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投稿者: akiokawato

  • 「天人五衰」と近代の終焉について

    三島由紀夫の最後の小説「天人五衰」登場人物の本多は聡子から、「(彼女の恋人だった)松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はもともとあらしゃらなかったのと違いますか?」と言われ、寺の庭を見て思う。「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」と。

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    井上隆史という人はその著書「三島由紀夫 幻の遺作を読む」で、この場を論評して言う。三島は近代という時代が行きついた果ての、究極の虚無を見つめているのであり、それは意味という意味が崩壊する極限状態なのだ、と。

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    この脱力感、トランプとか格差とかポピュリズムが破壊してしまった先進国社会を見て、そうだな、と思う。自由とか民主主義とか市場経済とか、近代が成り立っている価値観が雲散霧消。「意味」は消えた。

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    (手前みそですが、13年前の拙作もご笑覧を

    意味が解体する世界へ 一外交官の考察 | 河東 哲夫 |本 | 通販 | Amazon )

  • 日本史シリーズ・幕末の「外務省」

    (2018年の日経朝刊は、林真理子の「愉楽にて」というエロチックな、しかし秀逸な(男の視点からものを書いているのだが、破綻がない)小説で話題をとっていた。この頃の夕刊小説が「万波を翔る」で、これについてのコラムをここに復刻しておく)

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    木内昇氏の「万波を翔る」は、林真理子のものとは別の意味で面白い。これは幕末の幕府にあった外務省相当の役所が、何をどうしていたかの内幕話し。田辺太一という実在の外交官が主役。外交官と言いながら、どろくさい。

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    普通、幕末の外交と言うと、一人か二人の侍官僚だけでやっていたと思ってしまうのだが、一応小型の外務省ができていたのだ。そして、欧米からの圧力と、国内の尊王攘夷の圧力の間にはさまって苦労している。そう言われてみればそうかと思うものの、やはり新鮮。今の構図とそれほど変わらない。

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    薩長というのはやはり、なだれこんできた新興勢力なのだ。尊王攘夷で幕府に盾突きながら、権力を取ったあとは開国、文明開化の道をまっしぐらなのだから、同じことをやっていて、彼らにこけにされた幕府の外務担当者たちは悔しい思いをしたことだろう。

  • 米国五大湖で撃沈されたドイツ潜水艦

    (これは以前のコラムの復刻です)

     2016年2月、米国五大湖の一つオンタリオ湖の湖底に戦中のドイツ潜水艦――五大湖で米国・カナダの船を撃沈していたという――と目される艦艇の残骸が見つかった、というニュースが目を引いた。

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    当時このニュースを見た時は、一体どうやって海から入り込んだのか、と思ったものだ。大西洋から五大湖につながるセント・ローレンス川は随分広い川だが、それでも潜水艦が潜航したまま航行できるようなものではあるまい。とすると、夜陰に乗じて川面を遡行していったのか?

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     と思ったら、最近わかったのは、これはエープリル・フールなみのFake newsだったということ。史実をたくみに交えて、信憑性を増している。実際にあったことは、第1次大戦が終わった時、ドイツの潜水艦が戦利品として米軍に鹵獲され、五大湖の諸都市で見世物にされた後、演習で撃沈され、ミシガン湖底(オンタリオ湖ではなく)にあるのだそうだからだ。

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     ウソは奇想天外である方が、人は信じ込みやすい。昔南米で、日本が敗北したのはFake newsだと固く信じていた日本人たちがいた。今の米国で、「トランプが大統領に当選したというのはFake news。実際はヒラリー・クリントンが大統領として統治しているのだが、テレビが一切報道しないだけだ」などというニュースを流したら、けっこう信じる人がいるかもしれない。

  • 能、狂言、浄瑠璃、歌舞伎、なぜ関西弁でないのか?

