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投稿者: akiokawato

  • 夜泣きそば詩人 青木辰男

    (これは数年前のコラムの復刻です。こういうことは、古くならないので)

                                        河東哲夫

    いつのことだったか、日経文化欄で「夜泣きそば詩人の肖像」という記事があった。戦後中学を中退して働き、終生夜泣きそばの屋台で暮らしを立てていた人、青木辰男氏のことを、その弟が書いている。2009年に78歳で亡くなった時は孤独死。夏の盛りに死後10数日後、発見されたのだそうだ。

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    彼は詩人。もともと裕福な家に生まれたのが零落したので、その鋭敏な神経に研ぎ澄まされた言の葉からは、血が迸る。日経の記事では冒頭に、「わが息のみなもととじてこの遊星(ほし)よ無機も有機も呑む星として」という句があり、一気に引き込まれてしまった。

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    「春夜屋台車が軋むキリストを轢きマルクスを轢き」とか、「夕暮れの回廊のやわらかな下闇を 頭のない犬が通りすぎ やがて静寂のふかい夜がくる」とか、「眼のなかへ隕石がふりそそぐ」などなど――さっそくアマゾンから彼の詩集「--ある夜泣きそば屋の詩(うた) 断声」を取り寄せて読んでいる。内容も、実際の重量もずしりとこたえる黒い装丁の本だ。

    (今、この文章を編集していて、この本のことを全然思い出せない。自分ももう歳とっていて、メモリー素子はもういっぱい。1秒前に考えていたことを忘れる今日この頃だから、仕方ないか)

  • 現代にまで続く平家末裔

    (これは数年前書いたものの復刻です。国立劇場が閉鎖になっている以外は、変更はありません。それにしても、国立劇場の閉場は公演の機会もさることながら、謡などのスタッフの養成を大きく阻害するでしょう。青年たちが伝統文化に関心を示している今、本当にもったいないことです)

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    国立劇場の歌舞伎「義経千本桜」を見に行った。平氏の残党が「九州へ」落ちる(フィクション)義経一行に復讐を果たそうとして果たせない悲話「渡海屋・大物浦の段」のところだけでも、2時間程度。これで、全体6段あるうち2段目の、そのまた半分だというのだから恐れ入る。ワーグナーの「指環」シリーズの上をいく。

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    この歌舞伎では、フィクションとして平家の武将たちが生き延びていたことにしてあるが、実際、壇ノ浦で滅びたはずの平氏の流れは、日本の諸方に残っている。実際に血筋を引いたものか、あるいはフランチャイズのように名前だけ使っているものか、よくわからないところも多いらしいが。

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    日本の外交官で、日本に12音音階・音楽を初めて持ち込んだとされる作曲家の、戸田邦雄(これは筆名で、本名は戸田盛邦)という人がいる。ウィキペディアには、1938年に外務省に入り、ドイツ赴任中にカラヤンやフルトヴェングラーの演奏に接する、1944年、サイゴン(現在のホーチミン)に赴任、プノンペンで終戦を迎えた後、フランス軍によって抑留され、3年間をサイゴンにて送る、とある。

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    彼の書いた「外交官の耳、作曲家の眼」(2009年 ARTES)という本は面白いのだが、その57頁で彼は、自分の家の家系図によると祖先は「平清盛の弟か誰か」、家紋は揚羽蝶、つまり平氏だと明らかにしている。そして父方の祖父、尾崎三良は太政大臣三條実美(平安時代の藤原家の嫡流だそうだ)の家臣。三良はロンドンに留学して、伊藤博文留学時の先生の娘と結婚(その後離婚)、その長女が尾崎行雄(全く別の尾崎家)の夫人テオドーラになったそうだ(53頁)。

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    インターネットを見ると、戸田氏はむしろ清和源氏の流れということになっている。平氏とか源氏とか藤原家とか、もう要するに錚々たるフランチャイズみたいなもので、誰が誰だかわからない。この「外交官の耳、作曲家の眼」によると、かのオペラ「蝶々夫人」の蝶々夫人の家紋も揚羽蝶で、だから「蝶々さん」(そう言えば、本名何て言うのだろう?)なのだそうだ。

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    とすると、平氏の末裔も江戸末期にはいよいよ窮して、米国人の現地妻になってしまったことになる。義経千本桜の後篇として蝶々夫人を上演することにしたら、または全部をミュージカル仕立てにしたら、平家も随分人気が出るだろうに。

