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デンマーク その近代化の途をたどる

(これからデンマークの経済について書くので、手始めに中世から現代に至る、近代化の途をたどってみる。拙著「『自由と民主』の世界史―失われた近代を求めて」の一節 「自由と民主」の世界史―失われた近代を求めて Ⅱ 〔産業革命と近代の構築、そしてその先〕 (「自由と民主」の世界史―失われた近代を求めて(全2巻)) | 河東 哲夫 |本 | 通販 | Amazon

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ヴァイキングの頃のデンマークでの経済のありさまはよくわからない。ヴァイキングの動きは、彼らがノルマンディーやイギリス、そしてシチリアなどに拠点を作り上げたことで収束し、デンマークの地域は域内の権力集約化に努める。十四世紀半ば、ちょうどペスト禍が終息して直後のあたり、デンマークは、ドイツ諸都市の「ハンザ同盟」に対抗する新興強国として登場した

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一三四〇年に即位したデンマーク国王ヴァルデマー四世は、属領だったエストニアをドイツ騎士団に売却して財政を立て直すと、領土の拡張――ヴァルデマーの立場からは「回復」――に乗り出す。その一環として、彼はバルト海の要衝ゴットランド島にあるヴィスビューを占領したので、ここを貿易のハブとしていたハンザ同盟との戦争になる。デンマーク海軍は一度はハンザ同盟の連合艦隊を破るが、ハンザ諸都市、プロシア、オランダの諸都市はケルンで会議を開き、「ケルン同盟」を結んでコペンハーゲンを攻略する。これでデンマークは矛を収める。

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ここにうかがわれることは、十四世紀のデンマークはかなりの経済力を持つようになっていた、ということだ。またペストは欧州の人口の三分の一もの人々を死に追いやり、欧州を壊滅状態に導いたとされるが、そのペストが収まった直後にバルト海沿岸ではこのような戦争をしている。ペストは、言われるほど中世欧州を変えたのではないのかもしれない。

ペスト禍のあと、デンマークの人口が回復し始めたのはやっと一五〇〇年頃のこととされている。その頃、人口の八十%以上が農村で暮らしており、一六五〇年頃までは輸出はGDPの五%程度だったと推定されている。英国の歴史・経済学者のAngus Maddisonは、一六〇〇年頃デンマークでの一人当たりGDPは世界で六位だったと想定している

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農業の高い生産性・高い民度

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彼や他の識者があげるデンマーク経済の利点は、国土は狭くともその殆どを農地として利用できることにあった。どんなに「奥地」でも、海からは五十キロしか離れておらず、輸送に便利でもあった。

もう一つの強味としてあげられるのが、農家一戸当たりの耕地の大きさである。これは、前述のように国土が小さいものの、ほとんど全土を耕地として利用でき、人口が少なかったためである。それは現代でも、デンマークを鉄道や車で旅行してみれば実感として納得できることである。地平まで続く耕地に、人ひとり見えないのである。

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自分の耕地を「所有」する自営農は、十八世紀半ばまでは農民全体の十%に過ぎなかったが、十八世紀末からのナポレオン戦争によるインフレで、地主の地代収入は大幅に目減りし、地主はたまらず耕地を「小作人」に売却した。これで「小作人」が自営農に変身し、十九世紀末には、農地の七十五%は五十エーカー程度の中規模自営農家によって占められるようになった。

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そして他の北欧諸国と同じく、デンマーク人の識字率は高く、知識や技術の伝播が速かった。そして少数の自営農が海外での需要に機敏に対応して動いたことが、あとで言う「酪農産業革命」を可能にしたのである。ここでは、日本の学校でも教えられた、十九世紀Nicolai Frederik Severin Grundtvigの国民高等学校建設運動と農民協同組合結成運動の双方がうまくシナジー効果を生んだと言えるだろう。

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話しを十六世紀に戻す。ここで面白いことが起きている。国王クリスチャン三世がルター派に改宗して一五三六年にはすべてのカトリック教会の領地を没収、今に続くデンマーク国教会を樹立したのである。教会領地の没収と国教会の樹立と言えば、イングランドのヘンリー八世によるものしかないと思っていたのだが、実に同じ年に北欧でも同じことが起きていたのである。但しデンマークの国教会は、財政的には国に依存――教会のための特別税が徴収される――しているも、教義はルター派のものに従い、聖職者の人事等では地域毎に自治が認められている。

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デンマーク王室はこれで全国の土地の五十%を所有するに至るが、以後土地は売却される。十七世紀半ばにはデンマークは王室領からの収入で費用を賄う中世的な「家産国家(domain state)」から、国民への課税で費用を賄う近代国家に一歩踏み出す

それでも、課税、徴兵、治安、司法の面で国王は、王室から土地を払い下げられた貴族、民間大地主に実質的に依存していたのであり、この貴族、大地主という特権層が後退するのは、前述十八世紀末からのインフレで、土地の多くを自営農が取得した時なのだ。この時にデンマークは、本当の意味で近代国家になったと言える。

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一六六五年の憲法は、欧州でも最も国王の力が強いものだったが、一八四九年の憲法は私的所有権の不可侵、契約の自由、結社の自由を保証するものとなった。また一八一八年には中央銀行、Danmarks Nationalbankが設立されている。

