「意味が解体する世界へ」(草思社)より アメリカ
アメリカの詩 その一
変わるアメリカ
ボストンの地下鉄の駅の朝。いつもなら,ことさらに陽気を装うアメリカ人も,一人ぽっ
ちの朝は人生の疲れもあらわ,プラットホ ムにじっとたたずむ。暗く汚れたホ ムでは
,よれよれのジ ンズ姿の青年が傷だらけのエレキ・ギタ を掻き鳴らす。やたらグリッ
サンドで音を下げるカントリ 。広軌のレ ルの間のコンクリ トには,小さな灰色ネズ
ミが何匹もちょろちょろと走りまわる。なんとなく詩情のある朝。
アメリカで詩情を感ずるとしたら,それはアンニュイな都会の朝か,大草原を行く自由
な時だ。「一万年の旅路」というインディアンの叙事詩があって,ユ ラシアからやって
きた彼らがロッキ から見下ろした大草原は吹く風に海のように波立ち,そこをバッファ
ロ の大群が黒い斑点のように動いていたという。もっともボストンの北一時間のところ
にはル ン文字の刻んであるケルト人の巨石遺跡があって,コロンブス以前に白人が大勢
この大陸に住んでいたこともありありとわかるのだが。
ボストンの地下鉄パ ク・ストリ トの駅。僕は電車で通勤することにした。でなきゃ
足はなまるし車の中で新聞を読めば気持ちが悪くなるし,なにより折角二十五年ぶりのアメリカの実感がつかめない。地下鉄とはいってもボストンのは簡単で,路面電車が時々地下にもぐってみせる風情のものだ。郊外では完全に地表に出ていて緑に包まれた専用の軌
道の上をかなりのスピ ドで驀進するから,立ってものでも読んでいればきついきつい運
動にもなる。
郊外の高校のわき,地面から十センチほど盛り上がっただけのプラットホ ムには,通
勤客が三々五々とやってくる。そして,みな孤独の中にとじこもっている。向かい側のプ
ラットホ ムでは新聞売りの太った男がなぜか毎日脇の公衆電話にかじりつき,Sの音を
やたら耳障りに響かせながら,なにやら苦情のようなことを大声でしゃべっている。仲間を見つけられず,自分の存在をどうやって証明していいかもがいている風情。電車に乗れば他人に干渉しないように気をつけている静かな空気の中,黒人の青年が窓に指を打ちつけてはジャズのリズムを取っている。
ボストンはアメリカでも一番古い都で,ごちゃごちゃした中にヨ ロッパ的な味を湛え
,チャ ルズ川にはヨットが白い姿を青い空に浮き立たせる。その川を少しさかのぼると
,左にはハ バ ドのビジネス・スク ルのキャンパス,そして右には大学の寮,ケネデ
ィ・スク ルと続く。緑に包まれた芝生の小道をサイクリングする者,ジョギングする者
,ベンチで本を読んでいる者,犬と散歩している者,そのあたりの景色は天国的だ。
でも一九九六年,僕がアメリカに二十五年ぶりに住んだ時,あのなつかしい学生時代のアメリカとはどこかがまるで違っていた。それは,生活する場が大学から高級住宅地に代
わったためじゃない。デパ トやス パ や航空会社がどれも,まるで馴染みのない名に
変わっていたためでもない。昔行った日本レストランの「大阪」が「京都」になっていたためでもなく,黒人街が今では洒落た文化人の住む街になっていたためでもない。アメリカ社会全体がどこか元気がなく,疲れてぱっとしないものに見えたのだ。言ってみるなら
,あのでか尻をふりたてガムを噛みつつ大声と派手なジェスチャ でしゃべり立てていた
あのアメリカ人の油っけがぬけて,どことなくおとなしくどことなく元気のない感じ。そういえば,ネクタイまでが地味になっている。
それはアメリカ経済がもしかすれば最後の輝きをみせて一羽ばたきする直前の時だった
。軍需の比重が大きいうえに鉄橋やら高架などのインフラが軒並み古くなったニュ イン