  • 国立新美術館、そして六本木物語

    ――夏草や、強者どもの夢のあと――

    河東哲夫

    (これは、六本木の国立新美術館に初めて行ってみた、数年前の感想。そして六本木の、江戸時代からの歴史と、戦後の変転の記憶)

    この壮大な美術館は(建物自身が最高の美術品)、実質は大型の貸画廊。もともと、国内美術関係者の要望で作られたらしい。昔、演劇関係者の要望で国立劇場(今、閉場されているが)が建設されたのと同じような経緯を経たものらしい。英語ではMuseumではなく、Art Centerになっている。現代美術を紹介するためには、このように常に変転していく展示の方がいいのかも。

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    ガラス張りの館内から、平和そのものの外――芝生と茂る緑の木々を見ていると、この場所が秘めている昔のただならぬ因縁を思い出し、陳腐だが芭蕉の句を思う。夏草や、強者どもの夢のあと・・・

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    なぜ、強者どもなのか? このあたり、「蛇が池」とか「がま池」、そしていくつもの川が散在した水源地帯。龍土町のあたりも下がっていて、いかにも昔は池だったのではないかと思わせる。

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    江戸時代、そこに大名屋敷がいくつもできた。国立新美術館のある六本木7丁目のあたりは宇和島藩伊達家の上屋敷(大名とその家族の居場所。江戸城に至近。)があり(その跡からは、当時の豪勢な汁具類など発掘されていて、その写真はここで見ることができるhttp://www.isehanhonten.co.jp/museum/publication/pdf/vol19.pdf#search=’%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%B1%8B%E6%95%B7%E3%80%81%E5%85%AD%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E4%B8%83%E4%B8%81%E7%9B%AE‘)。

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    明治になるとここは、首都防衛のための陸軍歩兵第3連隊の兵営となる。その立派な建物は戦後も残り、東大の生産技術研究所となり、僕も若い頃、その中庭で何も知らずテニスに興じたことがある。それがほぼ壊されて、今の美術館、そして隣の政策大学院大学になったというわけで、古い建物はほんの一部だけが残されて、美術館別館になっている。

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    そしてこの歩兵第3連隊こそは、外苑東通りの向こう側に駐屯していた歩兵第1連隊と語らって、首都防衛ならぬクーデター=二・二六事件を起こしたいわくつきの部隊である。歩兵第1連隊の駐屯地は、もと長州藩の下屋敷跡。戦後は米軍、その後2000年まで防衛庁で、現在はミッドタウンがそびえている。

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    その下を通る大江戸線というのは変わったルートで、終点の光が丘、清澄白河、途中の六本木など往時の軍施設をみごとに結んでいる。だから当時のトンネルを活用したのだという観測が絶えないのだが、その割には当時の軍関係者の証言も聞こえてこない。

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    いずれにしても、第1歩兵連隊と第3歩兵連隊の将校たちは、地元にあった日本最古のフランス料理屋「龍土軒」などに集まって(多分、今で言えば700円くらいのランチでもあったのだろう。もし公費でフル・コースでも食べていたのなら、貧民のためにクーデターを企てる資格などない)謀議をこらし、クーデターの挙に出て失敗した。

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    主謀者たちが処刑された陸軍刑務所は現在のNHKのところにあって、横の坂道の脇には慰霊塔がたっている。この将校たち、純粋な革命意欲に燃えていたのだろうが、他方、口さがない人は、彼らは軍の中で最優秀者のいく参謀本部に行けず、現場司令官止まりでいることに不満を持っていたのだ、とも言う。大きな組織ではどこにでもある話し。

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    戦後、このあたりは米軍のキャンプ地となり、野戦用テントが並んでいた時代もあったらしい。その名残は今でもあって、つい最近まで外苑東通りの防衛庁の角、その薄っぺたい塀を壁にしているかのように貼りついて、Joe‘s Pubというバーがずっとあった。ここは米軍黒人兵Joeに恋した日本人女性が、一緒に開いたバーだそうで、Joe‘s Pubというとニュー・ヨークで有名なライブ・バーがあるらしいが、そことは関係ない。うらぶれたいわくありげの二階建てで、入ってみようと思っているうちに、防衛庁移転で塀が取り壊されたせいか、なくなってしまった。

