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日本歴史紀行4:ユーラシアの中の飛鳥

(以下は以前アップした記事を、7月18日に全面改訂したもの)

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日本歴史紀行4:ユーラシアの中の飛鳥

             河東哲夫

飛鳥〔現代は明日香村の一部〕とその周辺は、レンタカーで何度も走り回った。一番思い出すのは、箸墓の横にある「日本一たい焼き屋https://nipponichitaiyaki.com/shop/21narasakurai.html」、そして松本清張がペルシャ文明との関係性を強調した須弥山などの石造り彫像、そして石舞台などなど。

この奈良盆地で見聞きし、調べたことを年代順にまとめておこうと思う。よく知られていることは省く。

ウズベキスタンで勤務した筆者には、飛鳥、奈良に残る、ユーラシア文明の跡がいくつも目についた。

飛鳥は京都よりも国際的なのである。

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目次

 神武以前の奈良盆地

   三輪氏

物部氏

   葛城氏

   漢(あや)氏

 久遠の彼方に引き伸ばされた日本の始原

   「神武天皇東征」は史実か? 

 崇神天皇と天照大神の東遷

   大和湖はあったのか?

 応神天皇つながり

 飛鳥の地理

   砂州と板蓋宮

   海柘榴市・纒向遺跡

   藤原宮跡

   藤原氏と多武峯の御破裂山

 ユーラシア文明の中の奈良日本

   薬師寺・真言宗(サンスクリット)など

藤の木古墳と金細工

平山郁夫画伯のシルクロード大壁画

 平城京

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神武以前の奈良盆地

「神武天皇の東征」が本当にあったかどうかは、怪しいことだ。それはあとで論ずるとして、神武、あるいは他の西からの勢力が大和政権を樹立するまでは、いくつもの勢力がこのあたりには群立していたようだ。それは葛城氏、三輪氏といった連中で、いくつかの部族は朝鮮半島との関係を明確に残していた。

地元の青垣出版が出版した、面白いシリーズ本がある。それは、漢(あや)氏や三輪氏や物部氏や蘇我氏の氏素性を克明に追ったもので、主たる著者は宝賀寿男(ほうがとしお)氏。大蔵省のキャリア出身という珍しい人物である。学界のしがらみ、タブーからは全く離れた立場から、そして元官僚の徹底した調査手腕を発揮して、目からうろこの体験をさせてくれる。

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三輪氏:

三輪氏についてはあまり研究が進んでいないようだが、宝賀寿男氏によれば、三輪氏は朝鮮半島から九州、出雲を経て紀元2世紀頃大和にやってきた。源流は中国大陸江南の越種族(タイ人)で、そこから竜蛇信仰を持ち込んだ由。

三輪一族は、実在が確認される(と言われる)天皇としては初代の、崇神天皇(日本書紀では第10代。在位推定紀元前97~紀元前29年)よりも以前から、この地にいたに違いない。と言うのは、日本書紀などによれば、崇神天皇(大和以外の地から来た人物で、これが神武天皇に相当すると見る人もいる)が即位して以降、疫病などが続いたため、同天皇は天照大神を宮廷の外に出し(最終的には伊勢に落ち着く)、地元の大物主神を崇めることとした。彼は大神(おおみわ)神社を設け、三輪氏を大神主としたのである。

この大物主は出雲の大国主とよく関連付けられるし、三輪氏も出雲との関連を指摘される。宝賀氏も、三輪一族は紀元2世紀頃、出雲から到来したと断じている。大和の三輪には、「出雲屋敷」という地名がある。出雲屋敷とは大国主を祭る一種の神社で、日本の諸方にある。三輪の「出雲屋敷」は、神武天皇の皇后の実家があったとされるところである。

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三輪の近くの大田遺跡では、出雲の陶器が多数発掘されている。そして銅鐸、埴輪も大和、そして北九州、出雲(島根の)で多出するのだが、銅鐸を出雲から大和にもたらしたのは三輪家だとされる。三輪家は、その後何度も朝鮮に出征、あるいは派遣されている。朝鮮半島に親族がいたのかもしれない。

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物部氏:

三輪家から少しあと、出雲から物部氏がやってきたのだ、とする学者たちがいる。物部氏は鍛冶・兵器製造技術に優れ、宝賀氏等によれば大和朝廷の「力の機関」、つまり軍、警察を握る勢力だった。その証拠は、天理市にある石上(いそのかみ)神宮にある。ここは物部氏の本拠とされ、祭神は剣の神。