グランドは,それでなくとも「錆びついた地方」とかいう有り難くない名をもらい,不況と失業のあおりを一番受けていた。それまでの三十年,日本や台湾からの競争にさらされてアメリカ人の実質所得は全然伸びなかったのに,子供達の学費は四倍にもなり結婚式にも金がかかる。
アメリカがオ プンなだけの国と思ったら大間違いで,そこは人間の社会ならどこにで
もあるコネ,仲間うちの取引がないわけじゃない。特にこの点,アメリカの東部は目立ってて,リベラルを気取るわりには「名家」・・・これが英語になおすと何と露骨にも「いいコネをもった家族」(WELL-CONNECTED FAMILY)ということになる・・・がなんとなく尊敬されたり,ボストンのホテルやレストランで毎夜のように開か
れる「ネットワ キング・パ ティ 」なるものに足しげく出て,やたら笑顔をふりまか
なければやっていけない。かの有名なボストン交響楽団の定期席はもう何十年も地元の名士が埋めていて,誰かが死ぬたびに一つづついい席に繰り上がっていくのだそうだ。
だから一度手に入れた社会的地位を子々孫々継がせようと思ったら,それには大変な金と手間がかかる。僕がアメリカで勉強した七十年代の初期,ベトナム戦争が学生をシニカルにしていたとは言え,そこは戦後のアメリカ経済一人勝ちの余韻を受け,気儘なヒッピ
やビ トニク世代華やかなりし時代だった。学生たちは「自己を実現するのだ」などと
一見わかったようなことを口にだしては,勉強はちゃんとしたものの,週末はマリファナ吸い放題,道を行く女学生に声をかけては寮の部屋にひっぱりこんだりの,ボヘミアンな
生活のし放題。ところが彼らも,学生時代にはマルクシズムのスロ ガンを叫んでいた日
本の団塊世代と同じで,一度社会に出るやもう共稼ぎをせねば生きていけない現実に直面し,「自己を実現する」どころかアメリカ社会のモラルをピュリタン的なロマンチシズムから味もそっけもないサヴァイヴァル競争に変える張本人となってしまった。
ビ トルズやサイモン&ガ ファンクルの六十年代,道端では長髪をバンダナでまとめ
たヒッピ 風の若者達が針金か何かで作ったような安手の装身具を地べたに並べて売って
いた。その横をロ ラ スケ トをはいた学生がスイスイと滑りぬけ,空き地という空き
地ではフリスビ とかいうプラスチックの皿を投げ合って遊んでいたものだ。
その六十年代アメリカの自由な風にあたった僕は,日本に帰ってむっと檻に押し込められたように感じたものだが,それでも道端で日本の若者が針金で作った装身具を売っているのを発見し,アメリカの物真似とは知りつつも妙に嬉しくなったものだ。もっとも,今になっても池袋あたりで同じようなことをやっているのを見ると,そろそろ嫌気もさすのだけれど。
ビ トニクは一種のルネサンス。それまでのピュ リタニズムの窮屈な価値観への反逆
だった。ヒッピ 達は教会から人間の精神を解放したのだ。もっとも,厳しい会計公開性
とか,クレジットカ ドの番号と署名をわりと平気でファックスでやり取りしたりする信
用社会にピュ リタンの伝統は残っているし,アメリカの大統領が宣誓やスピ チで言う
「ゴッド」や「ロ ド」は,そうしたピュ リタン的伝統の上に立ったものだろうが。
アメリカじゃ今でも相変わらずボランティアや募金が盛んだが,外国の留学生をホ ム
