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論文

2004年10月05日

ウズベキスタン、タジキスタン在勤実感

(2004年 秋「外交フォーラム」掲載)

 「何々スタン」という語尾の国は、日本では遠い遠い訳のわからない危ない国ということになっていて、サマルカンドやブハラのような古都に日本から簡単に安全に行けることは知られていない。「シルクロード」に対しては仏教の故地への憧れか西欧文明への憧れかは知らないが、感傷的とさえ言える想いを抱きながら、新彊から西はヨーロッパまで延々と不毛の砂漠が続くのだと思いこんだまま平然としている人も多い。

 確かにタシケントへの直行便が飛ぶ真下は砂漠で、それも数時間も続くが、夏にも雪をいただく天山山脈を越えると、景色は違ってくる。山脈の氷河から流れ出てアラル海に注ぐアム、シルの両大河の間はチグリス、ユーフラテス、あるいは黄河、揚子江にはさまれたメソポタミアや中国にも似て、豊穣な農耕地帯なのだ。ウズベキスタン、タジキスタン、キルギス三国にまたがるフェルガナ地方は、ウズベキスタンにある部分だけでも関東地方と同じ面積を持っているが、地平線まで小麦や綿花で緑一色の耕地が広がる。春になればアンズやリンゴの白い花が咲き乱れ、桑の木やポプラが点在する下、あの中央アジアのチェベチェイカという丸い帽子とドテラのような上衣の農民がまばらにたたずんでいたりする。

 そして首都タシケントは、人口二百五十万人、山手線の環の四倍の面積という大きさと、その近代的なたたずまいで、初めて来た者を驚かす。ここではチャドルをかぶった女性はほぼ皆無で、副首相の一人は女性である。インドからアフガニスタンを通ってタシケントに初めてやってきた外国人は、別世界のようだと言ってほっとする。インドで言えばデリーではなく、ニューデリーがタシケントの景観に相当している。

 だがその近代的たたずまいの裏には、古来からのペルシャ、アラブ、モンゴル、トルコなどの文明の跡が言語、宗教、習慣、文芸、工芸などに色濃く残っていて、それはモロッコ、トルコのような西欧の周縁にまで及ぶ。ユーラシア大陸の真ん中から西端に至るまでを覆ったこの大文化圏の中、古代ギリシャと現代の西欧は個人主義と合理主義の奇跡の島のように浮かんで見える。但しウズベキスタン、タジキスタンにはイスラム過激派は殆どおらず、イスラム教徒とは言ってもその慎み深い生活態度は日本人に違和感を殆ど感じさせない。そもそもシルクロードの盛んだった頃、西欧は後進の辺境地帯で、世界の中心は中国やアラビアン・ナイトのイスラム帝国にあったのだ。

多民族性と国民国家と

 中央アジアはユーラシア大陸の真ん中にあってしかも周りには平原が多いから、古来多種多様の人種・民族が混住する地となってきた。人口二千五百万人のウズベキスタンに、百を越す民族が住んでいる。しかもこの地域は十九世紀以来ロシア、ソ連の植民地にされていたので、ロシア文化が広く深く浸透してもいる。演劇、美術、音楽、文学、多くの分野でウズベキスタンはモスクワにも勝る水準を時に示す。

 いわゆる「国民国家」や「民族国家」に慣れた我々から見ると、町中で見かける通行人の顔形、肌の色が一様でないということは、非常な違和感を抱かせる。だが、ユーラシア中央部ではこれが当たり前なのだ。こうした混沌の中、しかも先進国経済はグローバル化して国家の意味も変わってきている今、中央アジアの国々は古典的な国民国家形成に乗り出した。単一民族性にこだわる西欧の「国民国家」が実はフィクション性を多分に持っていることを、どこまで知ってのことなのかは知らないが。