大神神社に匹敵するような広壮な神社で、境内の出雲建雄神社にはスサノオの命がヤマタノオロチを殺すのに使ったという、天十握剣が保存されている。

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この神社には以前は実に千単位の剣が保管されていたそうで、大和朝廷の武器庫のような存在だったのだろう。そのためか、ここと飛鳥の間には運河が通じていた跡がある。斉明天皇が自分の宮殿を作る石材を運ぶためで、そのために彼女は世間から批判されたとも言われる。

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葛城氏

飛鳥周辺の有力豪族としては他に、葛城氏がいる。崇神天皇よりは新しい勢力のようだが、史料が十分ではない。5世紀初めに比定されている応神天皇(第15代)の後見役、武内宿禰が始祖だとされる時もある。

後の雄略天皇の時代、葛城氏は朝廷に逆らい、葛城山麓にあった本拠地を焼き討ちされている(その跡は今に残る)。もっとも葛城氏はその後も勢力を維持したようなので、武烈天皇で男系が途絶えたあと外様の継体天皇が何年も大和に入れなかったのも、葛城氏など地元勢力を抑えきれていなかったためかもしれない。

葛城氏はその後、蘇我氏が台頭するとその中に吸収されてしまったようだ。

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漢(あや)氏

漢(あや)氏は百済から、応神天皇に従って渡来したとされ、飛鳥の南西、桧隈のあたりに土地をもらって集住した。1970年代に発掘され、中から極彩色の壁画が出てきて話題をさらった高松塚古墳、そしてそれよりわずかに年代が古いキトラ古墳(発掘されたのは1980年)は、いずれもこの地域にある。

そして双方の棺室の壁に描かれた四神、つまり青竜、朱雀、白虎、玄武(カメヘビ)は、中国の陰陽道に由来するものである。高松塚古墳で描かれている宮廷の人達の服装も中国風のものである。惜しいことにこの二つの古墳とも盗掘されていて、副葬品は何も残っていない。なおキトラの埋葬者は、百済王昌成か高市皇子と想定されている。鑑定の結果、虫歯が多い。そして右側犬歯が、いつも何かをくわえていたかのように、へこんでいるそうだ。

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この漢氏は武力も備えていて、時の権力者に利用されている。例えば後世のし上がった蘇我入鹿は、漢氏の直駒という若者をたぶらかして、自分の娘かつ崇峻天皇の女官であった女性に惚れ込ませ(異説あり)、崇峻天皇を殺させてしまう。そして口封じのために直駒をすぐ殺すのだ。漢氏はその後、蘇我氏から中臣=藤原氏にうまく乗り換えて、後世には初代の征夷大将軍、坂上田村麻呂となっている。

 

久遠の彼方に引き伸ばされた日本の始原 

つまり、いろいろな勢力が大和盆地に入り込んでいた中で、「神武天皇の東征」は行われている。これは、既に住んでいた人たちにとって見れば、武装勢力の侵入に他ならない。「その武装勢力が天皇家で、以来万世一系の支配を貫いた。それが「日本」なのだ」。というのが、日本書紀が奉ずる日本正史。

しかし日本書紀、特に大和朝廷の始原の頃については、「え?」と思わせる記述が多い。大体、この時期の天皇はいやに長寿なのだ。神武天皇は127歳、第11代の垂仁天皇は140歳で崩御、第6代の孝安天皇は102年間天皇の座にあり、第14代の仲哀天皇の皇后だった神功皇后は天皇の死後70年間も摂政を務めたのだが、仲哀天皇との間に出来たとされる第15代の応神天皇は、母の死直後、70歳程度で即位している。崩御は111歳の時で、それでも41年間統治している。

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これは、日本の始原をことさら早いものに見せるための操作だったと思う。当時、中国周辺の諸国は唐に使節を送り、史料などの証拠を提示して、自国を「格付け」してもらう習わしだったから、日本書紀を編纂した朝廷は大いに頑張ったのだろう。神武天皇即位とされる紀元前660年頃は、中国では春秋時代。秦が地域を大きく統一したのは紀元前221年だから、神武天皇はこれよりはるかに老舗になる。

