世界の紛争解決のために日本がしてきたことは小さくない
日本と言えば、「憲法9条が自衛隊の海外派遣を禁じているから、国際紛争の解決では何の力にもならない。」というのが世界でのこれまでの通り相場だった。だが実際には、1992年「国際平和協力法」が採択されたことで、国連のPKO関連ならば自衛隊を派遣することが可能になっている。
オバマ新大統領はアフガニスタン安定化への取り組みを強化するだろう。ブッシュ政権もその末期にはアフガニスタン安定化への日本の一層の貢献(兵力面でも)を強く求めてきたが、オバマ政権下ではその圧力が更に増すかもしれない。日本国会での議論も活発になるだろう。
昨年7月明石書店から出版された「ユーラシアの紛争と平和」( 広瀬 佳一、上杉 勇司、 小笠原 高雪編著)に、僕が寄稿した「政府の役割」を元にして、現状をまとめておく。現状を知ることなしに議論しても、先へは進めないからだ。
1. 総論
国際紛争への対処は多くの費用と人員を要するだけでなく、時に人命にかかわる。軍隊を出す場合にはなおさらである。NGO、個人ベースだけでは対応しきれない。そのため紛争処理こそ、「国民国家」の古典的な仕事なのだと思う。
日本は冷戦時代、国際紛争解決への直接関与を国連、あるいは米国から強く求められることはなく、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻の場合のように、せいぜい「制裁措置」を日本政府独自の措置として行う程度だった。国際紛争が起こると日本では常に、「巻き込まれ」たり「米国に加担することになる」危険性、または西側が「日本をつんぼ桟敷において費用ばかり請求してくる」ことばかりが議論されていた。
しかし冷戦が終わると、湾岸戦争への対応で失敗したことも踏まえて「国際平和協力法」(1992年)をはじめ、自衛隊の海外派遣に関する法整備が行われ、国連平和維持活動(PKO)への参加やイラクにおける人道復興支援活動など、海外における自衛隊の活動はもはや珍しいものではなくなった。
NGO等市民レベルでも国際紛争解決に貢献する動きが強まり、政府との調整・分担が必要になっている。ここでは、国際紛争解決に対して日本政府は何を貢献できるのか、そしてしてきたのかを総括するとともに、その問題点を論ずることとしたい。
まず、国際紛争への政府の対処を論ずる上で抑えておくべき、いくつかの基本的な点を列挙する。
国益になるかどうかが関与の基準
国際紛争への関与ぶりを決定するにあたり、政府は国益を第一の判断基準にする。国際紛争があれば必ずその処理に全面的に関与するというのではない。「人間が苦しんでいるから」、「戦争は憎むべきものだから」というだけで日本政府が関与するならば、とても対処しきれないほどの悲劇が世界では時に起きている。
日本政府が関与することが、日本の外交、経済、国際イメージ上、どのくらいのメリットになるのかが、政府の判断基準の第一となるのである。人員、予算、そして決定を行う者達の時間が限られているからである。
紛争のタイプで異なる対応
ここでは、日本の安全保障が直接関わる国際紛争への対応は論じない。①国連に関与を要請されている紛争、②同盟国である米国に関与を要請されている紛争、③右のいずれでもない紛争について論ずることとする。
また紛争の段階、即ち①紛争予防、②仲裁、③事後処理(難民の帰還、選挙の実施など)・復興再建、そのどれを対象に論ずるのか明確にしておかないと、議論は混乱する。また紛争が内戦なのか、それとも複数の国家がかかわっているのかによっても、対応はかなり異なる。
冷戦終結、9.11テロ事件後の変化
冷戦時代とその後では、国際紛争の性格とそれへの国際社会の対応はやや異なる。冷戦時代の紛争は、米ソ対立に絡んでいることが多かった。米ソの利益が常に対立していたため、国連PKOは国連安全保障理事会(以下、安保理)の承認を得ることが難しく、冷戦後15件のPKOが行われているのに比し、冷戦中には5件しかなかった(外務省ホームページhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pko/katudo.html)。
