Charm of the ancient capital of Japan--Nara
Did you hear about Nara, which was the capital of Japan for 84 years in the 8th century. It was a turbulent period against the backdrop of the mighty empire of Tang dynasty(China). Japan's "navy" was defeated by the united forces of Silla (Korea) and Tang in the Korean Peninsula in 663. But Tang China was inundated by many nations other than the Hans; the capital of Tang, Xi-an was located very deep inland, reflecting the fact that China was a part of the "Eurasian civilization" with many Persians and Central Asian people (the Sogdians) coming and living to and in China.
While Kyoto, which became the capital of Japan just after Nara, is a reflection of Sung dynasty's refined culture, Nara represents an interesting composite of Persian, Indian, Sogdian, Chinese and Korean cultures. Of course Nara and its environ are full of reminiscences of the Japanese history and ancient literature and poetry.
I and my wife were in Nara at the end of April. It was the 1300th anniversary of Nara as capital of Japan, and the magnificent imperial palace was just reconstructed (though it is a product of guess, because no record of the architecture remains).
(View of Nara from Kasuga Hill, the place which so often figures in the ancient collection of poems "Man-you shuu" )
が何と言ってもよかったのは、ひなびたJRのローカル線で(まるでバスみたいに「ワンマン」で、運転手が切符もきる)とことこ出かけて、南方の談山(だんさんではなく、たんざんなのだそうで)神社に行ったら、そこは中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿暗殺の謀議をこらしたところで、日本国家で一大事が起きると鎌足の墓のある御破裂山(多武の峯)が鳴動、出た光は三笠山に至るとか、明日香にも近いそのあたりには三輪山を御神体にした日本最古という大神(おおみわ?)神社、さらにその近くには箸墓古墳があって、そこは卑弥呼の墓ではないかとも言われていたり、中国の五胡十六国・南北朝時代の混乱を経て隋、唐という大国が勃興するダイナミックな国際環境のなかで蘇我氏と聖徳太子一族の死闘から大化の改新を経て白村江の敗戦へと至る、血なまぐさい権力闘争のあとを実感として感じ、それに万葉集の歌の数々を重ねるともう、ロマンがうねり始める。
(藤の花咲き乱れる談山神社)
現地に行ってみると、飛鳥の里が今でも交通不便で、その南の吉野山系の懐に抱かれた要害の地だったのではないかと思えてくる。出雲かどこかの政権が昔熊野に上陸し、北上して大和朝廷を作った、という仮説があるらしいが、確かに飛鳥から真南に国道をたどっていくと、熊野川河口の新宮に至るのだ。東大寺の二月堂では三月にお水とりの儀式があるがhttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Todaiji_Syunie_Nara_JPN_001.JPG、そこでは若狭の小浜(オバマ)市にある神社の井戸から水が地下を通って届くことになっていて、やはり大和朝廷は日本海側になにか関係があったようなのだ。
飛鳥、奈良は中国文化の影響一色の京都に比べると、朝鮮、ペルシャ、ソグド、インドとその関係は多岐にわたる。それらユーラシア諸地域の文明、文化は金、銀の鉱石の露頭のように、奈良の旧跡のそこかしこに露出している。薬師寺の薬師如来の台座には、ギリシャ風のぶどう模様、ペルシャ風の唐草模様、そしてインド・中国の神々が浮き彫りになっている。奈良はユーラシア文明の一部だったのだ。
そして、神社と寺院は融通無碍に合い交わり、談山神社のようにある時寺が政治的都合で突然神社になったり、東大寺のように鬼門を手向山八幡宮がまもっていたりする。春日大社には「社僧」がおり、読経もしていた(現地解説)。
そのあたり、宮司と僧侶も暮らしをたてていかねばならないわけで、目くじらを立てることもないだろう。
(ペルシャ文様を思わせる、春日大社灯篭のすかし)
夜満月を背景とした興福寺の五重塔、次の日も快晴で春日大社とその財宝、二月堂、東大寺と大仏といずれも印象的だった。そして薬師寺には、ついこの間亡くなった平山郁夫画伯の壁画がある。彼は生前珍しく、これは私のライフワークですというようなことを言っておられたから、今回見に行った。
よく見るシルクロード・テーマの作品を想像していったのだが、シルクロードはシルクロードでも、いつもの行儀よさをかなぐり捨てたような清新さ、大胆さになぜか泣ける思いだった。ああ、この人はここで全力を出している。思い残すことはないだろう。
