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投稿者: akiokawato

  • 世界紀行1:ユーラシア その1 アフロシアブの風に吹かれて

    (この30年間ほどの旅のあとを、これからアップしていきたい。外交官だったから、その旅はどうしても政治とか経済とか、「情勢」を調べることが目的だったので、読んでいると息がつまる。だから第1回はそういうことのない、ユーラシアの果てしない地平に読者をお誘いしたいと思う。以下は、著書「意味が解体する世界へ」より抜粋したもの。2002年、筆者がウズベキスタンに着任する時、飛行機から下界、つまり昔のシルクロードのあたりを見て感じたことどもだ。

    中央アジアの自然は、心を解き放ってくれる。下界の生活は、そんなあまいものではないが)

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    アフロシアブの風に吹かれて

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    日本を出た飛行機が北京を過ぎてしばらくすると黄河の水もなくなって、砂漠、そしてはげ山が眼下に広がる。塩が白く干上がった湖の跡や、高く砂ぼこりを舞い上げる土漠が地平線まで続く中、隕石の落ちた跡か、丸い水たまりが点在する。だがそんな光景が一時間もたつと砂漠がうねりだし、左側に山脈が見えてくる。あああれは天山山脈か崑崙山脈か、山の向こうに青く見えるのは湖かと思う間もなく、また全ては砂漠に戻る。草原と森と川に彩られたロシアの大地と違うが、これもまたユーラシアの大地だ。

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     北京を過ぎて三時間もすると山脈は本物になってきて、夏の最中なのに雪山が白く輝く。でもここらの山脈は気まぐれで、ふと下を見ると山はなく平原が広がっていたりする。ここらあたりでは、まだまだ食糧が作れるのだ。山の向こうにはウルムチがあるのだとスチュワーデスは言うが、靄がかかっていて見えない。新彊地方の首都ウルムチではもう漢民族の方がウィグル人より多くなっていて、イスラム文化と中国文化が雑然と混ざり合った、でも「吉祥寺を三つ合わせたような」近代都市になっているのだそうだ。

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    さっきから眼下の山すそを、どう見ても四車線の立派なハイウェーが飛行機を追ってくる。後から聞けば、遠くの連雲港から新彊のカシュガルまでハイウェーが本当にできたのだという。たまげた話しだ。

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     このあたりの山脈は言ってみれば、ユーラシア大陸の東半分の文明の母だ。水は東に流れて黄河、揚子江となって中国文明を育み、西に流れてアム川、シル川となってメソポタミア文明ほど古くはないがその流れを汲んだペルシア、中央アジアの文明を育てたのだ。それはオアシスという言葉から我々が連想する、池を囲んだ小さな村にヤシの木が生えている、といったものではない。地平線まで広々と綿花、小麦、トウモロコシそしてリンゴの畑が続く光景は、どこに行っても珍しくない。フェルガナ地方だけで関東地方の面積に匹敵するのだ。そして点在する農家は白い漆喰作りで、モスクワ郊外の傾いた木造農家に比べれば、ここはやはり太陽と水の恵みで豊かなのだと思わせる。

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     シルク・ロードというと日本では、どこか感傷的なロマンが作られている。やれ仏教が伝わってきた道だ、やれギリシアの「進んだ」文明がアレクサンドロス大王のおかげでアフガニスタンやタジキスタンのような「僻地」にまでやってきた道だ、という具合に。確かに文化はシルクロードを伝わって西から中国、そして日本にやってきた。だが西と言ってもその大部分は、ヨーロッパのことではなくペルシアのことだ。

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     つまり文化の発信源はシルクロードの東と西のいずれかの端ではなく、エジプトとメソポタミアの流れを引いた真ん中のペルシア(今アメリカと戦争をしているイラン)にもあったのだ。僕はタジキスタン(ペルシャ文明の流れを汲む)の美術館で、八世紀頃の女性像を見たことがあるけれど、透けた衣が流れるように垂れる様、竪琴を弾く白い小指がなまめかしく反っている有り様は、観音菩薩そのものだった。

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     ペルシア文明はその頃、今のタジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、そしてインド北部までを覆い、ウズベキスタン、トルクメニスタン、そしてタジキスタンのあたりはペルシア帝国でも文明の進んだ地域だった。「イスタン」とは、ペルシア語で国という意味で、当時ペルシア語は今の英語のように国際語だった。

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    安禄山のように、中国の宮廷に入り込みペルシア語も使っていたペルシア系は多数いる。ブハラはサーマ ン朝ペルシア

    の首都で、ルーダキ やフィルドゥシ  といった詩人が文学の黄金時代を築いたし、マルコ・ポーロの父親は「ブハラはペルシアの最大の都市だ」と書き残した。正倉院に今でもある楽器の数々はペルシア、中央アジアのものと瓜二つだし、中国陶器の青花染付の技術や、天文学、航海術もペルシアから伝わった。あの広いインドのムガ-ル王朝も、サマルカンドに覇を唱えたチム-ル大帝の子孫が作ったもので、中央アジアの延長なのだ。

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     何年か前、「麦と鉄」を手にした民族だけが発展することができたと書いて、評判になった本がある。麦は食糧増産を可能にして多くの人口を支え、鉄は強い武器で領土の拡張を可能にしたというのだ。その伝で言うならば中央アジアもちゃんとそのパターンにはまる。中央アジアは綿花とキャラバンだけで生きてきたのではない。小麦と鉄は昔から、はるか昔からこの地にあった。経済史の資料が十分ないこの地域についてあまり断言はできないが、農業が盛んだったとしてもヨーロッパであったような農業技術革命とそれに伴う社会変動は起こらず、いつまでも専制的都市国家が続いたことは問題だが。

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     ともあれシルクロードでは、文化もモノもヨーロッパから東にではなく東からヨーロッパ、それも当時はまだ「僻地」だったパリやロンドンではなく当時の西の中心コンスタンチノープル、つまりビザンチン帝国に運ばれていたのだ。だからこそ、十九世紀のドイツの学者リヒトホーフェンは「シルク・ロード」という名を思いつく。日本人がヨーロッパへの憧れをシルク・ロードに投射しているとしたら、それは歴史に反したことなのだ。

  • 日本歴史紀行2:宇佐神宮、磐井の墓、吉野ケ里、宗像大社、佐賀

                                河東哲夫

    日本古代には、朝鮮半島、中国、沖縄方面から連綿として人が流入した。1万年も続いた縄文時代にも、朝鮮半島との交流があった。九州と対馬の中間にある沖ノ島(後出)から縄文時代の遺物が発見されているからだ。

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    九州で力をつけたうち最有力な勢力は、九州から東に向かって何度も「東征」に進発したと思われる。目指すのは、九州以東で最も近い沃野、畿内だったのだろう。ここなら、抵抗の多い陸路を避け、海路で赴くことができる。そして「東征」の出発点は、潮流と風からいって瀬戸内海を横断するに最も適した、国東半島のあたりだったと思われている。

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    後世、大和朝廷によって、この「東征」に赴いたのは天孫降臨族の神武天皇ただ一人だったとされるようになったが、それが大和朝廷を正当化するための「神話」であることは、ほぼコンセンサスになっている。「東征」は異なる勢力によって何度も行われたのだろうし(可能性としては崇神天皇、応神天皇、欽明天皇などが言及されている)、古事記、日本書紀では飛鳥や出雲で起きたとされていることは、実際には九州で起きたことだったのかもしれない。

    後出「磐井の墓」は、古事記・日本書紀では抹殺されている古代日本の中心、「九州王朝」の跡かもしれず、そうなると、九州王朝が(もとは九州から「東征」した結果の)大和朝廷に「日本代表権を奪われた」経緯が重要な問題になる。いずれにしても、古墳発掘をもっと進めることで、歴史の真相はもう少しわかってくるだろう。

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    で、以上の日本古代史の様々な勢力が一カ所で交叉しているのが、国東半島の根元、宇佐神宮であることを、2019年5月の連休の旅で認識した。宇佐神宮、吉野ケ里遺跡、佐賀市、磐井の墓、宗像大社の順番で旅行したのだが、本当にここら辺の歴史は豊かで、朝鮮半島や中国も含めて、日本史を形作ったいくつかの潮流がここで交叉している。

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    それは、1)天孫降臨族、その流れの神武天皇、2)中国から朝鮮半島を通ってやってきたとされる「秦」族、そして天孫降臨族のシャーマン格の中臣(後に藤原)家と「秦」族の協力と融合、3)朝鮮半島に遠征したとされる(多分フィクションの)神功皇后、そして同皇后のモデルではないかとされる卑弥呼とその邪馬台国(これを「九州王朝」だとする説がある)、4)神功皇后の子とされるが実は朝鮮半島からやってきたかもしれない応神天皇、応神天皇と飛鳥の大神(おおみわ)一族の結びつき、5)一部の学者が神武天皇のモデルに擬する欽明天皇、6)そしてもしかすると付近には「出雲」のもともとの在処があるのではないか等々、日本史の主要な流れの多くが交叉・融合しているのである。

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    それは、宇佐が古代は海に面しており、このあたりは瀬戸内を通って畿内に向かう航路の出発点(潮流、風向きが最適)であったことによるのではあるまいか。日本書紀の神武天皇にしても、高千穂(現在の高千穂ではない可能性あり)の方からやってきて、宇佐神宮のあたりで勢力を更に養った後、ここから舟で進発したことになっている。

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    北九州の歴史、そして邪馬台国や大和朝廷の初期については諸説相入り乱れており、それらを渉猟していくと(秦氏=ユダヤ人説とか、出雲はもともと九州にあったとか)、精神に「統合失調症」を来たすのは確実。特に「古事記」、「日本書紀」にフィクション性を指摘して、古代の権力の中心は邪馬台国も含めて九州にあったという説(例えば「失われた九州王朝」 古田武彦)を採用すると、仮説の大伽藍がガラガラひっくり返って、またゼロから牌を積みなおす感がある。