ステイさせるといったことは夫婦共稼ぎが普通になったこの頃ではもう難しくなってきた。ある日,知り合いのアメリカ人が困ったと言う。なぜかと聞けば,裁判の陪審員になってくれという召喚が来たというのだ。日本にはないけれど,陪審員とは検事,弁護士,双方の言い分を聞いて,被告が有罪か無罪か決めるボランティアの連中だ。誰がなるかというと,年齢,職業などが偏らないよう,裁判所がくじ引きで決め,仕事の都合も構わずに勝手に裁判の期日を指定してくる。で,その男は迷ったあげく,「断わりゃ,それが記録に残って当局からいやがらせされるかもしれない」と一日休みをとって,それでも選ばれたことに満更でもない顔で裁判所に出掛けていった。
ある日ニュ ヨ クに行ったら,道端の小ざっぱりした車のかげから黒人の女の子が横
断歩道に飛び出した。急停車してはたと気がつけば,ここはマンハッタンの北のハ レム
。二十五年前なら入ってきたくはなかった黒人の居住区だった。あの頃は黒人の市民権獲
得運動のもう末期だったが,彼らは「ブラック・イズ・ビュ ティフル」とか言ってこと
さら髪をパ マで縮らせ,強く自分をアピ ルしていた。そして黒人とアジア人は仲が悪
くて,口に出しては言わないけれどどちらがこのアメリカの社会で偉いか競り合っている気味があった。
ここが,あのハ レム? 落書きがペイント・スプレ で吹きつけられたくすんだレン
ガ造りのアパ トに錆びた非常階段がぶら下がり,アパ トの前の戸口では失業者とおぼ
しき若者が三人,四人と所在なげにたむろして歩道を行く獲物を窺っていたあのハ レム
はまるで消えてなくなったよう,アメリカの普通の市街になっている。そして黒人も,も
うあの度外れとも見えた自己主張にこだわらない。レンタカ のオフィス,レストラン,
どこに行っても彼らはいて,仕事があるだけでもめっけ物という風情で熱心に仕事をして
いる。ス パ のレジや店員の仕事は,今では中南米からの移民にすっかり取られてしま
ったのだから。
二十五年前に比べれば,黒人の地位は向上した。普通の市民として受け入れられてきた。黒人への差別がひどいモスクワなどに比べるともう,天地の差だ。ボストンの南部には黒人の中産階級がまとまって住む地区があり,そこでは朝ともなれば黒人のおじさん,お
ばさんがジョギングし,夜ともなればテニスに興じているのだ。そしてテニスコ トのラ
ウンジのテレビで流れているのは黒人番組専用のチャンネルで,ごく当たり前の黒人中産
階級のホ ムドラマをやっていたりする。
なぜ黒人が一つの地区に固まるのか,人種差別じゃないかと言うかもしれないが,これ
は不動産屋,デベロッパ があの手この手を使ってここには黒人,ここにはロシアから移
住してきたばかりのユダヤ人,ここにはベトナム難民というふうに仕向けてしまうのだ。これが,住宅の賃貸価格を維持しておくための方法だ。だから差別というのか区別というのか,そういうものはあるけれど,この二十五年間黒人やアジア人が得た権利は非常に大きい。
白人もよく堪えた。この二十五年,バシングといって小さい頃同じスク ルバスで同じ
学校に通った白人,黒人が増えたせいか・・・でも「いい家庭」の白人子弟は私立学校に行くようになり,今のアメリカの公立学校はまるで人種のるつぼになっている・・・,互
いに変に意識することがめっきり減ったようなのだ。黒人は「アファ マティブ・アクシ
ョン」といって白人より有利な条件で大学に入れてもらい,社会に出てきた。ベトナム戦争に従軍した少数民族も,いい大学に奨学金つきで入れてもらったのだ。
アジア系民族に「アファ マティブ・アクション」は適用されなかったけれども,教育
熱心な彼らの数はこの二十五年大学でぐんと増えた。ハ バ ドでも学生の三割程はアジ
ア系で,カリフォルニアともなれば実に六割にもなるのだそうだ。そして日系とおぼしき若者は,ほぼ例外なく爽やかな雰囲気を漂わす。アメリカ式の明るさと合理主義の一方で,なぜかサムライの凛とした高いモラル,勤勉さ,公共心をうかがわせる者が多いのだ。
