車せずに待っていたのです。発車すれば彼女は倒れると思ったのでしょう。

 あるタクシーの運転手は、サモアからやってきたというサモア人の女性でした。ハワイは米国であると同時に、太古の昔からの太平洋諸島との関係も相変わらず続いているのです。この女性はもう3回も夫を代えていて、「4人目のボーイ・フレンドはイラン人なんだよ。ご飯時になると携帯よこしてね。一緒に食べようってんだよ。優しいじゃないか」ということでした。

タクシーの運転手にはなぜか韓国人が多かったのですが、彼らは韓国が未だ貧しかった時代にハワイにやってきて、韓国が良くなったと言っても今さら戻れない、と言っていました。ハワイに200人も親戚がいるが、一堂に集まる機会も滅多になく、次第に縁は薄くなっているようでした。

ハワイ群島最大の島ハワイ島(キラウェア火山のある島)は大型の牧場がいくつかあることで有名ですが、日系人も多数いるようです。ハワイ島の西半分は乾いた溶岩地帯、東半分は密林地帯なのですが、我々夫婦は東のヒロといううらぶれた町に泊まりました。夜、これもうらぶれたファミリー・レストランに行きましたら、おそらく日系人が関係しているのでしょう、大きな力士の人形がおいてあり、メニューには「ワンタン・ヌードル」というのがありましたから、それを注文しました。まさに「ワンタン・ラーメン」そのもの。それも、麺は少し伸びてはいるものの、かん水の匂いがぷーんと漂う、まぎれもなく終戦直後の日本の、古風な場末のラーメンでした。

そのハワイ島は、変化に満ちています。南の果てに行きますと、そこはマウナロア山。アメリカ人は「海の底から測れば、エベレストをしのぐ世界一の高さだ」と、変な威張り方をしていました。山腹にはキラウェア火口があって、噴火を続けています。溶岩が流れる様子は見えず、暗くなってから行くと、赤く光るのが見える程度ではありましたが、風ふきすさび船影もない不吉なほど蒼く白い太平洋と、草木一本生えていない月世界のような溶岩原がほとんど地平まで、人気もない中にのびていき、その向こうで溶岩が海に入る時上げる水蒸気が高く高く上っているシュールリアルな光景は、忘れることができないものです。

ハワイ島の北東の端のWaipioという海岸には、深く内陸に切れ込んだ谷がいくつかあります。外房のような崖の海岸を思い浮かべてください。海に突き出た崖の間では黒い砂浜に白い波が打ち寄せ、小川の流れる緑麗しき野原が内陸の密林にまで伸びています。折りしも西日を受けて、この開発の手の入っていない地はまさに桃源郷のような趣をたたえます。この谷に下りていくと、ハワイの原住民達が昔通りにタロイモを栽培して暮らしているのが見られるのだそうで。

折りしもこの崖の上にはちょっとしたテラスがあって、その飲み物売り場からはラジカセのロックと若者の大声が聞こえてきます。行って見ると、この谷に住む原住民達の子弟が、週日はヒロで働いているのが週末になるとここで集まって騒いでいるところでした。曙のような体型の青年が、しかし髪は茶髪に染めて、コーラ片手に親達の生活を解説してくれます。わかりにくい英語。まだアメリカ本土に行ったことはない、と言うと、秘かな惧れに誇り高い顔をゆがませました。でも、「ここにはいい奴らRight peopleしかいないからな。またいつでも来てください」ということでした。

ここから素晴らしい舗装道路を1時間ちょっと走ると、西岸のリゾート地コナの空港に着きます。ここの空港ターミナルは小ぶりの建物がいくつも並んでいて、それぞれが藁葺きの原住民の住居のスタイルを模した、面白いものなのです。でも、ここに来ると、乗客は不思議なことに白人が圧倒的になります。それも、何故か北欧系の金髪、碧眼の人達が。Discriminationとは言いませんが、Segregationの世界が始まったようです。彼らに囲まれ、ロサンゼルスに向けて飛び立ちました。この続きは「旅行記3」で。