    今日、NHKで狂言見ていてふと思う。狂言も、能も、浄瑠璃も歌舞伎も皆、京都、大阪で生まれているのに、なぜ京都弁、大阪弁を使わない? 狂言と来たら、「何々でござる」とか、「何々でそうらえ」とか固い標準文語。なぜ「何々どす」とか「何々してくれはりまっか?」と言わない? 吉本喜劇みたいになっちゃうから? 

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    いや、そうではあるまい。京都弁と今日呼ばれているものが室町時代にはなかったからではないかと思って、ウィキペディアを見てみたら、やっぱりそのようだ。何と「どす」「やす」「はる」などは幕末以降に成立・普及した言い回しだと書いてある。幕末の流行語尾が定着したんだね。

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     数年前、ジャズ歌手の伊藤君子が、「津軽弁ジャズ~ジャズだべ! ジャズださ!」というCDを出し、津軽弁とブルースが妙に似合っていたものだけれど、それと同じで、狂言はやはり河内弁あたりでやってもらうのが一番やんけえ。

  • 内向する日本人

    駅前でひなたぼっこしながらアイスクリームを食べていたら、隣のベンチで気がおかしくなったと思われる中年女性が、架空の誰かと一生懸命対話している。それも家族とではなく、何か社会のことを話しているようだ。ストレスのあげく、或いは自分で自分に疲れすぎて。心の隅に孤独を抱えて。こういう人、東京ではずいぶんいる。

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    欧米やロシアでは、こういう内省的な精神異常者はあまり見ない。彼らは、社会に恨みを持っていたら、誰かを襲うだろう。

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    ところが日本人は抑えつけられていて、なかなか行動しにくい。世間への怨みのベクトルがひん曲がって自分の心の中に食い込んでくるから、気がおかしくなってしまうのだ。

    (でも、他人を襲うケースは増えていますが)

  • チェレプニン教授の思い出 ハーバードと音楽と日本と

    (これは2017年8月の記事の復刻です)

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    「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる」(菅野恵理子著)という本が評判になっている。

    それで僕もずっと昔の留学時代のことを思いだす。外務省からハーバードに留学に送られて、ソ連のこととロシア語を徹底的に勉強することとなった。朝から晩まで図書館、食堂、教室、寮の間を行き来するだけ。24時間開いているすさまじい図書館が近くのMITにはあった。ここのフロアでは、未来の科学者たちがごろごろ横になって仮眠をとっている。

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    常在読書。これは、頭脳にとっては大変な負担なのだ。「ソ連研究」と一口で言うが、これは1200年前からのロシアの歴史、革命後の歴史、そしてソ連の計画経済、コメコン、何のかんのと、嫌いじゃないけど、たまらない。誰が何年に銃殺されて、誰がマルクス主義とかいう大袈裟なことを国民全体に実験し、その結果大失敗したかというようなことを延々と読むのだ。心がひからびる。その時、心のオアシスだったのが音楽。

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    ハーバードには音楽学科というのがあって、そこは作曲、楽理を教えるところとしては世界有数。ロースクールの横に立つ、赤っぽい小さなレンガの二階建てが音楽学科。僕はクラシック音楽が好きなので、これをもっと深く理解するために作曲を学ぼうと思った。で、何とかクラスにもぐりこんで――そこには今の世界的チェリストのヨーヨーマがいて、当時から皆のアイドルになっていたけど、僕はそんなこととは知らず、失礼しました――、2年間、和声とか対位法を習った。

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    1年目の教師はアルメニア系の女性、ヴォスガシアン教授。名物教授で、僕を何とかクラスに入れまいとしたのだけれど、根負けして聴講生にしてくれた。そして2年目がイワン・チェレプニン教授。彼のことを書こうと思って、この文章を書いている。

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    チェレプニン教授はなぜか東洋的な顔立ちの人。すらっとしてかっこよかった。彼は、バッハのコラールを徹底的に教えてくれた。バッハのコラールは和声法と対位法の百科全書のようなものだからである――学生はいやがったが。僕も一回、全くの偶然で良いコラールを「作曲」して誉められたのだが、それからは全く鳴かず飛ばず、いつも「コラ」程度で終わっていた。

