(この30年間ほどの旅のあとを、これからアップしていきたい。外交官だったから、その旅はどうしても政治とか経済とか、「情勢」を調べることが目的だったので、読んでいると息がつまる。だから第1回はそういうことのない、ユーラシアの果てしない地平に読者をお誘いしたいと思う。以下は、著書「意味が解体する世界へ」より抜粋したもの。2002年、筆者がウズベキスタンに着任する時、飛行機から下界、つまり昔のシルクロードのあたりを見て感じたことどもだ。
中央アジアの自然は、心を解き放ってくれる。下界の生活は、そんなあまいものではないが)
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アフロシアブの風に吹かれて
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日本を出た飛行機が北京を過ぎてしばらくすると黄河の水もなくなって、砂漠、そしてはげ山が眼下に広がる。塩が白く干上がった湖の跡や、高く砂ぼこりを舞い上げる土漠が地平線まで続く中、隕石の落ちた跡か、丸い水たまりが点在する。だがそんな光景が一時間もたつと砂漠がうねりだし、左側に山脈が見えてくる。あああれは天山山脈か崑崙山脈か、山の向こうに青く見えるのは湖かと思う間もなく、また全ては砂漠に戻る。草原と森と川に彩られたロシアの大地と違うが、これもまたユーラシアの大地だ。
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北京を過ぎて三時間もすると山脈は本物になってきて、夏の最中なのに雪山が白く輝く。でもここらの山脈は気まぐれで、ふと下を見ると山はなく平原が広がっていたりする。ここらあたりでは、まだまだ食糧が作れるのだ。山の向こうにはウルムチがあるのだとスチュワーデスは言うが、靄がかかっていて見えない。新彊地方の首都ウルムチではもう漢民族の方がウィグル人より多くなっていて、イスラム文化と中国文化が雑然と混ざり合った、でも「吉祥寺を三つ合わせたような」近代都市になっているのだそうだ。
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さっきから眼下の山すそを、どう見ても四車線の立派なハイウェーが飛行機を追ってくる。後から聞けば、遠くの連雲港から新彊のカシュガルまでハイウェーが本当にできたのだという。たまげた話しだ。
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このあたりの山脈は言ってみれば、ユーラシア大陸の東半分の文明の母だ。水は東に流れて黄河、揚子江となって中国文明を育み、西に流れてアム川、シル川となってメソポタミア文明ほど古くはないがその流れを汲んだペルシア、中央アジアの文明を育てたのだ。それはオアシスという言葉から我々が連想する、池を囲んだ小さな村にヤシの木が生えている、といったものではない。地平線まで広々と綿花、小麦、トウモロコシそしてリンゴの畑が続く光景は、どこに行っても珍しくない。フェルガナ地方だけで関東地方の面積に匹敵するのだ。そして点在する農家は白い漆喰作りで、モスクワ郊外の傾いた木造農家に比べれば、ここはやはり太陽と水の恵みで豊かなのだと思わせる。
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シルク・ロードというと日本では、どこか感傷的なロマンが作られている。やれ仏教が伝わってきた道だ、やれギリシアの「進んだ」文明がアレクサンドロス大王のおかげでアフガニスタンやタジキスタンのような「僻地」にまでやってきた道だ、という具合に。確かに文化はシルクロードを伝わって西から中国、そして日本にやってきた。だが西と言ってもその大部分は、ヨーロッパのことではなくペルシアのことだ。
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つまり文化の発信源はシルクロードの東と西のいずれかの端ではなく、エジプトとメソポタミアの流れを引いた真ん中のペルシア(今アメリカと戦争をしているイラン)にもあったのだ。僕はタジキスタン(ペルシャ文明の流れを汲む)の美術館で、八世紀頃の女性像を見たことがあるけれど、透けた衣が流れるように垂れる様、竪琴を弾く白い小指がなまめかしく反っている有り様は、観音菩薩そのものだった。
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ペルシア文明はその頃、今のタジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、そしてインド北部までを覆い、ウズベキスタン、トルクメニスタン、そしてタジキスタンのあたりはペルシア帝国でも文明の進んだ地域だった。「イスタン」とは、ペルシア語で国という意味で、当時ペルシア語は今の英語のように国際語だった。
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安禄山のように、中国の宮廷に入り込みペルシア語も使っていたペルシア系は多数いる。ブハラはサーマ ン朝ペルシア
の首都で、ルーダキ やフィルドゥシ といった詩人が文学の黄金時代を築いたし、マルコ・ポーロの父親は「ブハラはペルシアの最大の都市だ」と書き残した。正倉院に今でもある楽器の数々はペルシア、中央アジアのものと瓜二つだし、中国陶器の青花染付の技術や、天文学、航海術もペルシアから伝わった。あの広いインドのムガ-ル王朝も、サマルカンドに覇を唱えたチム-ル大帝の子孫が作ったもので、中央アジアの延長なのだ。
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何年か前、「麦と鉄」を手にした民族だけが発展することができたと書いて、評判になった本がある。麦は食糧増産を可能にして多くの人口を支え、鉄は強い武器で領土の拡張を可能にしたというのだ。その伝で言うならば中央アジアもちゃんとそのパターンにはまる。中央アジアは綿花とキャラバンだけで生きてきたのではない。小麦と鉄は昔から、はるか昔からこの地にあった。経済史の資料が十分ないこの地域についてあまり断言はできないが、農業が盛んだったとしてもヨーロッパであったような農業技術革命とそれに伴う社会変動は起こらず、いつまでも専制的都市国家が続いたことは問題だが。
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ともあれシルクロードでは、文化もモノもヨーロッパから東にではなく東からヨーロッパ、それも当時はまだ「僻地」だったパリやロンドンではなく当時の西の中心コンスタンチノープル、つまりビザンチン帝国に運ばれていたのだ。だからこそ、十九世紀のドイツの学者リヒトホーフェンは「シルク・ロード」という名を思いつく。日本人がヨーロッパへの憧れをシルク・ロードに投射しているとしたら、それは歴史に反したことなのだ。




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