10月中旬、平泉、次に花巻、盛岡、八幡平を旅行してきた。
仙台以北の東北について、認識を一新した。平泉の藤原家以前から、北上川流域(仙台から盛岡までだけで実に180キロある)、日本海の出羽地方を中心に安倍、清原等の豪族が割拠し、隠然たる支配権を形成していたのだ。因みにこれら豪族は一応和人と思われる。蝦夷(えみし)という呼称があるが、これはこの地方に居住する人間たちを総称するもので、縄文人、和人、アイヌ等は混在していて、相互関係は今でも整理されていない。
ところで北上地方は、南北が違う陸塊からできているそうだ。南部は南方のゴンドワナ大陸からやってきた。今となっては違いはわからないが、太平洋岸は南部がリアス式、北部が直線の違いがある。
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歴史についての雑知識
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・岩手県のあたり、縄文中期の土器が出てくる。久田野遺跡は6000~4000年前のもの。ムラになっていた。
縄文末期、九州では縄文文化が下火になるのに反し、東北北部から北海道南部にかけては亀ヶ岡文化圏と総称される現象が見られた。この地域で特徴的なのが、いわゆる遮光器土偶。宇宙人ではないかと言う人もいる。

・2300年前には稲作が導入されているが、その後狩猟文化に逆戻りした。寒冷化のためである。
・みちのくは東山道の奥という意味で、道奥国が陸奥国になった。
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・坂上田村麻呂以後が有史時代。安倍氏時代には寺院の跡が残っている。
・坂上田村麻呂は今の盛岡まで来ている。その北方にある八幡平の「八幡」は、彼が持ち込んだ名称とされる。八幡は源氏の氏神。
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・坂上田村麻呂の遠征以来、この地域は和人が支配するものとなった感があるが、彼は自分が成敗した「アテルイ」という名の族長を連れて京都に帰っている。アテルイは京都の公家たちの裁断で死刑に処せられてしまうのだが、彼の民族的属性はわからない。
盛岡の岩手県立博物館でも、平泉の文化遺産センターでも、アイヌのアの字にも出くわさなかった。東北地方には、諸方にアイヌ語系の地名が残っているようなのだが。
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・以後、安倍、出羽の清原氏などの豪族が入り乱れて闘争。安倍氏は鎮守府胆沢城の役人から台頭した。この中から奥州藤原家(その発祥は関東とされる)から清原家に養子に出されていた清衡が藤原姓を復活し、平泉を「首都」として安倍・清原双方の版図を収めて約100年間繁栄する。
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・奥州藤原家の勢力は日本海側の出羽地方にまで及び、この地方で産した金と馬と漆で財を成した。当時の文化の中心地である宋とも交流したし、京都の文化も積極的に取り入れた。歌人の西行も平泉に招致されている。
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・右藤原清衡が奥州藤原家の初代とされる。彼は1100年頃、中尊寺の造営を開始。次いで第2代の基衡が毛越寺を造営。宇治の平等院にならった寺院を建設した。当時京都で流行っていた末法思想を反映したものだろう。因みに中尊寺の金色堂の祭壇には、藤原3代の遺骸がミイラとなって収められている(第4代泰衡は首だけ)。そのミイラ「製造」の技術は、樺太アイヌの族長に適用されていたものだ、という指摘もある。
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・奥州藤原家の勢力圏は単一の国家的な様相を呈するが、京都の中央政権には貢納を続け、中央からの国司も受け入れて、恭順の姿勢を貫いた。国司として赴任した、京都藤原家の基成と藤原第3代秀衡は親交を結び、基成の娘が秀衡の息子の泰衡と結婚している。秀衡は京都の朝廷によって、鎮守府将軍・陸奥守に任命されてもいる。
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・第四代の泰衡で奥州藤原家は終焉を迎える。源義経を第三代の秀衡が庇護し、頼朝と不和となった義経をかくまい続けたことが契機となる。頼朝が朝廷を通じて義経征伐の圧力をかけたため、泰衡は1189年4月末、義経を攻め滅ぼし、6月にはその首を鎌倉に送る。すると頼朝は一族の者を自分の許可なく殺した、と難癖をつけ、7月には泰衡討伐の軍を送る。義経は口実で、頼朝は東北地方を自分の勢威下に収めたかったのだろう。