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    宇佐神宮

    宇佐神宮は福岡と大分の中間の位置にある。古代は海に面していた可能性があるが(だから神武天皇が瀬戸内海を通って「東征」に出発したのがこの地点であって不思議がないのだ)、今は山の中。湿気の多い、霧のたちやすい地方で、レンタカーで湯布院を通ったが、ここも山合の盆地の霧に神秘的に鎮まっている趣があった。ここは、イザナギが地獄から追いかけてくるイザナミを振り払った黄泉比良坂(よもつひらさか)だと、どこかに書いてあった記憶があるが、それは確認できない(その坂は今では島根県にある)にしても、ここらあたりは全てパワー・スポット。草木が歴史を語りかけてくる、とでも言うような。

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    1)二つの流れ

    宇佐神宮の境内は広大で、20近くの社がある。現在の威容は1400年代に、地元の大内氏が中心となって造営したものだが、もともとは巨岩信仰をベースとする祈祷所のある御許山付近に568年の欽明天皇末期(任那が失われた頃である)、応神天皇の霊が示現した時が始原となっている(後出)。

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    そのため、多数の社は天照大神の三人の娘である比売神(前記巨岩信仰に関係。子孫は宇佐氏)系統と、それをはるかに下る西暦270年頃と目される応神天皇、そしてその母と言われる神功皇后の系統、その二つに分かれている。但し、安藤輝国の「邪馬台国は秦族に征服された」によれば、神功皇后がここで祀られたのは応神天皇の約100年後の823年。これは、神功皇后は後世作られたフィクションではないかとの説を補強するものとなる。同皇后を祀る三之御殿の下には石棺があるのだが(一度発掘されたが開棺せず、埋め戻されている)、これを卑弥呼の墓と想定する者もいる。

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    比売神系統=天孫降臨族?

    前記の比売神は、土着(と言っても相対的なものだが)の勢力が奉じていたもので、本殿ではなく、二乃御殿に祀られている。その正体については諸説がある。宮崎県・大分県・熊本県の境にある祖母山(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E6%AF%8D%E5%B1%B1)の方から北上してきた「天孫降臨」族(江上波夫氏は、天孫降臨神話は朝鮮半島の六伽耶国の建国伝説に類似していると指摘している。有明海から九州に上陸して祖母山の高地に定住した中国出身の秦氏、あるいはツングース系騎馬民族の子孫かもしれない)の子孫だとする説もある。

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    天孫降臨族、つまり後の神武天皇の勢力は当初、「日向の高千穂」に居住していたことになっており、このため宮崎県の高千穂が一種の聖地とされているのだが、日本書紀では「筑紫の日向の高千穂」とある。古事記の言う高千穂が筑紫にあったのであれば、天孫降臨族の元々の居住地は福岡方面であったことになる。それに、現在の高千穂のあたりは以前は、日向とは呼ばれていなかったとの説もある(安藤輝国「邪馬台国は秦族に征服された」)。

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    応神天皇系

    そして後者の応神天皇であるが、社伝では、568年(欽明29年)、大神比義(おおがの-ひぎ。飛鳥の大神(おおみわ)神社の宮司の弟で、なぜか宇佐に派遣された)に突然霊として現出、「誉田天皇」を名乗って、ここに祀られるようになった。神西秀憲氏は「古代九州王国の謎」で、応神天皇は神功皇后の三韓征伐に付き従った武内宿祢と皇后の間の子で、宇佐で武内に養育されたのだとしている。それゆえに、応神天皇は3歳の児童として宇佐神宮の社伝に立ち現れる。

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    応神天皇は一之殿(725年に造営)に祀られているが、同天皇は「広幡八幡麿」であるとも名乗っている。この「八幡」つまり八旗(軍旗を思わせる。なお宇佐神宮社伝では、「鍛冶をする老爺と八頭の竜が現れ、多くの者を死に至らしめた」とあるが、この八頭の竜と八幡は関係があるかもしれない)をもって、この一之殿は全国の八幡宮の中心ともなっている。八幡宮は応神天皇を祀ったものなのだ。

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    ただ、八幡は宇佐が発祥の地ではない。北方の筑上郡椎田の「矢幡宮」が次第に南下してきたものだ、とする説がある。この椎田のあたりは、正倉院蔵の「豊前国戸籍」によれば、秦系渡来者の拠点であった由。となると、応神天皇は秦氏と関係があるのかもしれない。

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    なお安藤輝国氏は、「邪馬台国は秦族に征服された」の中で、八幡神は宇佐の地元の支持を得られなかったので、秦氏は新羅仏教を持ち込み、宇佐神宮境内に弥勒寺を創設したとしている。島田裕巳の「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」によれば、弥勒菩薩は応神天皇の化身であるとされていたのである。もっとも西谷正の「地域の考古学」では、弥勒寺は大内氏が1400年代に造営しているので、その点は疑わしいのだ。なお、弥勒寺は明治の廃仏毀釈で破壊されている。

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    応神天皇については、彼こそが「神武天皇のような東征」を行って、大和地方を征服し、国の統一を成し遂げた人物だとの仮説を提示する専門家がいる。その説によれば、彼は朝鮮半島からやってきた秦氏の一族なので、これを天皇家の始祖とするのはまずいということで、天孫降臨族出身の神武天皇なる人物を創作し、彼が東征の前に宇佐に1年滞在したこととした。しかし実際の東征は応神天皇が宇佐から出発して行ったので、ここに彼を祀った。ということになる。

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    こうして宇佐には、土着の邪馬台国、高千穂方面から北上(あるいは南下)して来てこれを征服した天孫降臨族、さらに朝鮮半島からやってきて南下し、天孫降臨族を征服した後、東征に乗り出し、大和朝廷を作り出した応神天皇の勢力(もしかすると秦氏系、八幡の騎馬民族)が「一堂に会して」いることになる。

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    そのような歴史を反映してか、宇佐神宮では今でも宮司の座をめぐる確執がある。土着の宇佐氏は代々、少宮司にしかなれず、大宮司は飛鳥に本社を持つ大神氏が独占した。それもあるのか、宇佐神宮の宮司、権宮司の地位をめぐっては、東京の神社本庁を巻き込む騒ぎとなることもある。

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     しかし、これほどの重要性にもかかわらず、天皇は宇佐神宮に行幸したことがない。天皇は持統天皇から明治天皇の間の約1200年間も、伊勢神宮にも行幸していない。持統天皇については、飛鳥の地元の大神神社の宮司から、伊勢神宮への行幸につき猛反対を受けたという面白い記録がある(「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」)。天照大神は崇神天皇の時、相次ぐ天変地異の責を負わされて宮中から追い出され、諸方を転々としたあげく、伊勢に落ち着いたという、日本書紀の記事があるのだが、それは飛鳥に「東征」してきた天皇勢力が、先住の豪族が奉ずる大神神社を前面に立て、自分たちの奉じる天照大神を外に出したのかもしれない。

    そして天照大神が宮廷を去って以来、大神家は宮廷のイデオロギー担当のような役割を果たし、本来余所者であった応神天皇を皇統に位置付けるために、568年大神比義を宇佐に派遣、神宮を建立せしめたのだろうか?

    2)邪馬台国の卑弥呼も宇佐が根拠地?

    これに加えて宇佐神宮には、卑弥呼や邪馬台国の影もある。823年には宇佐神宮の三之御殿に神功皇后(朝鮮半島に遠征したという伝説のある女傑。その息子が応神天皇だということになっている)が祀られたが、市村其三郎氏は、応神天皇の母は卑弥呼、即神功皇后なのだという説を提示している。もしそうであれば、応神天皇は朝鮮半島から南下してきたのではなく、邪馬台国の血筋を引く人物だということになって、日本史は一気に立体性を失う。

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    神功皇后の「三韓征伐」は、古事記にも日本書紀にも記述があるが、年代は不明である。朝鮮の「三国史記」や高句麗の広開土王碑文には、4世紀後半から5世紀にかけて倭軍が百済・新羅・高句麗と戦ったとの記事があって、日本ではこれを神功皇后のことと比定する向きが多い。神功皇后は、実在していたならば3世紀、あるいは4世紀の人物だと考えられている。

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    卑弥呼はシャーマンだが、西谷正・九州大学名誉教授は「北東アジアの中の弥生文化」の中で、シャーマニズムは紀元前3-2世紀に朝鮮から伝わったのではないかと想定している。そして南ロシアの遺跡から発掘された例だと、シャーマン役の女性は幼時から顔をつぶされて成長したとしており、卑弥呼も顔がつぶれていた可能性を指摘している。

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    因みに、卑弥呼の時代は、中国では三国志の時代である。当時、日本の王国が競って朝貢した魏は、あの曹操が作った魏なのだ。そして邪馬台国とか卑弥呼は、古事記と日本書紀には出てこない。奇異なのである。双方の名が出てくるのは、魏志倭人伝にある、239年卑弥呼の使者がやってきたことを記した記事のみである。魏は卑弥呼に親魏倭王の金印を交付している。また魏は同時に銅鏡100枚を下賜。その景初3年の年号を刻んだ「三角縁神獣鏡」は群馬、島根、九州、和泉等、全国に広く分布し、その中心は南山城(南やましろ)に比定される由(「北東アジアの中の弥生文化」上P171、西谷正)。

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    中国の史書にある以上、当時の日本に邪馬台国と卑弥呼に相当する国と人物がいたことは確かなのだろうが、邪馬台国がどこにあったのかについては、論争が続いている。邪馬台国は当時の中国語の発音では「ヤマト」なのだとか(当時、「大和」という呼び名があって、それがヤマトと発音されていた保証はあるのだろうか?)、卑弥呼は天照大神、つまり「日の御子」なのだとか様々な説が出されている。しかし卑弥呼という漢字は当時の中国で、ヒミコと発音されたのだろうか? 

