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日本歴史紀行17:近江八幡

近江八幡

 

2026年5月の連休は、家族で近江八幡に行ってきた。

ここは琵琶湖のほとり。織田信長の安土城から派生した町。

信長は安土城を築くと(1576年)、足元に城下町を造成し、楽市・楽座(規制撤廃、特権賦与、賦役減免)を旗印に、故郷の尾張などから商人を呼び集めた。ここは北陸方面から京都・美濃・木曽方面に向かう街道が交叉する商業ハブ。安土の町も随分栄えたらしいが、信長が死ぬと間もなく、安土城天守は炎上し(1582年)、灰燼と帰した。犯人は不明のまま。

その後もしばらく安土城は、二の丸が織田家の子孫の居所となっていたが、1585年に廃城となる。

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同年、近くの八幡(はちまん)山に秀吉が城を建設。甥の秀次(当時は子供のなかった秀吉が、後継にするつもりで引き立て、後に茶々との間に秀頼が生まれると疎んで切腹に追い込み、家族を皆殺しにした)をここに据える。

これは織田家から豊臣家に覇権が移行した象徴で、安土城の資材は八幡山城築造に転用された。

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そして八幡山のふもとには碁盤の目の町、そして運河が造成され、安土の商人たちが、安土で享受していた利権・特権はそのままに、ここに招請された。秀次はここに5年いた後、清州に転封される。(因みにNHKの大河ドラマに出ていた秀長は、秀吉の弟で、これは傑物であったらしいのだが、50歳で病死している)。

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近江八幡は琵琶湖の港としても機能し、城主は関税を徴収した。近江八幡にはカツラ、太鼓、後世には靴等を作る職人も集まった。また農民の移動制限が緩和されて、農民が行商に従事できるようになり、これも近江八幡の商人を助けたことだろう。

そしてここが、「三方よし(売り手・買い手・社会全体を益する商売をしろ、という意味)」など優れた商業道徳で知られる近江商人の所縁の地で、ここから発生した企業としては寝具の西川、西川の流れの食品企業・メルクロスが知られる。

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琵琶湖の南端部、その西側に近江八幡はあるのだが、このあたりは市街地がべったりと広がっていて、その中に碁盤の目の旧市街が残っている。街のはずれの八幡山にはなんとロープウェーがかかっていて、城跡まで行ける。15分間隔で運行し、10~15名乗っていた。中国人観光客は見かけなかったのだが、「国産」観光客だけで満員。インバウンドはいらないようだ。

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