・頼朝は自ら兵を率いて(太平洋岸、中央、日本海側の三手に分かれる。これは幕末の官軍と同じで、東北地方はこの三方から抑えないと兵力が洩れるのだろう)平泉に攻め寄せる。諸方の豪族がこれに加わり、最終的には軍は28万4千騎に及んだと「吾妻鏡」は書いているそうだが、大げさではないか。当時の京都の人口をも上回るような軍勢に、どうやって飯を食わせるのか? とにかく頼朝の圧倒的な兵力で、泰衡は平泉から避難するが、部下に殺されてしまう。
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・頼朝はその後、38日滞在して、平泉の文化に印象を受けたとされる。鎌倉に建設した永福寺は、毛越寺を参考にしたものと、現地では言っている。(頼朝は京都にも行ったことがあるので、永福寺のモデルは毛越寺以外にもあるだろう)
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・藤原氏滅亡のあとは東国武士たちが支配権を得て、相互に争うようになる。
・豊臣秀吉の時代、彼らは秀吉の命に従わず、「奥州仕置き」と称される所領没収処分に会う。その後、平泉一帯は盛岡に本拠を置いた南部氏に委ねられる。
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北上経済圏
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・仙台から盛岡にかけての一帯は古くから、北上川が物流の動脈であった。集荷したコメなどは江戸時代、銚子を経て江戸に搬入された。銚子から南の房総沖は海の難所なので、舟は銚子から湖水や河川、古利根川を伝って江戸へ動いたのである。途上の中継所、佐原などには問屋が集中して繁栄した。そこは今でも倉敷にも似た、近世の川港町の風情を残す(このブログの「日本歴史紀行13:利根川、佐原」を参照願いたい)。
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・今、仙台から北へ新幹線で向かうと、広大な水田が整然と広がり、人家は多く、ところどころ大工場が分布する。景色は、東海道化しているのである。仙台から盛岡までで180キロ以上だから、関東平野と縦は変わらない。青森までは直線で280キロ。
仙台以北の新幹線は「普通」だとちょくちょく止まる。ところが、いずれもかなりの町なのだ。
近年、宮城県、岩手県のあたりは半導体関連、電機、自動車関連大企業の工場進出が目立つ。岩手県にはトヨタ、デンソー、キオクシア、東京エレクトロンなどが進出し、県南部は自動車・半導体産業クラスターの状況を呈する。宮城県でもトヨタ、東京エレクトロンなどが産業クラスターを形成している。
宿泊した北上は、東北高速道と秋田方面への高速道のハブ。機械・電機の県内随一のクラスターを形成している。以前は農業地帯だったが、1954年の合併後、市が企業誘致に熱心で、企業立地課を設けて分譲に努めた。これに、岩手大工学部や一関高専が提携している。
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・そこで両県の「GDP」(都道府県が発表している)は近年さぞかし伸びているだろうと思って、ChatGPTに調べてもらったのだが、これが意外にも岩手県で30年間で5%程度、宮城県で20%程度の伸びしか示していない。ChatGPTに理由を推測させると、多分岩手県の工場がそれほど利益を計上していなければ、GDPをそれほど押し上げないからだろう、という返事が返ってきた。岩手県の工場が大企業の生産プロセスの一部しか占めていないと、そうなり得る。
それでも岩手県の場合、この40年間で生産年齢人口は3分の1も減少したのに対して、県のGDPは2倍近くにもなっている(以上、ChatGPTの計算を丸のみ)。生産性は上がっているのだ。
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・昔のイメージは「東北本線」に残っている。仙台以北の「東北本線」は、2両のワンマン電車が30分以上に1本しか通らない。しかしメチャ速い。クモハ701型。午前10時になっても、なぜか高校生が多い。本数は少なくても、勢いが感じられる。
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平泉
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・芭蕉は、平泉で西の日本海方面に曲がっている。盛岡もその先の弘前も文化は盛んだったので、行けば良かったのだが。平泉から西への山間ルートはほとんど使われることはなく、追剥も出るので、護衛を雇っての旅となった。なお、「夏草や兵どもが夢のあと」の句は、平泉で詠まれた。
この先の立石寺で詠んだ「閑しずかさや 岩にしみ入る 蝉のこえ」、そして「荒波や 佐渡によこたふ 天河」とともに、東北から北陸にかけての句にはロマンが漂う。ヴィジュアルでもある。黒い海、青黒い空に金粉のように流れる銀河。それがぱっと目に浮かぶ。

(このゴッホの絵のイメージ)
