Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

2005年03月01日

日中は反日と嫌中だけじゃない - 「新しい大きな日本」が隣にできることの意味

(2005年3月中央公論掲載)

「アジア的」なるものの復活

 成田空港、上海行き便のゲート。白人の国へ行くのならもう少しすまして振る舞う日本人も、アジアへ行くとなると地を見せる。「ビジネス・クラスのお客様から先にご搭乗下さい」のアナウンスもものかわ、エコノミー客が日本人、中国人もろともゲートになだれ込む。そして機内は、アジアの露天市のような雑踏と喧噪。座席はここだ、いやあそこだ、誰々さんどうしたという女性の大声で満たされる。無秩序だ。だがこれは、腕力と金が支配した九〇年代ロシアの男性的無秩序とは違って、女性優位の無秩序だ。今ある世界の中で生活欲を貪欲に満たそうとするだけで、周囲の枠組みを変えることなど考えない。中国の台頭は、明治以来一五〇余年、「脱亜入欧」に努めてきた我々を、いわゆる「アジア的」な権威主義と現世主義の世界へと引き戻す。  上海浦東国際空港の偉容は格別だ。高さ三〇メートルはあろうかという鉄柱の列が大地から斜めにせり出し、見る者にのしかかりながら夜の地平の彼方へと延々と続く。鉄柱の間はガラス張りになっていて、下りた乗客はその横を果てしなく歩かされるが、いつまで行っても終わりは見えない。いい加減ショックを受けて車に乗れば、ガイドがハイウェーの横の高架を指さして「あれはリニアモーター・カーです。時速五百キロで市内まで十五分で着くんです。」とこともなげに言う。  土地がすべて国有の中国では、再開発がやりやすい。ほぼ百年間の「使用権」を市役所から得た者達は、一戸建ての家を建てていては引き合わないから、高層オフィス、高層マンションを作りたがる。だからろくな道路も庭もなく、小ぶりの一戸建てが雑然と広がる東京に比べて、中国の都市は高層化が著しい。高層ビルが発展の印ということならば、北京、上海など、もう東京の先を行っている。そして中国人もこれが発展,進歩なのだと思っていて、一昔前の日本人同様、新しいところばかり外国人に見せたがる。「あれはショッピング・センター。あれは何何社の本社ビル」と、何気なく言ってみせては相手の反応をひそかに窺う。驚いて欲しいのだ。だが、高層ビルのいくつかは、銀行からコネで低利融資を引き出した中国人が高値で転がす、あくどい商売の対象になっている。中国のGNPは強力な製造業に支えられているが、こうしたバブルもかなりの部分を占めている。  上海の和平賓館の古びたバーでは、租界時代の昔さながら、「ジ・オールド・ジャズ・バンド」が「枯葉」をブルース調に奏でている。フランス租界では警察が麻薬の商売をやっていたんです、と中国人が僕に言う。ピアノ、トランペット、サックスは、ジンタのようなドラムに乗って、「魔都上海」のデカダンを紡ぎ出した。賓館は夜の上海に黒々と横たわる黄浦江に面し、対岸の東洋一のテレビ塔の中程では無数の星をちりばめたレストランがゆっくりと回転している。AURORAという大きな赤いネオンサイン、リコー、エプソン、フジフィルム、NETと様々な意匠のネオンに混じって「連聯集団」とあるのは、IBMパソコンの買収で今をときめく中国企業。この浦東、九年前僕がやってきた時には、だだっ広い空き地に人気のない高層ビルと工場がまばらに立っていただけだった。  目を転ずれば、そこは南京東路の雑踏とネオンの洪水。浮き浮きとしたその雰囲気に、誰でも夜の街にあくがれ出る。交通警官の吹くけたたましい笛の音、時刻を告げるチャイムの音。雑踏の中、アイスクリームと見まがう焼きとうもろこしにかぶりつきながら、大股にやってくる小ギャル。雰囲気は、東京の池袋の場末あたりと変わらない。ふと見れば、日本語で「ラーメン」の看板、近くには長崎チャンポン「与作」とある。そのまた近くには堂々と「ADULT SHOP 成人用品」の看板が歩道を見下ろし、五百メートルも歩くとあのユニクロの店がある。ユニクロはこのあたりで作っているから、店も日本より大規模だ。  総中流社会、消費社会が始まった。アベック、グループで歩く若者達、家族連れ、いずれも嬉しそうな顔、顔、顔。皆、楽しくて幸せで仕方ない、といった風情でネオンの洪水の中を歩いていく。上海市民一人当たりの所得は年間五千ドルを超え、当局は産業構成の高度化、環境対策、サービス業の発展を考えるようになった。

