モノづくりとは本来、奴隷の仕事
このブログの左下に「言いたい放題」という欄を作って、あまり練っていない考えを書き散らしてきたが、そうこうするうちにPCが僕の新しいコメントを受け付けてくれないようになった。多分、頻繁に長文のコメントを書き込む癖のある悪性投稿者と認識されたのだろう。
そこで、こちらに書く。
イギリスで起こった産業革命というのは、付加価値を(資源と需要があるかぎり)無限に作り出すことを可能とした。本来モノづくりというものは奴隷、あるいは奴隷的境遇で働くチープ・レーバーによって行われることが多い。それは古代アテネの体制を見れば一目瞭然だ。産業革命の初期も、労働者の境遇はひどかった。
戦後の日本は、産業革命の恩恵を最大限むさぼった国だ。世界史上、産業革命は3つの波でやってきた。1回目は繊維産業、2回目は鉄道建設などを伴う重工業・化学工業、そして3回目が家電製品・自動車の大量生産だ。そして3回目の波がもたらした付加価値、つまり富は桁違いだった。これら製品は農産品や燃料などに比べて桁違いに高かったからだ。
おりしも工業化社会では普通選挙が広がりつつあり、政治家、政党は労働者の生活向上を手伝って票を得ようとしたことだろう。特に米国では労働組合が強く、労働者の賃金はどんどん上がっていった。モノづくりをする者が奴隷どころか、豊かな者になったのだ。
で日本は、こうした高付加価値製品大量生産の恩恵を最大限にものにした国。家電と自動車で戦後の日本はのし上がった。そして国民の95%以上もが、自分は中産階級に属する、と感ずるようになったのだ。これは世界に誇るべきこと。他にそんな国はないだろう(いや、多分シンガポールが日本を凌ぐだろうが)。そしてそれが現在の日本社会の自由、権利意識の基盤だ。
ところが今、モノづくりは下手をするとまた奴隷のやるものに貶められてしまうかもしれない。
戦後60余年、パックス・アメリカーナの下、曲がりなりにも自由貿易が維持されてきたのは稀有なことなのだが、日本人はもうそれを当たり前と思いこみ、物の取引には本来力が必要であることを忘れている。
経済というのは本来、武力、そして政治力のある者が、力のない者を征服し安く働かせて利益を吸い上げるものだったのだ。現代ではそんなことは有り得ない、と言ってみても、残念ながらこれだけ世界の体制ががたがたになってくると、ジャングルの弱肉強食の法則が国際政治、国際経済に戻ってくるかもしれない。
日本、日本人は決して弱くないのだが、世界中で「弱い」と思い込まれていることが問題なのだ。いじめられっ子が実力を認めてもらうには、人一倍の力を発揮しないといけないのと同じように、日本も人一倍のことをやってみせないといけないから随分疲れる話なのだが、ここは切れてもどうしようもない。
地道にやっていかなければ。
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