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・しかし現実はそうでもない。平泉は2011年に世界文化遺産に指定されているのだが、駅で道を聞くとそっけなく「案内所で聞いてください」。その案内所に行くと誰もいない。仕方ない、タクシーで行こうと思っても、タクシーがない。電話しても「30分かかります」。
・平泉は3つの川が合流する地点で、昭和22年のキャスリン台風の際は、3,5米の洪水で町がほぼ水没したそうだ。観光客に冷たいからそうなる。
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花巻と宮沢賢治
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花巻は今では大谷翔平の方で有名だろう。しかし雨の花巻駅には何もなかった。
宮沢賢治記念館に行こうと思って地図を見ると至近なのだが、足が痛いし、雨が降っていたのでタクシーに乗った。
途中、花巻には城があったことを知った。大名がいたのではなく、盛岡の南部藩の城代の居所。仙台の伊達藩との境界を守るのが任務だった。結構、官僚=武士が勤務していて、彼らは城下町を形成した。奥州道の宿場町でもあった。
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ところがタクシーは町を出て、どんどん地平の向こうの霧のかかった山の方へ走っていく。宮沢賢治記念館は至近の距離にあるはずだ。こちらから話しかけても、運転手の耳は遠い。「止めてくれ!」と叫んでも、「?」。
結局メーターが3200円まわったところで記念館に着いたのだが(ここに来るのだったら、新幹線の新花巻駅からの方が断然近いのだ)、無情な「休館」の札。火曜なのに。隣の宮沢賢治童話村と花巻市博物館で時を過ごす。
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・ところで、宮沢賢治の文体、漂う詩情は僕が好きなものなのだが、あのヨーロッパかぶれはどこから来たのだろうと思う。イーハトーヴという名称とか、チェロ弾きのゴーシュとか、近くの北上川の「イギリス海岸」とか。ドーバーを花巻海岸と呼べばいいと思うのだが。
宮沢賢治はヨーロッパかぶれでいながら、それはムードだけの感がある。ごつごつした欧州の個人主義精神はない。どこか仏教的な諦念が入り混じっている。引きこもりの詩情とでも言うか。
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・ところで花巻市博物館では「大正イマジュリー展」をやっていた。竹久夢二など大正リベラル・ロマンチズムの意匠の集大成。それに、水準の高い説明がついている。巡回展だそうだが、これを招致するだけ、大した識見だと思った。因みに宮沢賢治も、この大正デモクラシー、リベラリズムの一員だったのだな、と今思う。
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盛岡
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・ここは一般のイメージとは違って、本当に「開けた」町なのだ。2023年1月にThe New York Timesが「52 Places to Go in 2023」を発表し、イギリスの首都ロンドンに続く2番目に盛岡を推したことで、人々の見る目が変わった。NYTが参考にしたという写真家Craig Mod氏は盛岡をこう描写している(盛岡市のインターネット・サイトより)。
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――東京から新幹線ですぐ行ける、人混みなく歩いて回れる宝石的スポット・・・山々に囲まれた盛岡市は、日本の高速鉄道新幹線で東京から北へ数時間。市街地は街歩きにとても適している。大正時代に建てられた西洋と東洋の建築美が融合した建造物、近代的なホテル、歴史を感じさせる旅館(伝統的な宿泊施設)、蛇行して流れる川などの素材にあふれる。城跡が公園となっているのも魅力のひとつだ。
また、日本のコーヒーのサードウェーブのひとつである「NAGASAWA COFFEE」をはじめ、素晴らしいコーヒー店もある。「NAGASAWA COFFEE」では、オーナーの長澤一浩氏が自ら輸入・修理したドイツ製のビンテージ焙煎機「プロバット」を使用するほど豆にこだわる。東家は小さなお椀に盛られたわんこそばが食べ放題。「BOOKNERD」では日本の年代物のアートブックを販売。そして40年以上の歴史を持つジャズ喫茶ジョニー。車で西に1時間も行けば、田沢湖や世界有数の温泉が多数あるーー
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天邪鬼で足も痛い僕は、ここで推薦されているところのどれにも行かなかったのだが、盛岡に流れる文化・意識水準の高さは何となく感じ取った。
