小説「遥かなる大地」 イリヤーの詩と死
「遥かなる大地」 熊野洋 終結部
家に帰ったイリヤ は,釈然としない気持ちのまま,「革命復興党」の事務所から持ち
かえった,父ヴォ ルホフの著書をあけてみた。「イリヤ とマリヤの物語り 古代
ノヴゴロドの愛」と題された,イリヤ のまだ見たことのないヴォ ルホフの著書。「イ
リヤ とマリヤ」? 変だな。妙な偶然だ。
前書きには,白樺の樹皮に書かれた古代ノヴゴロドのラブ・レタ がヴォ ルホフの想
像をかきたてた,と書いてあったが,巻頭に引用されたそのラブ・レタ にイリヤ は茫
然となる。
ああ,イリヤ ,私はあんなに待っていた。
遅すぎた,遅すぎた出会い。
罪にまみれたこの私は,神の裁きを受けるため・・・
オ ロラじゃないか! イリヤ は,かつてミュルレル夫人が送ってきたオ ロラの遺
書のコピ を,リュ バに気兼ねしながら探したが,それはもうなかった。彼は,自分で
破いて捨てたことを思い出すと,苦笑いする。
ヴォ ルホフの著書は,古代ノヴゴロドの修道女マリヤと百人隊長イリヤ の恋を,ヴ
ォ ルホフの綿密な調査で裏づけながら,彼にはめずらしく小説風に書いたものだった。
それは,古代ノヴゴロドの自由と二人の愛への讃歌であり,イリヤ はそこに,亡き父の
母フロ シャへの想いがこめられているのを,見てとった。
このような本が,反動主義の革命復興党の事務所に置かれていること自体,不思議だったが,もしかすればアナスタシヤがあえて置かせたものかもしれなかったし,それはまた
,引き裂かれて血を流すアナスタシヤの心が,実は父とイリヤ に心を寄せていることを
,物語るものかもしれなかった。
イリヤ には,はるか昔のロシアに生きた修道女マリヤと百人隊長イリヤ が,気のせ
いか身近に感じられ,一気に読みすすむ。修道女マリヤがヴォ ルホフ川の流れに身を沈
め,「あなたは私の大地,私の父,私の母。あなたの子供を残していきます。罪の子だとしても,同じロシアの大地から生まれた子供」との言葉で終わる遺書を残したところまで
くると,彼はいたたまれず嘆息した。 オ ロラは,マリヤの甦り? まさか。それ
じゃ,俺まで百人隊長イリヤ の魂の輪廻したものになっちまう。馬鹿な。
イリヤ には,オ ロラがノヴゴロドの昔と変わらない不幸な運命を背負って,今でも
どこかに生きているような予感がした。ヴォ ルホフの本は,イリヤ も知っているナラ
フチャトフの詩で終わる。イリヤ は本をテ ブルにそっと置くと,ヴェランダに出て夜
のモスクワをながめた。暗い空に,オスタンキノのテレビ塔の灯が,命のようにまたたいていた。
七色の虹の下,
あまつの寺院の十字架は,高く高く空へと溶けこみ,
川のほとりにそびえ立つ,いにしえの,とこしえの街。
ここでは時に,強く豊かな者が,貧しき者の許しを乞う。
厳かな鐘よ,とこしえのノヴゴロドの
広き度量の,音高き告げ人よ。
ここには,すべての海と川,
世界のすべて,ヨ ロッパからアジアまでの道がある。
悪徳の世界へ通ずる道が。
いにしえのハンザまで,ノヴゴロドとは同盟を結んでいた。
ノヴゴロドは栄光に満ち,力があり富んでいた。
私の永遠なるノヴゴロドは,かつてこのようだったのだ。
◇
「イリュ シャ,今度うちの党の大会で,コンサ トやるの。あんた出てよ。人集めに
なるから。それに,ちょっと話があるのよ」
ある日,姉オ リガから電話がかかってきた。イリヤ は,「ロシアの繁栄」党の事務
所に打ち合わせにでかける。この頃のモスクワは暑くなった。昔は暑くても空気は乾いていたのに,今日は蒸し暑いったらない。これが,温室効果というやつか。北極の氷が溶けだせば,モスクワまで海になるかも。夕立でも早く来てくれないことにゃ,やりきれない
。 交差点で止まったイリヤ のくたびれたジグリのボンネットから,白い煙が吹きあげ
る。イリヤ は,暑さにオ バ ヒ トした愛車を汗みどろで押し,道路の脇に寄せると
,地下鉄の駅めざして歩きだす。車なんかで来るんじゃなかった。
生温かい風がさっと吹きわたると,大粒の雨がぽつりぽつりと降りだし,またたく間に滝のような土砂降りになる。ちぇ,ついてない,と舌打ちをして駆けだそうとするイリヤ
の後ろから,誰かが大声で彼を呼び止めた。
「イリヤ ,イリュ シャ!」
ふり向けば,信号待ちの車の窓から,雨に濡れるのもかまわず首を突きだし叫んでいる
のは,もう白髪も透けてきた, アポロ ン,アポロ ンじゃないか!
