2009年07月27日
日本語でなんでも学べる? 日本
この頃、時々感ずるのだが、「外国留学」に対する社会の感覚が変わってきている。以前は「洋行」とか「舶来」とかの言葉から感じられるように、欧米へのコンプレックスがあったのが、今では外国旅行、外国での生活は珍しくなくなり、欧米と日本はごく自然に同等のものとみなされているようだ。
そして、ある人に言われてああそうかと思ったのだが、日本は自分達の言葉、つまり日本語で世界の大体の先進知識が勉強できてしまうという意味で、非常に稀有な国なのだそうだ。どの学問分野でも、読むべき本は大体翻訳されているということだろう。
これは当たり前のことではない。大変なことなのだ!
と同時に、これは日本人が井の中の蛙のままでいる大きな原因でもある。どの学問も、その由来する社会への理解、知識がなくては、青っぽい書生論で終わってしまう。
翻訳書を使って勉強するのはいい。だが、それで世界のこと、外国のことが全部わかったと思うべきではない。現地へ行こう。それも外からちょっと見て帰ってくるのではなく、ヌカミソができるほどその土地の人とじっくりつきあって、中から見よう。それでも、ほんのちょっとしかわかってこないのだが。
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コメント
翻訳関係の仕事にヨーロッパで関わって学生時代から滞在も含めて10年になります。
確かに日本語は、その人口規模としても巨大なマーケットであり翻訳数も膨大な数に上りますよね。人文科学系統の重要な書物のほとんどが母国語で読める国は日本語ぐらいな物ですよね。
しかし内訳をみるとかなり偏ったものになってきてるのではないでしょうか?年々、実用本やオカルト、童話といった消費物に集中してきている観があります。出版社の事情もあるのでしょうが、近視眼が過ぎる傾向は否めません。悪貨は良貨を駆逐する状況にならなければいいのですが・・・。良きにしろ悪しきにしろ、かつてあったような翻訳専門教授のような存在も今後の大学体制では厳しくなるかもしれません。
それと、外国に出ても日本に戻れなくなる社会制度(新卒採用のような)も、日本のタコツボ化を助長してます。20代前半できても、さっさとしないと日本に帰っても受け入れてもらえなくなります。まして、博物学的にあっちへこっちへと散策してようものなら、余計にそうですよね。そうして、現地の地平と日本の地平を比較、体感できるような視野を築いた人間にはもはや帰るところなしの状況を幾度と無く見せられてきました。無理に帰って鬱病なんてことも・・・。日本を捨てなければ、現地の空気を吸収できないメンタリティーとそれを支える社会状況をどうにかしないことには、何も変わらないのかもしれません。
日々、ユーロ圏内で留学も、遊学も含めて沢山の若者がさまざまな理由、動機で国々を渡り歩く姿を見ます。その中でつけて行く彼らの経験や、感覚はいずれ形になり理解になっていくのが良く見えます。
ヨーロッパの街角に立っているカフェが、人が、街路樹が、なぜそこにどうしてあるのかを、都市文化的にも解ってしまった時、私も日本にはもう帰るのが困難になっていました。
こんなつたない経験でも、帰って生かせると思える社会と、生かせない社会の差異があまりにも見え、それが年々大きくなっているのを途中帰国して際に何度も痛感させられました。
かくしてこんなことを日本で言ってしまえば、「かぶれてる・・」とか言われるか思われるのが関の山なのです。 感覚的な共有者はそのほとんどが、海の向こうにとどまってしまうか、口をつぐんでしまいます。
そして、日本のメディアは日本にとって都合の良い海外の小さなニュースを、海外が日本を絶賛してるかのように大々的に流し、大衆に媚を売り、海外の惨事を日常であるかのように国内に流す。 こんな事が続いてたら、当然自分を見失うんでしょうね。 自分の住んでる土地の問題すら分からない人々が、海外から何を学ぶのかということにもなってきます。
長い駄文になってしまい失礼しました!