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・盛岡駅では「おでんせ館」という建物があった。デンマークのオデンセ(アンデルセンの住んでいた街)と姉妹都市なのかと思って、家内とびっくりしたのだが、調べてみると「おでんせ」とは地元の言葉で「おいで下さい」という意味なのだそうだ。ややこしい。でも、アンデルセンと宮沢賢治とか、おでんせと「オデンセ」とか、温厚な人間とか、岩手とオデンセ、デンマークの相性はいいようだ。因みにオデンセの姉妹都市は千葉県の船橋市。ここは郊外に広大なテーマ・パーク、アンデルセン公園がある。家族向きの静かで面白い公園。
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・盛岡は南部藩の城下町で、首都から遠いという意識から、昔から京都文化を取り入れてきたところ。今でも料理の味付けは関東の醬油ではなく、京都風のはんなりしたものである。
そうした上昇志向からか、藩は江戸初期から石高を過大に申告して、それで江戸城内での格を高めに維持していたのだろう。そのために、財政的には常に困窮していた。参勤交代でも、格に見合う派手な大名行列を整えないといけない。
しかし芭蕉は来なかった。彼は南の平泉まで来て、そこから西へ折れたのである。
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・盛岡は工業よりも商業で栄える町だが、江戸時代には近江商人等が出張ってきたという。彼らは全国に散らばってネットワークを形成する、欧州のユダヤ人のような存在だったのだ。中国でも温州商人が同じ役割を果たしている。
因みに盛岡までの鉄道は、明治23年に通じている。
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・新渡戸稲造は盛岡出身。彼の家は藩の兵法家を務めており、稲三はそのような伝統を踏まえたインテリである。口先だけのインテリではない。
他にも、画家の萬(よろず)鉄五郎が喧伝されていた。岩手県立美術館の建物は壮大で、国立近代美術館を上回るだろう。僕は、松田松雄(1937~2001年)の1972年の作「風景(思案)」が気に入った。写真がうまく撮れてなかったので、ここではお目にかけられない。
ここには彫刻もあった。ところがそれが、西洋人の顔ばかりなのだ。なぜ? 日本人は「個」でないから、表現しにくいのかもしれない。だとすれば、個人を描くより、集団の人間の「気」のようなものを描けばいいのでは、とふと思った。
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・2026年、「ゾンビ回収婦」で芥川賞を受賞した小砂川(こさがわ)チト(36歳)は盛岡市出身で、早速市民栄誉賞をもらっていた。他の町でここまでやるか、と思う。文化との一体性が強いのだ。
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・岩手県立博物館も壮大なのだが、これは市からはるか離れた山頂にあり、カーナビつきのレンタカーだったが、さんざん引き回された。
博物館の建物は、もう古くなりつつある。客はまばらだった。
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・北東に姫神山(1100米)がある。ピラミッドとしか思えない形。火山ではなく花崗岩だというから益々不思議。
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八幡平寸景
・盛岡から東北自動車道を15分ほど走る。久しぶりにETC使わずに普通のゲートを通ろうとしたら、人はおらず、自動料金器になっていた。泡を食った。
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・宿は八幡平ハイツといった。ハイカラだが昭和時代の建築。大柄なスリランカ人がポーターをしている。中禅寺湖のホテルもスリランカ、バングラデシュ系の人たちに牛耳られていた。分野ごとに出稼ぎのすみわけができているのだろう。
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・岩手山を中心とした高原の景色はあか抜けていて、「ああ、これが宮沢賢治のイーハトーヴなんだ」と思った次第。
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・ところで岩手出身の若者にはいい人間が多いようだ。大谷翔平、菊池雄星(盛岡出身)、そしてスキー・ジャンプの小林陵侑は何と八幡平出身なのだ。腰の低さと個性と自負心を兼ね備えた連中。
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(岩手山を八幡平から眺める)




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