日本終戦から高度成長までの再建設過程
(1993年頃、モスクワで書いたもの。原文はロシア語。偶然見つけたので、一部変更した上で掲載します)
河東哲夫
戦後日本の叙事詩
戦争は1945年8月に終わり、日本は領土の44%を失った。大きな軍隊が解散され、720万人の将兵が放り出された。150万人の日本人が海外の領土から帰還し、軍需工場に雇われていた400万人が職を失った。全体で、当時7200万人の人口のうち、1270万人が当時職を失ったのである。ハイパ-・インフレもあった。戦後2年半の間に、消費者物価は25倍になった。既に戦争の末期から社会のモラルは低下し、詐欺、汚職、軍事物資の横流し、そしてヤミ市場は、ごく普通の事象になっていた。
終戦直後の数年、米国は敗戦した我々をあまり助けようとはしなかった(彼らが気を変えたのは、冷戦激化の1947年以降である)。日本人は皆、自分で生き延びる術を見つけねばならなかった。多くの者が農村に戻り、農業に従事した(当時、農業就業人口は500万人増加した)。他の者は小規模の小売りや、町工場での消費財生産を始めた(ソニー、パナソニック、ホンダといった、今日の世界的大企業は当時、こうして2、3人で始めたのである)。都市居住者も、小さな菜園を耕していた。自分の両親も、爆撃で破壊された軍需工場の病院跡にできた住宅のそばで、野菜作りをしていたものだ。
日本政府は、生産増加のための措置を取った。厳格な均衡予算政策は取られず、生産増加がいつかはインフレを克服することが期待されていた。1946年、日本政府は復興金融公庫を設立、企業への融資を開始する(資金は、復金債を日銀に引き受けさせることにより調達。その後、国民の貯蓄も活用されるようになった)。その際、重点は当時の重要産業、即ち鉄鋼、電力、石炭に置かれた。右部門における政府融資の割合は70-85%に及び(当時、経済全体での平均は23%)、GNPは1947年に8、4%、1948年に13%、実質ベ-スで成長した。復興金融公庫には、もちろん問題もあった。資金の一部は単なる損失の穴埋めに使われたし、賄賂で融資をせしめようとした者もいた。そしてインフレも、1949年までは収まらなかったのである(インフレ率:1947年116%、1948年73%、1949年25%)。
外貨は、当局の完全な管理下にあった。外貨を使用できるのは先進技術、及び経済発展に資する物資を輸入する時に限られていた。消費物資の大量輸入は、できなかったし、ましてや外貨が国内で流通することもなかった(注:この点は、90年代のロシアの正反対)。
このような体制の中で、汚職があまりなかったことは注目される。確かに日本にも、汚職の歴史はある。しかしそれでも、当時大多数の官僚は、国民のために新しい国家を建設する意欲と責任感を有していた。そして重要なことは、官僚の地位が安定していたことである。官僚には狭いとはいえ住宅が低家賃で貸し出され、また終身雇用の下、勤務年数に応じた平等な定期的昇進が行われた(もちろん、それぞれの地位の重要性は異なっていたが)。ただ一回の賄賂のために、こうした地位を犠牲にしようとする者は少なかったのである。
占領軍は当初、日本の民主化を行った。その指示により、いくつかの財閥が解体され、その株式は公開され、老年の経営者は追放された。占領軍内部の意見対立と日本人自身の抵抗によって、財閥解体は完全には行われなかったものの、新しい会社や革新的な若い経営者の台頭のための条件整備には十分だった。
部分的には占領軍の圧力の下、農地改革が行われた。農村の窮乏化(この中で、農民は小作農に転落していた)は、日本産業化のための原初蓄積を実現した。今や農民は豊かになって、市場を提供するとともに、政治の安定化の基盤となることが要請されたのである。1946年には全耕地の46%を小作農が耕していたが、1950年にはこの数字は10%になっていた。農業投資は急増した。しかし、農業生産が増加したのは、農地改革から10年もたってのことだった。
1947年頃の冷戦激化は、米国の対日姿勢を転換させた。米国は、日本の経済発展を助けるようになったのである。日本政府は、米国の援助と、米国からの直接投資に期待を寄せるようになった。しかし米国は、日本を甘やかせはしなかった。直接投資は来なかった(注:90年代のロシアでは、外国からの直接投資に対する安易な期待が目立ったのです)。米国企業にとって、魅力あるものではなかったからである。「マ-シャル・プラン」による無償援助も、日本には行われなかった(注:ロシアやウズベキスタンにおいては、「日本はマーシャル・プランのおかげで復興できた」と思い込んでいる人が多いのです)。