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    ところで、終戦直後の六本木はまだうらぶれた場所で、墓地が集まっていたらしい。今でも丹波谷に墓地がある。そのほとりに「金魚」というバーがあって、昔ここの現代歌舞伎のようなショー(阿国歌舞伎は女性だけでやったが、ここの歌舞伎はゲイの男だけで超現代的な舞台装置を駆使してやっていた)を見に行った時、舞台の後ろがやおら撥ね上がると、そこには墓地の無常の世界が広がっている、という演出があって、度肝を抜かれたことがある。

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    終戦直後、今の六本木の交差点にはドラム缶が置かれ、そこで住民が風呂につかっていた時代もあったと言う。多分、米軍兵士が駐屯していたためだろう、六本木にはニコラ・ザペッティが日本で初めて開いたピザ・ハウス「ニコラス・ピザハウス」や、イタリア料理の「キャンティ」などが店を出し、加賀まり子(厳格な家の二階の窓から、靴を手に持って屋根に脱出してやってきた)や力道山が夜な夜なたむろする。

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    終戦直後の東京は、生への執着、ヤミ市、軍事物資の横流し、右翼、左翼、米軍兵士と日本人慰安婦(パンパン)、その他、その他が相入り乱れ、ロマンとドラマを醸し出していた時代だった。

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    まあ、支離滅裂になったが、こんなわけで、美術館から外を見て、夏草や・・・と思った次第。今では毛利分家の上屋敷のあとが六本木ヒルズ、毛利本家下屋敷のあとがミッドタウン、そして宇和島藩上屋敷のあとは新美術館で、後2者は日本陸軍、二・二六事件、そして駐留米軍と少なからぬ関係のあった地ということなのだ。

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    六本木ヒルズから六本木通りを渡ったあたり、新宿方向を見渡せる高台がある。夜ここに立つと、西新宿にそびえ立つ高層ビルの一群が煌々と輝き、足元の暗い墓地の森、そしてその右側に広がる龍土町、戦後日米の入り混じった混乱を象徴する六本木と、波乱万丈のロマンの舞台として最適なのだ。昔、夏の休暇の間、炎天下の六本木界隈をてくてくと随分取材して歩き回り、「焼け跡のロメオとジュリエット」のような物語を書こうと思ったものだけれど、力及ばず今まで来ている。

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    だから、数年前翻訳したGercik女史(エストニアの方から上海を通って避難してきたユダヤ人家族の娘で、その後MITで日本との交流プログラムを差配した)の自伝的小説 “The Outsider”(日本語版「はぐれ者」)は、その遂げられなかった企ての実現なのだ。これは、東京の焼け跡やヤミ市や米軍基地を背景に展開する、ユダヤ人少女サラと日本人混血児の悲劇的なロマンなのだから。はぐれ者: 焼け跡の東京を駆け抜ける野生の少女サラの物語 | パトリシア・ガーシック, 河東哲夫 | 戯曲・シナリオ | Kindleストア | Amazon

  • 「リーマン2.0」が起きると、何がどう動く?

    今日、5月7日は日本の株式市場が活況で、平均株価は歴史的高値に達した。イランが停戦になりそうなことも、株価を押し上げる。

    しかし、日本、米国の金融市場は不穏な動きを示している。双方とも、長期金利が上昇、つまり双方の国債に対する信用が失墜しつつあることを示しているのだ。国債に高利をつけないと売れなくなる時代、そして高利をつける故に、のちの利払いが急増して日米両国の財政をひっ迫させていく時代が、すぐそこにやってきている。

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    これで、2008年9月のリーマン不況に似た「リーマン2.0」が起きるのだ、という声が日米双方で増えている。筆者もそのことを何度も書いた。

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    しかし2008年9月と比べてみると、現状は当時と随分違う。「何がどう動くか」ということについて、念入りにシミュレーションをしておく必要がある。

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    まず、2008年9月との違いについて。2008年は住宅バブルの崩壊を受けて、市場は景気停滞を見込み、長期金利は低下していた。住宅バブルの崩壊は住宅ローンから組成した「サブ・プライム」証券の値崩れと、サブ・プライム証券を抱え込んだ大銀行への不信を呼び、市場の資金は安全資産である国債の購入へと向かっていたのである。つまり、国債価格は上昇していた。またドル需要も盛り上がって、ドル指数は2009年まで上昇を続けた。