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なおデンマークは十七世紀初頭、クリスチャン四世の音頭取りで海外植民地の取得に乗り出した。イングランドやオランダと同じく、「東インド会社」を作り、インド南東部のトランケバルに根拠地を作り上げる。その後デンマークは三十年戦争で敗北側にまわって衰勢に向かい、トランケバルも一八四五年には英国に売却されている。なおデンマークはアフリカ黒人奴隷の輸送にも関わり、十九世紀半ばまでの累計で十一万人を輸送したと見られている。

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「酪農産業革命」

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一八四六年、英国議会が「穀物法」を撤廃し、穀物への関税を撤廃したことは、デンマークの農業を大いに刺激した。デンマークの農民は、英国への穀物輸出を大幅に増大させ、国内での農法も改善して生産性を高めた。

しかし一八七〇年代にはデンマークの穀物は、ロシア、米国からのものに競争で負けるようになった。デンマークの農家は中規模で、生産性の向上に限りがあったのである。ここでデンマークの農民は、酪農に転じる。飼料を海外から無関税で輸入し、高品質の酪農製品、畜産品を輸出することで、生き残りをはかったのだ。

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一八八〇年頃からは自営農たちが協同組合を形成して、蒸気機関を使っての牛乳攪拌とクリーム・バター製造、協同組合による販売促進を行った。一九〇三年には、乳牛所有者の八十一%は協同組合に牛乳を供給していた。酪農と工業化が一体化して生産性を飛躍的に高める、一種の酪農産業革命を行ったのだ。これにより、農業生産のうち輸出が占める割合は、一八〇〇年の十%から一八七〇年の三十%に上昇し、農業製品輸出は一九一四年には輸出全体の六十%を超えていた。

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酪農への転化とほぼ同時、一八七〇年以降はデンマークでも近代的製造業が立ち上がり、世紀末には手工業を含めて人口の三十%を吸収するようになっていた

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デンマーク――先進国への途

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第一次世界大戦ではデンマークは中立国で、戦っている双方に輸出することができた。このため貿易黒字が増えている。そして第二次世界大戦ではドイツに占領されたものの、工業設備は破壊されなかったし、戦後は米国のマーシャル・プランで優遇的扱いを受けた。

しかしこの頃でも、普通の労働者家庭の居住環境は貧弱で、今の質素ながらも満ち足りた生活ぶりとは全く違った。農業の生産性も十分ではなかった。一九二九年、農業は労働力の三分の一を吸収していたが、それが上げる利益はGDPの二十%に及んでいなかった。それでも、輸出の八十%を数えていたが。

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一九五〇年代、工業が雇用する者の数は農業に従事する者の数を上回るようになった。今では、Vesta(風力発電装置製造)、薬品Novo Nordiskのように世界的な企業もある。Maerskは世界一の海運企業だが、これは製造業ではない。そしてデンマークの農業は、IT、AIの活用で、工業と区別がつかないようにもなっている。

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なおデンマークの工業化においては、外国からの借り入れ、外国からの直接投資が大きな役割を果たしている。デンマークは一八九〇年からは資本の純輸入国となり、第一次世界大戦前には外債はGDPの四十%を超えていた。

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福祉の充実

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一九六〇年代になると、デンマークは社会保障や転職用の職業訓練を中心とした公的セクターの大々的な拡充に乗り出す。一九九四年までは、実に七年間もの失業保険が供与されていた。現在でも四年間の失業保険が出る。これは、戦後の英国の「ゆりかごから墓場まで」の社会保障政策を参考にしたのかもしれない。

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公立の保育園、介護施設が大幅に拡充された。一九六五年、保育園、幼稚園に行く児童は全体の七%に過ぎなかったが、二〇〇〇年には七十七%に達している。公的介護施設は、一人で四十平米ほどの1LDKを使える立派なもので、日本では月に二十~三十万円を取る民間施設にしか見られないものである。それでも入居者は年金から実費を払わなければならないし、裕福な者は資産の一部を政府に拠出しなければならないが。戦後、一九八二年に至るまで、社会民主党が政権を担っていたことが、こうした政策の転換と完遂を可能にしたのである。

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これによってデンマークは、公的支出の拡大で経済を支える、ケインズ的な政策を取ることとなった。社会は安定したが、その代償としてデンマークはスウェーデンなどと並んで世界でも有数の高税率国となっている。失業保険や職業訓練など、現役世代も福祉から利益を得ているため、重税への不満が大きく表面化することはこれまでなかった。しかし最近では、病院での診察予約が数カ月先でないと取れないなど、これまでの体制が瓦解する兆しが現れている。

ただ、人々が政府を信頼していると言うか、「自分たちが作っているもの。自分たちのために存在し、機能しているもの」として、同等の目線で扱っていることは、日本人に大きな参考になる。

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参考書籍

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[1] Wikipedia “Economic History of Germany”

[2] 「デンマークにおける形成期農業協同組合の思想・組織・事業の特質」 白石正彦

農村研究75号、1992年9月

[3] “An Economic History of Denmark” Ingrid Henriksen University of Copenhagen

[4] 「北海・バルト海の商業世界」 斯波照雄・玉木俊明www.slavevoyages.org/tast/index/facesを引用している。

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