冷戦終結(1989年11月のベルリンの壁崩壊)直後の1990年8月、イラクがクェートに侵入する事件が起こるが、米国は冷戦後の世界秩序を崩壊させるものとして安保理決議を受けた上で、多国籍軍を組織して武力介入し、イラク軍を自領に押し返した。米国一極支配の時代の幕開けであるかのように見えたのも束の間、1993年10月ソマリアで国連とともに活動していた米軍兵士が18名殺されたことで米国世論は内向きとなり、ほぼ同時に激化しつつあったボスニア内戦に対しては国内激論の末やっと1995年末、米軍を北大西洋条約機構(NATO)の傘の下で派遣できた。2001年9月の集団テロ事件が、米国の態度を180度変え、安保理決議を待つことなしに多国籍軍をイラクに派遣させるに至ったのである。
使命感だけの世界ではないこと
戦後の日本では平和主義が強く、平和の尊さを外国人に納得させれば紛争は起こらなくなると考える人もいるが、世界・国内の格差の中で生ずる憎しみ、妬み、既得権益擁護、そしてトルコやソ連のような「帝国」が崩壊するたびに生ずる力の真空は、いつの時代にも紛争を呼ぶ。
そして紛争解決に関与したからといって、地元の人々に必ず感謝されるとは限らない。当事者から過大の期待(多くの場合、物質的援助への)を受け、それを実現できないゆえにかえって憎まれたり、利害が渦巻く中で仲裁をしようとして一方の当事者から対応が不公平だと恨まれたりするリスクは常に存在する。
紛争解決は国際競争
また、日本政府が紛争を解決すべく乗り出しさえすれば世界から喝采を受けるかというと、いつもそうではない。各国が競争で紛争解決に乗り出しているからだ。紛争解決に関与することは、その国の国際的地位を高めるし、復興後の利権獲得を有利にするので、どの国が解決を主導するかで熾烈な外交合戦が展開される。1989年以降のカンボジア和平における日本、2001年11月アフガニスタン和平のための「ボン合意」におけるドイツ、スリランカ内戦調停におけるノルウェーなどの場合がその例である。1999年のコソボ紛争後の和平プロセスでは、西欧諸国は日本を話し合いの場に入れることを忌避したし、2001年の米軍によるアフガニスタン作戦のあとの和平プロセスでは、日本はドイツに先を越され、ボンでの国際会議で政治的枠組みが合意された(日本は2002年に東京でアフガン復興会議を開催した)。
紛争解決関与は日頃の人脈、培った信用がキー
紛争解決関与は、紛争の当事者たちとの間で長年にわたって培った信用と人脈がないとできない。1989年以降のカンボジア和平における日本の働きは、それまで国王シアヌーク殿下等と培ってきた人脈・信頼なしにはできなかったし、国連タジキスタン監視団(UNMOT)に派遣された秋野豊筑波大助教授は、地元民等との間で信頼関係を築いていたからこそ、アフガニスタンからの難民帰還プロジェクトのような危険な事業を進めることができたのである。
日本は1977年にはパレスチナ解放機構(PLO)の東京事務所開設を認め、99年以来頻繁にアラファト議長を訪日招待する等、中東和平を念頭においてパレスチナ側との信頼関係構築にも努めている。アフガニスタンについては2000年3月、日本の外務省がタリバン関係者、反タリバン派、ロヤ・ジェルガ関係者を日本に招き、即時停戦、直接対話の再開を訴えている。この時日本政府は、「アフガン和平復興会議」を主宰する用意があることを伝えたのだが、これが米軍介入後2002年、東京でのアフガン復興会議開催として結実する。
紛争解決は赤裸々な利権闘争の場でもある
既に触れたが、紛争解決というのは実は、復興再建需要を当て込んだ熾烈な利権競争の場でもある。紛争解決への貢献の度合いが大きく、それを通じて相手国政府に食い込んだ国ほど、復興需要の注文(多くの場合、他国からの援助金も使ってのもの)を獲得することができる。欧米諸国の政府やNGOは人道問題を前面に出して紛争解決に関与するが、ビジネス界は復興需要を狙って政府を動かそうとしているのであり、彼らは日本も当然そうだと考えて、日本政府の成功を喜ばないこともある。
2.国際紛争への日本政府の関与とその手段
紛争の各段階で日本政府が関与するには、どのような手段があるかを実例に即して述べてみたい。なお自衛隊の派遣については国内での激しい論議の対象となってきたが、国際平和協力法に従って自衛隊、あるいは自衛官が派遣された東ティモール、ネパールなどについては、もはや国内での大きな議論とはなっていない。
