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論文

2006年11月25日

中央アジア解説(「国際開発ジャーナル」Ⅰ)

中央アジアと日本 Ⅰ
    (06,9「国際開発ジャーナル」掲載)
      Japan-World Trends代表
                         河東哲夫

8月末、小泉首相は中央アジア5カ国のうち、カザフスタンとウズベキスタンを訪問した。今までは日本と無縁と思われていたこの地球の奥地を日本の総理が史上初めて訪問したことで、日本の対アジア外交の環はつながった。
なぜ、そう言えるのか。結論を急ぐ前に、中央アジアとはどのような地域なのかをまずお話したい。19世紀半ばにロシアによって植民地化されて以後、世界史から長らく姿を消していたところなのだから。

中央アジアを取り巻く誤解の数々

日本も含め、世界の国々は数々の誤解と思い込みに包まれている。中央アジアの場合、その度合いが甚だしい。「中央アジア」と言うと、我々はまず砂漠、そしてあの「シルクロード」という使い古された、センチメンタルな言葉を思い浮かべる。砂漠の中に小さなオアシスがあり、その畔のヤシの木にはラクダが何匹もつながれて、白いゆったりした民族衣装姿の隊商が横になってゆっくり水タバコを吸っている―――これが中央アジアやシルクロードの典型的イメージではないか? そしてカザフスタン、ウズベキスタンのように語尾に「スタン」がつく国々は、アフガニスタンとの連想で何となく怖い国と思われている。そしてイスラム地域であることも、異質感、恐怖感を増大させる。
だが、例えばウズベキスタンの首都タシケントは、その威容と現代性で訪問客を驚かす。東京の山手線の内部に匹敵する面積に、人口250万の近代都市が広がっている。そして地方の町に行っても、アメリカ中部の地方都市程度の結構は備えているのだ。
そもそも中央アジアの文明は、天山、崑崙両山脈から流れ出るアム河、シル河という大河(両方ともアラル海に流れ込む)の間に広がった広大な農業地帯を中心に、非常に古い時代に成立したものである。ペルシャ、ギリシャ、アラブ、トルコ、モンゴル、ロシアと支配者は移り変わったが、中世までのサマルカンド、ブハラは常に、学問、文化の一大中心地だった。ここでは古代ギリシャの学問が保存、発展させられ、哲学、天文学、医学、数学などは西欧の近代化に重要な役割を果たした。ルネサンス期の西欧に招聘されていった学者も、何人かいる。
中央アジアは、確かにイスラム地域である。しかし、中央アジアにイスラム教が伝わってきたのは、比較的遅かった。しかも、ソ連時代には「宗教はアヘン」と言われて弾圧されたから、イスラム教会の社会に対するグリップは強くない。中央アジアの大都市でチャドルをつけた女性を見かけることはほぼ絶無だし、ロシア人に教え込まれたのか、ウォトカにも滅法強い。もともとこの地域はワイン文化で、中世の詩人達はワインを讃える詩を無数に残している。
イスラム教徒のうちテロに走る過激派は、一握り以下である。中央アジアで彼らがテロ事件を起こす確率は、西欧の大都市での確率より低い。イスラム教は、アラブの民間信仰の集大成のようなもので、得体の知れない気味悪いものではない。その法体系シャリーアは都市商業文明を基礎としたもので、現代の経済活動を阻害しない。中央アジアでも、イスラム教は信用とか誠意が大切であることを教えるものとして生活に定着しており、狂信的なものではないのだ。
日本では、ソ連と言うとロシア、ロシア人と同一視する傾向があり、今でも中央アジアはロシア人の国なのだろうと思っている人がいるが、それも誤解の一つだ。ロシア人は19世紀に植民地支配者としてやってきたのであり、今でも圧倒的な少数派である。ウズベキスタンでは大多数の者は浅黒い肌の色で、容貌は様々な民族が混血した結果、ヨーロッパ系ともアジア系とも言いがたい一種独特のものを持っている。他方、キルギスタンやカザフスタンのように古来、遊牧民族が支配していた草原地帯では、我々とも見分けがつかないモンゴル系の人々が多くなる。だがウズベキスタンやタジキスタンでも、日本人が地元出身者に間違われることが頻繁にある。単一民族による国民国家という神話に馴れた日本人には、中央アジアというのは訳のわからないところかもしれない。しかし、すっかり多民族化したアメリカの大都市の街頭風景を思い浮かべていただけると、少し納得が行くだろう。