アポロ ン,ユダヤ人のアポロ ン。ユダヤ人のギリシアの神,太陽の神。かわいそう
に,親の酔狂か,聞いただけで吹き出しそうな,おかしな名前。その昔,大学でイリヤ
たちと遊びまわり,サフロンチュクと三人で,気ままな無銭旅行をした,あの竪琴ひきの
アポロ ン。お前はテレビ,俺は新聞と別れたが,お前についちゃ悪いこと聞いてない。
国営テレビで苦労しながら,何とか自分を裏切ってないんだってな。
「おい,イリュ シャ。何を突っ立ってんだ。びしょぬれだ。挨拶は後。早く乗れ」
国営テレビの幹部というのに,おもちゃのようなザポロ ジェッツのハンドルを片手で握
ったまま,アポロ ンはイリヤ と固く握手する。
「長いこと,会わなかったな。ちょうど,家に帰るところ。お前,どこへ? ちょうど,いい。送ってってやる」
おもちゃのようなザポロ ジェッツは,二人の男の重みに耐えかねて,エンストをくり
返しつつ,モスクワの大海原を喘いで走る。ワイパ は,滝のような雨をあえぎながらか
き分けていた。雨が激しく屋根をたたくなか,ラジオから,時あたかもイリヤ の歌が流
れ出る。
「お前,この頃すっかり名を上げやがって,国じゅうでお前の名を知らない者はない。よくまあ,こんな下手くそな歌で。歌詞がいいんだろう。半分くらい,借り物だからな」
アポロ ンは,しゃべりまくる。この野郎,小さいなりして,昔から,口だけ達者。そ
の口に,昔のように一発,お見舞いしてやろうか。
「いや,悪気で言ってるんじゃない。感心してる。それに嬉しい。お前のような野郎が,この世に生きてて。お前のような野郎が,皆に好かれて。
でも,イリュ シャ,お前,これからどうするつもりだ。一生,歌ってくつもりか?
年取った歌手ってのは,どこか滑稽だからな」
「わからない。俺も,自分でわからない。いろんなことをやってみた。ビジネスも。でも,駄目だった。何もかも,先に始めた奴らや昔の党員が抑えてて,新参者にゃ歯も立たない」
「そりゃ,そうだ。それに,お前がビジネスマンの柄じゃないだろう」
「サ シャは俺に,政治家になれと言ってきた」
「サ シャ? サフロンチュクか? アメリカから適当なこと言ってきやがって。自分
が政治に戻りたいんだろう。お前をダシにして。でも,あいつの時代はもう終わったぜ。今はロマンチシズムで政治を動かせる時じゃない」
「じゃ,何で動かすんだ? カネだと言いたいのか?」
「そりゃ,カネだ。何をやるにもカネがいる。でも,俺が言ってるのは,賄賂とか政治資金とか,そういうことじゃない。それもあるがな,もちろん。それより大事なのは,この国の経済を建て直すことさ。第二の産業革命が必要なんだ,この国は。武器しか作ってこなかったこの国の経済を,国民が買えるものを作る経済に変えなきゃならない。そのためにはカネが必要だ。国民の預金を動員しなきゃならない。まともな銀行が必要なんだ。それに,外国に逃げたロシアの資本を,呼びもどさなきゃならない。俺たちの社会じゃ,企業家が敵視されている。物を作る者は社会の敵,国民の富をくすねる者,というわけだ。彼らは国民から憎まれ,役人からはがんじがらめにされ,食い物にされている。国民は国民で,ちょっとましな仕事にありつけばたちまち安心して怠けだす。
この不信と妬み,腐敗と怠惰の輪をずたずたにたたき切って,風通しのいい社会を作らなきゃならないんだ。でなきゃ,外国の資本もきやしない。投資は慈善じゃないんだ」
「そんなこと,わかってる,アポロ ン。この世でお前だけが賢いわけじゃないぞ」
「そうだ,皆わかってる。わかっていても,できないんだ。他人が自分よりいい目を見るのは,我慢できないからな。役人も,家族を養っていかなきゃならないし。このどうし
ようもない,こんがらがった結び目を解くのが,政治家の役目だが,イリュ シャ,政治
家ってのも因果な職業だぜ。国民のためにと思って議員になっても,当選した次の日から次の選挙のことばかり考える。そのうちに政治をしているのが,国民のためなのか,自分のためなのか,わからなくなってくる」