「新しくて大きな日本」が海の向こうに現れた

 僕が初めて中国にやってきたのは一九七七年の頃、毛沢東の死の直後、「四人組」が逮捕された後だった。その時は、東南アジア、中国、モンゴル、ソ連と回ったが、工場や団地の集積度ではソ連に次ぐ水準で、国の偉容は十分感じさせた。だがカメラを向ければこちらにとびかかってくる風情の人民服姿の青年達、不潔きわまりない公衆便所、自転車、馬車、トラクター、そしてソ連製のボルガやジープやトラックが無秩序に走っていく街道を、むやみやたら警笛を鳴らしつつ走っていった長城への道。すべては西側とは別世界の後進性に、ソ連の命令体質、権威主義、そして平等主義を重ね合わせた奇妙な混合物を成していた。  そして今、僕の乗った特急列車は蘇州の野を突っ走る。時速百五十キロで揺れもしない。車内は日本と同じく二人づつ向かい合う座席で、窓際には小さなテーブルが突き出ている。列車は中国人の行楽客、それもほとんどが中年の陽気な女性達に占領されて、にぎやかなことこの上ない。隣の友人によりかかったり、新しい携帯電話の使い方を自慢げに説明したり、向かいの席に足を投げ出してミカンを食べたり、女性天下だ。まばらな男どもはいずれも地味な服装で、はしゃぐ女どもに気圧されたかのように黙りこくる。窓際では若い男があまりの騒がしさに、テーブルに両肘ついて耳を押さえ、英語の勉強に余念がない。こうした情景をつくづく見ていた僕のガイドは「毛沢東が女を甘やかしすぎたからだ」と言うと、更に言い捨てた。「うちの娘と来たら、何か言うとすぐ『お父さん、もう古いのよ。言うことが古いんだから』だ。もうええ。どうなってもわしは知らん」。その娘君、日本のアニメのDVDを日本語のまま見て、なんとサシミが好物なのだそうだ。   江蘇省のあたりは中国でも最も豊かで、沿線には農村どころか工場や市街地が三百キロにわたって延々と続く。まるで東海道だ。列車が杭州に近づくと、「ラ・パロマ」や「黒いオルフェ」のメロディーが、アロハ調のスチール・ギターに乗って車内スピーカーから流れ出す。そして携帯電話の着メロはモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークやトルコ行進曲で、いつもジャスミン茶のにおいとともに思い出す、あの間延びした中国メロディーはもう聞こえてこない。  この一帯、優雅と洗練でならした南宋文化の中心地なのだが、その香りももはやない。南宋の士太夫文化は鎌倉時代の日本に去って、「わび」とか「さび」とか呼ばれて今でも世界中で珍重されている。東京郊外の大きな駅といった風情の杭州駅からタクシーに乗ると、セメントと鉄の塊、高層ビルの立ち並ぶ間をぬけて真新しい四車線のトンネルに入る。「天井の上は西湖です」と、こともなげにガイドが言った。白楽天、蘇東坡の詠ったあの西湖も、もう形無しだ。  杭州の山を分け入ったところに名刹、霊隠寺がある。昔インドから高僧がやってきて仏像を作ったと言うが、ここの仏像はヒンズーの神々に似て現世的だ。「ほら、あれが弥勒菩薩です」と言われて見れば、布袋(ほてい)としか見えない福々しい像が、腹を突き出し笑顔で座っている。弥勒菩薩と言えば、京都の広隆寺の国宝のように、その痩せさらばえた高い精神性で衆生を救う神かと思っていたが、ここでは「福の神布袋」に身をやつして現れる。してみると、中国人にとっての救いとは、あくまで現世的なものなのか?  彼らはお経をサンスクリットではなく中国語で誦み、その調子は日本の僧侶の読経のように陰々滅々とはしていない。勤行の行われている堂の外では、スチュワーデスが使うあのモダンなキャリーケースを引いて、若い僧、二,三人が僧坊に帰っていく。研修旅行にでも行っていたのか。公衆便所に行くと、三十年前に比べて天地の差の清潔さだが、なぜか僕の目の前で中年男がズボンを下げる。見れば大便所には扉どころか仕切りもない。  中国よ、お前はそも何者なのか? 様々な人々がごった煮になった社会は、新しいものを作ろうとする気概と欲望で蒸れかえるかのよう。禅仏教の精神性を作り上げたのは、中国人達ではなかったのか? 漬け物の臭い、大声の中国語、便所の臭気、携帯電話の着メロ、セメントの洪水、我々は結局このあらゆる猥雑さとともに、中国を受け入れなければならない。この伝統を顧みず、常に現世に生きている国を。  だが、そうした中国の台頭を促したのは、他ならぬ日本やアメリカの資本と技術なのだ。中国の都市はひたすら現代的になったが、伝統を失ったその猥雑さはマンハッタンを、コンクリートと鉄の無趣味な冷たさは日本の都市を思い起こさせる。日本の隣に、大きな新しい日本が出現したのだ。伝統などはしばしの間脇に置き、生活が日々良くなっていく楽しさに我を忘れた総中流社会が。高度成長時代の日本人の物質主義に食傷してきた欧米は、今度は中国人の現世主義とたっぷりつきあわされる羽目になるだろう。