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因みに、日本が第一次遣唐使を送ったのは、まだ飛鳥時代の紀元630年のことである。そして、当時の日本の統一度合い、政府の機構は唐にまったく及ばない。本当に神武天皇が紀元前660年に建国していたなら、遣唐使派遣までの1300年の間、何をやっていたのかと思う。

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なお日本書紀、古事記などは諸部族の神々や、滅ぼし滅ぼされた諸豪族を関連づけて、上下関係をはっきりさせた、一種の台帳のような意味も持っているのではないかと思われる。

いずれにしても、無数の古墳、陵は未だ発掘されていないので、我々は日本の故事来歴をちゃんと知ることができないでいる。だから、歴史学者ではない僕ができるのは、旅行して、目についた歴史の断片を記録に残しておくくらいのことだ。でもその方が、面白い。

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「神武天皇東征」は史実か?

でまず、神武天皇の軍勢は大阪湾から大和川をつたわって奈良盆地に入ろうとしたが、地元の豪族に阻まれ、そのため紀伊半島をぐるりと回って熊野川河口にまで至り、ここから北上を開始して奈良盆地に駆け下った、という、日本書紀の記述を検証してみようと思った。つまり、木々の生い茂った紀伊半島の山間部を、かなりの大軍が数日間も行軍することは可能なのかどうか。そこを実感で確かめてみようと思ったのだ。

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その前にまず、1000名はいたであろう大軍勢が小舟に分乗して、潮の速い熊野灘を渡ることが可能かどうかという問いがある。そこは、「とにかくできたのだ」ということにしよう。紀州海岸の漁民兼海賊勢力が、助けてくれた可能性もある。

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しかし熊野本宮のある田辺から飛鳥までは130キロ以上、山道も多いので、本当に行軍できたのだろうか。確かめてやろうと思って、現代の国道(飛鳥から南方に抜けるルートは川沿いに二つある)を少し車で走ってみた。

その結果感じたのは、このあたりはそれほど険しい山々でもなく、山あいを縫っていけば何とか行軍できるだろうし、当時でも踏み固めた道はあったのだろう、ということ。

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そして面白いのは、この山中を「神武天皇」軍を道案内した、八咫烏を祀った「八咫烏神社」が、行軍想定途上の宇陀市にあることだ(実際に行ってみたが閑散としていた)。この神社の創建は705年頃とされる。「神武東征」との間は1000年を超える。なぜ突然、カラスを思い出したのかはわからない。

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この神社の案内板にも書いてあるが、「八咫烏」とは当時の地元の豪族、武角身命のこと。黒い装束を来て、木々を伝って「神武」軍を導いた(忍者の先祖か?)からカラスというのだそうだ。当時、奈良盆地を治めていた豪族達には全く想定外の、南の山地から神武天皇あるいは崇神天皇の軍勢(千名もいなかっただろうが、最新式の鉄製剣で武装していたので無敵だったのでは?)が飛び出てきた感じだったのだろう。

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奈良盆地を平定した神武天皇は、樫原に居を構えて盆地を治めたことになっている。だから広壮な樫原神宮があるのだが、これは明治になって薩長政府が天皇に箔付けをするために、初めて建立したものだ。

脇には「神武天皇陵」があって、宮内庁管理となっているが、これは誰のものかわからない小さな陵を、江戸時代になって拡張したものとされる。神武天皇陵があったということは、古代の史料にもあるのだが、中世には多くの天皇陵が放置されて、神武天皇陵がどれなのかもわからなくなっていたのである。

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崇神天皇と天照大神の東遷

神武天皇の即位は紀元前660年ということになっている。以後、それなりの事績が初めて記録に残っているのは第10代の崇神天皇。彼は、初めて土地の戸口調査をして、徴税することを始めた天皇とされる。つまり国家の形をしたものを始めて整えたことになる。即位は紀元前97年だから、それまでの天皇は平均62年間も位にあったことになる。

熊野川中流にある熊野本宮は崇神天皇が建立したとされるのだが、これは出雲国造家が崇拝していた意宇の熊野大社と関係するかもしれない。つまり初めて東征をしたのは神武ではなく崇神天皇であり、出雲からやってきた後者が熊野信仰を自身の征服路に持ち込んだ、ということになる。

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その崇神天皇の事績の中で僕が興味を持っているのは、彼が「疫病を鎮めるために」、天皇家の神であるはずの天照大神を宮廷の外に出してしまい、代わって夢のお告げに従って、(三輪氏の始祖)大田田根子を登用して大物主大神(大神神社)の祭主としたことで疫病が鎮まったとされる件である。