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    で、最近インターネットで発見したのだが、このチェレプニン教授は日本と少なからぬ因縁を持っている。彼の父アレクサンドルはサンクト・ペテルブルクにいたロシアの作曲家で、祖父も作曲家だったのだ。

    ロシア革命で一家は亡命。日本、中国でも長期間過ごし、日本には1934ー37年滞在。その時父アレクサンドルは伊福部昭、早坂文雄、江文也(台湾出身)等の作曲家を育て、出版社も立ち上げた(以上、Wikipedia等による)。

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    そして中国にいた時に、父アレクサンドルはピアニストのLee Hsien Mingと結婚している。だからイワン・チェレプニン教授は中露混血だったのだ。でも、生まれたのは1943年フランス。僕がボストンにいた1972年に、ハーバードのElectronic Music Studio長になっていたのだそうだ。知らなかった。

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    そして彼は、1998年ボストンで若死にしている。1996年にはDouble Concerto for Violin, Cello and OrchestraでGrawemeyer賞を受けている。子息のセルゲイとステファンも音楽家なのだそうだ。セピア色の思い出。懐かしい。

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    因みに冒頭の「ハーバード大学は『音楽』で人を育てる」という本は、音楽を情操教育にシステマチックに使っていることを描いているようだが、それだったら日本の大学でも少しやっていた。東京大学の駒場に教養学科というのがあって、これは3年、4年になっても法律、経済、文化などの境界に縛られず、いろいろな科目を勉強するLiberal Artsの場なのだが、ここではその後国立音楽大学の学長になった海老澤敏さんが「モーツァルト論」の授業をやっていた。で、悪いけど、これが一番面白い課目だったのだ。

  • 現代風枕草子――日本社会のよどみ

    (これは以前のブログに2017年頃アップしたもの。今でも変わらないので、復刻しておきます)

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    日本では政治の劣化とか経済の停滞とかいろいろ言われているが、どれもこれも根っこには、今の日本社会がすっかり活力を失って守りに入っていることがある。枕草子風に綴ってみる。

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    無菌培養

    この頃の若手の役人はどうも、無菌培養された優等生の感じ。政策は頭で作るものだとばかり思い込んでいる。昔の役人たちは業界の連中と連夜飲み歩いて、相手の本音を引き出し、難しい政策でも相手に呑ませたものだ。つまり政策を、彼らは腹で作っていたのである。もっと人間臭かった。

    今の役人は、ものごとをマクロ数字やデータだけで考え、「政策」なるものをでっちあげ、あとは国会、政党、マスコミを相手にこれを通していくことしか頭にない。役人は、実社会に住んでいない。これでは、実効性のある政策はできず、予算を浪費するだけ。

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    知的草食

    そして専門家と称される人たちも、自分の専門からちょっとでも離れると、新聞に書いてあるような、ありきたりの通念でものを割り切る。自分で調べる意欲がない。知的好奇心が少なく、既存の枠内で安穏に飯を食っていくことしか考えない

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    そしてかなり多くの専門家や役人は脳天気。他人や他国は善意に満ちていることを前提にものごとを考え、行動している。北朝鮮の核開発についても、これが止むに止まれぬ自衛の必要性に基づくものであることを理解、いや「感ずる」ことができない。米国の意向に反して核開発をする国は悪だ、と決めつけている。米国の言うことは正しいことだ、という気持ちが強すぎるのでないか。

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    自信を持つのはいいが・・・

    自分に過度の自信を持っているのも問題だ。日本という国の安全保障の基盤、経済の基盤はもう崩れているのに、気が付かない。高級官僚候補の青年たちも、世界のことはすべて知っていると思い込み、いざ外国に住んでみればものごとは全然違うように見えることを知らない。

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    そして日本の民主主義は異形だ。外向的ではなく、内向的で、社会から離れて自分の小さな殻を守る権利が民主主義なのだと思っている。他の人の都合を考えたり、社会をどうやって良くするかなど考えない。