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    卑弥呼の墓の主な候補地は、飛鳥の箸墓と宇佐神宮の下に元々あると目される古墳(地下に石棺があるのが、戦前2度目撃されている。そのまま開けずに埋め戻された)だが、後者は魏志倭人伝に言う、卑弥呼の墓と寸法が一致する由。

    西谷正・九州大学名誉教授は、飛鳥説を取っている。根拠は、魏志倭人伝に言う、「7万戸の人口を数えた邪馬台国」に相当する大規模遺跡は九州では見つかっていない、他方飛鳥の纏向遺跡は発掘されていないが80ヘクタールにも及ぶこと、としている。

    飛鳥の箸墓は放射性同位元素の半減期で測定すると、築造が紀元250年頃で、魏志倭人伝の伝える卑弥呼の没年とぴたり合うのだそうだ。但し、箸墓は前方後円墳。日本に前方後円墳が俄かに広まったのは3世紀で、邪馬台国を滅ぼした勢力が持ち込んだ文化である可能性があり、そうだとすると、箸墓は卑弥呼の墓ではないのかもしれない。

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    いずれにしても、右のいずれかを発掘して「親魏倭王」の金印が出てくれば、邪馬台国の所在地はそこで決まりである。有名な「漢委奴国王」の金印というのがあるが、これは邪馬台国よりははるか以前の後漢の時代、北九州の奴王国が受けたもので、既に見つかっている。伊都国の宮殿だった(西谷正氏によれば、伊都国は奴国の西方にあったというのが定説)と目される前原市の細石神社の宝物だったのが、江戸時代に一時紛失していたものが、志賀島で見つかったとされているものである。

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    3)宇佐は全国の八幡神社の総元締め――元々は秦氏が弥勒信仰と共に持ち込んだ?

    ここで宇佐神宮が八幡神社でもある件について一言。島田裕巳は「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」で、次の諸点を述べている。

    ・八幡神社(若宮神社を含める)は、日本で最多の神社で、1990年神社本庁調査では全国に7817社あった。2位は伊勢神宮の4425、3位が天神の3953、稲荷は2970、熊野(王子も含めて)が2693なのだそうだ。

    ・そして八幡神社は日本神話には出てきていない。737年、その1月に新羅が日本の使節受け入れを拒んだこととの関連で文献に登場してくる(前記、島田著書)。ということは、宇佐神宮と八幡宮は、朝鮮王朝の本流は日本に渡って応神天皇となり、その後も彼の子孫が天皇として君臨しているのだから、これに従えということを新羅に示す、一種の象徴としての意味を持つことになる。宇佐八幡宮の記録をみると、八幡は朝鮮伝来の神であったことを示唆する文章がある。

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    ・京都では石清水八幡宮が建立されている。京都南西の裏鬼門を守る位置にあり、当初から地位は高く、979年からは天皇の行幸も始まり、伊勢神宮に次ぐ地位を得ている。

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    ・さらに源氏が八幡神を氏神としたことで信仰が広がり、足利、徳川も八幡を奉ずることとなった。

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    ・前述のように安藤輝国によれば、八幡は宇佐が発祥の地ではなく、北方の筑上郡椎田の矢幡宮が次第に南下してきたものなのだが、八幡神が顕現した跡には、馬蹄を象った影向石(神が天から降臨した時、腰を下ろす石)がある由。これは、応神天皇の勢力が朝鮮半島から騎馬で押し寄せたことを示唆するものかもしれない。江上波夫の「騎馬民族国家――日本古代史へのアプローチ」が騎馬民族来襲の時期として想定している4世紀後半から5世紀は、応神天皇元年の西暦270年よりかなり後なのだが。

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    4)宇佐は、中臣(藤原)氏と秦氏が融合した地でもある

      そして宇佐は、平安時代に栄華を誇った藤原氏の祖先、中臣氏と、朝鮮から帰化した秦氏がここで出会って融合した地であるとも言われる。安藤輝国氏はその「邪馬台国は秦族に征服された」で、神武東征にシャーマンとして随行していた天種子命は、宇佐で地元の宇沙都比売姫と結婚している、天種子命は後の中臣氏、そして藤原氏の始祖である、との説を提示している。中臣鎌足は現在の茨城県鹿嶋市、鹿島神宮近くで出生したとの説があり、そこには鎌足神社もあるのだが、藤原氏はもともとは九州ゆかりの一族で、鹿島方面には蝦夷との戦いの前線に配備されて赴いたのではなかろうか。

      そして藤原家と宇佐神宮の関係は、奈良時代、道鏡が権力奪取を企て、藤原家を傍流に押しやった時に、ご利益を発揮する。道鏡は769年、大宰府の役人(大神氏系)を通じて宇佐神宮から、「道鏡が天皇になれば天下泰平だろう」との神託を得たのだが、不思議に思った称徳女帝が和気清麻呂を宇佐に派遣。彼は大神氏とかねて対立していた宇佐氏系宮司の手配で、道鏡について正反対の神託を得て帰京する。これによって藤原氏は勢威を取り戻すのだ。これ以降、宇佐の地元では宇佐氏系が大神氏系を抑えて、宇佐神宮の大宮司の地位に一時つく。

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      なお本筋から外れるが、島田裕巳は「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」で、大和国全体が春日大社の社領となり、さらに春日大社を藤原氏の氏寺である興福寺が支配する構造となっていて、藤原氏の財政基盤となっていたとする(p185)。本当だろうか。

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    5)宇佐、そして日本史に見え隠れする中国からの(?)帰化人・秦氏について

      ここで脱線して、宇佐神宮、あるいは応神天皇にも関係し得る、秦氏という非常に面白い存在について。安藤輝国氏によれば、日本の史書には、「秦」と名のつく地名は見当たらない、しかし702年の正倉院文書の「豊前国古跡」では、秦、あるいは勝の姓を名乗る秦族が377名いるとしている、また中国の隋書倭人伝では筑紫に秦国があり、その国の人達は華夏と同じ人種であるとしている、と述べている。

    更に同氏は著書「邪馬台国は秦族に征服された」の中で、中国の秦朝末期、難民が朝鮮の馬韓(後に百済)に定着したとの記録があること、そして同時期に日本で、進んだ鉄・銅器文化を伴う弥生文化が広がったことを指摘、弥生文化は中国文明の流れであることを示唆している。

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      しかしウィキペディアは、秦氏の来歴には数説があること、中国の五胡十六国時代の後秦に由来するとすれば、これはチベット系民族で、京都の秦氏の根拠地だった太秦のウズはその民族の言語で「第一」、マは助詞の「の」に相当、サは都を意味するので、ウズマサは第一の都市を意味する、と述べている。なお、筆者の在勤したウズベキスタンの「ウズ」は、「自分の」を意味することになっている。

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      秦氏は平安時代のあたりで、日本史からその名を消すのだが、それ以前に藤原氏と融合している。安藤輝国氏によれば、長岡京遷都を推進した藤原種継、平安京遷都を推進した藤原小黒麻呂はそれぞれ秦氏の娘と結婚し、遷都で財政的・技術的援助を秦氏から受けている。ウィキペディアによると、村上天皇の日記には、「大内裏は秦河勝の屋敷跡に建っている」との記事がある由。秦河勝は聖徳太子に仕えた人物で、太秦に現在の広隆寺を建立している(当初は別の場所であったとの説あり)。

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    なお、稲荷は元、伊奈利と表示され、秦氏の氏神、稲作の神であった由。明治時代、神仏分離されるまでは、稲荷神社で般若心経を唱える信者もいたし、豊川稲荷は曹洞宗の寺院でもある(と言うか、もともとは寺であったのが、稲荷として信仰されている)(島田裕己「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」)。バロック的に、種々の要素がブレンドされている。

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    吉野ケ里遺跡

     宇佐神宮の次に高千穂に行こうと思っていたのだが、大雨で、鉄砲水に会うのもいやだと思い、北西方向の吉野ケ里に向かうことにした。吉野ケ里は、丘が連なる場所に木造のやぐら、そして竪穴式住居が多数並ぶ集落で、想像復元されている。その様は、米国東海岸にメイフラワー号でやってきた入植者が作ったプリマスの村(これも想像復元)によく似ている。

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    ここに墳丘墓があり、これを卑弥呼の墓に比定する向きもあったが、これは卑弥呼より300年ほど以前の時代のものと認定されて、その説は消えた。吉野ヶ里は弥生時代後期のものと比定されているのに、水田の跡は未だに発見されていない。付近の佐賀平野は今では穀倉なので、若干奇異な話である。

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    吉野ヶ里は宇佐神宮よりは年代的には前で、今から1800年前、弥生時代後期のものと比定されている。弥生時代は1700-2300年、600年間続いたことになっている。その前の縄文時代は1万年続いたことになっているが、稲作を朝鮮半島から持ち込んだ弥生時代には生産性が飛躍的に向上(何しろ一粒の稲から100-200粒が実るのである。1円を投資すると1年で100倍、200倍になって返ってくるということ)、それによって戦争で領域を広げることが可能となり、歴史の展開が一気に速まったのではないだろうか。吉野ケ里遺跡は日本で発見されている環濠集落としては最大のもので、40ヘクタールを占める。

     

    磐井の墓-「九州王国」と大和朝廷はしばらく並立?