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天照大神は宮廷を出されると一時、大神神社の近くの檜原神社に仮宿り、そこから伊勢に移っていったそうだ。檜原神社は奈良盆地東方の山腹にあって、これのすぐ下の池の堤から見た、霞たなびく大和平野の光景は悠久を思わせる。その後知られぬ間に天照大神は宮中に帰還し、賢所に安置されている。

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そして崇神天皇の陵は、飛鳥からかなり離れた天理市にある。かなり大きな、それらしい雰囲気のある陵墓だが、これが本当に崇神天皇のものであるかはわからないそうだ。

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大和湖はあったのか?

奈良盆地の東端を南北に通る「山辺の道」から眼下の盆地を眺めると、その真っ平らな有様は、ここは昔、湖だったのでは、と思わせる。ここには周囲の山から多くの川が流入しているが、海への出口は盆地西端の山脈の真ん中にある切れ目しかない。ここを大和川が流れている。ということは、この山脈の切れ目を水が越えたところまでは、盆地に湖水があった可能性がある、ということだ。

しかし、ここに大きな湖水があったことを思わせる和歌は、万葉集にもない。でも、もしあったとすると、斑鳩宮に居住していた聖徳太子は、毎日舟で宮廷に出仕することが可能となる。斑鳩と飛鳥の間の距離は30キロもあって、馬で行ったら往復に膨大な時間がかかってしまう。でなければ、聖徳太子は実在ではなかったか、飛鳥に定住していたかのどちらかだ。

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応神天皇つながり

日本書紀で事績が記されている初期の天皇では、第10代崇神天皇に次いで第15代応神天皇が目立っている。崇神天皇崩御は推定で紀元前68年、応神天皇即位は推定で紀元270年で、その間は340年間弱。但し応神天皇の直前は、その母である神功皇后が実に70年間弱、摂政の座にあったことになっている。

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この70年間は、謎なのだ。日本書紀によれば、第14代仲哀天皇は神功皇后を伴って九州に南下。熊襲平定を策するが現地で急死(推定、西暦200年)。神功皇后は熊襲ではなく朝鮮半島に向かって、三韓を征伐したことになっている。同種の記述は朝鮮側の史書にはなく、何度も繰り返された日本からの武力侵入を撃退した記事しかない。

また神功皇后は仲哀天皇との子を腹に宿したまま朝鮮に数か月滞在し、九州に帰還してから誉田別尊(後の応神天皇)を産んだことになっているのだが、その後譽田の摂政として実に70年間も執政するのだ。

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これは、いかにも不自然。譽田と応神天皇は実は別の人物で、仲哀天皇崩御後は大和朝廷と九州の勢力と朝鮮半島の百済、新羅との間で三つ巴、四つ巴の混乱状態が続き、それを九州か任那方面出身の応神天皇が手勢を率いて「東征」。大和朝廷を征した、と見るのが自然なような気がする。

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応神天皇勢は飛鳥方面には入り込まず、九州・朝鮮方面との連絡に至便の大和川河口、つまり河内に拠点を構えて河内政権を樹立した。以後、第25代の武烈天皇(西暦571年崩御)に至るまでが応神天皇の血筋で、この「応神王朝」は301年続いたことになる。

応神天皇以後、日本は中国の史書にほとんど記述がない。「倭五王」の時代なのだが、中国は分裂していて、日本と正式に交流できる存在がなかっただろうし、日本国内の権力もまだ流動的な状態にあったのだろう。武烈崩御後20年間の実質的な空白があって、外部から継体天皇が迎えられる。継体天皇の血筋は現代の天皇家に至る。継体以降、権力の所在は再び飛鳥の方に戻ったようだ。継体天皇以降の事績は、飛鳥を中心に展開されている。

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なお、応神天皇陵は飛鳥よりも大阪に近い、曳野にあるのだが、これは仁徳天皇陵に次ぐ大きさの前方後円墳。しかしあまり整備されていなくて車を止めて参拝することもできなかった。

面白いのは傍らに、誉田(こんだ)八幡宮があることだ。この源氏の祭神とされる神社は、実は応神天皇が朝鮮半島から持ち込んだことになっていて、日本での総社は九州の宇佐にある。誉田も宇佐も建立は欽明天皇によるものとされており、共に最も古い八幡宮。欽明天皇は、八幡宮を建立して応神天皇を祀ることで、任那を取り返したいと願ったのだそうだ。応神天皇と朝鮮半島の間の強いきずながここにうかがわれる。

