また始まった?日本外交の麻痺症状
(以下は「東アジア共同体評議会」のサイトhttp://www.ceac.jp/cgi/m-bbs/に掲載したものを、一部改変したもの)
日本は再び内政で大騒ぎ。一年前、皆であれだけ持ち上げた安倍総理を、今度は皆で「持ち下げて」いる。バブル崩壊後の日本経済はようやく持ち直してきたが、企業の利益は賃金より投資に向けられているために、国民は相変わらず「下層に落ちる」潜在恐怖が抜けず、内向き志向が全然抜けない。外交にしても、感情論が先にたつ。内でも外でも「あいつは、あの国はけしからん」の繰り返しで、閉塞状況に陥っている。参院選が荒れれば、日本は再び外交マヒ症状を一層強めることだろう。
だがアジアでの情勢は、そんな日本を置いてどんどん進む。北朝鮮の核廃棄問題ばかりではない。先日の新聞ではヒルズ次官補が、北東アジア安全保障についての対話の枠組みを作るための議論を進めたいと述べている。そしてライス長官もかねて数度にわたり、同種の考えを公言している。これは六ヵ国協議の部会の一つのテーマともなっており、ロシアが担当しているものだ。米国は、アジアの安定維持のためのメカニズムを充実させ、自分の負担を減らしたいのだ(もちろん、日米同盟をご破算にしようなどとは全然考えていない)。
だから日本も日米同盟に加えて、東アジアの安定を維持するためのメカニズムはどうあって欲しいのか、自分の案をたたきあげ、早めに米国などとすり合わせておくことが必要だろうと思う。その際、次の諸点を忘れてはなるまい。
①東アジア諸国間の協力と話し合いだけでは、安定と繁栄と自由を維持することは難しい。
東アジアの Status Quo は日米同盟が支える米国の軍事力によって担保されており、東アジア諸国の繁栄は米国が戦後60年以上にもわたり自由貿易にコミットし、現在でも実質的には東アジア諸国の最大の貿易パートナーとして存在していることによって確保されているからだ。日米同盟をアジアの安定維持のための共同資産と位置づけ、また経済面においては米国を除外して考えてはならないということだ。
②東アジア諸国はいつまでも19世紀的国民国家モデルを追及し、ナショナリズムを追及して角突き合わせていくより、安定の維持のための集団的な協議の場を充実させていく方が、各国の利益に適う。植民地主義時代のように侵略されるのではないか、自分の利益が踏みにじられるのではないかという恐怖感を払拭できるような仕組みが、今のアジアには必要だ。
現在の日本にとっては、北朝鮮への対応がカギになっている。拉致問題を抱える日本は、6者協議でイニシャティブを発揮しにくい。だが、それでいいのか? 北朝鮮はおそらく崩壊するまい。中国も、朝鮮半島のStatus quoが乱されるのを望んでいないし、韓国も拙速な統一はおそらく望んでいるまい。それを前提として、北朝鮮を日本のアジア外交の中の駒としてこれからどう位置づけていくかをもっと論ずるべきではないのか? 北朝鮮のあたりには古代の昔、渤海国という国があり、日本とも使節を交換していた。当時の日本外交は、新興の唐帝国、その唐に傾斜して日本と対抗していた新羅、そしてその中間に位置する渤海国、更にはその向こうの契丹を見据えて運営されていたのである。
日本は外国に対してなじるとか、付き合わないとか、キレルとか、それだけでは孤立するだけだ。そのような路線は、どんなに優れた政治家でも外交官でも、とても支えきれない。国と国の間の関係は感情だけではなく、日本の周りにどのような国際関係を作り出すのか、つまりどのような枠組みを作っていくのかという観点からも運営されなければならない。
米国が日本を特別視してくれることに期待しているだけでは、ジリ貧になる。新しい枠組み作りについて積極的に発言、提案していかなければ、日本は自分で自分を対米依存に追い込むばかりか、最後には梯子を外されて、孤立するだけになるだろう。そうなってやっと―ーー責任を米国や国際社会になすりつけた上で―ーー路線転換ができると為政者が思っているのだったら、何をか言わんやだが。
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コメント
充実したブログですね。
タブーを恐れず、果敢な言論活動を期待します。