「反日」と「嫌中」の諸相

 僕が初めて中国にやってきた一九七七年頃は、中国人も日本人に腰が低かった。彼らは、「中国は遅れてしまったので助けてください」と我々に率直に言ってきたし、エズラ・ヴォーゲルが本誌前号で言っているように、大来佐武郎氏のような「スケールの大きい」知識人が中国に経済開発の指南をしていたものだ。  だが、今のマスコミは反日と嫌中の大合唱だ。僕は、状況はそんなにひどくなってしまったか、そのうちに尖閣諸島や台湾をめぐって戦争が起きるのではないかと心配し、今回の北京・上海旅行で二〇人くらいの人々と話し合ったが、中国の国民が昼も夜も日本を罵って暮らしているということではもちろんなかった。  確かにインターネットを見れば我々のことを口汚く書いているし、駅の売店には「日中の戦力バランス」、「中米、戦わば」などという物騒な本も並んでいた。だが僕の話し合った中国人は、今の中国は経済建設を至上課題としている、尖閣は言うに及ばず台湾も静かにしていてくれればそれでいい、アメリカが台湾の独立を抑えていてくれればそれでいい、と言った。  そして、「反日主義」について彼らはこう言う。つまり、この数年で大学生の数は百五十万人から三百五十万人に増やされた。すべての卒業生がいい職業に就けるわけでないから、「教育のある不満層」が大量に現れる。ヴェンチャーをやるような若者も、年金、医療は民間の保険に頼っているから、将来への不安は強い。彼らは、自分の意見をインターネットで広める。そのかなりの部分は政府を批判するもので、対日政策についてはその「弱腰」をなじるのだ。つまり中国にも世論というものが現れて、政府もコントロールしきれない、と。  だが、「反日主義」が中国人の生活に染みわたっているわけではない。街を歩いている日本人が殴られるわけでもない。教科書に戦争のことが書いてあるからと言って、生徒が今の日本人を当時の日本兵になぞらえて考えているわけでもない。日本企業が多い上海は言うに及ばず、地方当局者も「経済発展」の実を上げて出世したいから、日本からの投資を駄目にしてしまう反日主義が足下で広まることは好まない。それに、明日の方が今よりいい暮らしのできる社会では、昔のことをいつも考えているだけの時間はない。「なんで、『中国人は反日だ』、ということにされてしまったのでしょう?」、「日本の新聞は右へならえで、デスクが『あそこが書いているのにウチはなぜ書かないんだ!』と叫ぶから、反日についての記事ばかり出るんでしょう」と、ある中国人知識人は僕に言った。  杭州の西湖のほとりには、南宋の英雄、岳飛の廟がある。当時三十代だったこの将軍は、南へと攻め寄せてくる金(女真)軍への徹底的抗戦を唱え、皇帝の側近の讒言にあって刑死した。それから約八百五十年も経った今でも、彼の墓の真向かいの壁際には彼を讒言したという重臣(の像)が後手に縛られ、妻と共に正座して岳飛に頭を垂れている。これは、「中国人は民族の敵を永劫に忘れない、だから日本人に対してもあんなに反日なのだ」、ということの証左としてわが日本で喧伝されていて、実際、最近になるまで見物の中国人はこの大臣夫妻の像に唾をはきかけていく習わしだった。