富山紀行 No.2 ――古代からの歴史の薫り
富山には糸魚川、神通川のふたつの大河が流れる。糸魚川は本州をまっぷたつに断ち切る糸魚川―静岡構造線(フォッサマグナ)で知られているが、地殻の圧力を受けたためかヒスイの産地として有名だ。この糸魚川のヒスイ、朝鮮半島の「任那」にあたると思われる地方の遺跡からも発掘されているらしい。このあたり前方後円墳が多いのだが、このヒスイもこの地方と日本の大和朝との関係を推論する根拠になっている。ただ面白いことに、糸魚川のヒスイは6世紀くらいから捨て置かれ(白村江の戦いで、大和王朝が朝鮮半島での足場を完全に失ったのは663年だ)、「再発見」されたのは昭和になってかららしい。でも採掘が禁止されでもしないかぎり、そんなことは簡単には起こらないはずで、変な話だ。
日本には、海岸沿いとか山間の盆地とかに結構平野が広がっている。水田が生み出す富の上に、多数の大名が存在したのだ。富山周辺もそうで、立山山塊のあたりまで見渡すかぎりの水田が広がる。奈良時代、このあたりは既に東大寺の所領になっていて、大伴家持が越中国守としてその差配に当たっていた。この家持、万葉歌人としても名高いが、当時有力だった藤原家から生涯圧迫されていたらしく、富山ではいい歌を随分詠んでいるのだが、その後の半生はすっかり沈黙してしまったらしい。役人の地位にしがみついたりするからだ。
応仁の乱のころには、この地方は3人の守護と一向一揆が入り乱れての領地争いとなり、そのうちの神保氏が富山城を築いたとされる。この富山城、ついに天守閣が建てられることがなかったが、今に残る富山城は犬山城などを参考に天守閣を「復興」している。
その後富山城は上杉謙信や佐々成政などが保有して、最後には前田家の分家が差配した。10万石もあったが、公務員(侍)が多すぎたため財政が大変で、そのためもあって振興されたのが「富山の薬売り」だったらしい。もっともこの薬売り、考えてみれば大変な諜報網でもあるわけで、江戸時代、どういう使い方をされていたのか、面白いところではある。
江戸時代、富山城のすぐ横を神通川が流れていて(今は別のところを流れている。昔の神通川のあとは小さな松川となって残っている)、ここには全長430メートルの舟橋(小さな舟を綱でつないだ上を、人間が渡って行った)が明治15年まで使われていたそうだ。これが当時の北陸道だったのだが、長い舟橋は流れに押されて弓なりに湾曲し、その上を渡る旅人は随分落ちて亡くなったというからおそろしい。当時の絵はここに出ている。
http://www.goodlucktoyama.jp/yuuran/yomimono/funahashi.html
富山市には日枝神社があり、山王という地名もある。東京の日枝神社と同じだ、面白いと思って調べてみたら、日枝神社というのはもともと京都比叡山の日吉社がおおもとで、山王というのはそこに祀ってある神様のことなのだそうで、納得。その山王というのが大国主神でもあると言うから、出雲の方にも関係あるかも。考えてみれば、江戸の日枝神社など富山のものより随分あとにできたのだろう。そう言えば江戸は16世紀までは東国の、「みの一つだになき」辺境だったのだ。東京にあるもので本家と言えるのは、読売巨人軍くらいのものか。
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