     次に佐賀城を見学に行き、明治維新における佐賀藩の大きな役割を初めて認識したのだが、それはあとで述べることにして、ここではその次に行った磐井の墓について述べておこう。磐井というのは、6世紀、大和朝廷と並立していたと目される九州の有力豪族で、様々の記録、伝説がある。そして福岡県久留米市の南部、茶の名産地、八女市には、古くから磐井の墓と称される大きな前方後円墳(全長135米)、岩戸山古墳がある。これを見に行ったのだ。

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     ここは筑後川左岸で、筑紫平野の穀倉地帯にある。これまで知らなかったが、九州の北岸には1000米と割と高い山脈が迫っているので、朝鮮方面からやってきて筑紫平野に入るには、大宰府のある地峡を通るか、南に回って有明海から筑後川をさかのぼるか、どちらかしかない。そして西谷正の「地域の考古学」によると、筑後川中流に馬の埋葬跡が多数あり、馬具も発掘されているようだ。西谷教授は、ここに馬の牧場があったものと想定している。江上波夫の言う騎馬民族はやはり本当に日本に来ていたのだろう。

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    九州王国&新羅は、大和朝廷&百済と対抗?

    墓の主(と言っても、彼はここには葬られていないという説もある)の磐井だが、527年継体天皇に朝鮮出兵を命じられ、それを拒否して「磐井の乱」を起こしている。大和朝廷は百済を守るために新羅を討とうとしたのだが、新羅と結んでいた磐井がこれに抵抗したのである。磐井が戦死した後(生き残ったという説もある)、彼の息子は大和朝廷に領地を差し出して助命を嘆願、家の存続をはかっている。だから前方後円墳は磐井の後も、このあたりに多数作られている。

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     西谷正教授は、右からしばらく経った562年、欽明天皇23年の時、朝鮮の伽耶が新羅に滅ぼされたので、百済の要望に応えて筑紫から兵員1000名、馬100頭、船40隻を準備したとの記録が日本書紀にあるが、これは磐井一族の的氏ではなかったかと推定している。

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    そして100年後663年の白村江の戦いでは、前出「失われた九州王朝」(古田武彦)は次の説を提示している(400頁)。「この戦いでは、筑紫君薩夜麻なるものが唐軍に敗北して捕虜となっている。彼は2年後、唐軍によって九州に送還されてくるのだが、九州王朝の長であったと思われ、彼の捕囚で九州王朝の没落と大和朝廷への権力移行は明確となった。それは、『三国志記』で記録されている国名が倭から日本に代わり、大宝年間が始まったことに表れている」という説である。

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    古田氏は、倭国とは九州王朝のことで、この頃大和朝廷は「日本」を名乗って唐王朝にアプローチを始めていた(7頁。「旧唐書」に依拠)、その態度は尊大であった、大和朝廷が日本を代表するようになってから編纂された古事記、日本書紀では九州王朝の痕を消し、すべてを天孫降臨から一貫して大和朝廷が日本を支配していたことにしてしまったのではないか、としている。

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    白村江の戦いの実態は後世から隠されている。661年1月、斉明天皇が大和から出陣して筑紫に着くが、その7月に崩御している。そして軍はやっと663年に朝鮮半島に向かったのだが、中大兄皇子(既に天皇位を称姓)はこの時まで九州に滞在していたのかどうか、朝鮮半島に遠征したのかどうか、この間2年以上にわたって、飛鳥の大和朝廷の本拠には天皇と皇太子が不在であったはずだが、僅か15年前の大化の改新で影響力を殺がれた蘇我氏が、その機会に飛鳥で何か策謀を企まなかったのか、何も記録がない。そして白村江に向かった軍の主力は、実は九州王朝のものであったかもしれないのである。

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    白村江の戦いの9カ月後、唐軍の副将、郭務悰が47隻2000名の艦隊を率いて九州に7カ月滞在。その8年後の672年、天智天皇(中大兄皇子)は没している。宮中で(遷都したばかりの大津で)病死したという説と、一人で狩りに出て行方不明になり、履だけが発見されたという説がある。

    倉本一宏の「戦争の日本史2 壬申の乱」によると、前記、郭務悰は白村江の捕虜を返還したのと引き換えに、朝鮮半島への出兵を要請、朝廷はこれに応じて全国で兵を徴募し始めた。まるで、現代の朝鮮戦争で、米国が日本人を戦争に送ろうとして、吉田総理に日本の再軍備を求めたのに酷似している。

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    天智天皇の死後、吉野を脱出して美濃へ向かった彼の弟大海人皇子一行は、天智天皇の息子、大友皇子に反旗を翻したのだが、その時援軍が彼の下に続々と集まっている。あるいは、白村江の頃、そしてそれ以前の継体天皇による九州王朝討伐(「磐井の乱」)の時から、さまざまの負担に嫌気がさしていた地方の豪族達が、大海人皇子の下に結集して、大友皇子に反旗を翻したものかもしれない。

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    宗像大社

     そして、旅の最後の目的地は宗像大社、というか、その神宝館だった。

     ユネスコの世界遺産に指定されたことで有名になったが、対馬列島と九州の中間に沖ノ島という小さな島があり、ここは古来、日本と朝鮮半島の間を行きかう使節たちが立ち寄って供物をそなえ、航海の安全を祈るところだった。そしてその供物はその時々の文化・工芸の粋を集めたもので、実に8万点が宗像大社の神宝館に保存・陳列されている。8万点すべてが国宝に指定されているが、まとめて「1件」とカウントされている。

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     因みに、沖ノ島で発見された品には縄文時代のものもあるそうなので、縄文時代の日本も決して日本に閉じこもった文化ではなく、朝鮮や中国の影響下にあったようである。なお縄文と言うと、あの火焔のような縁取りの派手な土器を思い浮かべ、現在の日本文化とは異質なものを感ずるのだが、縄文も初期と末期の土器の意匠はシンプルで、火焔土器は祭祀用のものに限られているらしい。

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     宗像大社の宗像氏は、航海に携わった古い一族。「古代九州王国の謎」で神西秀憲氏は、宗像氏は遠賀川下流出身で、もともとは「沼潟」姓だったとしている。中国の宋の有力者の家とも通婚関係にあった。今の宗像大社のあたりは同家の私有地で、645年に始まる大化の改新で全国の土地(と言っても、今の日本のほんの一部)が「公地公民」とされた時も、伊勢神宮、島根の熊野大社、茨木の鹿島神宮、千葉の香取神宮等と並んで、私有を引き続き認められている。そして宗像宮司は鎌倉、室町時代には「御家人」となって、地元の武士を率いている。

     神宝館に展示されている文化財は、素晴らしいものが揃っていた。潮風の吹きすさぶ絶海の孤島の戸外に放置されていたものとは思えない。

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    すべては九州に発す――出雲ももとは九州?

    以上で、読者の頭の中はずいぶんこんがらがったことだろうが、ここでとどめ。

    これも九州王朝から大和朝廷に権力が移行したかもしれないことの絡みだが、1916年生まれの専門家、神西秀憲氏はその著書「古代九州王国の謎」で、非常に大胆な仮説を提示している。継体天皇あたりまでの古事記の史実は、実際はすべて九州で起きたことで、出雲等の地名も九州にあったのが、古事記によって全国に「下付」されたものだ、と言うのだ。

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    神西氏は、特に遠賀川を重視、この河口に古代倭の首都があったとする。この地域で、日本で最古の土器が多数出土しているのがその根拠。そして(神武天皇の)東征は、新羅等の圧力を避けるために、安全な飛鳥に移ったものとする。それをしたのは実際には欽明天皇で、当時倭は任那を失い、新羅の脅威を感じていたので東遷した、とするものである。そうだとすると、欽明天皇の前の継体天皇も、実は九州で活動していたことになる。

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    そして神西氏によれば、飛鳥に落ち着いた新政権は全国に、九州の地名を「下付」した。大宝令で、「全国に国々を置いた」とあるのが、それだとする。これによってもともと九州にあった出雲は島根に移り、神話は何が何だかわからなくなった、と言うのである。そうなる前、邪馬台国は豊前、出雲は豊後にあったので、両者が緊密に往来するのは当然のことだった、と言うのである。

    もう一つ、現在奈良には古い大神神社があり、土地の豪族三輪家の守り神なのだが、神西氏は、これはもともとは宇佐神宮近くの祖母山の大神神話(蛇との結婚)に源を発し、その後遠賀川下流中央にあった古代熊野宮の神になっていたのが、奈良に移転されたのだとしている。現在の大神神社は、出雲の大国主と結び付けられたりして、わけがわからなくなっているのだが、こう考えると少し糸がほぐれるかもしれない。

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    佐賀藩

    これはも幕末に関わってくることだが、今回、佐賀市にも赴いて、佐賀城等を見物した。明治維新では、薩摩、長州の名しか出てこないが、実は佐賀も傑出した人材をトップに送り込んでいたのだ。

    佐賀は鍋島家だが、10代の鍋島直正は種痘を自分の息子にさせる等、先進的な藩主で、その下に人材が輩出している。それは副島種臣、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇等である。しかし身の処し方が下手な者が多く、結局は主流からはじき出されている。江藤、島は西南戦争に先立ち士族の反乱に担ぎ出されて、刑死している。

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    なぜ佐賀藩に先進的な機運が漲っていたかと言うと、この藩は福岡藩(黒田)と交代で長崎港警備に当たっていたので、先進的な情報を手に入れやすい立場にあったからだ。鍋島直正の下、佐賀城下には国内初の反射炉(製鉄のため)を、書物から得たノウハウで大変苦労して自力で建設。そしてこれで品川台場用の大砲を鋳造している。

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    佐賀藩は、英国から先進的なアームストロング砲も購入しているが、これは戊辰戦争で新政府側が使用して威力を発揮。維新後の上野の彰義隊鎮圧でも使われている。