ユーラシアのジグソーパズルの鍵、中央アジア

世界史というと、我々の頭の中では普通、ヨーロッパと中国とアメリカとインドくらいしか思い浮かばない。そしてこの四者の歴史は別世界の出来事として、ばらばらに記憶、学習されている。だがここに「オリエント」とかペルシャ、トルコという概念を持ち込んでみると、広いユーラシア大陸が一つの有機物として動き出す。私はイスタンブールで京都の錦織のようなネクタイを買ったことがあるが、ガンジス河のほとりの聖地ヴェラナーシに行ってみると、そこの織物問屋でもほぼ同じの錦織を売っていた。それもそのはず、インドは古い時代、イラン系人種が支配者で、その後のムガール王朝は中央アジアのチムール帝国から南下してきたモンゴル系の王子バブールが樹立したものだ。そしてイスタンブールの主だったオスマン・トルコは、中央アジアが故郷なのだ。インドと中央アジア、ペルシャの文明は密接に絡み合っている。
奈良の正倉院にはいくつもの東方伝来の楽器があるが、これと全く同じ形をした琵琶などの楽器は、今でも中央アジアで絶妙な中東メロディーを奏でている。正倉院の楽器は中国から来たのかもしれないが、起源はペルシャだ。もしかすると、白村江を滅ぼした唐を極度に恐れていた大和朝廷に、ダウ船に乗ったペルシャ商人が兵器でも売り込むために贈ったものかもしれない。
我々は中国が4,000年以上もの歴史を持つことに畏怖しコンプレックスを抱くが、実は中国は周辺の諸民族と渾然一体となって、数多くの文化的断絶を伴いつつ、今日の姿になったのである。秦の始皇帝の家柄自体、西域に近い出身の異民族であったと言われるし、唐を作った李家は古くから遊牧民族と通婚し、唐の貴族にも鮮卑の血をひく者が多かった。そして楊貴妃で有名な安禄山に至っては、ウィグル人とソグド人の混血だったのだ。元王朝に至っては、経済行政や貿易にペルシャ人、ソグド人を重用し、明時代にアフリカまでの大航海を行った鄭和は中国南部に定住していたイスラム教徒、そして清王朝は漢族、満州族、そしてモンゴルの連合国であることを公に声明していた。
事情は、ユーラシア大陸の西でも同じだ。古代ギリシャ人はペルシャとの違いを言い立て、それは後の西欧に東と西の宿命的な違いとして意識されたが、ギリシャ文明はエジプトやフェニキアの「東方」文明が派生したものである。そして、ペルシャに攻め込んだアレクサンドロス大王がギリシャ人傭兵と戦う破目になったことが示すように、東と西の境界はいつもにじんではっきりしなかったのだ。

アジア外交の一環としての対中央アジア外交

中央アジアはクシャン王朝やチムール帝国の時期を除いては、自前の帝国を持たなかった。他者による支配を受けた期間も長かった。今、中央アジアは史上初めてトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、キルギスタンという5つの独立国として、近代国家を築こうとしている。置かれた条件は様々だ。カザフスタン、トルクメニスタンは石油と天然ガスに恵まれ、有利な環境にある。タジキスタンは90年代を通じて続いた内戦の痛手からやっと回復しつつある。キルギスタンは昨年3月の「チューリップ革命」(チューリップの原産地はフェルガナだ)で政権交代を実現したのはいいが、国内の利権闘争を激化させることになってしまった。ウズベキスタンはカリモフ大統領の強権政治で安定しているものの、欧米との関係は悪化し、政治・経済両面における改革も一進一退である。
このように独立後日の浅い中央アジア諸国に対して、周辺、そして遠方の大国は影響力を拡大しようとしてきた。トルコ、イラン、パキスタン、インドのような、この地方古来のプレイヤーに加え今では、中国、ロシア、米国、EU、そして日本などが日々外交のしのぎを削り、援助競争を繰り広げている。そこでの外交官やODA関係者は、周囲をよく見て仕事をする必要がある。
中央アジアはユーラシアの真ん中、碁盤に例えれば天元に当たる。ここに布石を置くと、碁盤全体でのバランスが変わってくる。この地域で発言力を失えば、その国はユーラシアの東半分における発言力を失ったこととなる。日本も同じだ。東アジア共同体についての議論で発言力を維持していくためにも、中央アジアとの関係を発展させていかなければならない。小泉総理の訪問は、日本のアジア外交における欠けた環をつないだものとなろう。

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