この像はさぞ、中国人の何代にもわたるDNAの宝庫であることだろう。だが、今では「文明参観」(礼儀正しく参観しましょう)という札が貼ってあり、日本のように旗を持った女性のガイドに率いられたツアーの客は、もう唾を吐いたりしない。ツァーの中国人のおばさんが、大臣の隣に立ちそのしかめ面をまねてポーズを取ると、自分で笑い転げた。  僕は六〇年代末の日本での心象風景を思い出す。第二次安保闘争を前に、反米というわけではなかったけれど「米帝国主義」はとにかく憎むべきものとされていたあの時代を。中国というと、人はすぐ暴動の危険性とか分裂の可能性を論じ出す。だが、今の中国を歩いていると、その臭いすらしない。六十年代末、過激派の学生が新宿駅を占拠した時、世界は日本が分裂する危険性を論じただろうか? 中国といえば人はすぐ農村の貧しさと所得の格差を指摘するが、日本があの「二重構造」を克服し、農村からの出稼ぎ者も目立たなくなって一億総中流化社会が実現したのは、つい二、三十年前の話ではなかったろうか?  阿片戦争以来痛めつけられ、日清戦争や義和団事件で十年分もの国家予算に相当する賠償金を払わされて以来、屈辱と貧困にあえいできた中国の国民が今、希望に顔を輝かしている。我々はもっと素直に彼らを祝ってやるべきではなかろうか? 我々は今の中国をその実体以上に大きく評価し、ともすれば独り相撲をとって倒れているが、その中国人にとって日本はまだまだ非常に大きな存在に見えていることを忘れてはいけない。日中は、「反日」とか「嫌中」とかで怒鳴りあうことなく、冷静に共存の道を探していくべきだし、またそれが可能な仲だろう。  日本人は、中国は専制主義的な国だからたった一人の指導者が深遠なる戦略の下、あらゆる手練手管を使って日本を屈服させにかかっている、と思いがちだ。中国内の派閥争いや世論の役割を勘定に入れていない。中国人も中国人で、日本でもたった一人の政治家が世論の方向を決めたり、議会やマスコミを思うままに動かせると思いこんでいる。 だがこうした「古い日中関係」の一方では、市民レベルの交流が我々の想像を超える規模と全く新しい感覚で進んでいる。一日一万人もの日本人が中国に飛び、十万人もの中国人が日本語を勉強している。一九七八年以来、日本に留学して帰国した者は二万人近くに達し、そのうち博士号を取って帰国した者は世界各国で博士号を取って帰国した者の半数以上を占めているそうだ。沿岸地方の中国人にとっては日本への観光・買い出し旅行ーーー背広など日本のものは値段は手頃で品揃えは中国よりはるかに豊富なのだーーーはもう普通のことになった。重慶では「日本の温泉」と銘打った浴場が人気だと、報じられている。そして日本のラジオでは、毎週そうした往来ぶりをごくごく当たり前のものとして生活感豊かに紹介している番組がある。  僕は十五年前、韓国に行ったことがある。あの頃の韓国の反日感情はひどくて、韓国外務省の日本担当者は関係改善を望みながらも、それを口に出して言える状況ではなかった。それならば、何年後かには韓流ならぬ「漢流」が日本の社会を風靡していても不思議ではない。

