変わる世界と日本の外交 「ぺるそーな」4月号から
総合月刊誌の「ぺるそーな」に、世界と日本の関係、日本の外交についての連載を始めました。4月号の第一回分を以下にご紹介します。「ぺるそーな」については、perseuna@nifty.comにご照会ください。
世界、日本は様変わり、そして人は世代交代 Ⅰ
―――団塊世代外交官の見た世界――― Japan-World Trends代表
河東哲夫
二年前、八年間の外国勤務から帰ってみると、なにか知らない別の国に来た感じがした。団塊世代は引退寸前。そして大型で美しく、そして強い権利意識を持った若者が闊歩している。
世界における日本の地位も変わった。冷戦が終わり、更に米国がテロや中近東の問題に集中している今、日本が自前の外交をしなければならない場面が増えている。またこれまでは右肩上がりの国力、ODAを背景に、外交を展開できたが、今では別のやり方が必要だ。そしてこれまで日本はアジアではダントツの一番だったが、今ではサッカーでのように「アジア予選」を勝ちあがらないと、世界でプレーもできない状況になっている。
そして日本の世界的地位が相対的に沈んでいったこの十五年間、日本の外務省は折悪しく数々のスキャンダルに翻弄され、国民の信頼を失った。イラクへの自衛隊派遣、国連安保理改革での挫折などは、戦後一貫して続いた対米「従属」への不満を表面化させ、二月の六者協議合意で北朝鮮のミサイルの扱いが棚上げされたことは日本の安全保障に対する米国のコミットメントの確かさを疑わせることとなっている。
そんなこんな、考えると頭の痛くなることばかりなのだが、これからの十何回、団塊世代の元外交官として今の世界、日本、そして日本外交について感じていることを書き連ねてみたい。
日本史を知らない日本人
ものの本を読んでいると、つくづく自分はアジアのことを知らなかった、教わってこなかったと思う。白状すれば、「冊封体制」という言葉を知ったのも、つい四、五年前のことだ。冊封体制と言うのは、中国を中心とし、中国に服属している限りその安全を保証してもらえるという同盟体制のことで、日本だけは聖徳太子の時代にこの体制から脱したと言われている。
だがそれでも、日本史は一貫して中国の濃い影の中で推移してきた。大化の改新(六四五年)や壬申の乱(六七二年)などは、朝鮮半島の新羅が新興の大唐帝国と組んで、日本の朝廷とも深い関係にあった百済を滅ぼす(六六〇年)緊張した情勢の前後で起こったことだ。万葉集に出てくる「防人」も唐や新羅から海岸を警備していたものに違いない。
我々は、菅原道真が遣唐使を廃止して以降、日本は閉鎖された環境の中で独自の文化を育んだと教わってきたが、中国との民間交流はもちろん途絶えるはずがなく、現に室町時代に日本が育んだ水墨画、書院建築、日本庭園などの源流は中国の宋文化なのだ。江戸時代の武士の教養も四書五経で、余興には詩吟をうなったのである。
日本がアジアの中心にのしあがったのは、日露戦争に勝ったあたりからである。中世の世界においてアジアは「世界の工場」として機能し、インドの綿織物、中国の絹織物と陶磁器、東南アジアの香料は、アジア域内、そしてイスラム地域、ヨーロッパと活発に取り引きされ、日本もその辺境で金や銀を輸出して生きていた。
ペ
ペリー提督が日本の開港を迫った時も、主な目的は日本との貿易より、中米間の船の往来のための中継港、捕鯨のための基地を得ることにあった。そして太平洋戦争後、米国は中国の国民党政府に大型の援助を与える一方では、「日本を長年にわたってアジアの三流国におとしめる」政策を取り、工場設備の接収などを始めたのである。もし中国で共産党が勝利していなければ、アジアの中心的存在となっていたのは日本ではなく中国であったろう。
ただ、日本は中国に対して卑屈になる必要は全然ない。戦争で与えた被害については、今後同じようなことを起こさないよう我々個々人として自戒すべき点は多々ある。だが国と国の間では請求権を相互に放棄してあるのだ。僕が言いたいのは、日本は自分がアジアのリーダーであることを当然視して中国と徒に張り合うようなことはやめ、共存の道を探るべきだということだ。
多民族共同乗り入れ「ゾーン」としての中国