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    今はそれとは、基本的な状況が違う。国の財政に対する不信から金利は上昇しているのである。インフレ期待もあってさらに金利が上昇していくと、国債価格は下がり続けて、やがて投げ売りされる。この時点ではドルも上昇を続けるが、市場が米国自体が危ないと思い始めると、下落を始める。そうなると、日米間の「円キャリー・トレード」は一気に解消して逆回り、そしてかなりの円高が起きるだろう。

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    このあたりでFRBが介入して、資金を供給、更には国債の直接購入も始めるだろう。ドルは持ち直す。

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    以上の過程においては、欧州での動向も重要だ。欧州での貿易・金融決済のかなりの部分はユーロ・ダラーで行われている。これは米連銀ではなく、欧州の民間銀行が貸し出しによって創り出す「ドル建て信用」である。湾岸諸国などから流入した石油代金のドルを基礎に、銀行間取引やデリバティブを通じて、このドル信用は大きく膨張している。

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    リーマン危機の際には、銀行同士が相手の支払い能力を疑い、与信を一斉に停止した。その結果、欧州ではドル資金が枯渇し、決済に深刻な目詰まりが生じた。このとき欧州中央銀行はFRBとの通貨スワップを通じてドルを調達し、これを民間銀行に供給することで危機をしのいだのである。

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    今回も、海外でのドル不足と決済の目詰まりは十分起こり得る。ただし今回は、FRBとの常設スワップ網がすでにあるので、2008年より早くドル供給は行われるだろう。他方で、今回は米財政や米国債そのものへの不信が混ざる恐れがあり、そこが2008年より厄介である。(この箇所はChatGPTが提示した表現のまま)。

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    不信が支配的になると、金利が上がってもドルは下がるという、通念とは逆のことが起こり得る。それは、2025年4月の市場混乱の際、見られた現象である。

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    今後オイル・ダラーが減少することでユーロ・ダラーが減少する場合、あるいはトランプが欧州をつぶすためにドルを供給しないなどの挙に出た場合、EU・英国はユーロ・ダラーを補う何らかの手段を開発するだろう。「ユーロ・ユーロ」もおかしいが、日銀などとSWAP協定を結んでユーロの価値を安定させた上で、ユーロ・ダラーの一部を「ユーロ・ユーロ」に直ちに振り替える等である。

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    以上は、日本にとってはアベノミクスによる低金利の縛りから抜け出す格好の機会になり得る。日本は欧米での金利動向などをよく見て、柔軟に対応できる体制・頭つくりをしておくべきだ。アベノミクスの時のように、欧米が機敏に利上げをしていく中で、「緩和」一本で凝り固まり、法外の円安を招いて、今でもそこから抜け出せないような愚は避けたい。

  • 西半球世界史の縮図・Warburg家の歴史

    (これは、ずっと前のメール・マガジン「文明の万華鏡」から拾い上げた、面白い記事)

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    世界には、Warburgの名がつく銀行がいくつかある。これはユダヤ系のWarburg家の一族が関与する、グローバルなコンツェルンだ。

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    一族のPaul Warburgは20世紀初頭にドイツ・オランダのウォーバーグ商会幹部として米国に移ってきて、当時最大の投資銀行、クーン・レーブ商会(日ロ戦争のために日本の国債を買い上げてくれたジェイコブ・シフは同商会代表)と提携して根を生やし、その僅か9年後の1910年には、米国の中央銀行であるFRB設立の主要な発起人となる。1921年には、ニューヨークの外交問題評議会(”Foreign Affairs”の発行元)の初代会長にもなった。

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    発祥は中世ヴェニス

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    しかしWarburg家が面白いのは、中世ヴェニスの銀行にまでその起源をさかのぼれることである。中世ヴェニスはシルクロードの物資が流れ込む、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルと西欧を結ぶ結節点、アルプス越えで西欧に入る通商路(ローマ時代の軍道も利用されている)の出発点であった。

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    従って、ヴェニスには銀行業が発達する。ユダヤ人には利子を取ることが許されて(中世は今のイスラムと同じく、キリスト教信者も利子を取ることが禁じられていた)、地中海商圏に広がる親族のネットワークを生かして金融業に励む(後にヴェニスでは、ユダヤ人は銀行業から閉め出されるのだが)。だから、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」でシャイロックのようなユダヤ人銀行家が出てくるのである。

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    ヴェニスの有力銀行家の中にDel Bancoという苗字の(「銀行屋」という苗字だから好い加減なものだ)ユダヤ人一族がいて、1513年にヴェニス政府から利子を取ってカネを貸すことを認められている(このあたり、ウィキペディアに基づく)。その後ヴェニスの銀行業から閉め出されると、一族は欧州を流れて16世紀、ドイツのWarburgに落ち着き、Warburgの苗字を名乗る。