その代わり米国は、1億5千万ドルの綿花回転基金を提案してきた。日本はこれにより米国から綿花を輸入、製品を輸出してはその代金でまた米国から綿花を輸入したのである。こうして、日本の繊維産業は回復していった。1947-50年、米国は日本に、18億ドルに上る現物借款「ガリオア・エロア」を行い(1950年、日本のGNPは110億ドル)、医薬品、肥料、鉄鉱石、石油、石炭等を供給した。日本政府はこれを国内で売却し、代金を積み立てては返却に充当した。
米国からの借款、復興金融公庫による活発な融資、政府による価格補助金(1949年、価格補助金は予算の27%を占め、ほぼ同額が貿易への補助金に費やされていた)、これらはインフレを助長した(1948年においても73%)。この時、終戦後の日本で初めての厳格な反インフレ政策が、アメリカ人ドッジによって提唱されたのである。
1948年12月ドッジは、助成金と米国の借款によって膨れ上がった日本経済を批判して、「ドッジ・ライン」を宣言した。復興金融公庫の融資業務は停止され、価格補助金は1951年までには廃止され、厳格な均衡予算が導入された。1ドル360円の単一為替レ-トが導入されて、大多数の日本企業は競争力を確保した。「分相応の経済」、「自助努力による経済」への条件が整ったのである。
しかし、こうした療法の副作用は強烈だった。金づまりが生じ、インフレ率は1950年にマイナス7%にまで落ちたものの、GNP伸び率は1948年の13%に比し翌年には2、2%にまで落ちた。多数の中小企業が破産し、家族心中の例も多かった。1949年には、雇用は10%落ちたのである。朝鮮戦争がなかった場合、こうした状態が何をもたらしていたか、今となっては判断が難しい。但し、西欧を中心として世界貿易が当時伸びつつあったことに鑑みれば、ドッジ・ライン後の日本も一定の停滞を経た後、着実で健全な成長を遂げたことであろう。
1950年の朝鮮戦争は、戦後の日本経済を大きく変えた。世界の歴史において戦争はしばしば、経済の転換点を成している。1950-53年の間に米国は、11億ドルの物資を日本に注文し、ほぼ同額を日本駐留の米軍人及び軍属が消費した。これが、戦後の「日本の奇跡」に見られる急速な成長の引き金となる。鉱工業生産は1949-51年にほぼ倍増した。
1955年、日本がGATTに加盟するまで、日本は国内市場を守る政策を取りやすい環境にあった。また1964年、日本がIMF8条国に移行するまで、外資の国内市場への進出を止めることが可能だった。比較的低い円の対ドル・レ-トは輸出を促進し、輸入を抑えた。国内、海外の市場での激しい競争は、日本の製品の質を恒常的に高める。これは、先進設備を積極的に輸入することによっても、可能になったのである。1951年から、先進設備を輸入した企業には、様々の優遇税制措置が講じられるようになった。例えば、先進大型設備導入後、最初の1年には50%の減価償却が認められたのである。
ところで日本は、1952年に世界銀行に加盟し、1953-66年に計8億6千万ドルの貸し付けを供与されている。
日本の経験から何を学べるか?
日本の経験は、何も変わったものではない。こうした成長の道は、他の先進国も通ったのである。例えば米国においては第1次世界大戦まで高関税(40-50%)が存在し、西欧の批判を招いていた。関税は当時、米国連邦政府の主要収入源であり、個人所得税が導入されたのは、やっと1913年にいたってである。先進技術においても当時の米国は西欧に依存していた。
しかし、終戦後の日本に特異な要因もある。第1に、戦前の生活水準の記憶が大都市の中産階級には残っており、彼らは全力でこれを回復しようとしたことだ。第2に、戦前既に法治国家の原則と、ビジネス道徳が確立していたことだ。借金不払いは、直ちに破産につながったのである。
第3に、戦後の日本においては、軍需産業の民需転換は徹底的に行われ、また経済は軍需の負担から開放されたことである。第4に,官僚に対する国民の信頼が比較的高かったことである。官僚が国の富を私していると思う者は少なかった。これは別に,「優秀で賢い」日本の官僚が,「従順で蒙昧な」国民を支配していたということではない。反対に,「日本の奇跡」において主要な役割を果たしたのは国民と私企業であり,政府は彼らの仕事のための条件整備をしたのである。
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コメント
ドッジの均衡予算政策は国家予算の安定にはメリットかもしれないが、増税により、国民に負担をかけたと思います。減税政策の方が国民には良かったのではと思います。公共事業で潤うのは政府関係の一部の者だけのように思えました。
御丁寧にコメントいただき、感謝します。
公共事業については、地方によってその効き目は違うのだと思います。公共事業にカネをつぎ込むことでやっとその地域の経済が回り始めるのであれば、つぎ込むのがいいと思っております。