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    佐賀は今では地味な存在になっているが、穀倉の筑紫平野にあるだけに、古来から大きな力を有していたに違いないのである。

  • ロシア暴発寸前

                    河東哲夫

    ウクライナが戦争で優勢になっている。ロシアが兵員と弾薬不足で戦線を膠着させる中、ウクライナはドローンを猛開発。米国が停戦交渉から手を引き、ウクライナのロシア攻撃を止めなくなったのをいいことに、ロシア領内深くまでドローン、ミサイル攻撃を繰り返す。

    戦争初期から、クレムリンに到達したドローンがあったりしたが、それは散発的なもので、ロシア国内で発射したものかもしれない。今回はウクライナからはるばる数百機の群れになって標的に突っ込むから、モスクワ郊外カポートニャの製油所(油臭いことで悪名高かった。筆者の小説「遥かなる大地」(筆名熊野洋)遙かなる大地: イリヤ-の物語 (第1部) | 熊野 洋 |本 | 通販 | Amazonの舞台にもなっている)はタンクの大きなふたを空中に舞い上げる程の爆発を起こした。

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    ドローンと米国AIのコラボ

    注目するべきは、このドローンの群れswarmはAIによって操縦されているから、空中でぶつかったりしないことだ。モスクワまではバラバラに飛行し、標的付近で急速に集合するような芸当もできるだろう。ロシアは広いし、軍事施設ならレーダーやミサイルで守られているが、民間施設は裸であるようだ。攻撃を食らったタタールスタン自治共和国(ウクライナからは千キロ以上離れた石油産地。大工業地帯)の首長ミンニハノフは、「皆さん、誰も我々を守ってはくれません。自分たちで守らないといけません」と演説している。

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    折しも6月4日には、サンクト・ペテルブルクでは年恒例の「国際経済フォーラム」が開かれたが、公称2万もの参加者がある中で、プルコヴォ空港はドローン攻撃を警戒して頻繁に閉鎖。会場の向こうには、攻撃を受けた石油積み出し施設の黒煙が雲のようにたなびく中、プーチン大統領はロシアの経済がいかに安泰であるかを力説。ドロズデンコ・レニングラード州知事に至っては、「わが州はドローン製造の拠点であります」とスピーチしたが、何とも皮肉。

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    トランプという止め男がいなくなったウクライナ

    トランプは大国志向の男で、力で中小国を辱めることを悪いと思わない。地上げ屋の癖だ。だから、ウクライナを抑えつけて停戦を飲ませようとしてきたのが、うまくいかず、嫌気をさしてイランの方に行ってしまった。

    トランプに去られたウクライナは、これで万事休すかと思うとさにあらず。トランプという止め男、「そんなことをしたらロシアを怒らせる。停戦ができなくなる。(俺がノーベル平和賞をもらえなくなる)」と言っては、ウクライナのロシア領内攻撃を止めてきた男(それはバイデン大統領も同じだったが)がいなくなったことで、思う存分ロシア領内、クリミアへの攻撃ができることになった。SpaceXはこれまで、ロシア領内の攻撃にStarlinkの電波を利用させることはなかったが、今やその禁止を解いているという報道がある。

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    ロシアはこれまで、「米ロが世界を差配する」様を演出できていたのが、米国が去ると、ウクライナに負けそうな自分が裸で立っているのに気が付いた。裸の王様なのだ。これまでは、「ウクライナのような小さな存在と戦っているのではない。アメリカ、NATOと戦っているのだ」と言って国民を鼓舞してきたのが、アメリカが去ってみると相手はウクライナだけで、しかもそのウクライナにいいようにやられているのだ。

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    そこでプーチンは前記の通り、6月14日にはトランプの80歳誕生日で祝いの電話を入れるというすり寄りぶり。まるで、旧ソ連諸国の首脳がプーチンの誕生日を祝って電話する乗りだ。15日からの先進国首脳会議にゼレンスキー大統領も呼ばれていることで心配になったのだろうが、「トランプ大統領閣下、また一緒にウクライナ停戦やろうよ」と言ったとしか思えない。

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    クリミアがあぶない

    ドローンはドネツなど東ウクライナでも活躍しているが、その攻撃はクリミアに集中しているようだ。特にロシアからクリミアへの輸送・補給路が狙われていて(それは2ルートしかない)、クリミア内のガソリンはQRコードでの配給制になった後、一般法人・個人への販売は停止。行政機関の車しか給油ができなくなった(心配することはない。公用車の運転手はガソリンを民間に「販売」するから)。

    飲料・灌漑水をウクライナのカホーフカ貯水池からの運河に依存していたクリミアだが、戦争の初期、何者かがダムを破壊して貯水池は草原になったままだから、クリミアは文字通り干上がりつつある。ただ、クリミアでは自分をロシア人と思っている住民が多いから、ウクライナが占領しようとしても、すんなりいくかどうかはわからない。おそらく、今後の和平交渉での交渉の具とされるのだろう。

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    トランプは駄目でもEU、米欧の企業が助ける

    米国の支援は以前、毎年500億ドルにも上っていたが、トランプはこれを消した(と言っても、米国議会は予算の中にウクライナ支援を盛り込もうとしている)。代わってEUが自分の負担を増やす。欧州委員会名義でEU債を発行するという禁じ手(ドイツなどがいやがる)で、2年で900億ユーロの融資を供与することになっている。ただよくあることで、EUは「金を出すからこれをしろ」という条件を交渉中で、カネはまだ出ていない。

    それでよく戦争ができるものだと思うのだが、ウクライナにはまだ自分のカネがあるのだろう。それに加えて米欧の民間企業がウクライナを戦争支援していることが、非常に大きい。イーロン・マスクは戦争の初期から自社SpaceXが手掛けるStarlink衛星電波システムをウクライナに無料で提供。これでウクライナ軍は戦場での交信ができている。ロシア軍も、アンテナを闇市場で買ってStarlinkを盗用してきたが、2月にStarlinkは盗用ができないようになった。ロシア軍は自前の衛星通信システムを開発中だが、半導体の入手も思うに任せないから、なかなか対応できまい。代替の衛星システムを形成中だが、まだ初期段階にある。

    また戦争の当初から、米国のPerennial Autonomy社のEric Schmidt社長がウクライナに出入りして、AIつきドローンHornetを提供してきた(6月24日付 The Times)。フィンランドのICEYE(アイサイ)社は画期的な軽量小型偵察衛星をウクライナの用に供し、地上の標的を探っている。

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    加えて、ロシアにとって不吉なのは、米国の軍需AI企業Palantir Technologies社がウクライナ支援に乗り出したことだ。同社の開発したAI”Maven”は、敵の標的とレーダー網、味方の手持ちの兵器と配置、性能等を計算して、最適の攻撃計画を策定。クリックひとつで、ドローンの群れやミサイルが飛び出す。これは今回イラン戦争の出鼻でも使われた。

    Palantir社の社長Alex Karpは、ウクライナ戦争当初の2022年6月にはキーウを訪問してゼレンスキーと会談しており、この時からロシア側の情報を収集し始めたのだろう。

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    Palantirにとって、これは慈善ではない。ビジネスになる。同社「製品」を実際の戦場で使用して、さまざまのデータを収集し、今後の開発に役立てる。フィンランドのICEYE社も、既に日本での売り込みを始めている。

    ウクライナもこのデータに目をつけて、自ら世界中で販売する体制を築きつつある。

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    ただ23日のCNNによると、イランもドローンのswarmをAIで操縦する技術を開発(あるいは中国などから入手)したようなので、これがロシアに渡れば、ウクライナがロシアのドローンswarmに襲われることになる。

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    追いつめられたプーチンと幼時のトラウマ

    以上、西側のメディアがあまり報じない事態が着々と進んでいて、プーチン・ロシアは重圧を感じているはずだ。9月中旬には総選挙があることもある。だから、核兵器でウクライナの唯一の海への出口オデッサ港を破壊するとか、逆にプーチンは国家評議会議長に転任して、新任大統領を後ろから操るシナリオとか、くらいしか思いつかない。

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    相次ぐドローンの襲来で、モスクワ市民は初めて、自分たちが戦争をしていることを認識したと言える。しかし彼らは祖国防衛に立ち上がるより、政府に停戦を求めるだろう。欧米はプーチンを独裁者と言うが、世論が彼に背いた時は、彼は捨てられる。

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    プーチンは随分、追い詰められた心境だろう。気を付けないといけないのは、彼は幼時に何かトラウマを負っている可能性があるということだ。2023年6月10日付のEconomistは面白い記事を掲載している。

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    プーチンの実の母親はVera Putinaと言って、5月31日ジョージアの寒村で97歳で亡くなった。彼女はロシアにいた頃、大学のパーティーで知り合った男と一夜過ごしてプーチンを懐妊。その後ジョージアの兵士と結婚して、ジョージアに移住。プーチンは一緒にいたが、継父にうとまれて9歳の時、Veraの両親のもとに厄介払いされた。ところがこの両親(祖父母)は病身だったので、プーチンを軍の寮に送り、その後Veraとの音信も途絶えた、というのだ。

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    これはまるで松本清張の小説、映画「砂の器」のような可哀そうなロマン。暗い思い出を抱えた男が名声を博すも、追いつめられて殺人を冒すという物語。プーチンが戦争犯罪を犯した廉で、国際刑事裁判所のお尋ね者となっていることと重なって、その一生にぐっと深みが加わる。

  • 日本歴史紀行1:壱岐島(いきのしま)

    (以前のブログに掲載したものの復刻も含めて、「日本歴史紀行」シリーズを固め打ちすることにした。それぞれの場所が関わる歴史の年代順に掲載していくつもり)