中国と言うと、漢民族が三千年の長きにわたって築き上げてきた大文明、と誰でも思っているが、実はそうでもない。秦の始皇帝が中国を初めて統一したのは紀元前二二一年、アケメネス朝ペルシャに遅れること実に三三七年だった。秦の統治体制にペルシャの影響を指摘する学者さえいる。その後約二千年余の歴史の上で、漢民族による王朝は半分もなかったと言われる。例えば唐でさえ、その王侯には遊牧民族の血が濃く流れ、安禄山もウィグルとソグドの混血だったのである。「漢民族」なる概念も曖昧なもので、今でも北京、上海、広東など、言語の違いは方言の域を越えている。
洛陽や長安など中国初期の首都はシルクロードの入り口にあり、ソグドなど中央アジアの都市国家やペルシャと密接な交流を有していた。中国のこの地方からは、当時のソグド人の貴族の墓が多数発掘されている。彼らは中国で、官僚や商人として生活していたのである。
モンゴル人の作った元王朝は、中国をユーラシア大陸に名実ともに組み込んだ。経済行政ではソグド人、通商ではペルシャ人が活躍し、ビザンチン帝国近辺までユーラシアの広い地域が関税のないいわば「自由貿易地帯」になったのである。その後モンゴルは退潮したが、清の時代でもよう正帝が「中華世界は漢人だけのものにあらず」と宣言(「大義覚迷録」)する等、中国は諸民族の連邦的存在だという認識は残っていたのである。
いずれにしても、日本も中国ももっと虚心坦懐になり、米国も含めてアジアの安定と繁栄を保証する体制を共に作っていったらいいと思う。
で今回は頭を柔らかくする柔軟体操みたいなことで終わったが、次回は日本の外交、そして日本自体が直面している問題の根本を探ってみることにしたい。
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コメント
確かに、外務省には多くのスキャンダルがあったかもしれませんが、それが外務省の全てを否定するような「信頼の喪失」を招いているかといえば、少なくとも私個人は、そうは思ってはおりません。拉致問題含めた北朝鮮への対応も、何かと批判されるところではありますが、「国益」の観点からの理性的な判断が常に徹底されてきたことを、結果論だけ見て軽々に否定することはできないのではないかと思います。
百歩譲って経済活動は「結果が全て」だったとしても、政治活動、本件で言えば「外交」については、「結果が全て」ではない部分も多々あるでしょうし、10年後、20年後にその成果が結びつくこともあるはずです。そんな想いを持ちながら、私は日本の外交を見つめていこうと考えております。
北朝鮮の外交が、「瀬戸際外交」などと言われ、「さすがにしたたかなところもあるな」などと感心すらしてみせるメディアなどもありますが、ああいった外交は「開き直り外交」に過ぎないのではないかと思います。「強い外交」とはすなわち「自分の都合や言いたいことだけを無理矢理主張して居直る外交」のことでは決してありませんし、今後の日本の外交にも、声の大きさだけで「強い外交」をしているように見せかける外交などはしてほしくないと思います。
二年前、八年間の外国勤務から帰ってみると、なにか知らない別の国に来た感じがした。団塊世代は引退寸前。そして大型で美しく、そして強い権利意識を持った若者が闊歩している。
世界における日本の地位も変わった。冷戦が終わり、更に米国がテロや中近東の問題に集中している今、日本が自前の外交をしなければならない場面が増えている。またこれまでは右肩上がりの国力、ODAを背景に、外交を展開できたが、今では別のやり方が必要だ。そしてこれまで日本はアジアではダントツの一番だったが、今ではサッカーでのように「アジア予選」を勝ちあがらないと、世界でプレーもできない状況になっている。
そして日本の世界的地位が相対的に沈んでいったこの十五年間、日本の外務省は折悪しく数々のスキャンダルに翻弄され、国民の信頼を失った。イラクへの自衛隊派遣、国連安保理改革での挫折などは、戦後一貫して続いた対米「従属」への不満を表面化させ、二月の六者協議合意で北朝鮮のミサイルの扱いが棚上げされたことは日本の安全保障に対する米国のコミットメントの確かさを疑わせることとなっている。