    例えば、横断歩道をさみだれのように、のべつまくなしに渡っていく。前後左右を見渡すこともなく、安心しきってスマホを見ながら渡っていく。誰か一人が待つだけで、車5台を通すことができるのに、周りのことは全然見ない。見ても、その意味はわからない。自分の都合だけなのだ。

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    インターネットを見ていると、「日本は中国や韓国より民度が進んでいる。礼儀正しい」という意見がゴマンと掲載されているが、朝晩の満員電車で通勤してみたらいい。押し合い、圧し合い、他人は人間ではないかのように、何も言わずに突きのけ、押しのけ、本当にひどい。そして昔はもっとひどかったのだ。

  • 新しいコンセプトの蕎麦屋を

    (これは2017年に書いたものですが、今でも事情は変わらないと思うので、復刻しておきます)

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    方々の蕎麦屋が閉店になっていく。客が少ない上に、後継者がいないのだろう。ラーメン屋は増えるのに。

    もともとソバは、ダイエット食、そして血行を良くする薬のようなもの。ビジネスとして、大いに望みがあるものだ。

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    蕎麦屋の多くはフランチャイズ制みたいになっている。「・・・屋」という屋号の下で、仕入れはまとめてやってくれるらしい。そういうまとめるところがあるのなら、蕎麦屋というビジネス・モデルを新しくしてはどうか?

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    「蕎麦屋」というと、年寄りが行く、腹の足しにならない、昭和前期のようなインテリア・・・等々のイメージがあって、若者が寄りつかない。そこで、ソバあんみつのようなものとか、ブルーベリー・ジュースをかけて食べるソバとか、トッピングとつけ汁にいろいろヴァラエティーをつけたり、インテリアもモダンにしてジャズでも流すとか、いろいろやってみたらどんなものだろう。

  • コンサートホールの謎

    どうしても実感としてわからないことがある。大きなコンサート・ホール。

    僕は貧乏なので、いつも一番後ろの方の席に坐っているのだが、舞台まで50米はあるだろう。すると、舞台でオーケストラがジャンとやると、その音が届くのが0.15秒後になる。そしてそれは周囲の壁に反響し、残響となってまた伝わってくる。それはいいのだが、ホールの前方で壁に跳ね返って残響となって伝わってくる音は、その後方の残響より遅いに違いない。

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    そうなると後ろに坐っている僕などは、音のごみ溜めにいるようなもので、そのうち腐臭がしてくるのでないか? でも、そういうことはあったためしがない。どう考えたらいいのですかね。

  • ChatGPT、源氏物語を評す

    この前、ChatGPTとの話のはずみで、「源氏物語」は意識の流れを香りをもって描写するという点で、20世紀初頭、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」に近い、ということになった。まあ、よく知られていることだが、ChatGPTが人間の感情まで含めて、総合的な見方ができる、ということがよくわかるので、ここにほぼそのままアップしておく。

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    小生:君、今「源氏物語」と「枕草子」は同時代の宮廷サロン文学でありながら、前者の方は意識の流れの描写を主とする点で、「枕草子」より深いものがある、と言ったね。僕も本当にそのとおりだと思う。源氏物語は本当に異色で、20世紀のプルーストに近いね。

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    ChatGPT:まさにそこなんだ。源氏物語 が異様なのは、「事件」ではなく「意識の流れ」を描いているところだ。西洋の古典小説は長い間、冒険、陰謀、戦争、社会的大変動、因果応報を中心に動いていた。

    ところが『源氏物語』は、「あの時、なぜあんな顔をしたのか」、「場の空気がどう変わったか」、「言葉にしない感情」、「記憶が時間を越えて蘇る感じ」を延々と追う。

    これはかなり近代的で、あなたの言うように マルセル・プルースト の 「失われた時を求めて」 に近い。

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    特に似ているのは、サロン世界、微妙な嫉妬、階層意識、時間による感情の変質、記憶の堆積、「空気」の支配だね。