須弥山と題したヒマラヤの山々が中央に位置する。そして天井は、シルクロード盛んなりし頃珍重されたアフガニスタンのラピスラズリ(現在では宝石としても名高い)の深い々々群青に金の星を散りばめた夜空で、吸い込まれるような幻想性を湛えていた。
(興福寺五重の塔に浮かび出た満月。何も見えないか)
外に出て昔の平城京の跡に行くと、復元なった(と言っても想像の産物ですが)第一次大極殿が真っ赤にそびえている。確かに大きい。そしてはるか向こうに朱雀門がたっているのだが、この1.5キロ四方ほどの土地全部が内裏だったというからたまげた。一般人(中産階級が当時いたわけでもないが)が住む右京、左京はその数倍にわたって広がり、真ん中の大通り朱雀大路のあった辺りには今、「洋服の青山」が店を出している。
この平城京、近鉄で二駅以上もある東大寺まで続いていたことになっているのだが、多分譲成中の土地が多かったのだろうと思う。そして水があまり流れていない周辺の川では、住民の家から流れ出る汚水が悪臭を放っていたのだろう。「青丹よし、■■に臭う春の奈良」というわけ。
(談山神社にドラえもん現る)
ちゃんとした文章はここまで。あとは今回、発見したことをぐだぐた並べる。
飛鳥、奈良はユーラシア諸文明のごった煮
仏像を守る武将には、basara将軍とかkubira将軍というふうにローマ字が書いてあった。これはサンスクリット語なのだろうが、バサラは鎌倉時代末期から跋扈するようになったアウトローの武士たちで、はでなかっこうで街を練り歩いては他人の妻をかっさらうなど悪さをしていた者たちのことも意味する。サンスクリット語の伊達者か。純日本的な現象と思っていたら、サンスクリット語か。
サンスクリット語と言えば、仏教の「真言」とはサンスクリット語で唱えるものなのだそうだ。中国ではこれを「呪」と呼んでいた。真理の言葉を呪文のように、秘儀として使っている。空海の持ち帰った真言宗以前から、そうだったらしい。今でも、卒塔婆に使うあの意味のわからない梵字はサンスクリット語のことだ。
(談山神社)
奈良国立博物館には、熱帯アジアからやってきた栴檀(センダン)の香木が陳列されている。そしてこれにはペルシャ文字、ソグド文字の刻印があるのだそうだ。漢字の刻印はないようなので、するとペルシャ人あたりが船で直接持ってきたものか? 飛鳥の石造物にはペルシャ文明の影響があると松本清張あたりが言っているので、ペルシャ人が当時の日本に来ていたとしても不思議ではない。
もう燃えてしまった法隆寺金堂の壁画の顔は、日本人のものではない。サマルカンドにあるアフロシアブ壁画の顔と、驚くほど似ている。仁王像なども、日本人、中国人より中央アジアのごっつい男たちによほど似ているのである。
平城京朱雀門の朱雀とは、フェニックスとかロシアの「火の鳥」に似た鳥だ。中国の意匠では、よく竜と対で使われる。竜とは蛇のことで、これはユーラシア全域、そして遠くメキシコにまで広がる蛇と鳥崇拝の表れなのだ。そして意匠と言えば、奈良から平安時代にかけての日本の美人画はおかめのようにふっくらした女性をイメージしているが、このやや日本人離れした顔は唐の美人画のそれにまたそっくりなのだ。
奈良時代の歴史によせて
大化の改新から白村江での敗戦に至るころの日本は、唐や新羅と大変な緊張関係にあったのだが、それでも中臣鎌足転じて藤原鎌足は、長男を唐に留学させている。この長男は仏教をおさめて帰国するのだが、すぐ死んでしまい、一家の実権は弟の不比等に握られた。
(東大寺へ向かう土塀)
奈良平野は南北に非常に長い。大和朝廷は、この大平野の生産力をうまく組織した都市国家程度のものから出発したのだろう。それが覇を唱えるようになったのは、鉱産物があったか(古代ギリシャのアテネも、近郊で銀山が発見されて急に強くなった)、それとも税制、灌漑、軍事のいずれかで優れたものを持っていたためか?
(東大寺の大仏)
現地の解説によれば、奈良の南、「山の辺の道」を通って至る三輪のあたりには、海柘榴市(つばいち)といって日本最古の市場があったそうな。ここまで大和川が来ていて、この川は大阪湾に出ている。そしてそこには難波津が作られ、税関の役割も果たしていたらしい。奈良方面へは大和川でさかのぼったのだ。日本は古来、東アジア世界のなかで開けていて、鎌倉というと山奥の秘境という感じが今でもあるが、鎌倉時代、逗子沖に和賀江島という人工島(今では満潮時に水没)が作られていてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E8%B3%80%E6%B1%9F%E5%B3%B6、南宋の船が来ていたようだ。
三輪にある大神(おおみわ)神社は、日本最古の神社だそうで、三輪山自体を御神体としている。ちなみにここは「三輪そうめん」の本場で、そうめんを棒につるして乾かしたあとの、棒で曲がった部分だけをポリ袋につめ、「そうめんのはじ」と銘打って沢山売っている。いったいどうやって食べるのだろう?
日本最古の神社があるくらいなので、付近にある古墳「箸墓」を卑弥呼の墓と見立る向きもある。Wikipediaでは、宮内庁により第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りは禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。ほとんど神話の領域だ。
日本についてはよく「二重権力」の存在が指摘される。天皇と将軍のように。大和朝廷も武力で作られたものだろうが、平安時代からは天皇は権威を象徴するだけの存在となり、実権は「時の権力者」が行使する体制になった。江戸時代になると将軍の地位も空洞化して、実権は侍官僚たちがふるい始める。「権威を与えるもの」と「実権をふるう者」の連立――それが日本での権力のあり方のようなのだ。世界にも珍しいのでないか?
(春日大社、鹿の天国)
Trackbacks
TrackBack URL for this entry:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/1032