    壱岐島

                       2026年5月 河東哲夫

    この20年間、九州では方々の旧跡を行脚した。吉野が里から始まって高千穂、宇佐神宮、そして宗像大社、大宰府等々。ここは朝鮮半島から政治権力、文化が伝わってきた経路にあるし、九州王朝とか卑弥呼などの伝承もある、更に天孫降臨も九州だし、神武天皇、応神天皇ともども、九州から東征している。興味は尽きない。

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    で、壱岐島は対馬と博多の中間点にあるかなり大きな島。王がいたという記録もある。因みに博多駅からタクシーに乗って「壱岐島(イキシマ)行きフェリーが出る港へ」と言ったら、運転手はけげんな顔をしている。「イキシマ? そんな島、聞いたことねえよ。イキノシマなら知ってるけど」だと。だったら、観光案内にも「壱岐島」ではなく、「壱岐の島」と書いておいてくれればいいのに。

    歴史が古いところでは、地名の読み方も独特。壱岐島にあった一支国は「いき(壱岐)こく」、印通寺は「いんどうじ」、馬渡島は「まだらじま」という具合。

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    壱岐島には江戸時代、朝鮮通信使も寄った。500名ほどの大所帯だったから、食事の世話だけでもたいへんだったことだろう。因みに鎌倉時代の元寇では、九州への途上にある壱岐島の住民は大虐殺されている。古代の沖縄のような位置にあったのだ。

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    壱岐の島は高速船で1時間。地図を見ても全然イメージがわかず、「荒涼とした丘にぺんぺん草が生えていて、多数の小さな祠が風にさらされている」のだろうと思っていたが、さにあらず。実際は大きな島で、山や森や神社だらけ。地形は沖縄北部に類似している。幅も沖縄とほぼ同じ。元々ハワイのような火山島で、玄武岩でできている。

    そしてその中を走る道路がけっこう整備されているのも、沖縄と同じ。観光名所には必ずと言っていいほど、小奇麗なトイレが整備されている。沖縄と同じ建設利権があるのかもしれない。

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    島の観光名所を回るには、レンタカーかタクシーの貸し切りでもしないと無理。そのレンタカーが面白かった。今時、インターネットで予約ができず、東京から1カ月も前に電話で予約しなければならなかったのが一つ。そして、フェリーの着く港には事務所がない。係員が僕の名を書いた札を持って立っていて、船を降りた僕を見つけると港の駐車場に止めてあるレンタカーのところに連れて行ってくれ、そこで手続きをする。

    帰りは港の駐車場から会社に電話をすると、そのあたりに立っている係員が寄ってきて手続きをしてくれるという仕組み。ガソリン・スタンドは随分沢山あった。

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    (名所:猿岩の夕暮れ)

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    日本神話のふるさと

    この島では、日本初の飼い猫の骨が見つかっている。どうして、それが飼い猫だったことがわかったのかは知らないが、猫ブームの今、もっと使ったらいい観光資源。

    あと北部の方に月讃神社がある。つきよみは月の神で、古事記では天照大神の姉妹ということになっている。

    忍見宿弥(おしみのすくね)という人が487年、分霊して京都へ赴き、これで古神道(江戸時代にできた概念。仏教・儒教が混じっていない、古来のシャーマニズム的な神道)が中央に根づいたとされる。古事記が編纂されたのは712年だから、本来の神道がその前に壱岐の島から伝わったものだとして不思議はない。但し、その発祥は朝鮮半島、大陸の方にあるのだろうが。

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    いずれにしても、これは平安京への遷都794年のはるか前の話しであり、京都周辺に拠点を構えた秦氏が昔の氏神を壱岐から招請した可能性がある。今、月讃神社が置かれている松尾大社も、秦氏ゆかりの神宮である。

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    壱岐島にあったという一支国(いきのくに)は、魏志倭人伝に出てくる。朝鮮半島のあとは対馬。それの次に一大国(これが一支国のことだとされている)が出てきて、その先は奴の国。

    一支国の「首都」とされるのが原(はる)の辻遺跡で、記録には「三千戸あり、食料自給できず」と書いてある由。通商で生計を立てていたらしく、内陸部に船着き場の跡がある。この遺跡のある深江田原(ばる)は、かなり大きな平野で、中を流れる幡鉾川に、海から来た舟の船着き場の跡があるのだ。

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    遺跡の建築物(復元)は吉野が里のものに酷似している。規模は登呂とも並び称される。丘の上に壱岐市立・一支国博物館がある。市立にしては大規模な博物館で、黒川紀章の晩年の仕事である。

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     壱岐の島は何人か有名人を輩出している。戦後の電力業界再編を主導した松永安左エ門は、壱岐島・印通港の商家生まれである。筆者の家の近くの平林寺に墓地がある。

    ほかにレオパレス21の深山英也氏も壱岐島出身。面白いと言うか立派な例では、梅屋トクという女性がいる。彼女は壱岐島の士族の家に生まれ、請われて長崎の商家、梅屋夫妻の養女となって、そこのドラ養子・庄吉と夫婦になる。庄吉はひょんなことから映画で財を築き(日活映画の前身)、その資金で孫文の中華民国立国を助ける。トクは、孫文とその秘書宋慶齢の結婚も助けた。

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    軍艦「赤城」の大砲

    壱岐島の西岸には猿岩https://www.ikikankou.com/spot/10093と呼ばれる、猿そっくりの岩がある。その横に黒崎砲台跡がある。ここには1922年、ワシントン海軍軍縮条約で破棄された軍艦「赤城」の主砲が移設されていた。口径41センチ。弾丸重量1トン、射程30キロと言うから半端ない。米軍が沖縄戦の後、日本海を目指していれば、ここを通ったことだろうが、通らなかったから、大砲も使われることはなかった。

     

    壱岐島から船で博多に帰ると、博多の沖が多島海であることがよくわかる。自分が元寇だったら、一気に博多に突入するのはためらったことだろう。しかし構わずさらに進むと、大きな平地が見える。海岸には、今を時めくソフトバンクホークスのみずほPayPayドームが威容を見せる。昔、朝鮮半島で戦ったという伝説のある神功皇后も、凱旋した際、おなじ景色を見ていたのかどうか。

    (以上、「壱岐の風土と歴史」中上史行等を参照)

  • 軸のない今の世界:戦前の国際環境へ回帰する中での日本の振るまい方

    (これはメルマガ「文明の万華鏡」第169号からの転載です。序文の一部ですので、本格的論考ではありません)

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    今は米国の劣化で、「世界が千々に乱れ、何がどうなるかわからない時代」になったわけで、一人では力の足りない日本はどうしようもないと言われていますが、実は戦前の日本も同様の境遇にあって、いろいろ努力して、当初は何とかなりそうでありました。

    つまり日本は当時の超大国、英国と日英同盟を結んで日ロ戦争を乗り切りました。獲得した南満州での利権を守るため、つまり米国の進出を妨げるため、1907年から1916年にかけて、何と旧敵国のロシア帝国と四次にわたる協約を締結。満州には第三国の進出を許さないことを、明文でうたったわけです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84

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    第1次世界大戦では勃発当初から英国を筆頭とする「連合国」の一員として参戦。中国、南太平洋でのドイツの植民地を奪い、漁夫の利を得ました。英国の要請で、軍艦を地中海に派遣しはしましたが、被害は最小限に止めています。

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    第一次大戦後のアジアでは、英国の力が落ちたからでしょう。米国が大きく調整に乗り出しました。米国は1921年12月ワシントン会議で、四カ国条約(日米英仏)の調印に成功。四カ国が中心になって、太平洋の島々における相互の権利尊重と現状維持をはかることとなりました。

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    その頃の日本陸軍は、それまでの長州閥、つまり山県有朋(1922年死去)の隠然たる支配を脱し、陸軍士官学校で純粋培養された永田鉄山たち軍人が権力を握っていったわけですが、彼らは満州での利権維持等を国是とし、そのために「総力戦体制」の樹立を意図しました。自分の力を過信した、無謀な軍国主義、破滅への道です。

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    しかも、面白いことに日本は日ロ戦争以来、米欧、特に米国からの銀行融資に大きく依存していて、それでも日本陸軍の一部はお構いなしに米国との対決に向かって突き進んだわけです。そして、それを止めることは天皇にも、首相にもできない体制になっていたことが(法的・政治的に)、対米開戦という致命的な錯誤を生みました。

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    混乱期にある今、我々は戦前と同じような錯誤――周囲の情勢がもたらす危険を過小評価し、自分の力を過大評価する者が、突進するのを誰も止められない――が繰り返されないような手立てを考えなければいけません。

  • 日本経済の基本のキ:2011年以来、対ドルで半分になった日本円、日本経済

    アベノミクスはその第三の柱、つまり企業活動の活発化・投資の活発化に失敗したため――投資活発化の前提である消費促進が、企業が賃上げを渋ったために置きなかったのが主因――、金融緩和による円安という副作用が増幅される結果で終わっている。

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    そのため安倍政権前には1ドル80円弱にもなっていた円高が、現在はその半分の1ドル160円となって、インフレ要因となっているばかりか、「円キャリー・トレード」によって限りない円安スパイラルが示現、

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    これによってドルで計算した日本の力はこの15年で実に半減するという、1991年のソ連崩壊にも比肩するcatastropheになっている。ソ連と比べて経済の実体、生活水準はしっかりしているから、我々はのほほんとしているが。

  • 弟の仁(まさし)について

    (これは3月のメルマガ「文明の万華鏡」に書いたものです。彼のことは広く知っていただきたく、ここに掲載しておきます)

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    私のただ一人の弟、仁(まさし)が2月、71歳の若さで亡くなりました。コロナをきっかけに線維性肺炎を起こしたものと思います。