パラダイムの変化ーーー米中の狭間で

 夕暮れの天安門広場に灯りがつく。日本の満州支配ゆかりの南満州鉄道の終点、旧北京駅はここにあって、そのグレイ色の建物は今「老車駅商城」という看板の下、セブン・イレブンやインターネット・カフェの入ったショッピング・センターになっている。その裏に、線路はもうない。  中国は、戦後も日本のすぐ横にあったはずだが、我々の大多数には無縁で得体の知れない巨大な巨大な闇だった。「今まで日本人にとって中国は存在していないも同然だったのが、『ある日ドアを開けたら巨人が立っていた』という感じでしょう」とは、ある中国少壮エコノミストが僕に言った言葉だ。  黒船がやってきてから一五〇余年。ふと気がつくと、日本をとりまく情勢はある意味で当時の振り出しに戻ってきた感がある。僕がこれまで大事だと思ってきた自由とか個人主義とかの価値観は、近頃のアメリカ人がそれを声高に叫べば叫ぶほどその白々しさと相対性を露わにし、これら価値観を育んできたヨーロッパもこの頃ではどうも社会の肌が荒れてきた。明治以降、日本の知識人達がものにしようと努力してきた価値観は、その絶対性を失ったのだ。絶対の自由などというものはない。あるものは、イスラエル国民にとっての自由、パレスチナ人にとっての自由、日本人にとっての自由といった、個別のものだろう。あれだけ相互理解とか、交流とか、皆で努力してきた日米関係も、最近では多くの人が首を傾げて、どこかおかしい、どうも気が入らない、何のためにやっているのかわからなくなった、とつぶやき出している。  こうしてサルガッソの海のように不気味に風が静まっているただ中に、中国が興隆している。反日、嫌中のかけ声で彩られた日中関係ではあるが、白人の異文化に同化するべく歯を食いしばって努力してきた間、我々の心の中にたまってきた大きなひずみは、いつ雪崩のような親中機運を起こすかわかったものではない。  ペリー提督が持参した、フィルモア大統領から「日本皇帝陛下」への親書には、中国と交易するアメリカの船、太平洋で操業するアメリカの捕鯨船が、日本で石炭、食糧、水を補給できるよう、どこか港を開いてくれ、とある。それ以来、日本の敗戦まで、中国という要因が日米関係を決していたし、今またそうした構図は復活しつつある。日本はアメリカ、中国という、同盟体制の「盟主」としてのDNAを持つ二大国の狭間で、身を処していかなければならなくなった。たとえ核武装をしてみたところで地政学的、人口学的に日本の劣勢は解消されまいし、さりとて米中二大国の間で風見鶏のように日和り、ある時はアメリカ、また次の瞬間には中国と組んでうまく立ち回ろうなどと考えても、独裁国でない日本はそのような機敏な外交はできない。  同盟体制というものは古来、民主制か専制制かに関係なく盟主のエゴに振り回されてきた。古代アテネのデロス同盟しかり、中国の冊封体制しかりだ。それでも、アメリカと中国のどちらの風下にいるのがより安全で、屈辱的な局面がより少ないだろうかと聞かれたら、僕はアメリカを選ぶ。今のアメリカが叫ぶ自由がいくら白々しく聞こえようと、アメリカなしには現在の日本の自由を維持するのは難しいだろう。 だが、それは中国を敵視することを意味しない。冷戦を繰り返す愚を繰り返してはならないし、今のアメリカも中国と敵対する日本の肩を持ってはくれまい。それどころか日本としては、アメリカと中国が裏で話をつけ、その結果を押しつけてくる時がいつかは来かねないことを心配しておくべきだ。  国民国家間のつき合いは、時として優劣の差を白日の下にさらして屈辱的になる。その屈辱から逃れる万能薬のような手段として、最近では東アジア共同体が喧伝されている。経済面では言うに及ばず、安全保障面でも集議性を強くすれば、日米中などのビッグ・パワーが互いに牽制しあって悪いことができなくなるだろう、と僕も思う。だが、北朝鮮や台湾の問題も片づいていない今、東アジア安全保障共同体を作るんだと気張ってみても、独り相撲に終わるだろう。だとすれば、アメリカの独断専行を抑えつつ日米安保協力を崩さず、同時に米中韓あたりとの安保問題についての対話をより有機的に、そしてより活発にしていくことが、当面の課題になるだろう。 戦後六〇年間続いた国際的枠組みが変わろうとしている今、自分達が守るべきものは何なのか、そしてそれを守るためにはどのような枠組みがいいのか、しかしそのような枠組みは実現可能なのか、不可能ならば次善の策は何なのか、よく見極めていきたい。僕には、戦後手にしたこの自由、そして日本の若い世代がやっと身につけつつあるように見える個人尊重、こうしたものはもっと評価されなければならないし、社会の価値観の基礎として守られなければならないものだと思える。そのような背骨もなしに、いつも何かに付和雷同するだけで生きていくのは願い下げだ。(以上)

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