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飛鳥の地理

飛鳥は山と平地の境目、南方の山地から流れ出る2つの川に挟まれたところにある(もっとも、宮本誠氏の「奈良盆地の水土史」によると、このあたりの河川は何度も付け替えがされたそうなので、現在の姿を古代にそのまま引き写して考えるのは危険なのだ)。

飛鳥というのは、韓国語アスカにすると、砂州=スカに冠詞のアがついたものだという説があるが、そうだったとしても、それは現代の韓国語ではない。古代朝鮮半島で使われていた、いずれかの言語に由来することは考えられるが。

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砂州と板蓋宮

いずれにしても飛鳥は、本当に砂州みたいなところに作られている。蘇我入鹿が殺された(645年)板蓋宮(いたぶきのみや)の跡は、田んぼの中にある。これは柱は掘っ立て、屋根は文字通り板葺きで、それより以前にできた近くの飛鳥寺が瓦葺だったのに比べて格落ちだ。飛鳥寺は蘇我馬子が仏教振興のために朝鮮半島の職人を呼んで作らせたが、その息子の蘇我蝦夷が板葺宮を建てたそうなので、何とかならなかったものかと思う。

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607年推古天皇(聖徳太子が摂政)が派遣した遣隋使が帰朝するのにくっついてやってきた、隋皇帝からの答礼の使節・裴世清は、大阪湾から大和川に(そのあたりに後世、今の仁徳天皇陵が威容を見せてそびえることになる)舟を乗り入れて、奈良盆地を東西に突っ切り、上流の初瀬川の海石榴市(つばいち)で舟を下り、迎えの馬で飛鳥に向かったことになっている。

ここは飛鳥にとっての横浜のような場所で、百済がつかわした仏教伝来の使節もここで552年、下船している。だから川岸には「佛教伝来之地」碑が立っている。当時、川港のようなところだったと言うが、今の東京で言えば石神井川の下流程度の河川である。

それはいいのだが、使節が馬に乗ってとことこ行くと、あまり何もないところに板葺きの掘っ立て家屋が立っていて、「ここが宮殿でござる」と言われた中国や朝鮮からの使節は唖然としたことだろう。

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海柘榴市・纒向遺跡

大神神社、三輪のあたりには、海柘榴市(つばいち)という日本最古の市場があったそうだ。ここは大和川の上流で、大阪湾につながっている。そして東西南北に通ずる交通路もここを通っている。

そしてこの近くには纒向(まきむく)遺跡がある。ここはほとんどが発掘されていないが、同じく東西南北の交通結節点で、3世紀に形成されたらしい。出土品からは尾張のものが多く出ており、経済圏の一体性を示す。また纒向遺跡の近くには箸墓もあり、これを卑弥呼の墓、纒向を邪馬台国のあったところとする説がある。

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藤原宮跡

だから、板蓋きの宮(焼失している)では見すぼらしいと思ったのだろう。朝廷はこの頃、立派な都を作ることに情熱を燃やす。新羅・唐の連合海軍に大敗を喫した白村江の戦いの後、日本を二つに分ける内戦の「壬申の乱」を制して、帝位についた天武天皇が志したのが、後の平城京を上回る規模と言われる「藤原京」の建設だった。現地の案内板だと、これが694年に完成する前に天武天皇は崩御、完成したのは彼の未亡人である持統天皇の時代。従って、藤原京は「二人の愛の産物」なのだそうだ。

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701年大宝律令が発布されて、日本が律令国家としての体裁を整えたのは、この藤原京の時代=白鳳時代。藤原京は、明治維新の時の東京に似た地位にあったようだ。ここは今、だだっ広い草地になっていて、ところどころに大極殿の敷地跡などが残っている。

それにしても、平地のど真ん中の無防備なところ。そして川が隣接しているから洪水にやられたことだろう。火災もあった。宮として使われたのは僅か15年余。まだ工事も終わっていないのに、奈良への遷都が宣命されている。

