最近本が出て評判になっているAmazon.co.jp: 継体天皇-六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」 (中公新書 2910) : 河内 春人: 本 ように、6世紀の継体天皇という人は、王朝としての天皇家の一種の断絶を意味する可能性がある。そして彼の権力は出身地とされる福井だけでなく、九州とも深く絡んでいるようだ。
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で、2023年4月、和歌山で講演した帰り(岸本周平前知事が生きておられた時で、わざわざ聴きに来られた)、高槻の今城塚に行ってみた。
大きな前方後円墳で、発掘された埴輪が有力者の牛車に先立つ行列になっている今城塚古墳 – 検索。日本の学界では継体天皇の墓というのが多数意見。宮内庁はもっと古い年代のものだとしている。
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継体天皇は第26代の天皇とされ、507年から 531年のあたりに即位していたものと推定されている。第25代の天皇武烈には跡取りがおらず、近江生まれで越前育ちの継体が天皇として招請されるも、なぜか朝廷入りしたのは即位の20年後、という不思議な経歴。第15代の応神天皇直系の皇女と結婚して箔をつけている。
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この高槻のあたり、淀川のほとりの台地(領地の奈良盆地を見渡せる)で、今の三島郡には前方後円墳が密集している。まるでエジプトの王家の谷。
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前方後円墳は3世紀の後期、大和の纒向(今の桜井市)に大きな集落が出現し、近くに箸墓古墳を建造したあたりがはしり。6世紀末にはもう作られなくなっている。3世紀の後期というのは、ヒミコが亡くなったとされる247年からしばらくたってのこと。つまり前方後円墳は、3世紀の後半からこの奈良盆地という肥沃な平野に権力を樹立した王朝に特有のものだったのかもしれないが、全国に約5000基も分布(最多は千葉県の720基なのだそうだ)しているから確かなことはわからない。
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継体天皇はその後も万世一系、現在の天皇家に続くとされるが、前記のように武烈天皇の後が絶えているし、継体天皇の後も何かむにゃむにゃしているのだ。彼の後は531年または534年から535年の安閑天皇、536年~539年の宣化天皇、539年~571年の欽明天皇(いずれも継体天皇の子)と続くのだが、前二者の在位期間が異常に短い。
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継体天皇の末期は九州と朝鮮半島がからんで、「出入りが激しい」。インターネットの記事には、527年に朝鮮半島の新羅が任那に侵入したとある。任那は継体紀6年に、継体が親しくしていた百済に割譲してあったそうで、継体は527年、大軍を百済支援に送ろうとした。ところが当時、北九州で勢力を持っていた磐井が新羅に通じていて軍の派遣を妨害し、継体との武力抗争となる(磐井の乱)。
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継体の大和朝廷側は勝利し、大軍を朝鮮半島に送ったことになっているのだが、日本書紀が引用している百済本紀では、その時倭の天皇、太子、皇子が死んだと書いてある。欽明天皇でやっと安定した政権ができたという史実と平仄があう。しかし、百済本記そのものはもう残っていないし、このあたりの日本書紀の記述は錯綜していて、本当にあったことはわからない。もし継体天皇とその跡継ぎ2名がほぼ同時に亡くなる(暗殺される)ことがあったのなら、それは欽明天皇あたりによるクーデターがあった可能性もある(継体王朝は代わっていないが)。
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九州王朝説再び
ところで以前から、日本史学では「九州王朝」説がくすぶっている。中国の史書に「倭」とあるものは、北九州にあったのではないか、というものである。中には、継体天皇自身、奈良盆地ではなく、北九州に君臨していたのではないか、とする学者もいる。
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因みに欽明天皇は、九州東岸の宇佐と奈良盆地の入り口の羽曳野に、八幡神社を建立している。八幡神社は応神天皇を祀るもの。宇佐は九州から瀬戸内海に乗り出すところ、羽曳野はその到達点と考えると、これは欽明天皇が、自分の血の中に応神天皇の血が入っている(継体天皇は上述のように、応神天皇直系の皇女と結婚して箔をつけている)ことを誇示するため、つまり自分の正統性を誇示するための行い、とも考えられる。
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倭国とか邪馬台国とか大和とか卑弥呼とか、どれが誰がどこで活躍していたのかについては、諸説入り乱れて(http://inoues.net/waj.htmlに面白い一覧表がある)考えるのもいやになるのだが、神西秀憲という在野の考古学者は著書「古代九州王国の謎」で、面白い仮説を提示している。
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「継体天皇あたりまでの古事記の史実は、実際はすべて九州で起きたこと。出雲等も九州にあったのが、古事記によって全国に「配分」されたもの」というのだ。更に同氏は、古代の倭はもともとは北九州の遠賀川河口地帯にあったが、新羅の脅威を避けるために飛鳥に遷都したのだとする。つまり、継体の頃は倭(大和)は北九州にあって、朝鮮半島の百済と組んで、磐井・新羅の勢力と争っていた、ということになる。
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要するに、この頃の日本の歴史は頭を混乱させるものなのだが、例えばこの今城塚を発掘してみれば、いろいろなことがわかるはずなのだ。今城塚は宮内庁の管理ではないので、一般人の立ち入りもできるし、発掘もされている。ところが肝心の石棺と石室が昔の盗掘とその後の伏見大地震での地崩れで、粉々になってしまっているということなのだ。残念。何者かが証拠を隠滅したのかも。
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それでも、その石棺は熊本から海路運ばれてきた馬門石、兵庫からの竜山石、そして地元の二上山白石の三種を使っているのがわかっているそうで、この棺の主の九州、そして播磨との強い関係を思わせるのだ。
このあたりの歴史は謎に満ち、記録は少ないから、諸説入り乱れる。天皇家もそうだが、蘇我氏とか藤原氏のような有力な家柄の出自もよくわかっていない。と言うか、本当のことが隠されている感じがする。




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