紛争予防への日本政府の関与とその手段
「紛争予防」はあまりにも広い概念であり、外交の全てが実は紛争予防なのである。ここでは、実際に紛争要因を抱える国、地域に対する日本政府の関与に議論を絞りたい。
第一に、全ての外交と同様、紛争解決関与の基礎となるのは情報である。紛争における主要なプレイヤー、その力と意図、相互の関係等を知らずに仲介をすることは不可能である。日本外務省が収集している情報は、世上言われているよりは優れたものであるが、収集に当たる外交官の能力、識見に個人差が大きい上、東京で情報を生かす体制が不十分である。また国際テロの内部情報を収集することは、日本人にはおそらく不可能である。
第二に人員(文官)派遣がある。日本にはアジア諸地域において広い人脈を持つ優れた専門家がおり、彼らを国際機関等に派遣することで紛争の予防に貢献することができる。例えばアフガニスタン特別ミッション(UNSMA)には1996~98年に高橋博史政務官、99~01年に田中浩一郎政務官が派遣された。
三つ目として政府開発援助(ODA)がある。ODAは紛争予防のために、重要な役割を果たす。日本のODAでは長期低利借款(円借款)の比重が大きく(他の西側諸国は無償資金協力・技術協力が主)、大型インフラの建設、大型開発事業を助けることが可能になっている。韓国高度成長時代、「セマウル運動」の一環として農村地帯の生産・生活向上のための円借款を供与したこと、タイの東北地方農村の生産・生活向上のための円借款の供与などが好例であるが、中国、東南アジア、南西アジア、中央アジア諸国において、日本の円借款を利用して建設された港湾設備、鉄道、高速道路、電話網、製鉄所等が、その後外国からの直接投資の呼び水になった例は多い。経済発展は政治的安定をもたらし、紛争要因を除去する。
次に軍事的プレゼンスはどうであろうか。自衛隊は海外での戦闘行動はしないが、自衛官がいるだけで紛争予防に資することもある。例えば08年1月からネパールの国連政治ミッションに派遣されている自衛隊員(6名、非武装)は、同国が王制から共和制に移行する際の混乱を抑止する効果をもたらした。
外国の軍人を日本の防衛大学に留学させたり、防衛大臣、高級事務レベル、参謀幹部等が交流したり、艦船が相互に訪問することも、人脈構築にプラスとなる。
五つ目として、国連も予防外交の有力な手段である。安保理の常任理事国でない日本は、議論の主導権を取ることはなかなかできないが、例えばアフガニスタンにおけるタリバン勢力の復活と、それが中央アジアの安全保障に与える意味合いと脅威の除去策を議論することを提案することで、中央アジアの安全保障を高めたりすることができる。また安保理の非常任理事国である間は、2006年10月の「北朝鮮の核実験実施の発表に関する国際連合安全保障理事会の決議」採択におけるように提案・調整を行うこともできる。
最後に、日本にとって予防外交の華ともいえるのは、地域の安定性を維持するための新しい枠組みの創設を助けることだ。その最たる例は、東南アジア地域への日本政府の対応である。1967年東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成されて以来、日本政府はASEANをベースとした東南アジア諸国の結束を助け、1973年ベトナム和平が成立すると北ベトナムと西側の中では最初に外交関係を樹立し、1977年の「福田ドクトリン」ではASEANとインドシナ諸国の間に友好関係の樹立を強く呼びかけたのである。当時、ベトナムがASEANに侵攻して共産化の「ドミノ効果」を起こすのではないかということが広く恐れられていたからだが、今日ではインドシナ諸国はASEANに加盟して、その呼びかけは実っている。
中央アジアも好例である。2004年8月に川口順子外相が中央アジア諸国を歴訪して、「中央アジア・プラス・日本」と称する協議メカニズムを発足させた。これは同地域諸国に団結を促し、それによって同地域の経済発展と政治的安定化を促進しようとするもので、予防外交の一環といえる。さらにはオスマン・トルコ、ソ連帝国崩壊の後にバルト諸国からバルカン、コーカサス、中央アジア諸国と続く弧状の地帯に形成された「不安定の弧」を安定化させるべく、2006年に麻生太郎外相が「自由と繁栄の弧」外交を打ち出したが、これも予防外交の一環といえる。