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    Warburgはケルンとライプツィッヒの中間あたり、つまりドイツ北部のほぼ真ん中にある、交通の結節点、中世に隆盛を極めたハンザ同盟のハンブルク、ブレーメンとヴェニスを結ぶ通商路の途上にあった。15世紀のあたりで地中海の商圏とバルト海地域の商圏が結合するのだが、これを海路で結び付けて大儲けしたのがオランダ、陸路で結び付けて大儲けしたのがWarburg家、フッガー、ヴェルザー等の財閥ということになるだろう。

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    つまりヴェニス(言ってみればローマ帝国の富の残映だ)の資本は次第にドイツ、スペイン、オランダ、次に英国、またその次に米国へと移動して、それぞれで隆盛を演出するのだが、その尖兵にはヴェニス出身の銀行家やユダヤ人銀行家がいて、その一人にWarburg家があった、ということなのだ。

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    その600年余の長い歴史において、Warburg家の人達は歴史に翻弄される。ハンブルクの郊外、アルトナに住居を構えていたのだが、アルトナと言えばサルトルの演劇「アルトナの幽閉者」の映画を思い出す。これは、戦時中捕虜を虐待した心の傷に耐えかねて発狂した、ある男(ドイツ人有力実業者の息子という設定)の話しなのだが、心の傷と言えば、このアルトナに住んでいただろう、Warburg家の一員と言うか首長のMax Warburgに言及しないわけにはいかない。

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    彼は、ナチ政権の下で中央銀行政策委員を務めると同時に、大化学企業I.G.Farbenの取締役ともなっていた。このI.G.Farbenはナチの台頭を資金的に助け、毒ガス室用のガスも生産していた。これ故に、「ユダヤ人がユダヤ人虐殺を見逃していた」という風評が今も後を絶たないのである。しかし実際にはドイツのWarburg家の殆どはMaxも含めて1938年までには米国あるいは英国に移転し、アルトナに残った二人の従兄弟(従姉妹?)、母親、そして娘2名は1940年、収容所で殺されている。このことは、大変な心の葛藤をMaxに残したことだろう。彼の息子Ericは戦後ドイツに戻っている。

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    Warburg家の歴史は、600年にわたる大河ドラマなのだ。それも欧州、米国をまたにかけて。ユダヤ人の関わるドラマと言えば、日ロ戦争で日本に多額の融資をした後、南満州鉄道の利権を要求して日本政府に断られた米国の鉄道王ハリマンと、彼の野望の後日譚が日中戦争や太平洋戦争につながり、戦後米国の航空貨物会社フライング・タイガーの設立にまでつながっている、という話しをしないわけにはいかない。だがそれは、次号にまわす。

  • トランプがウクライナから手を引いて、プーチンが困る事情

    河東哲夫

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    トランプがウクライナから手を引いたことは明白。兵器・財政支援もしなければ、ウクライナとの停戦仲介ももうやっていない。

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    これでロシアはやりたい放題、と思ったら、大間違い。プーチンは米国に去られて実は大弱りだろう。なぜか?

    それは、「ロシアはウクライナで、実は米国と戦っているのだ」という、この数年来の国内向けプロパガンダをもう使えなくなったことを意味するからだ。弱い、しかも同族のウクライナに武力侵攻したことへの反発は、ロシア社会にけっこう強くある。そこを、「実は米国と戦っているんだ」と言われたから、戦争を何とか支持してきたのである。モスクワ等の大都市の青年が戦争に引っ張られることはなかったし、賃金もどんどん上昇してきたことも、それに加担した。

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    今、それが引っ繰り返ろうとしている。4月28日、プーチンはクレムリンで、9月の総選挙に向けての治安強化について担当省庁長との会議をやった。ここで念頭に置かれていたのは、頻度を増しているウクライナからのドローン攻撃の脅威(原油積み出し港を随分やられた)、ドローン等を使ってのプーチン暗殺の脅威で、「アメリカの陰謀」なる言葉は聞かれなかった。ラヴロフ外相は会議に呼ばれていなかったし、(不思議だが)国家安全保障会議事務局長のショイグ前国防相も呼ばれていなかったのである。

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    ロシアの知識層は、明確な反戦の主張を大胆にし始めた。日常生活に浸透していたインターネットを、公安当局が強引に遮断しているために、政府に対する不平、不満が鬱積し始めている。

