日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。


世界紀行5:ユーラシア その5 ウズベキスタンのタイム・カプセル

ウズベキスタンのタイム・カプセル

                  河東哲夫

2003年のある日、銀座でノスタルジックなフォークの歌声に足を止めると、路上の台にCDを並べて売っている。脇に置かれたブラウン管のアニメには、鄙びた木造の店、医院、そしてオート三輪車までが映されて、この懐かしい五十年代の日本の町を、買い物籠を下げた少女が歩いていく。小さい頃の思い出をかき立てられた僕はたまらず、CDを手に取った。宮崎駿プロデュース、歌は上條恒彦の「お母さんの写真」。

 僕の思い出などどうでもいいかのように若い店員はレシートを両手で突き出すと、「お客さま、くじ引きは如何ですか?」と言う。で、昔ながらのあの丸いくじ引きをガラガラっと回すと、茶色のタマがポロっと出てきて、カランカランと鐘が鳴らされ、店員が路上に響く大きな声で「おめでとうございます。映画『××』への御招待券を差し上げます」と言う。僕の小さい頃の思い出は、安っぽい茶色のタマとカランカランという鐘にすり替えられてしまった。

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 タシケントでは不思議なことに、例のデジャ・ヴュ、既視感覚によく襲われる。僕の住む家(大使公邸)は街外れの住宅街にあって、そこには大邸宅が次から次に増えているのだけれど、狭い道は舗装の幅も揃わず所々穴があいている。そして近くの学校からは、ランニングシャツにランドセルのようなものを背負った小学生達が楽しそうに連れ立って下校してくる。不揃いな恰好の民家、家の前の生け垣も手入れが悪く電信柱も真っ直ぐに立っていない。だが、そうしたもの全てが、ここを訪ねる年配の日本人に、終戦間もない日本を思い出させ、ノスタルジアをかき立てる。

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 僕の家を出たところの四つ角には、近くの民家が小さな小さな果物屋を出していて、ひょうたんみたいなものをいくつもぶら下げ、売っている。ある日その脇に男が一人後ろ向きにしゃがんでいた。不審に思って彼の前をふと見ると、なんと朝顔! 夏の朝、ほこりっぽい道端に白と青の花が清々しく咲いていた。

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 こうしたことは偶然の部類に入るのだろうが、はるかな昔日本が中央アジアの文化を受け入れたことは確かだ。元々ペルシアで統一国家ができたのは中国の秦より三百年も早いし、ササン朝ペルシアがアラブに征服された六四二年、ペルシア人のエリートは中国に大挙して移住したらしい。

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 そしてペルシア、トルコ、モンゴル系などが混血した中央アジアのソグド人はユーラシア全体の商権を握って、唐の安禄山のように歴代の中国王朝に食い込んでいた。元朝は、モンゴルの軍事力とソグド人の経済力が癒着して中国を支配したようなものだったと言う。

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 ペルシアの商人は古くから海路の商売にも乗り出していたから、日本にも来ていないはずがない。大和絵にはペルシアの細密画の影響があるかもしれないし、伎楽もペルシアから伝わったものだろう。ウズベキスタンの民俗音楽を聞いていると、日本の声明の節回しを聞きつけはっとすることもある。

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 楽器ともなると、日本との関係はますます明白だ。中央アジアの楽器は本当に多種多様な形をしていて、なかには雅楽のしちりきのようなもの、能楽の鼓のようなもの、能笛にそっくりのもの、胡弓、琵琶そのもの、そして琴に似たものがある。古代の楽器はエジプトやメソポタミヤでできたものが、多くはペルシアを経由してヨーロッパのバイオリン、マンドリン、リュート、そしてウィー ンのツィターになり、ロシアのバラライカになっていった。逆ではない。

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