で,ここまで少数民族の権利を認めたアメリカは,やはり偉大なのだと思う。だがそれも白人が寛大にも譲ったためと言うよりも,殺されてまで権利向上を叫んだ黒人達の,そ
してクリ ニング屋などやりながら子弟を大学に送ったアジア系一世,二世の汗と涙,そ
して時には血の結晶なのだろう。それにボストンではアイルランド,イタリア系といった古手ががっちとスクラムを組み,本当に儲かるビジネスの奥の院には他人を容易によせつけない。ボストン財界のお歴々の集まる同友会では,黒人はまるで申し訳のようにたった一名会員になっているだけで,ある日僕が偶然テニスで一緒になった黒人も,企業を起こしたくても融資してくれる銀行がないんだと二十分もぐちっていた。そして貧困な黒人の居住区も残っていて,ここでは子供達の目の前で母親が次から次と違う男を客に取るような生活もあると言う。
というわけで,二十五年ぶりのボストンでは,日本人と言っても以前ほど目立たなくなった自分を発見する。二十五年前は日本料理と言えば鉄板料理とか称し,日本では見たこともない奇妙な手つきで板前が目の前で肉を焼いてみせたりしたものだけど,今では日本
料理はヘルシ ということで,奇妙きてれつ,遅れた文化の「エスニック」料理からアメ
リカ料理へと昇格し,ス パ ではアメリカ製の豆腐,椎茸,白菜がごく当たり前に並ぶ
世の中になったのだ。
ダウンタウンのカフェに坐って道行く人をながめれば,一人々々が文字通り違った人種
で,こりゃ自分が目立たないのはいいが終いには疲れ,この国じゃ一体どういうマナ で
行動すればいいのかわからなくなってくる。それも当然。道行く人はある者はキリスト,
ある者はアラ ,そしてある者は仏,そしてある者は全く別の神を信じ,全く別の価値観
を持っているのだから。
そこでみんな同権,お互いに傷つけないようにしましょうというわけで,「ポリティカル・コレクトネス」が流行り出す。やれ,相手の出身地や民族を聞くのはよくない,やれ同性愛者を差別するような言葉づかいはいけないというわけで,日本で今「差別用語」が駆逐されているのと同じように,アメリカはかつての自由闊達さから不文律でがんじがらみに縛られた不透明な社会になってきた。アメリカ人は気さくで大学の構内なら知らない
者にも「ハ イ」と声をかける習慣は今でも少しは残っているが,相手がどう反応してく
るかわからない街ではもう誰も目と目を見合わせようとはしない。
というわけで,こうしたことすべてのしわ寄せを受けているのがどうも白人の男性であるらしい。白人の女性ももう昔ほど彼らにかまってくれない。日本でいえば「総合職」にあたる女性達は,個人主義であるはずのアメリカでまるで制服ででもあるかのように黒の
ツ ピ スのパンタロン姿,筋肉質の機敏な動作で鉄のように硬い声でものをしゃべる。
男女同権なのよと言われればそのとおりだけれど,肩をがきがきにいからせて男のように振る舞おうとするのは,男性優位の実態をかえって自分で認めているようなものだろう。
ヨ ロッパの女性はもっと自然に男女同権を実行している。だからアメリカの白人の男は
徒党を組んでは,やり場のない鬱憤をヨットやドッグレ スでまぎらわせている連中も多
い。
それに中産階級の生活に潤いがなくなった。郊外の家にも何軒か住んでみたが,広いの
はいいとしても安普請が多いのは驚くばかりだし,ファミリ レストランでも客の服装は
日本よりは明らかに質素なのだ。彼らは月三千ドル程度の給料で暮らすのが普通だと聞いては,いくら物価の安いアメリカとはいえ楽じゃない。
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