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    そして経済では、15%を超える高金利(インフレ退治のため)の中、企業も銀行も資金をため込み、これを決済や投資に回すより、運用することで15%以上の利益を安易に手に入れようとしている。このため、企業間決済は滞り、賃金支払いも滞っている。

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    「ロシアのエリートにとっては、強いプーチンが必要なので、弱くなってしまったプーチンはもう不要。それは彼の権力基盤である公安FSBにとっても、同じことなのである」という論評が新聞に現れている。

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    末期症状だ。

  • 1991年ロシア世論は、ウクライナ独立を受け入れていた

    (今はウクライナ戦争の時代。プーチンたちは、「ウクライナなんて国家じゃねえ。だからこれは戦争じゃねえんだ」とか言いながら、かつて1992年には国家として承認したウクライナに武力侵入した。1992年当時、僕はモスクワにいて、ロシア人がウクライナについてだけは、その独立になんとも複雑な反応を示したのを覚えている。民族的に一体意識があったし、親戚も多かったからだ。「ま、仕方ない。その代わり、自由な行き来だけはさしてもらいたい」というのが、大多数の持つ気持ちだった。

    そこらへん、記録にとどめておこうと思って、当時の新聞をひっくり返すのも大変だから、ChatGPTに作業を代行してもらった。以下は、Chatにロシア語資料を渉猟させて、その結果をChatがロシア語で書いてきたのを、DeepLで日本語にし、さらに僕が自分自身の所見も加えたもの)

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    ロシア・ウクライナ交渉の主要な争点(1991年~1994年)

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    ソ連崩壊後、ロシアとウクライナ間の主要な対立点は、3つの大きな枠組みを中心に形成された。

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    1. 核兵器

    ウクライナ領内には、ソ連の戦略核戦力の相当部分が配置されていた。ロシアはこれをすべてロシアに集中しようとした。それは米国の意を受けたものでもあった。ウクライナは当初抵抗したが、西側から将来の安全保障の約束を取り付けて(「ブダペスト覚書」)、納得した。

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    2. 黒海艦隊

    黒海艦隊は、ソ連にとっては随分重要な艦隊だった。黒海は凍結しないし、ボスポラス海峡を通って地中海で行動することができる。黒海だけでも、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、ソ連崩壊後はジョージア、といった国々に直接示威・軍事行動をとることができるのである。

    しかしウクライナは核兵器と異なり、軍艦をやすやすとロシアに引き渡すことはなく、交渉は熾烈を極めた。結果、ウクライナは数隻の非力な艦しかもらえなかったが。

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    3. クリミアとセヴァストポリの地位

    これも非常に感情的な問題で、昔のロシア帝国が戦争の末に入手したクリミアを、スターリンの死後の権力闘争で、フルシチョフがロシア共和国からウクライナ共和国の管理に移転した(フルシチョフは第一書記に昇格する過程で、ウクライナ共和国出身政治局員の支持を当て込んだのである)ことが禍根となった。しかもクリミアのセヴァストーポリ軍港は、黒海艦隊の拠点だったから、なおさらである。

    1992年の交渉の結果、クリミアはウクライナの管理下に止まる一方、セヴァストーポリだけは特別な地位協定の下、ロシアの管理下に収まった。

    この遺恨が2014年2月、キエフでのクーデターでロシア寄りのヤヌコーヴィチ大統領が政権から追われると、急遽よみがえり、プーチンはクリミアの占拠を命ずるのである。

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    ロシアの立場の全体像

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    当時のロシアの対ウクライナ政策は捻じれていた。エリツィン大統領は、1991年12月、まだロシア社会主義共和国大統領だった時に、ウクライナとベラルーシの首長と語らって「ソ連解散」を決めただけに、ウクライナ独立承認を今さらひっくり返すことはできなかった。他方、軍や愛国主義勢力(ルツコイ副大統領やルシコフ・モスクワ市長)は、ウクライナに対して強硬な対応を主張していた。

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    ロシアの世論

    新聞や世論調査(1990年代初頭のVTsIOM)に基づき、三つの気運を挙げることができる。

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    1. 倦怠感と諦め(まさにこの言葉が、当時の民衆の気分をぴったり表している)

    人口の大部分は経済危機に追われていた。マスコミではしばしば次のような論調が見られた:

