.河東哲夫
もう10年ほど前のことになる。経済産業省別館の玄関を出て、ある案内板に気がついた。この内幸町の内堀通りに面して、「帝国議会」があったというのである。
.
「板垣死すとも自由は死なず」とやらの自由民権運動が実を結んだ結果なのかどうかは知らないが、明治23年、この内幸町2丁目1番地に木造の帝国議会が作られたとある。これは西暦1890年で、ロシアで議会が開設された1905年よりかなり早い。当時、不平等条約改正のために、民主化の体裁を早く整えたかったのだろう。
,
この案内板によると、貴族院議員は馬車で、衆議院議員は人力車でやってきたとある。今の両院はどうだろう?
.
しかし開いて間もない1891年1月、よほど議論が過熱したか、衆議院から火が出て、木造の議事堂はあえなく全焼、貴族院は「華族会館」へ、衆議院は東京女学館に間借りをする羽目となった。しばらくして1892年、内幸町の同じ場所に木造二階建て、10500平米の立派な議事堂が完成した、とある。
.
今の議事堂は1936年に完成。戦争の時は、1945年5月の空襲で周辺を焼かれただけだったようだ。米軍は、日本に国会があるのを知らなかったか、それとも皇居に近いから高射砲が充実していたか。




コメントを残す