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    彼は宗教学者で、20年ほど前、「日本の夢信仰: 宗教学から見た日本精神史」(https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A2%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E2%80%95%E5%AE%97%E6%95%99%E5%AD%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%8F%B2-%E6%B2%B3%E6%9D%B1-%E4%BB%81/dp/4472402645/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=126CJRFSNY2VC&dib=eyJ2IjoiMSJ9.61WCJ0B0QEFH3O1eZg_OTA.qe-yi_ZtudG0TnzpKNLllNKuVcQtaUgh2hG2weANFoU&dib_tag=se&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A2%E4%BF%A1%E4%BB%B0&qid=1782694823&s=books&sprefix=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A2%E4%BF%A1%E4%BB%B0%2Cstripbooks%2C212&sr=1-1)でサントリー学芸賞を得ています(2002年 玉川大学出版部)。

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    研究のきめは細かく、そのくせ文章は平易・清澄でした。彼とはいつか兄弟名で、日本の歴史についての共著を出したいと思っていました。二人の母方の祖父は考古学者の後藤守一で、皇国史観の権化であるかに書かれたこともありますが、そんなことは全くなく、兄弟二人の矜持を支えてくれた存在であった、ということがあるからです。

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    6歳も年下の弟になくなられて、めっきり歳を意識しているところです。ただ、おりしも、多言語ブログのwww.japan-world-trends.comが復活し、今化粧中です。こちらを根城に、仁の魂も自分のうちに秘めて、日本・世界に向けて発言していこうと思います。

  • 5月初旬 プーチン老化・ロシア衰退の兆候

    (これは5月中旬、講談社の「現代ビジネス」に掲載した記事です。既に時がたっていますが、記録のためにアップしておきます)

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    近づいたロシアの世替わり―プーチンの弱化と老化

    河東哲夫

     国の指導部で何か重大なことが起きている時、市中に何かの気配がみなぎる時がある。特にロシアでは、トップが代わることは、国の利権構造、職場での上下関係、その他すべてが様変わりになることを意味するだけに、人々は身構えるのだ。筆者は1991年のソ連崩壊前後のロシアに勤務していて何度か、それを感じた。そのたびにいろいろ嗅ぎまわり、多くの場合、それは筆者の「気のせい」で終わったのだが、今遠くの東京からロシアを見ていてその気配を感じている。いやそれどころか、ロシアの識者、ブロガーたちも、今やあからさまなプーチン・政権批判を繰り返すようになっている。世替わり。日本の幕末の「ええじゃないか」を思わせる時代がやってきたのだ。

    気の抜けた戦勝記念日パレード

     5月9日、赤の広場では恒例の戦勝記念日パレードが行われた。1991年ソ連共産党の崩壊でメーデー、そして11月の革命記念日がなくなった後は、最大の祭日。最新鋭のミサイルや戦車の行進、居並ぶ外国の賓客等々、華やかだった。それが今年の記念日は、ウクライナ戦争に出払っているのか、全部破壊されたのか知らないが、大型兵器は遂にひとつも登場せず、連隊登場の繰り返しで終わった(上空では戦闘機数機がデモ飛行をしたが)。外国の賓客は5名ほど。ウズベキスタン、カザフスタン、ベラルーシと旧ソ連諸国の指導者が、青空の下で驚くほど老齢化した顔を並べるのみ。外国賓客どころか、ロシア自身の指導部がその雁首を並べることもない。まるで一網打尽に爆殺されるのを恐れたよう。

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     そして極めつけはプーチン大統領。いつもなら彼の発散する緊張感・権力のオーラは感じられず、テレビ・カメラはもう老人としか見えない彼の横顔を執拗に映し出す。傍らのミシュースチン首相、ボロージン下院議長、ヴァイノ大統領府長官は、晴れがましい式場で、何かを心配しているような顔を寄せ合っている(以上はYouTubeでロシア当局作成の録画による)。

    ――何かが変わった。権力がバラけ始めた、「主がいない」という直感。

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    「『弱いプーチン』はいらない」

     4月21日カーネギー財団のStanovaya女史は書いた。「プーチンは弱化した。彼を26年間支えてきたFSB(連邦保安庁)にとってさえ、『弱いプーチン』は要らない」という趣旨を。その通り。東西の時差が10時間に及ぶ大国を治めるには、自由とか民主主義とかの建前よりも、赤裸々な「力」が必要なのだ。

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     では、今年になってから、西側メディアがプーチンの弱化を頻繁に報じるようになったのはなぜだろう? 一つはもちろん、ウクライナ戦争での行き詰まりである。ロシア軍は、目標であるドネツ州の全面制圧を未だに達成できていない。ロシアのドローンは今やウクライナが米国企業とともに開発した攻撃ドローン等によって、そのかなりが撃墜されている。

     それどころか、ウクライナは欧州諸国からの資金と資材を受けて、様々のドローンを敏速に開発。これらはロシア領内深く進攻し、バルト海・黒海の原油・石油製品積み出し施設を執拗に攻撃して、積み出しを大きく阻害している。5月4日には、ウクライナのドローンが、モスクワ都心から10キロもない高層ビルに激突。4月28日にはプーチン自ら警備・警護担当諸省庁の長を集めて、警備強化に向けて檄を飛ばした直後のことだった。大統領が危険にさらされる機会を極力減らすためか、行事、会談の類は減少している。

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    プーチンが急に弱く見えるようになった原因で一番大きいのは、トランプ大統領がイラン戦争にかまけて、ロシアに「かまう」のを止めたことだろう。これでプーチンが世界の報道に登場する機会は激減し、ロシア、ウクライナは世界の辺境に位置づけられることとなった。トランプはこれまでウクライナに、停戦交渉を阻害しないために、ロシア領内攻撃度をできるだけ控えるよう働きかけていたが、これももうない。ウクライナはドローン攻撃でも暗殺でも(モスクワでは今年に入っても、軍幹部が数名暗殺されている)やりたい放題。

    プーチンはこれまで、「ロシアはウクライナで、実は米国と戦っているのだ」と言っては、ロシア人の愛国心をかき立ててきたが、その手はもう通じない。ロシアは、ウクライナと2人だけで戦場に立たされた。「弱いウクライナにさえ勝てない弱い男」プーチンと、一般のロシア人も考え始める。

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    連邦保安庁(FSB)による統制の行き過ぎ

     政治では、指導部が調子に乗って何かでやり過ぎると、反発が盛り上がって権力を失う、という例が多い。今のロシアはそれになりつつある。

     戦争に乗じて保安庁、検察は社会の統制を強めてきた。その中で、今回社会がプーチン支持を急速に止める(支持率が70%台から公称60%台に下落している)契機になったのは、インターネットの規制である。インターネットはロシア人の生活に浸透し、電子取り引きは一般化しているし、タクシーもGPSや呼び出しチャットを使いこなす。一番インパクトが大きいのは、交信の情報秘匿が可能なTelegramという国産アプリで、これは公務員、軍人も日常に使う定番となっている。これをFSBがウクライナのドローン対策と称して停止する構えを見せたから、プーチン批判が一気に表面化した。インフルエンサーとして高名なVictoria Bonyaはアイルランド人の富豪の夫と住むモナコからプーチンに、「人々はあなたを怖がっている。あなたと普通の人の間には高い壁がある。人々は、どうやったらロシアを去れるか検索している」と呼びかけ、多数のviewerを得ている。プーチンの孤立は、モナコからも見て取れるのだろう。

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     さらに以前は反政府運動家ナヴァルヌイを陥れ、告発までしていた政府寄り弁護士兼ブロガーのイリヤ・レメスローはSNSのTelegramで、「プーチンは辞任して、戦争犯罪人等として裁かれなければならない」と書き立て、直ちに精神病院に送られるも、1カ月後「出所」。今度は米国のワシントン・ポストとインタビューして(https://www.msn.com/en-us/news/world/pro-kremlin-lawyers-turn-against-putin-reveals-rift-in-russian-power-circles/ar-AA22uLaY?ocid=BingNewsSerp)、「今回の統制強化は連邦保安庁の第二局(警備局に相当)がやり過ぎたもので、大統領府で内政を司るキリエンコ第一次長などはそこまで統制を強めずとも、政治的な手段で事態を乗り切れると見ている」等、内情を露呈した。上層部が割れていることは、もはや明白である。

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    高金利で止まった所得増 

     前記のStanovaya女史は言った。「プーチンの魔法が解けた」と。王様が裸でもばらまいてきた金貨がにわかに消えて、人々の目には王様の本当の姿が見えてきた。

    ウクライナ戦争で、ロシアは空前の戦争景気を享受してきた。人々の実質可処分所得は毎年5~9%の増加を示したのである。ところがそれがインフレを惹起したため、2024年秋に中銀(ロシア銀行)は政策金利を21%に引き上げる。これで企業は投資や賃上げを控え、余った資金を銀行口座に寝かせて利子を稼ぐ挙に出た。他企業への決済や、賃金支払いも後回しにする(この面で、ロシアでは罰則が弱い)企業が続出している。賃上げの勢いは止まり、インフレに追い付かれようとしている。国民は経済の先行きを心配するようになり、支出を控えている。

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    そして折あしく、9月18~20日には議会下院の総選挙が迫ってきているのだ。ロシアの選挙は当局が開票を操作しているから意味がないという声もあるが、近年は操作の度合いが小さくなっている。それに2011年の12月には、開票結果に不満の市民が全国的に抗議集会を繰り返し、モスクワではクレムリンの川向こうの広場で推計10万人が抗議の声を上げている。今回は、選挙が大規模にボイコットされる可能性もある。