そんなこんな、考えると頭の痛くなることばかりなのだが、これからの十何回、団塊世代の元外交官として今の世界、日本、そして日本外交について感じていることを書き連ねてみたい。
日本史を知らない日本人
ものの本を読んでいると、つくづく自分はアジアのことを知らなかった、教わってこなかったと思う。白状すれば、「冊封体制」という言葉を知ったのも、つい四、五年前のことだ。冊封体制と言うのは、中国を中心とし、中国に服属している限りその安全を保証してもらえるという同盟体制のことで、日本だけは聖徳太子の時代にこの体制から脱したと言われている。
だがそれでも、日本史は一貫して中国の濃い影の中で推移してきた。大化の改新(六四五年)や壬申の乱(六七二年)などは、朝鮮半島の新羅が新興の大唐帝国と組んで、日本の朝廷とも深い関係にあった百済を滅ぼす(六六〇年)緊張した情勢の前後で起こったことだ。万葉集に出てくる「防人」も唐や新羅から海岸を警備していたものに違いない。
我々は、菅原道真が遣唐使を廃止して以降、日本は閉鎖された環境の中で独自の文化を育んだと教わってきたが、中国との民間交流はもちろん途絶えるはずがなく、現に室町時代に日本が育んだ水墨画、書院建築、日本庭園などの源流は中国の宋文化なのだ。江戸時代の武士の教養も四書五経で、余興には詩吟をうなったのである。
日本がアジアの中心にのしあがったのは、日露戦争に勝ったあたりからである。中世の世界においてアジアは「世界の工場」として機能し、インドの綿織物、中国の絹織物と陶磁器、東南アジアの香料は、アジア域内、そしてイスラム地域、ヨーロッパと活発に取り引きされ、日本もその辺境で金や銀を輸出して生きていた。
ペ
ペリー提督が日本の開港を迫った時も、主な目的は日本との貿易より、中米間の船の往来のための中継港、捕鯨のための基地を得ることにあった。そして太平洋戦争後、米国は中国の国民党政府に大型の援助を与える一方では、「日本を長年にわたってアジアの三流国におとしめる」政策を取り、工場設備の接収などを始めたのである。もし中国で共産党が勝利していなければ、アジアの中心的存在となっていたのは日本ではなく中国であったろう。
ただ、日本は中国に対して卑屈になる必要は全然ない。戦争で与えた被害については、今後同じようなことを起こさないよう我々個々人として自戒すべき点は多々ある。だが国と国の間では請求権を相互に放棄してあるのだ。僕が言いたいのは、日本は自分がアジアのリーダーであることを当然視して中国と徒に張り合うようなことはやめ、共存の道を探るべきだということだ。
多民族共同乗り入れ「ゾーン」としての中国
中国と言うと、漢民族が三千年の長きにわたって築き上げてきた大文明、と誰でも思っているが、実はそうでもない。秦の始皇帝が中国を初めて統一したのは紀元前二二一年、アケメネス朝ペルシャに遅れること実に三三七年だった。秦の統治体制にペルシャの影響を指摘する学者さえいる。その後約二千年余の歴史の上で、漢民族による王朝は半分もなかったと言われる。例えば唐でさえ、その王侯には遊牧民族の血が濃く流れ、安禄山もウィグルとソグドの混血だったのである。「漢民族」なる概念も曖昧なもので、今でも北京、上海、広東など、言語の違いは方言の域を越えている。
洛陽や長安など中国初期の首都はシルクロードの入り口にあり、ソグドなど中央アジアの都市国家やペルシャと密接な交流を有していた。中国のこの地方からは、当時のソグド人の貴族の墓が多数発掘されている。彼らは中国で、官僚や商人として生活していたのである。
モンゴル人の作った元王朝は、中国をユーラシア大陸に名実ともに組み込んだ。経済行政ではソグド人、通商ではペルシャ人が活躍し、ビザンチン帝国近辺までユーラシアの広い地域が関税のないいわば「自由貿易地帯」になったのである。その後モンゴルは退潮したが、清の時代でもよう正帝が「中華世界は漢人だけのものにあらず」と宣言(「大義覚迷録」)する等、中国は諸民族の連邦的存在だという認識は残っていたのである。
いずれにしても、日本も中国ももっと虚心坦懐になり、米国も含めてアジアの安定と繁栄を保証する体制を共に作っていったらいいと思う。
で今回は頭を柔らかくする柔軟体操みたいなことで終わったが、次回は日本の外交、そして日本自体が直面している問題の根本を探ってみることにしたい。