 最近でこそタシケントにはテロ事件が相次いだものの、これは市民を無差別に狙ったものではなく街の表情も平静だ。タシケントではいい住宅が多数あって、停電、断水の問題はあるものの、日本と同じ家賃でもよほど広い家に住むことができる。スポーツ施設も水泳、テニス、ボーリング、サッカー、ラグビーと施設はそろい、しかも安い。総じてタシケントでの生活は悪くない。農村に行けばまだ貧困も目に付くが、タシケント市民の生活感覚は一九六〇年代後半の東京くらいのものかもしれない。

良くも悪くも歴史の遺産

      ウズベキスタンも良いことばかりではない。歴史の悪しき遺産がある。外国人の目につくのはまず、過度とも言える権威主義だ。彼らはこれを、「目上の者を尊敬」しているのだ、と言う。だが筆者が赴任してまず当惑したのは、大使館の警備員が地につくほど深々と辞儀をしてくることだった。まるで自分がゴッドファーザーにでもなったようで、気恥ずかしい。アメリカに留学しすっかりオープンになって帰ってきた前途有為のある青年は、仲間達から説教されたそうだ。「お前、この国で民主的にやろうと思っても間違いだぞ。力でやるんだ。力で。怖がらせなきゃ、誰も言うことをきかないぜ」

 ところがタジキスタンに行くと、これほどの権威主義は目に付かない。思うにこうした権威主義は中世から中央アジアにあったのが、ソ連の専制的支配で更に増幅され定着したものなのだろうが、一九九二年から五年以上も内乱に明け暮れたタジキスタンでは、その時期の荒々しい人間関係や戦友的な同志気分がまだ残っているのかもしれない。

 権威主義というものは個人が弱い社会、あるいは逆に人の我が強すぎるために力で抑えつけざるを得ない時に生ずる。中央アジアについては社会経済史の研究が未発達なため確言できないのだが、ウズベキスタンで所領にありつけずインドに南下してムガール王朝を開いたバブール(チムール大帝の曾孫)の日記「バブール・ナーメ」を読むと、領地とそこの農民を一からげにして不動産のように考えていたのがわかる。ここでは農民はロシアの農奴と同じく、殆どの権利を奪われ搾取される存在でしかなく、イギリスや日本の農村で自作農が主流であったこととは大きく異なる。このあたりが、中央アジアやロシアにおける権威主義の背景にあるのかもしれない。

 「個」の領域が小さい社会では、家族、血縁・地縁の濃密な関係が幅を利かす。中央アジアでは十七世紀初頭の西欧と同じく、まだプライバシーの概念というものが確立していない。これを温かい社会と受け取るか、他人の心にずかずか踏みいってくるみたいで嫌だと思うかは、好みの問題だ。

植民地主義の残滓

 十九世紀ロシア帝国による中央アジアの征服、ソ連共産主義革命後の再征服は、熾烈な戦争を伴った。つまりロシア、ソ連による中央アジア支配は植民地支配だったということだ。ソ連は確かに、中央アジアに多くの投資をした。教育水準も高くなった。カザフスタンの大製鉄所や炭田、タシケントの飛行機やトラクター製造工場、タジキスタンの首都ドシャンベに今でも残るミサイルのジャイロ製造工場、紡績機械製造工場、そして超大規模アルミニウム精錬工場などは、いずれもソ連の時代に作られた。

 だがロシアは、「ウズベク人は工場で働くのを嫌う」とか言って、これら工場の職場を自分達で独占したのでなかったか? タシケントに今でも残る広大なスポーツ施設を使う者の多くもまた、ロシア人やウクライナ人達ではなかったか? 一九九一年クーデター騒ぎに巻き込まれるのを嫌った中央アジア諸国が独立を宣言した時、これで中央アジアへの出費がなくなり楽になる、と言って喜んだのはロシア人達ではなかったか?