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    世替わりがあるのか

     1991年8月、モスクワでクーデターが起きた時、筆者は現場にいた。ソ連を何とか維持するために民族共和国の権限を大幅に強化しようとしたゴルバチョフに、KGB、軍、内務省(警察)、議会の指導者たちは、それではソ連が分裂してしまうとして、ぐるになってクーデターをしかけた。筆者の住むアパートの横を早朝、戦車隊がゴロゴロと都心に向かい、クリミアで休養中のゴルバチョフはそこに監禁された。

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     その日、モスクワで起きたことは忘れられない。市民の保守層に対する反感・不満が盛り上がり、彼らは公選で選んでいたエリツィン・ロシア社会主義共和国大統領が立てこもる同共和国議会の建物を何日も、夜を徹して守った(寒かったので、焚火をしていた)のである。

    「自由」、「民主主義」が流行語となり、クーデターが失敗に終わったあとは、エリツィンがソ連共産党を超法規的に解散に追いやったし、保守の権力基盤であるKGBは解体された(消滅したわけではなく、今の連邦保安庁他のいくつかの組織に分割された)。

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    今、プーチンに対する社会の反発は、実はKGBの後身であるFSBープーチンの唯一、かつ最大の権力基盤ーに向けられたものでもある。なぜそうなるかと言うと、内務省・警察が言ってみれば、体を使った犯罪を取り締まるのに対してFSBは、頭を使って権力を倒そうとする動きを取り締まるため、その要員は大卒の中でも選りすぐりのエリートで、これが国のあらゆる都市に支部を持ち、多くの大組織にエージェントを置いて、社会を見張っている。軍と比べて見ても、その社会把握度は断トツなのだ。だから、FSBが権力の基盤になる。

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    ここが弱体化した1990年代は、企業の民営化等でもカネと暴力が支配し、社会の秩序は崩壊した。だから国民の多くは、2000年にKGB出身のプーチンが大統領に就任した時は、安心したのである。

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    エリツィンがいない

     ロシアが本格的に変るには、FSBに変わってもらわないといけない。彼らは統制体質が強く、経済も指令で動くものと思い込んでいるから、社会・経済を窒息させがちなのだ。しかしFSBを改革するには、1991年のエリツィンのように、国民の輿望を一身に集める(その後まもなくして国民はエリツィンに呆れて離れたが)抵抗運動の「核」が必要だ。それが今回はない。ホドルコフスキー(亡命している元石油大資本家)等の反政府勢力は、国民の支持を得ていない。国民は1990年代、「自由」、「民主主義」を唱えるエリートが国有財産の分捕り競争を展開し、経済、そして彼らの生活を破壊したことをまだ覚えているからだ。

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    だから、プーチンが交替するにしても、それは当局のシナリオ通りに当面は展開することになるだろう。筆者が何度も言ってきたように、「国家評議会」(国の重要政策について関係諸省庁を指揮する権限を持つ)議長として院政を展開するのがその一つ。その場合、大統領に誰がなるかはそれほど重要ではなくなる。プーチンが任期途中で辞任した場合は、憲法の規定ではミシュースチン首相が大統領代行を務め、3カ月以内に大統領選挙をしなければならない。その時、現在の与党「ロシアの統一」は解体され、新たな与党が急遽作られるだろう。エリツィンがプーチンに後退した時は、「我が家ロシア」党に代わって、今の「統一ロシア」が形成されている。そしてその新たな与党の党首は、次の大統領の候補となり得る。

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    彼、あるいは彼女を盛り上げるために、何か目立ったことが仕組まれるだろう。1999年エリツィンがプーチンに大統領職を禅譲する前は、プーチンは首相としては異例の、戦争(内戦)の指揮を委ねられ、チェチェン共和国の独立運動を徹底的につぶすことで、支持率を異常に上げたのだ。

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    その彼、あるいは彼女が誰であるかは、何人か名が挙げられているが、いずれも根拠があるわけでもなく、まだわからない。けっこう、ダーク・ホースが突然台頭する例もある。ポピュリズムの時代、そこは日本と同じなのである。

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    クーデター? あるいは混乱?

     最近は、クーデターが起きると言う者が増えている。よく名が挙げられるのがショイグ国家安全保障会議書記。彼は以前プーチンに、後継がらみで遇せられていたのが、その後寵を失い、国防相から現在の職に実質降格されている。だからクーデター、というわけなのだろうが、彼は手勢を持っているまい。元国防相だと言っても、その前は緊急事態相を長年務め、軍に人脈を持っているわけではない。しかもモンゴル系のトゥーヴァ出身ということもあり、気が弱い面がある。誰かがクーデターを起こすよりも、FSBがプーチンに禅譲を迫れば十分なのだ。

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    それよりも、プーチンが急死する等して権力が空白化する時がこわい。その時、ロシアは混乱するだろう。どこまで混乱するかはわからない。日本での政局程度のものから内戦まで、可能性の幅は広い。

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    プーチンは何だったのか?

     プーチンの業績は大きい。エリツィン期の混乱を収拾した。地方の首長が大統領を名乗ったり、独自の憲法を採択する動きはもはやない。市場経済のための法制も整えられた。そして何より、運よく石油価格の上昇に助けられて、インフラや国民生活の向上が目覚ましい。以前はろくな道路がなかった極東地方でも、立派なハイウェーが整備されつつある。保健・教育等にも、予算の重点配分が行われてきた。

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     しかしプーチンも、ロシア経済の石油・天然ガス依存を克服することはできなかった。自前の製造業は、ロシアではもう望みはないだろう。国営企業でも資本規模を欠き、技術を西側に握られているからである。

    大企業のほとんどは、いざとなると政府資金による救済を期待するメンタリティーが抜けておらず、ウクライナ戦争を契機に、昔のソ連時代の、経済を国家が統制するやり方が一部で戻ってきている。検察などは民営企業の落ち度を見つけては国家に接収する動きを強め、そのことをプーチンに誇らしげに報告したりしている。

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     そしてプーチンは、その末期にウクライナで致命的な誤りを犯した。おそらくFSBの報告を信じて、ウクライナの占領は簡単だと思い込み、今の窮状を招いたのである。

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    もともと彼の外貌、そしてメンタリティーは普通のロシア人とは異なる。彼の治下、ロシア人の所得が飛躍的に向上したのは、原油価格の上昇に助けられたものである。筆者が教えたロシアの学生にとって、プーチンはどこか関係ない、遠くの世界の人物だった。タクシー運転手に言わせれば、「石油価格が高ければ、あんなことはプーチンでなくとも、誰でもできるさ」なのである。「生活が悪くないから、プーチンでいい」がプーチン支持の実体だと思うが、これをプーチンは自ら破壊したのである。

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    ロシアの冬は寒い。新設のハイウェーも、今はなめらかでも、数年後には氷でひび割れ、通行不能になるかもしれない。ロシアは、指導部主導で大規模な近代化投資をしては、それを放置して廃墟化させる歴史を繰り返してきた。26年に及んでいるプーチン時代も、ハイウェーとともに忘れられていく運命かもしれない。

  • インド東方ブータン・バングラデシュ・ミャンマーに挟まれた地域

    平賀英一郎(筆名)という人がいる。「吸血鬼伝承: 生ける死体の民俗学」や「温泉津誌」などを出した、現代の柳田国男とも言える人なのだが、今はインド、それもブータン、バングラデシュ、ミャンマーに挟まれた辺地で日本語を教えている。一種の仙人。

    この辺り、どんな感じのところなのか知られていないので、彼のレポートからいくつか抜き出して紹介する。

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    まず、ここでは牛が道を歩いていない。ヒンドゥーの要素が薄いということだ。中国人の老人がやっている小さな食堂の壁に、この人はクリスチャンなのだろう、イエスの画像が掛けられている。それに、中国式に(あるいはヒンドゥー式に)線香をあげていた。

    教会もあって、その横にイエス降誕の情景が人形を使ってしつらえてあるが、なぜかここのはいずれも馬小屋の前に池がある。

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    かくて文化はおおいに交錯しているが、食べ物では納豆に似た発酵食品やタケノコの漬物がある。基層は照葉樹林文化であるらしい。

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    授業ではパソコンでスライドを見せてするのが可能だし、電子黒板も来ることになっているのだが、どれもまだ絵に描いた餅。いろいろ体制を整えるのに、時間がかかる。

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    街には日本料理屋もどき、韓国料理屋もある。この地域では、多数の言語が乱れ飛ぶ。ある学生の母親は、多民族地区で商売をしているので、カシ語・ガロ語・英語に加え、アッサム語・ベンガル語・ヒンディー語にネパール語・ナガ語と8つもことばが話せるそうだ。日本人は英語一つにものすごく構えるが、人間は必要となれば何でもできる。

  • フランスのコマンド、ロシアのもぐりタンカーで中国人船長に出くわす

    (これは2025年10月書いたものの復刻です)

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    10月1日、EUはコペンハーゲンで臨時首脳会合を開いた。ウクライナ戦争がらみで、EUの国防体制強化を話し合った。ポーランド、デンマークなどに、ロシアのものと見られるドローンが飛来し、威嚇を繰り返しているからだ。

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    あたかもこの会合に合わせて、取り締まりを誇示しようとしたのか、フランスの特殊部隊がパラシュートで(?)、沖を航行していたロシアのshadow tanker(第三国船籍だがロシアの原油を輸送)に乗り込んだ。コペンハーゲン等、デンマークのいくつかの空港に出現したドローンを放ったのは、沖を通行していたロシアのshadow tankerに違いない、強制捜査して証拠を挙げよう、というわけだ。

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    だが、フランスの特殊部隊が船長室に闖入してみると、そこにいたのは中国人の船長と、中国人の航海長。ニーハオとボンジュールで話も通じなかったことだろう。ドローンも既に全部使い切ったか、見つからなかったらしい。ドローンもアラン・ドロンならぬ、「あら、ドロン」。

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    喜劇映画の一場面のよう。