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藤原氏と多武峯の御破裂山

既に述べたように、天皇周辺では数々の土豪が盛衰を繰り返している。三輪氏、物部氏、蘇我氏など。そのしんがりとして、藤原氏の台頭がある。中大兄の皇子に中臣(藤原)鎌足が取り入って以降(もともとは天皇家の祭祀担当だったとされる。一種のシャーマン役)、その息子の不比等が飛鳥朝最後の頃の斉明天皇の時に側近として台頭。以後天皇家の外戚として並びない権力を誇る。後世は近衛家、九条家などの五摂家に枝分かれしている。太平洋戦争の前に総理大臣を務めた近衛文麿氏はその末裔だそうで、息が長い。

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中臣家は今の茨城、千葉北部の香取神宮、鹿島神宮にも深く関与する、この地方の出自だとする説もある。確かに両神宮は藤原氏と深く結びつけられていて、奈良の春日大社(藤原氏の氏社)は創建時、鹿島神宮から武甕槌神、香取神宮から経津主命を勧請して、藤原家の祖神である天児屋根命、比売神とともに春日四神としている。しかもその中では武甕槌神が第一殿に祭られている。

中臣家はもともとは朝廷の祭祀担当で、全国の神社を掌握。宮司などの人事も差配した。鹿島・香取両神宮は、北方の蝦夷との対立の前線にあったから、中臣・藤原家も両宮をそれだけ重視したのだろう。しかしそれでも、中臣(藤原)家が茨城方面出身であることを証する史料はないようだ。

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で、藤原鎌足の墓があるという、多武峯に行った。

645年、宮廷の祭祀担当、中臣鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)と、飛鳥のすぐ南、多武峯(とうがみね)の中腹にあったサッカー・グラウンドと言うか蹴鞠場に赴いて、蹴鞠をしながら蘇我入鹿暗殺計画を練った、とされる。皇位継承者である中大兄皇子にとって蘇我氏は脅威だったし、その蘇我氏が仏教普及を自分の権力拡大の道具にしていることは、全国の神社を差配する中臣にとって脅威だったのだろう。

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この蹴鞠の縁によるのだろう。藤原(中臣)鎌足の墓は多武峯の頂上にあって、国家の危機が訪れると、その山頂が裂け、鳴動して光を発する、とされるようになった。これではまるで火山。奈良に火山などあるものかと思って調べると、さにあらず。

奈良盆地は瀬戸内から伸びる火山帯の上にあって、死火山もある(畝傍山、耳成山等)。日本書紀にも何度も「ないふる」として、地震があったことが記されている。例えば599年(推古7年)の地震では家屋が多数倒壊したと記されている。

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だから多武峯も火山なのかもしれない、でも火口に墓を作る人はいるのかと思って、好奇心丸出しで登ってみた。

これは、ふもとの談山(たんざん)神社から500米急坂を上るのだ。途中ちょうど半分のところに、「大化改新御相談所」あるいは「御相談所」という立札がある。まあ、「策謀」とか「陰謀」とか書けないのだろうが、「御相談所」では迫力がない。ここは鬱蒼とした山の中、直径20米もない円形の台地があって、ここで二人は蹴鞠をしたことになっている。

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多分、「ちょっと蹴鞠してくるからな」とでも言って、絶対盗み聞きされないこの山腹で謀議をこらしたのだろう。蹴鞠が外れれば、ころころ転がり落ちそうな狭い場所なのだが、蹴鞠というのは反発力がなくて、蹴ると、紙風船に似た感触なのだそうだ。

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で、そこから更に250米上ると山頂になる。小さな祠があり、その後方にはこんもりとした土の山がある。多分これが陵なのだろう。横の案内板には、「ここが藤原鎌足の墓所で国家不祥事には鳴動」とあるが、この土の山は溶岩丘とは見えない。但し記録では、1600年頃までは鳴動していたそうだ。

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今回の登山はちょうど、国会が森友・加計学園問題という「国家不祥事」で揺れている2017年だったが、ここ多武峯の「御破裂山」はしんと静まり返っていた。多分、鳴動するほどのこともない、スケールの小さな不祥事ということなのだろう。

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なお、藤原鎌足の陵とされる場所は他にもある。そして東京の新宿には多武峯内藤神社というのがあり、祭神は藤原鎌足となっている。もともとは、江戸時代の内藤家屋敷の内部にあったもので、内藤家は藤原家の末裔と言われる。ここに「内藤の新しい宿場」ができ、新宿となった。つまり新宿も藤原鎌足からみなのだ。

