何かが変わっている。でもそれが何かはわからない。
3年前に8年間の外国生活から帰って以来、どこか昔と違う日本に住んでいるような感覚が離れない。
以前の日本に比べると、若者がしっかりしてきたように見えるのだ。これまで日本人にはない、ないと言われてきた「個」、「自我」ができてきたように見えるのだ。
本当にそうなのかはわからない。だとすれば嬉しいことだ。
もう一つ、どこかふっきれない感じがしているのは、日本の安全保障環境。
日米安保条約は未だ磐石だが、それでも日本が、日米同盟が、アメリカの目の中でどうも「相対化」してきたような直感に悩まされている。
日米は自由とか民主主義といった価値観を共有しているとは言っても、価値観を共有するから同盟国だということにはならないだろう。やはり戦略的利益があるかないかということの方が、価値観より大事だろう。
僕は中央アジアで勤務したが、あそこのエリート達はロシア、モスクワへの郷愁を捨てきれないでいた。モスクワこそ世界の文明の中心、モスクワへの出張、モスクワでの留学はステータス・シンボルなのだ。そこでわが身の「ワシントンD.C.」に対する心象風景をふと思い浮かべると、笑ってしまうのだ。これでは、旧宗主国に対するコンプレックスそのものではないかと。
しかし、日米同盟が相対化するのはやはり怖い。それは、戦前の日本でと同様に過激なナショナリズムが台頭して我々の自由を縛り、青年を戦線に送り出すのが怖いのか、それとも自分の社会的地位を支えてきた「アメリカン・コネクション」が意味を持たなくなることが怖いのか、わからない。
何か、「跳ば」なければいけないような気がしている。つまり日米同盟が相対化された世界へ思い切って。だが、戦後獲得したこの貴重な自由を維持したまま、我々は跳躍できるだろうか?
(考えがこなれていないまま、あえて書きました。わかりにくいと思いますが)
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コメント
自らの反省も含めて申し上げさせていただくとすると、表面的には、しっかりとした「個」「自我」ができてきたような印象があるかもしれませんが、その殻から一歩なかに入ると、かなり混沌としているような部分があるのかもしれません。
その様は、木造とコンクリートにでも例えられるでしょうか。一見それほど強くはなさそうな木造が、大きな揺れでもしっかりと「しなり」を効かして持ちこたえるのに対して、表面的にはガッチリと強そうで、ちょっとした揺れではビクともしないコンクリートが、断続的・継続的な揺れの積み重ねに弱く、また、壊れるときには一気に崩れ去ってしまうという・・・。
これまでの日本をつくりあげてきた方々の木造のような「しなり」を持てるように、自分のなかにも「鉄筋」をどんどん埋めこんでいきたいところですが、なかなか難しいところです。
日米関係の相対化については、アメリカの目の中だけでなく、日本の目の中でも(勝手に!?)相対化が進んでいるような印象を受けます。アメリカとの距離感は、現在のシニア世代と我々団塊ジュニア世代でも、そしてさらに下の世代との間にも、圧倒的な違いがあるように感じます。将軍家光の「我は生まれながらの将軍である」という言葉ではないですけど、生まれて物心がついた時に、アメリカがどんな国として映っていたか、その直感は、思考の形成に多大なる影響を与えているものと思います。「日米同盟」「日米安保」……まるでそれらが、なにか我々世代が上の世代から無理矢理バトンタッチをさせられてしまった古臭い言葉であるかのように捉える世代も広がっているのではないでしょうか。そう考えることは決して悪いわけでも全くないと思いますが、それぞれの人がこの言葉の意味をよく咀嚼して結論を出さなければ、いたずらなナショナリズムしか生まれないのではないかと思います。政治の世界でも「価値観の共有」ということがやたら言われる今日この頃ではありますが、雰囲気だけの抽象的な価値観の共有ばかりで日本の政治をリードしていくことだけはしていただきたくないと、切に願うばかりです。
「戦略的利益」という言葉を用いる時の「戦略」とは、相対化と表裏一体のものであると考えます。課題テーマをテーブルに上げて比較をし、優先順位をつけていくプロセスのなかで、相手をどこまで冷静に見据えていけるか、21世紀のグローバル社会は、そこが勝負になってくるのでしょう。
記事を拝読してから1カ月も経ってしまいました。
この分野の専門でもなく、ごくありふれた一般市民のレスポンスとお受けとりください。
私には、日米の安全保障や国の安全のための軍事力というのが、いま一つピンときません。
そもそも、今の自衛隊の規模や力というのが、どの程度のものであるかも、充分過ぎるのか、不十分なのかも理解出来ません。 安全を守る為の軍隊と言えば、考え方によれば限りなく大きくなるし、かと言って無くて済むかと言えば、現実的とも思えない。
それを日米安保でカバーしていると言われると、そんなものかと思いつつも、米国の世界戦略の中で、うまく利用されているだけのような気もしてきます。
果たして日本が国を守る軍事力の必要規模を、専門家を交えてきちっと議論できているとも思えないためです。
万一攻めてこられた時、国を守らねばならないという事は解かるが、攻めてくるという事をどの程度の事と想定するかで、これは大きく変わってくる事は自明の理です。
ある規模の核ミサイルで攻めて来たとき、どんな軍隊をもってしても対抗できるとも思えず、またそれに対して、核で対抗する力を持つのが得策とも思えません。
この部分は、国際的な仕組みの中で取り組む以外にはないのではないかと考えています。あるいは日米安保も、その国際的な仕組みの一部と言えなくもないのですが、もっと国連を中心に世界がその仕組みを、機能する仕組みに作り上げる以外にないでしょう。
もっと小さな小競り合い(表現が適切ではありませんが)に対しては、今の自衛隊でも過ぎる位で、本格的に国をあげて、今の日本に攻め入ってくるには、相当の覚悟が必要でしょう。
そんな馬鹿なことをする国があるとも考えにくいのです。
仮想敵国という表現があるとすれば、将来は判りませんが、国際関係の現状を見たとき、仮想敵国を想定して軍事的な対応策を練ることよりも、外交レベルでなすべき事の方が先で、また数多くある事も事実です。
結局、日本の安全の問題を現実的に考えるならば、自衛隊規模あるいはもう少し縮小規模のものを、現状の自衛隊という形でキープして、後は、経済的な力をつけ、外交と食料自給政策を見直して行くことが、妥当な安全対策のように思えます。
それには、現在の9条を含む憲法を変えないで持っておく事が、周囲との余計な国際的軋轢を避ける意味からも、国際舞台の中で、未来を志向して外交力で立ち回るためにも、得策と考えるのですが、如何お考えでしょうか?
それによって、アメリカ鷹派との関係が悪くなると言う人もいますが、これこそ外交で充分にカバーできる範囲であり、むしろ日本が国際的外交力を強化していくために、その外交戦略も含めて、取り組むべき、プライオリティーの高い部分という位置づけと考えて良いのではないでしょうか。
ロシア、中国については、軍事的な面よりも、今考えるべきは、経済的な関係でしょう。
特に中国は安価な労働力が豊富に得られるという理由で、製造部門を世界が移出していった結果として、莫大な経済力と技術力を持つに到って、ある意味での脅威を感じる程になってきています。 こうした面で、日本は国としてのストラテジーやポリシーをもって進めてきたとは思えないのです。幾分後追いとなったとしても、国としての検討課題の一つでしょう。
こうした事を考えていくと、日本は憲法を変えてまでして、軍事面の検討をするよりも、遥かにプライオリティーの高い、今すぐに手を打っておかなくてはならない、緊急課題を幾つも持っているような気がしてなりません。