「そんなこと,わかってる! アポロ ン,俺だってジャ ナリストのはしくれなんだ
。だから,何をやっていいかわからないって言ってるんじゃないか」
「怒るな,怒るな。悪かった。お前のことばかりしゃべって。嬉しかったもんだから。お前のこと心配してたもんだから」
「いいよ。お前はどうしてんだ? よくまあ,その仕事で今まで生き残ってきたな」
「何とか,かんとか。俺みたいな男は分をわきまえなきゃならない。ユダヤ人だからってわけじゃない。それもあるよ。だが,まだ上に行こうと思えば行けるんだ。広告の収入
をくすねようと思えば,できるよ。女性アナウンサ としけこもうと思えば,よりどりみ
どりだ。そうしてる奴は,掃いて捨てるほどいる。でも,俺はもういい。ソ連時代の考え方が染みついたこの俺は,もうこれ以上,上に行くべきじゃない。俺は,昔の男なのさ。ははは,これでいい。これでいいんだ。これでもけっこう,面白い。いろんなことが,目に入る。いろんなことが,耳に入る。
この俺だって,お前のこと,売りこんでんだぜ。この頃は,お前をテレビに出すなとお
上が言うから 奴らは,そのうちお前が大統領になると言いだすんじゃないかと恐れて
いるのさ ほらこうやって,ラジオに出してる。詩人,歌手として売りこむしかな
い。詩人・・・イリュ シャ,お前は詩人なんだ! プ シキンや,エセ ニンのような
。金と欲ばかりの世の中で,ふとロシアの野と川を憶い出させ,やる瀬ない気にさせる。生きようという気にさせるんだ。それも,人間らしくな。お前の歌は,希望を与える。詩
人だ。詩人なんだよ,お前は,イリュ シャ! 国民一人々々の心に語りかけ,国民一人
々々に希望と力を与えることができるんだ。こりゃ,すげえことだぜ,イリュ シャ!
大統領より,すごい。国を変えることができるんだ」
エンストで止まったエンジンを,じれったそうに何度もかけながら,アポロ ンはしゃ
べり続けた。こいつ,よくまあ,口がまわる。まったく,ユダヤ人ときたら,小さい頃から口でこの世を渡るんだから。
雨はあがり,また炎天が広がった。見れば,「ロシアの繁栄党」事務所は,もうすぐそこの路地裏だった。
「おい,アポロ ン。感謝するぜ。何だか,気分が明るくなった。また,じきに会おう
ぜ。電話番号教えてくれよ」
炎天に歩みだすイリヤ を,アポロ ンがまた呼び戻す。
「おいイリュ シャ,ちょっと聞け。耳を寄せて。お前,大統領府の心配はただごとじ
ゃない。気をつけるんだ。皆,お前を狙ってる。お前の歌でやっつけられてる資本家も,
民族主義の政治家も。お前,「革命復興党」のアンプキンのアドバイザ に,あの大学の
共産主義青年同盟のイヴァン・ニェポ ムニャシ がなったの,知ってるか? 今まで働
いてたボスのグノ エフが,どこかの売春婦に殺されて,流れてきたんだ。気をつけろ。
落ちぶれたとはいえ,地下の世界とコネ持ってるからな。お前,あそこのヴォ ルホヴァ
とは兄妹だってな。腹違いの。せいぜい,取りなしてもらうんだな。身のためにゃ,清濁あわせ飲むのも必要だ。じゃあな」
アポロ ンのザポロ ジェッツはまたエンストを起こすと,五回目の試みでのろのろと
走りだし,まだ濡れたサド ヴォエ環状線の混雑に,頼りなく消えていった。
この俺が詩人だと? 大統領だと? 馬鹿な。俺は,俺の生きたいように生きてい
くだけ。くたばる時は,それまでさ
◇
「ロシアの繁栄党」のコンサ トの日がやってきた。その前の晩,イリヤ は夢を見る
。 生まれ故郷ナ ノフカ,朝まだきのベラカ メンヌイ湖。霧が湖面をおし包む
。その白い中からわき出たものは,正教の僧侶の乗る舟か。沈んだ町の教会の鐘の音が湖底から鈍く響くなか,黒装束の男たちは,舟からなにやら綱でおろす。黒い,得体の知れない,重いもの。湖底の町に,届けられる食物か。
違う! あれは,原子燃料のカス! 始末に困り,湖に沈めようとの魂胆か。やめろ!