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ユーラシア文明の中の奈良日本

飛鳥、奈良は、中国文化の影響一色の京都に比べると、朝鮮、ペルシャ、ソグド、インドとその関係先は多岐にわたる。それらユーラシア諸地域の文明、文化は金、銀の鉱石の露頭のように、奈良の旧跡のそこかしこに露出している。

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薬師寺・真言宗(サンスクリット)など

薬師寺の薬師如来の台座には、ギリシャ風のぶどう模様、ペルシャ風の唐草模様、そしてインド・中国の神々が浮き彫りになっている。奈良はユーラシア文明の一部だったのだ。そしてそれに万葉集の歌の数々、特に恋歌を重ねると、ロマンがうねり始める。

飛鳥時代の歴史を考えると、日本内部の細かいことについての論争にどんどん押し込められて息が詰まる思いがするのだが、この時代、中国の五胡十六国・南北朝時代の混乱を経て隋、唐という大国が勃興していくダイナミックな国際環境の中で、物部、蘇我、藤原の死闘、大化の改新、そして白村江での敗戦、壬申の乱が展開されたわけで、もっと学際的な議論をしていくべきなのだ。

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で、この地域に、中国、そして中国を越えた西域からユーラシア、オリエントの文明が流入した痕跡を、他にも追ってみる。

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近場から行くと、東大寺の二月堂のお水とりの儀式(3月)。そこでは日本海岸、小浜市にある神社の井戸から水が地下を通って届くことになっている。小浜は日本海の対岸の大陸との交流の拠点の一つ。

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薬師寺だか新薬師寺だったかわからなくなってしまったが、薬師如来を守る十二神将はもともとインド出身で、その像には、basara将軍とかkubira将軍というふうにローマ字の名が書いてあった。これはサンスクリット語。バサラ(婆娑羅)は鎌倉時代末期(1300年頃)から跋扈するようになった、ならず者の武士たちで、派手なかっこうで街を練り歩いては他人の妻をかっさらうなど悪さをしていた者たちのことも意味する。純日本的な現象と思っていたら、サンスクリット語なのだ。

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サンスクリット語と言えば、仏教の「真言」とはサンスクリット語で唱えるものなのだそうだ。中国ではこれを「呪」と呼んでいた。真理の言葉を呪文のように、秘儀として使っている。空海(中世の高僧)の持ち帰った真言宗以前から、そうだったらしい。今でも、卒塔婆に使うあの意味のわからない梵字はサンスクリット語のことだ。真言宗の僧侶は今でも経を当時のサンスクリット語の発音で読み下すらしい。道理で聞いても何もわからないはずだ。

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奈良国立博物館には、熱帯アジアからやってきた栴檀の香木が陳列されている。そしてこれにはペルシャ文字、ソグド文字の刻印があるのだそうだ。漢字の刻印はないようなので、するとペルシャ人あたりが船で直接日本に持ってきたものか? 飛鳥の石造物にはペルシャ文明の影響があると言う者もいるので、ペルシャ人が当時の日本に来ていたとしても不思議ではない。そのあたりは松本清張の「火の路」で、面白い仮説の数々が提示されている。

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そして「かぐや姫」は日本の伝説の中で一つしかない異質な筋で、実は当時日本に漂着したペルシャ人貴族が置いていったプリンセスだったのだ、という仮説も提示されている。孫崎紀子女史の書いた「かぐや姫誕生の謎」がそれだ。近くの葛城郡広陵町は、「かぐや姫の里」を名乗り、ゆかりの竹林もそこにはある。

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もう火事で燃えてしまった法隆寺金堂の壁画の仏像の顔は、日本人のものではない。サマルカンドにあるアフロシアブ壁画の顔と、驚くほど似ている。東大寺の仁王像なども、日本人、中国人より中央アジアのごっつい男たちによほど似ているのである。

奈良から平安時代にかけての日本の美人画は顔がふっくらした女性をイメージしているが、このやや日本人離れした顔は唐の美人画のそれにそっくりなのだ。

そして平城京朱雀門の朱雀とは、フェニックスとかロシアの「火の鳥」に似た鳥のことだ。中国の意匠では、よく竜と対で使われる。竜とは蛇のことで、このカップルはユーラシア全域、そして遠くメキシコにまで広がる蛇と鳥崇拝の表れなのだ。

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藤の木古墳と金細工

飛鳥から20キロ以上離れた斑鳩(聖徳太子の居所、今の法隆寺のあるところ)で発掘された藤の木古墳は、盗掘されていなかったために、金銀の絢爛豪華な副葬品が山と出てきて、現地に陳列されている。精巧な細工だ。