    「今はウクライナのことなど構っている場合ではない」

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    2. ノスタルジアと苛立ち

    同族意識の強いウクライナと別れることへの感情的な抵抗があった。そして「そこまで堕ちる」ことへの悲しみ。それは、「怒り」というよりも、むしろ混乱と疲労の中での半ばの諦念、その上に乗る民族的な未練という方が近い。

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    この捻じれた構造は、完全には解消されなかった。1990年代は力がなかったから「棚上げ」され、2000年代に入ってから、力の回復とともに再び前面に出てくる。

  • 渋谷にある、2.26事件慰霊碑

    (ずっと前のメール・マガジンをめくっていたら、この文章が出てきた。今でも通用するので、ここにアップしておく。このサイトが復活して本当に便利になった)

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    この前、NHKホールに行くので渋谷の坂道を上って行ったら、右の角に観音様が立っていた。http://www.dentan.jp/komaba/komaba06.html

    なんでこんなところに観音様が、と思ってみたら、「226事件慰霊碑」とあるではないか。何でここが2.26事件に関係があるんだと思ってインターネットで調べてみたら、ここには何と戦前陸軍の刑務所があって、事件首謀者たちはここで銃殺されていたのだ。

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    2.26事件はドラマチックな出来事で、僕も主要兵力となった歩兵第一連隊、第三連隊があった六本木のあたりを随分徘徊したことがある。二つの連隊のちょうど間に「龍土軒」http://loco.yahoo.co.jp/place/009707dcfd1e4fa780dfd67441183dea5664b952/という日本最古のフランス料理屋があって、ここで将校たちは謀議をこらしたと言われる。

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    2.26事件だけでなく、六本木という街そのものが面白い変遷を経ている。昔の大名屋敷の一角に謎じみた何とか池があったり、谷間の墓地の横にあるゲイ・バーでは歌舞伎もどきのショーが毎晩あって、舞台の奥が開くと墓地が見えたり、六本木は戦後までは墓地の連なる郊外で、終戦直後は今の交差点の真中にドラム缶がすえられて臨時の風呂になったり、そして今では道路の途切れた一隅から夜、はるか向こうに新宿の高層ビル群の明かりが輝く。当時の防衛庁の左横の塀にはみすぼらしいバーが貼りついていて、ここは終戦直後、アメリカの黒人兵と彼にほれ込んだ日本の女性が長年やっていたパブ・バーだという(ミッドタウンの建設で取り壊された)。僕は戦後の六本木を舞台に、ロメオとジュリエットみたいな物語を書いてみようと思ったのだ。

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    話しを2.26事件に戻すと、この前、ある人から興味ある見方を聞いた。戦前の陸軍では、士官学校を卒業して将校となった者の中から、さらに成績優秀の者を陸軍大学に入れて教育し、参謀本部のスタッフ(いわゆる参謀)として使っていた、陸軍大学に入れなかった将校たちは現場部隊のポストをぐるぐる回ってキャリアを終えるのだが、この「参謀組」と「現場組」の間には葛藤があった、2.26事件の首謀者たちはこの「現場組」に相当していた、彼らの動きには参謀本部で力を振るえない、参謀に行った仲間たちのやっていることは生ぬるいという、やむに已まれぬ不満があったのではないか、というのである。

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    ありそうな話だ。役所でも、東京の本省で昇進を重ねる者と、地方や外国ばかり回される者達との間には葛藤がある。上級職の役人と専門職の役人の間にも葛藤がある。

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    この観点から見ると、2.26事件の首謀者たちが事件の前に上層部の大臣たちに呼びかけた時、後者が見せた、あぶないものにさわるようなうやむやな反応、そして事件後、首謀者たちが素早く処刑されてしまったのも、その理由がわかる気がする。

  • どうして隔絶したパミール高原の池に魚はいるのか

    以前、タジキスタンのパミール高原で、小さなきれいな池に無数の小さな魚が泳いでいるのを見たことがある。ふと、思った「この魚、どうしてこんなところに来られたのか?」と。

    それ以来25年。謎は解けず、考えもせず。

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    今思い立って、ChatGPTに聞いてみた。その答えは次の通り。結局、「鳥が魚の卵を落とした。あるいは、人が持ち込んだんだろう」ということ。つまらない。「湖水には魚が自然に湧くようになっています」という回答を期待していたのだが。

