2024年11月中旬、日光に行ってきた。戦場ヶ原の紅葉と、中禅寺湖の向こうにそびえる白根山の雪山姿を見に・・・。両方ともなかった。戦場ヶ原の紅葉はもう終わっていて、白根山にまだ雪は積もっていなかった。それでも中禅寺湖畔に泊まって、快晴の湖を満喫した次第。
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(インターネットで借りた、明智平からの眺めの写真。向こうに日光白根山が見える)
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白根山を見に、ロープウェイで明智平にも行ったのだが、そこの看板の一つが、明智光秀との関係を指摘していて、面白いと思った。インターネットhttps://tabiiro.jp/likes/articles/view/pl588703/は、次の面白い話を伝える。
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――信長は家康の暗殺を光秀に命じたが、光秀がその計画を家康に話し打倒信長の密約を結んでいた……とする説がある。
それゆえに、その後も3代将軍・徳川家光の乳母に明智光秀の重臣の娘である春日局を重用するなど、光秀と家康が深いつながりをもっていたことを示す、とする。そしてそれが日光の「明智平」につながる。
一方、1610年徳川家康に招かれて駿府城で講義を行った天海僧正。家康はこれに感銘を受け、彼を参謀としても重用する。この時天海僧正は75歳。
彼は3年後の1613年に日光山の住職となり、1616年に家康が亡くなると、以前から残されていた遺言により日光東照宮の造営に着手。1617年3月に完成する。
日光にある「明智平」、そして日光東照宮にある「桔梗紋(光秀の家紋)」、また、天海の出自に謎が多い点などから、天海僧正は、山崎の戦いで秀吉軍に破れた後にひっそりと生き延びて僧となった光秀ではないか、という説も生まれた――。
面白い。明智光秀の生年は1516年、あるいは1528年と推定されているが、後者なら天海僧正が家康に見いだされたのが75歳の時というのと平仄が合う。そして更にWikipediaによると、前記の通り徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三(本能寺の変の時、明智側の突撃大将)の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。
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決定的に怪しいのは、天海僧正の墓所(慈眼堂)が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。天海僧正は、信長が焼き討ちした(明智光秀も加わった)延暦寺の復興にも尽力しているのだが、なぜ?とも思う。天海の前身、光秀が延暦寺にひどいことをしたので、天海がその罪をぬぐおうとしているのか?
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もう一つ面白いのは、「東照宮に隠された徳川の埋蔵金とかごめ、かごめの関係」。
インターネットで見つけた一説によると、「かごめ、かごめ」の唄は江戸時代初期のもので、「夜明けの晩に鶴と亀がすんべった」という歌詞は、東照宮にある鶴と亀の夜明けの影が交わる(何月何日のことか書いてないのが残念)ところに、徳川の財宝が埋めてあるそうで、それは今の値段でいくと200兆円に及ぶ由。ChatGPTに聞いたら、これは金15,491トンに相当するのだと。見つけると、税金がハンパない。東照宮一帯は、さぞかし地磁気に異常を示していることだろう。
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ところで日光は、すごい観光地なのにどうも投資が足りない。わくわく感がない。さびれた感じを受ける。湖畔にホテルがたち並ぶ芦ノ湖との差は歴然としている。夜、食べるところもろくにない。泊まった中禅寺湖の北岸、中当たり、湖畔のホテルも、日本人スタッフは見当たらず、従業員はスリ・ランカの人達だけで、けなげにやっていた。
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日光には中国人観光客が少なく、中国語の標示もない。それは良かれあしかれなのだが、学者風のロシア人女性が率いるロシア人のツァーに出くわして、仰天。それもロシア人の若い女性がほとんどで、極東の大学の日本専門の学生たちだろうか? 東照宮横の五重塔の解説に熱心に聞き入っていた。因みに箱根でも、子連れのロシア人カップルに出くわした。戦中閑あり。




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