 だがウズベキスタンの国民が独立に寄せる気持ちは複雑だ。まず国のサイズが一気に小さくなってしまい、外国に行っても「格好が悪い」。福祉に慣れた一般大衆は、「ソ連時代の方が、お上はもっと沢山『くれた』」と思っている節がある。四十歳以上のエリートのステータス・シンボルは「モスクワに留学したこと」であり、タシケントは今でも圧倒的にロシア語の世界である。「独立とは、ソ連時代のロシア人のように強圧的に振る舞う権利を、自分たちがやっと得たということだ」と思いこんでいるようなエリートもいる。

 他方、地方に行くとロシア語のわからない児童が過半数になってくる。文化担当の副首相はウズベク語、ウズベク文化重視だ。そしてウズベク人の対日観も、独立が定着する過程のようにジグザグに進化している。日本はウズベキスタンに対してドナー・ナンバーワンなので非常に大事にしてもらえるのだが、他方彼らの対日理解は古いソ連時代のものを引きずっている。日本人は集団主義的で企業、国家に忠誠を尽くすから、「戦前の」封建主義から一気に奇跡の成長を果たしたのだ、日本は今でも上意下達の国で上に立つ者が何か言えば部下は畏れ慎みそれを実行するーーーこういうのが彼らの一般の理解だったのだ。ウズベク人がモスクワの知的呪縛から解放されて精神的、文化的な「独立」を達成するには、まだ時間がかかるだろう。

民主化と改革と

 ウズベキスタンもタジキスタンも天然資源や綿花など、かなりの外貨取得能力を持っている。しかしそれで国民全員を養えるわけはなく、ソ連崩壊後も維持してきたウズベキスタンの集権・指令・福祉経済も(タジキスタンの経済は内乱で壊滅したので規制緩和が行いやすく、今では表面的な制度の上では非常に自由である)効率、品質管理、競争力の観点からは既に限界にある。これまで国家が全ての生産手段を保有し、国民が全ての福祉を国家に期待してきた共産体制、つまり強者から生産手段を取り上げその権利を抑圧して弱者の福祉をはかってきた体制は、もう限界にある。

 だが、生産手段を民営化すると言っても、資本と経営スキルを兼ね備えた者が一体何人いると言うのか? 明治日本も現代ロシアも、民営化はごく少数の寡占資本家が跳梁する場ではなかったか? 我の強いウズベク人が大きな利権を握れば、現在の政権に刃向かおうとするのでないか? そして国民の大多数は「改革」に反対だ。IMFなどからの助言の結果、公益企業の採算性を確保するため電気、ガス、水道料金が際限なく上がっていくだけでも、市民はとても我慢しきれない。既にメーターを止めている者さえいる。そして、利益の上がる商売は有力者の家族やマフィアに囲い込まれてしまうのも、彼らの腹に据えかねる。

 政府はこうした国民の気持ちを知っているから、改革のテンポがますます鈍る。中央アジアは言ってみれば、中世以来の権威主義、植民地主義、そしてソ連的指令経済の残滓と同時に戦っているのだ。そしてその周囲ではロシア、中国、米国、そしてEU諸国が影響力を微妙に争っている。

 日本はその中で、利己的な目的を持つことが最も少ない。日本は、中央アジアを独立して繁栄した地域とすることをその目的としているが、それは中央アジア諸国自身の国家目標と全く一致する。小学生がランドセルに似た革カバンを背負い、半分しか舗装されていない埃っぽい道を、それでも目を輝かせて通学していくウズベキスタン、土間に歪んだ机を並べ、長い髭を生やした先生の一語一語に食い入るように聞き入る小学生のいるタジキスタン。まるでデジャビューのような光景も持つこれらの国、メソポタミヤ程ではないが古い歴史と文化を持つこれらの国は、独立国家として存在するべきだ。今は国際社会に登場したばかりでもの慣れず、権威主義の殻もかぶってはいるが、経済が発展するにつれ民主化も経済改革も更に進んでいくだろう。(以上)

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