紛争解決のための日本政府の関与と手段
実際に紛争が起こってしまった場合、外部からの関与の態様は調停から武力介入まで幅が広い。大きな武力を持たない国でも、調停はできる。それは例えば、ノルウェーが中東のパレスチナ紛争やスリランカの内戦を調停したことで実証されている。日本の場合、スリランカでの調停には加わっていたし、1978年にベトナムがカンボジアに武力侵入した際には、当時急速に進展しつつあったベトナムとの関係をODA供与も含めて凍結することによって、その早期撤退を促したことがある。2000年、日本政府がアフガニスタンの関係者を日本に招き、即時停戦、直接対話の再開を訴えたことは既に述べた。ただし、日本政府の努力が功を奏するのは紛争の収拾段階や復興段階であることが多い。なお北朝鮮の核をめぐる六者協議も、紛争解決のための国際的取り組みの典型例である。
二つ目として、国際機関に勤務する日本人が、紛争解決に枢要な役割を果たすこともある。1994年、明石康はユーゴ問題担当・事務総長特別代表としてボスニア紛争等の解決にあたった。緒方貞子は国連難民高等弁務官として、ルワンダの難民の安全確保のために現地人を大人数雇いあげる等、独創的、しかし効果的なことを行った。また2001年アフガニスタンのタリバン政府崩壊直後には、国連が中心になって人道救援物資が素早く大量にアフガニスタンに搬入されたが、これは当時の大島賢三・国連事務次長が運搬経路に位置する中央アジア諸国と交渉する等、陣頭指揮を執って行ったものである。
第三点目として「多国籍軍」への協力・参加もあり得るだろう。冷戦後、国連安保理主導の下に「多国籍軍」が結成された例は、11回に及ぶ(樋山千冬「冷戦後の国連安保理決議に基づく多国籍軍」http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200303_626/062603.pdfに準拠)。日本の自衛隊はたとえ派遣を認められても交戦権を大きく制限されているため、紛争期間中の多国籍軍に参加したことは未だない(イラク戦争の場合は、紛争地域外に派遣された)。1991年の湾岸戦争の際、自衛艦を送れなかった日本政府は、戦闘行動が終わった後、自衛隊の掃海艇を派遣した。だが、この湾岸戦争の際には計135億ドルの特別拠出を、米国を中心とする多国籍軍に対して行ったにもかかわらず、なお評価されなかったことは長く記憶されるだろう。
最後に、9月11日事件およびイラク戦争への対応を振り返ってみる。湾岸戦争の際の経験もあり、2001年9月11日事件の後の日本政府の対応は素早かった。9月21日にはアフガニスタンに隣接するパキスタンに対して、4,000万ドルの緊急経済支援を他国に先駆け発表(11月には計3億ドルに増額)、また44億5千万ドル相当の債務繰延を行った。またアフガニスタン難民支援を行う国際機関等に1億2千万ドルまでの支援を行う用意を表明、10月には国際平和協力法に基づき、テント等生活関連物資を自衛隊機でパキスタンまで輸送した。またその直後採択されたテロ対策特措法に基づき、同じくテント等の生活関連物資を自衛隊掃海母艦でパキスタンに輸送した。
同年11月からはテロ対策特措法に基づき、自衛艦が米国等の艦船に対しインド洋での給油を開始した。またアフガニスタンに国境を接するウズベキスタンおよびタジキスタンの安定強化のため、2001年それぞれ約10億円の無償資金を提供した。
イラク戦争については2003年7月にイラク人道復興支援特措法を採択、人道復興支援と安全確保支援のため陸上自衛隊が非戦闘地域サマーワに06年7月まで派遣された。航空自衛隊はその後も08年12月まで残って、クウェートとイラク各地間輸送に従事した(武器・弾薬を除く)。
サマーワでの陸上自衛隊は一日平均700名の現地人を雇用、学校・道路の補修、給水、医療支援を活動の重点とし、現地テレビで活動ぶりの広報にも努めたため、地域住民の強い支持と信頼を獲得したという。陸上自衛隊は一名の死者を出すこともなく帰還したのである。しかし2003年11月には、ODAプロジェクト調整のために外出した外交官2名が銃撃を受けて殉職している。