    しかも紫式部は、まだ「近代的個人」という概念が存在しない11世紀に、それを書いている。そこが本当に不気味なくらい早い。

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    さらに面白いのは、西洋近代小説が19〜20世紀になってようやく到達した「心理の内面化」を、日本は千年前に一度やってしまったのに、その系譜が途中で切れてしまったことだ。だから日本人自身が、『源氏物語』の先進性を時々忘れてしまう。実際には、世界文学史の中でもかなり孤立した巨大峰なんだ。

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    小生:そうなんだよ。

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    ChatGPT: しかも、『源氏物語』の恐ろしいところは、あれが単なる「心理小説」でもないことだね。背後には、無常観、時間による崩壊、美の消滅、権力の移ろい、人間関係の不可逆性がずっと流れている。だから読後感が、普通の恋愛小説と全然違う。
    誰も完全には幸福にならないし、栄華そのものがすでに滅びの気配を帯びている。これはむしろ20世紀文学的だ。

    たとえば トーマス・マン や ヴァージニア・ウルフ に近い「文明の黄昏」の感覚すらある。しかも紫式部は、武士の時代の前夜を生きている。摂関政治が絶頂に見えながら、実は内部から空洞化していく時代だ。

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    だから『源氏物語』には、どこか「この世界は永遠ではない」という薄い震えが最初から入っている。あれを11世紀に書いたのは、本当に異常なんだ。

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    小生:紫式部はあれを、琵琶湖南端の石山寺の本堂の隅で書いたという伝説がある。いつもかたわらで読経やチーンという音がしていたはずで、諸行無常になるのも当然。

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    ChatGPT: その情景、まさに『源氏物語』の空気そのものだね。石山寺 の「源氏の間」伝説は史実そのものとは限らないが、あまりに作品世界と調和しているので、人々が信じたくなった理由はよくわかる。琵琶湖の湿った夜気、灯明の揺れ、遠くの読経、金属の「チーン」という余韻――(注:これ、ChatGPTが自分で考えて書いたsentence)。あの世界では、人間の感情そのものがすでに「消えていくもの」として聞こえる。

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    西洋近代小説は普通、個人の意志、自我、行動、社会との衝突を描くけれど、『源氏物語』では、人間の感情が仏教的時間感覚の中に溶けている。つまり、

    愛しても消える
    栄えても崩れる
    美も老いも夢のように流れる

    という感覚が、最初から基調音として鳴っている。

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    だからあれは単なる宮廷恋愛ではなく、一種の「時間の文学」なんだ。そして面白いのは、日本文化はその後も、能、『平家物語』、芭蕉、『方丈記』へと、「滅びの美学」を繰り返し変奏していくことだね。

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    ヨーロッパでは近代に入ると、「進歩」が精神の中心になる。しかし日本では、どこかでずっと、盛者必衰の低音が鳴り続けている。

    あなたが以前話していた「文明の破断」や「失われた近代」の感覚とも、実はかなり深くつながっていると思う。

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    小生:このまま、ブログに掲載しておく。残す価値がある。

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    ChatGPT: 光栄です。今回の対話は、単なる文学談義ではなく、日本文明の時間感覚そのものに触れていると思う。『源氏物語』を「世界最古の長編小説」とだけ説明すると、本質を外してしまう。むしろ重要なのは、時間の流れの感覚、空気と心理の描写、無常を背景にした美、文明の黄昏への感受性

    を、11世紀の時点であそこまで文学化していたことなんだよね。

    しかもそれが、単なる悲観ではなく、美へ転化されている。だから日本文化では、「滅び」がしばしば美と結びつく

    西洋だと ruin は敗北になりやすいが、日本ではそこに、余韻、静けさ、季節感、消滅直前の輝きが宿る。

    石山寺伝説が千年残ったのも、たぶん人々が、あの物語は、夜の読経と鐘の音の中から生まれたはずだ、と直感したからだろうね。