金の細工と言うとすぐ、ユーラシアのスキタイ文明を思い起こすのだが、まさにその系統で、一つの冠の意匠はアフガニスタンで発掘された昔の冠と共通しているそうだ。そしてこれらの副葬品の多くは馬具(但し装飾用)である。それが江上波夫氏の言う「騎馬民族」が当時既に日本で定着していたことを示すものかは、わからない。

因みに、この古墳の石棺は今でいうシングルベッドくらいの小さなものだが、中には2体の成人男性(一体は女性とする説もある)の骨が寄り添って横たわっていたそうだ。これが今流行りのLGBTだったかどうかは知らないが、測定された死亡年齢から言って、二人は587年頃、物部と蘇我の争いに巻き込まれて戦死した穴穂部皇子と宅部皇子であって不思議でないそうだ。穴穂部皇子の母親は蘇我氏だが、物部に嫁入りしていて争いに巻き込まれ、息子の皇子も蘇我氏に殺されたのだ。しかしそうなる前は、穴穂部皇子はセレブリティーのプリンスとして、遠くオリエントから取り寄せた金ぴかの馬具を見せびらかしつつ街道を闊歩するプレーボーイであったかもしれない。

飛鳥時代、仏教・仏寺は蘇我、神社は藤原と分かれていた両者だが、奈良時代、藤原氏の力が大きくなったせいか、双方は混然一体化し、神仏混淆と言われる状態になった。東大寺では東北の鬼門を八幡宮が守っているし、藤原氏の氏社である春日大社には「社僧」がおり、読経もしていた。談山神社のように、妙楽寺として創建されていながら、その後は神社も併設され、明治の廃仏毀釈で正式に談山神社となった例もある。

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平山郁夫画伯のシルクロード大壁画

薬師寺には、2009年に亡くなった平山郁夫画伯の壁画がある。彼は生前、これは私のライフワークですというようなことを言っておられたから、今回見に行った。

実のところ、彼がよく描いたシルクロードについてのやや類型的な作品かと思って行ったのだが、シルクロードはシルクロードでも、彼のいつもの謹直さをかなぐり捨てたような清新さ、大胆さで、僕はなぜか泣ける思いだった。ああ、この人はここで全力を出している。思い残すことはないだろう。

須弥山と題したヒマラヤの山々が、壁画の中央に鎮座する。全長49米の壁画が周囲を囲む。そして天井は、シルクロード盛んなりし頃珍重されたアフガニスタンのラピスラズリ(現在でも宝石として名高い)の深い々々群青色に金の星を散りばめた夜空の仕様で、吸い込まれるような幻想性を湛えていた。

こうして、飛鳥の「ユーラシア性」は、現代の平山画伯によって止揚されたのだ。

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平城京

飛鳥方面から奈良駅に戻り、近鉄奈良線で西方の大阪方面に向かうと、西大寺駅の手前に、平城京跡歴史公園が広がっている。更地の向こうに、復元なった(と言っても、絵図も残っていなかったから、ただの想像の産物だが)第一次大極殿が真っ赤にそびえている。確かに大きい。

そしてその反対側、はるか向こうに朱雀門が立っているのだが、この1.5キロ四方ほどの土地全部が内裏だったというからたまげた。一般人が住む右京、左京はその数倍にわたって広がり(4キロ四方)、真ん中の大通り朱雀大路のあった辺りには今、「洋服の青山」が店を出している。

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この平城京は、今鉄道で二駅以上も向こうの東大寺まで続いていたことになっているのだが、多分当時はまだ譲成中の土地が多かったのだろうと思う。そして水の流れがよくないこのあたりの川では、住民の家から流れ出た汚水が悪臭を放っていたのだろう。それも、平安京に移転した理由とされるが、実際はもっと政治的な配慮があったのだろう。

京都はわりと新手の帰化人である秦氏が差配するところで(雄略天皇に大量の絹を献上して地権を手に入れたらしい。太秦に氏寺の広隆寺を建てた)、天皇は、古来の土豪たち、そして寺社がひしめき足の引っ張り合いを続ける奈良から、脱出することができたのだろう。

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現に藤原氏は遷都に伴い、一時力を減じている。但しその後は盛り返し、その途上で邪魔になった菅原道真が大宰府に左遷されてしまうのである。(完)

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