紛争事後処理・復興過程への関与と手段
(カンボジア和平)
海外での武力行使は原則としてできない日本は、紛争末期以降の事後処理・復興への関与を最も得意としてきた。古典的な成功例はカンボジアである。
1989年の第一回カンボジア問題パリ国際会議に日本は参加(和平会議に日本が参加したのは戦後初)、1990年6月には「カンボジアに関する東京会議」を開催した(カンボジア各派が参加)。これは地域紛争の解決を目指した和平会議の開催という、我が国外交史上初の試みであった。1991年10月のパリ和平協定を受けて、明石康国連事務総長特別代表が統括する国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による暫定統治が開始されると、日本は1992年6月に「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」を採択し、同年9月以降、日本から自衛隊施設大隊、停戦監視要員、文民警察官及び選挙要員等延べ人数1,300人余りがUNTACの活動に参加した。これは日本による初のPKO派遣となった。
1993年には日本人国連ボランティア1名、警察官1名の尊い命を失う悲劇があったが、総選挙は成功し、カンボジアは再出発した。その後日本は「カンボジア復興国際委員会(ICORC)」の議長を務め、その後も「カンボジア支援国会合」の開催国を3回務めた。
(タジキスタン)
タジキスタンではソ連崩壊直後から内戦が勃発した。1994年の暫定停戦合意以来、UNMOTのもとで和平形成が進められていたが、1998年には監視団に派遣されていた秋野豊筑波大助教授が反政府勢力に銃撃され殉死した。その後国連タジキスタン平和構築事務所(UNTOP)が復興を支援するようになったが、そこでは日本外交官の高橋博史が2000年から次席代表を務めた。その間、96年、01年の2回、タジキスタン支援国会合が日本で行われている。
(アフガニスタン)
9.11事件後の米国による介入後、アフガニスタンにおける安定化、復興へ向けての日本の貢献は大きい。カルザイ大統領はじめ政府要人の訪日は数多く、04年にはベルリンでドイツと共同でアフガニスタンに関する国際会議を開催した。これまで約14億ドルを支出したODAで、国内環状道路の修復等が進んでいる。また日本は地方の軍閥の非武装化を主導した。
3.国際紛争解決・事後復興支援体制の整備(国際平和協力法を中心に)
NGO支援
カンボジア和平支援を契機に日本ではボランティア活動への意識も高まり、政府も支援体制を整備した。1989年に発足した草の根無償では海外でのNGOの活動支援ができるようになっていたが、関連予算が2002年には「日本NGO支援無償資金協力」に統合され、2006年には52件に対し約10億円が供与されている。
国際緊急医療チーム
政府自身による活動については、1982年に国際協力事業団(現、国際協力機構、JICA)に「国際緊急医療チーム」の制度が発足し、緊急時の医療チーム派遣が容易になった。1987年には「国際緊急援助隊の派遣に関する法律」が施行され、医療だけではなく災害の際、諸分野の専門家を派遣する体制が整備された。その後1992年には国際平和協力法の成立を受け、自然災害の場合には国際緊急援助隊、紛争に起因する災害の場合には国際平和協力法の定めるところに従い、それぞれ協力が行われるようになった。
国際平和協力法
国際平和協力法によって自衛隊、警察、海上保安庁などの人員をPKO、人道救援、選挙監視、物資協力の4分野のいずれかのため海外派遣できるようになった。同法施行以来2007年11月までに39件の協力実績を見せている(以上、外務省ホームページhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/pko/kyoryokuhou.htmlに基づく
)。その中には東ティモールPKOへの参加、コソボでの選挙監視、スーダンの国連ミッションに対する物資協力などがあり、カンボジア、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモールの各PKOには自衛隊の部隊が参加した。08年1月現在、ネパールでの国王退位・共和制移行に伴う国連ネパール支援団(UNMIN)に6名の軍事監視用非武装自衛隊員が派遣されている。
