今、このブログの再立ち上げをしている。以前の資料を渉猟しているうちに、2004年に草思社から出してもらった「意味が解体する世界へ」の序文に行き当たった。2004年に今のGゼロ、近代の価値観の崩壊を予感している。面白いから、ここに再録しておく。
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はじめ
もうあれから三十年になる。初めて見るアメリカの西海岸がその白い波打ち際,そしてその奥に延々と続く赤茶けた大地とともに,エンジンがぶらぶら動くボーイング707の翼にぐいぐいと迫ってくる。
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僕が初めて外国に出たのは,二十三歳の時。それからアメリカ,ロシア,ヨー ロッパ,日本と転々としてきた。今はユーラシア大陸の真ん中,ウズベキスタンで働いている。最初一人でアメリカの大学に放り込まれた僕は,日本で受けた教育は世界でも十分通用するなどと最初は粋がっていたものの,毎日200ページもの本を英語で読まされてからは,いつも何かを急ぐ癖がついた。
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それより何より,外国に行くまでは日本の全てを空気のように受け入れ,例えて言うなら初詣に行った後クラシック音楽を聴くような折衷文化を当たり前と思っていたのが,外国に行って初めて,明治以後,戦後の文化のあれもこれもが実は借り物であったことを思い知らされ,自分はいったい何者なのだと悩みだす。
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それにアメリカのホスト・ファミリーの主婦を日本風に「お母さん」と呼びかけて,「私はあなたのお母さんじゃありません。メリーと呼んで」とごく当たり前のことを言われ,ああやはり日本の社会は少しフィクションが強いんだと思い,警察のレッカー車で運び去られた僕の車からカーステレオが盗まれて文句を言いに行けば,「保険をかけてた?何,かけてない。じゃ,どうしようもできないな」と警察から自己責任の原則をたたき込まれして,欧米社会の個人主義の伝統がなぜか日本にはないように見えることも気にかかりだす。
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で,ある晴れた日に芝生に半日寝そべり考え,「いや,日本はヨ ロッパでもアジアでもない。日本は日本だ。自分は,今あるままの自分なのだ」と居直ってから,少しは気が楽になったけれど,その後もこの問題は頭を去らない。
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それから三十年,僕が専門にしていたソ連はなくなり,この七十年間インテリが口角泡を飛ばして議論してきた資本主義か共産主義かという問題も,あっさり片がついてしまった。そして僕が好きだった自由でリベラルなアメリカは,2001年9月11日事件の後はすっかりきっとなって,恐い顔ばかり見せている。自由と言えば,60年代に青春を送った団塊の世代の我々は,サイモンとガーファンクルの歌のような自由の夢を知らず知らずに追ってきたが,気がつけば皆サバイバル競争に懸命で,主義やイデオロギーなどどうでもいい時代になっている。
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社会はあまりに多様になり,皆の考えていることもまちまちになり,自由などは当たり前のことになってみれば,社会から「意味」というものが消え失せても不思議はない? いや,ここまで社会が刹那的,感覚的になってしまったのは,あのテレビのせいなのか?
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そんなことを考えながら,僕はこの数年見たこと,聞いたことを書いてみた。それも,皆がこれまで思い込んできたその「思い込み」というやつを少し壊してやろうと思って。思い込みというものは,物事の正確な理解を妨げる。それどころか,国際政治を変な方向に捩じ曲げさえしかねない。
黒が白となり,白が黒となる現代のこの世界,何か大きな変化が起きている。それが何なのか,僕にはまだ見分けがつかない。でも,横にいろいろな国を比較し,縦に歴史を掘っていけば,そのうちもっと様々のことの意味がわかってくるだろう。
(これを書いて20年余、今の世界で起きていることの意味は益々わからなくなった。いや、意味を見つけようとすることが、間違いなのかもしれない)




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