(今はウクライナ戦争の時代。プーチンたちは、「ウクライナなんて国家じゃねえ。だからこれは戦争じゃねえんだ」とか言いながら、かつて1992年には国家として承認したウクライナに武力侵入した。1992年当時、僕はモスクワにいて、ロシア人がウクライナについてだけは、その独立になんとも複雑な反応を示したのを覚えている。民族的に一体意識があったし、親戚も多かったからだ。「ま、仕方ない。その代わり、自由な行き来だけはさしてもらいたい」というのが、大多数の持つ気持ちだった。
そこらへん、記録にとどめておこうと思って、当時の新聞をひっくり返すのも大変だから、ChatGPTに作業を代行してもらった。以下は、Chatにロシア語資料を渉猟させて、その結果をChatがロシア語で書いてきたのを、DeepLで日本語にし、さらに僕が自分自身の所見も加えたもの)
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ロシア・ウクライナ交渉の主要な争点(1991年~1994年)
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ソ連崩壊後、ロシアとウクライナ間の主要な対立点は、3つの大きな枠組みを中心に形成された。
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1. 核兵器
ウクライナ領内には、ソ連の戦略核戦力の相当部分が配置されていた。ロシアはこれをすべてロシアに集中しようとした。それは米国の意を受けたものでもあった。ウクライナは当初抵抗したが、西側から将来の安全保障の約束を取り付けて(「ブダペスト覚書」)、納得した。
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2. 黒海艦隊
黒海艦隊は、ソ連にとっては随分重要な艦隊だった。黒海は凍結しないし、ボスポラス海峡を通って地中海で行動することができる。黒海だけでも、ルーマニア、ブルガリア、トルコ、ソ連崩壊後はジョージア、といった国々に直接示威・軍事行動をとることができるのである。
しかしウクライナは核兵器と異なり、軍艦をやすやすとロシアに引き渡すことはなく、交渉は熾烈を極めた。結果、ウクライナは数隻の非力な艦しかもらえなかったが。
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3. クリミアとセヴァストポリの地位
これも非常に感情的な問題で、昔のロシア帝国が戦争の末に入手したクリミアを、スターリンの死後の権力闘争で、フルシチョフがロシア共和国からウクライナ共和国の管理に移転した(フルシチョフは第一書記に昇格する過程で、ウクライナ共和国出身政治局員の支持を当て込んだのである)ことが禍根となった。しかもクリミアのセヴァストーポリ軍港は、黒海艦隊の拠点だったから、なおさらである。
1992年の交渉の結果、クリミアはウクライナの管理下に止まる一方、セヴァストーポリだけは特別な地位協定の下、ロシアの管理下に収まった。
この遺恨が2014年2月、キエフでのクーデターでロシア寄りのヤヌコーヴィチ大統領が政権から追われると、急遽よみがえり、プーチンはクリミアの占拠を命ずるのである。
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ロシアの立場の全体像
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当時のロシアの対ウクライナ政策は捻じれていた。エリツィン大統領は、1991年12月、まだロシア社会主義共和国大統領だった時に、ウクライナとベラルーシの首長と語らって「ソ連解散」を決めただけに、ウクライナ独立承認を今さらひっくり返すことはできなかった。他方、軍や愛国主義勢力(ルツコイ副大統領やルシコフ・モスクワ市長)は、ウクライナに対して強硬な対応を主張していた。
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ロシアの世論
新聞や世論調査(1990年代初頭のVTsIOM)に基づき、三つの気運を挙げることができる。
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1. 倦怠感と諦め(まさにこの言葉が、当時の民衆の気分をぴったり表している)
人口の大部分は経済危機に追われていた。マスコミではしばしば次のような論調が見られた:
「今はウクライナのことなど構っている場合ではない」
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2. ノスタルジアと苛立ち
同族意識の強いウクライナと別れることへの感情的な抵抗があった。そして「そこまで堕ちる」ことへの悲しみ。それは、「怒り」というよりも、むしろ混乱と疲労の中での半ばの諦念、その上に乗る民族的な未練という方が近い。
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この捻じれた構造は、完全には解消されなかった。1990年代は力がなかったから「棚上げ」され、2000年代に入ってから、力の回復とともに再び前面に出てくる。




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