地方復興チーム(PRT)の是非
紛争中は言うに及ばず、紛争直後の復興・建設作業においても作業員の安全確保は重要な問題である。軍隊自身が作業を行う場合、技術要員が軍隊の警護を受ける場合等種々あるが、このような「人道工兵」的なアプローチはこの数年のアフガニスタンにおいて発達してきた。それは米軍によって始められ、NATOの国際治安支援部隊(ISAF)にPRTとして引き継がれた。
日本は安倍首相が07年1月NATOを訪問した結果、PRTへの支援として3月に20億円の拠出を決定している(学校建設等、小型人道プロジェクトを実施中)。しかしPRTへの自衛隊派遣については、国内の合意が成立していない。
アフガニスタンを外れて一般的にいえば、日本が独自のPRT部隊を保有することも選択肢だろうが、例えばJICA要員と自衛隊を混成で派遣するような場合には、指揮命令ラインを一本化しておくことが必須の条件である。
国連平和構築委員会
2005年12月、国連において、平和構築委員会が設立された。これは政府間諮問委員会として、紛争後の平和構築と復旧に向けた活動について、一貫したアプローチを関係諸機関に助言することとなっている。メンバーは31カ国だが、日本はほぼ常にメンバーになれる態勢にある。安保理に日本が常時入れない現状では、紛争後のプロセスにつき発言できるこの委員会で活躍するのも悪くなかろう。
4.国際紛争への日本政府の関与とその問題点
国際紛争への自衛隊派遣をめぐっては、国連総会または安保理の決議によらない多国籍軍への参加の是非が今後も問題として残る。イラクで見られたように、自衛隊は他国の軍に守ってもらわなければならない程の制約をその武力行使にあたって課せられているが、この面での制約緩和も実現されなければならない。
日本は国連における活動をさらに充実させる必要がある。最近、「安保理常任理事国プラス・ドイツ」というグループがイラン核開発をめぐって決議案を提出したが、日本も同種のやり方を追求するべきだ。
国際紛争への関与については、外務省と防衛省の間で立場が異なることがある。またJICAも、危険地域への要員派遣を忌避する。総理官邸もすべての問題に介入する時間と人員を有しているわけではない。
日本の個人が紛争解決や復興支援のために危険地域に入り込み、その結果生命の危険に遭遇した場合、政府は難しい立場に置かれる。大使館員を派遣しても救助の助けになるどころか、かえって二次災害にあう可能性が高い。基本的には現地政府に解決をしてもらわねばならないのである。
近年、日本のODAは大きく減額されたが、これによって紛争解決における日本の役割は後退しよう。ODAを再び充実させなければならない。
日本政府の努力については、国内外での広報をさらに強化する必要がある。サマーワで自衛隊が行った現地広報などの経験を集め、マニュアル化することが有用だし、若手に広報を担当させ登竜門とすることが有効だろう。
日本は世界の安定と発展、グローバルな自由貿易に依存している。その維持・強化に自ら努めることがなければ、利己的で自主性のない国とみなされ国際的発言権を失うばかりでなく、日本の安全保障の根幹を成す日米同盟関係をも脆弱なものとしかねまい。
参考文献
• 五百旗頭真『戦後日本外交史』(有斐閣、2006年)
• 今川幸雄『ベトナムと日本—国交正常化への道』(連合出版、2002年)
• 今川幸雄『カンボジアと日本』(連合出版、2000年)
• 北岡伸一編『戦後日本外交論集』(中央公論社、1995年)
• 高坂正堯『平和と危機の構造―ポスト冷戦の国際政治』(NHKライブラリー、1995年)
• 神余隆博『国際危機と日本外交―国益外交を超えて』(信山社、2005年)
• 添谷芳秀『日本の「ミドルパワー」外交―戦後日本の選択と構想』(ちくま新書、2005年)
• 田中明彦『アジアの中の日本』(NTT出版、2007年)
• 渡辺光一『アフガニスタン/戦乱の現代史』(岩波書店、2003年)
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.japan-world-trends.com/cgi-bin/mtja/mt-tb.cgi/608