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    小生:お早う。久しぶり。ちょっと、ばかげた質問。以前パミール高原の小さな湖に行ったことがある。魚がいた。こういう魚はどうやって「湧いた」んだろう? 海から川を遡るには数千キロ。昔ここが海だった時代から生き残った? まさか。

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    ChatGPT:お早うございます。いいところに目をつけましたね。結論から言うと、「昔の海の生き残り」だけで説明できるケースはむしろ少なく、いくつかの現実的なルートがあります。


    ① 鳥が運ぶ(いちばん有力)

    水鳥(カモやガンなど)の脚や羽、あるいは消化管を通じて、魚の卵が運ばれることがあります。
    一部の魚卵は粘着性があり、泥ごと付着して長距離移動できる。また、飲み込まれても生き残る例も確認されています。

    小さな湖・孤立水域では、これがかなり現実的な説明です。
    (数千キロ泳ぐより、こちらの方がよほど起こりやすい。)


    ② 氷河・水系の変化(地質スケール)

    氷河時代には、現在とは全く違う水のつながりがありました。

    • 氷河が溶けて一時的に川同士がつながる
    • 洪水や地殻変動で分断される

    その過程で魚が入り、その後「取り残された」可能性。

    パミールのような地域は、まさにこういう履歴が濃い場所です。


    ③ 人間が持ち込んだ

    これは意外と多い。

    • 釣り用に放流
    • 食用として持ち込み

    特に近現代以降、中央アジアでも人為的導入はかなりあります。


    ④ もともと淡水系の魚が拡散

    「海の生き残り」ではなく、
    川 → 支流 → 高地湖
    と長い時間をかけて拡散したタイプ。


    ⑤ 「古代の海の生き残り」説(限定的にあり得る)

    パミール周辺はかつて
    Tethys Ocean(テチス海)の一部でした。

    ただし現実には:

    • 海水 → 淡水へ適応する必要
    • 数千万年スケールでの進化

    なので「そのまま生き残った」というより、
    進化して別種になっているはずです。



    率直に言うと、「ロマンとしては⑤」ですが、
    科学的に一番あり得るのは①か②です。

    もし覚えていれば:

    • 湖の大きさ
    • 水の透明度
    • 魚の種類(細長い?コイ系?)

    このあたりが分かれば、かなり絞り込めます。

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    小生:やっぱり人かな。直径20米ほどの「池」なんだよ。

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    ChatGPT: そのサイズなら、はっきり言ってしまうと——
    自然に“湧いた”可能性はかなり低いです。

    直径20mの池だと、

    • 外部と水系でつながっていない
    • 鳥が卵を運ぶ確率も極めて低い(ゼロではないがレア)
    • 長期的な地質変化で魚が取り残されるスケールでもない

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    だから、あなたが見たのは、「人が入れた魚が、そのまま生きている孤立池」でしょう。

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    (というわけ。つまらない。やっぱり、「水には魚が自然発生する」という方が、神秘的でいい。)

  • 目をふさがれ、耳をふさがれるロシア国民

    しかしソ連時代は、もっとひどかった、が情緒もあった

    ロシアは統制社会とか言われているが、そうでもなくて、特にインターネットは今の中国に比べて、ほぼ自由だったのだ。インターネットを使って買い物をし、タクシーを呼び、カーナビを使って、その様は西側と変わらなかった。

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    ところが公安当局は、GSPの電波がウクライナのドローンをおびき寄せる、とか言って、Telegramなどのインターネット・サービスを徹底的に締め上げ始めた。

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    これで、国民だけでなく(Telegramなど、成人の大多数が使っていたので)、大統領府も困った。9月の議会選挙を前にして、インターネットを使っての大々的なPRに乗り出そうとしていた矢先だったから。インターネット締め上げに、ロシア人の多くが抗議の声を上げ始めている。なのに、政府は国民に説明し、説得する手段を大きく奪われてしまったのである。

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    もっと牧歌的だったソ連時代

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    ソ連時代はもっとひどかった。インターネットなどなかったし、国際電話が統制されていたから。僕が留学していた1973年頃は、国際電話は都心の中央郵便局に出かけて、窓口で「申し込み」、確かその場でかなり待ったものだ。

    その後、数年後、アパートに住むようになった時でも、自宅の電話から電話局のオペレーターに申し込む。「どこそこの国の、この番号に電話したい」と。すると何時間もたってから電話があって、「つながったわよ。話しなさい」。

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    でもこのゆるさ。牧歌的だったよな。そしてしっかり盗聴してもらっている、この安心感。