やめろ! やめてくれ! ここは,俺たちの遊び場だ! 魚がいなくなっちまう!
その声にふり向く顔は,死んだはずのサ ヴァ・グノ エフ。彼は,鈍い光をはなつ目
でイリヤ を見ると,くぐもった声で言った。
「くたばれ,亡霊! お前の死骸はこうやって,底に沈んで二度と再び上がってこない
。オ ロラの息子は俺のものよ」
イリヤ の叫び声に,隣のリュ バが目を覚まし,夫を温かく抱きしめる。
「興奮してるのね,あなたらしくもない。大丈夫,あなた,コンサ ト大丈夫だから」
◇
次の日の午後,イリヤ はギタ を片手に家を出た。妻のリュ バは,夫にキスして言
う。
「私,あとから一人で行くから。でも,イリュ シェンカ,なんだか心配でならないの
。あなたのまわりに,他人の悪意がたちこめているみたい。私の大事な人,あなたはいつもこうなんだから。気をつけて,気をつけてね。私の勇士」
「リュ バ,わかった,わかったよ。また後でな」
イリヤ は,ギタ を抱えなおすと,迎えの車に乗りこんだ。さあ,コンサ ト。詩人か
大統領か知らないが,乗りかけた舟,最後までやってやる。
彼は,学生時代のような力が全身にみなぎるのを感ずると,イ ゴリ軍記の一節を口ず
さんだ。え い,ままよ。なるようになるさ。
その日,日輪を見たイ ゴリ公,天地の異変に目をみはる。
昼の日中に,夜のとばりがロシアの軍を包みこむ。
天の定めも悟ることなく,イ ゴリ公は叫びをあげる。
『兄弟たちよ,兵士たちよ! 邪教の輩の虜となるより,刃の下に倒れよう。
兄弟たちよ,はやる駿馬にまたがって,碧きドンの流れをこの目で見よう!』
ツシノの野外の会場は,見渡すかぎりの人で,遠くまで埋まっていた。老若男女あらゆる階層の人々がひしめき,チンピラ風の若者もここではどことなく素直な顔を見せていた
。会場のすみにはオ トバイがずらりと止められ,「地獄の狼」の面々がそれによりかか
っている。来賓席には,リュ バ,イ ゴリ,ヴェ ラ,パラ シャが,お歴々の隣で上
気した顔をならべ,舞台の裏ではユ リヤとその仲間が音を合わせ,舞台の上では,ウォ
キ ・ト キ を片手に持ったロマンが,準備を急いでいた。会場からは,開始を促す
群衆の声が,ときどき潮のように沸きあがる。
オ リガが舞台に進み出て挨拶を始めると,そのあたりを払う気品に皆静まって,囁き
の波が広がった。
あれが,オ リガ・マコ シナ。いかすじゃねえか。イリヤ の姉,いや本当は従
姉妹だってよ
「皆さん,きょうは『ロシアの繁栄党』のコンサ トにようこそ。『ロシアの繁栄党』
は,自立をめざす若い世代,ロシアの希望の世代を代表する政党です。この国を一握りの財閥に牛耳らせることのないように,自由なビジネスの機会がすべての若者に与えられるように,『ロシアの繁栄党』は闘っています。企業課税の大幅緩和,都市地域の土地私有の自由化,目下この二つの目標に向け,闘っているのです。
党勢は拡大し,党員は,全国で二万人に達しました。それと同時に『ロシアの繁栄党』は,新しい課題に直面しています。党勢をさらに拡大しなければなりません。そのためには,国民一人々々の心に語りかけることのできる,皆に知られた清新な人物を大統領候補にしていく必要があるのです。そしてこの機会に党名も含め,党組織の管理も一新せねば
なりません。そのために私,オ リガ・マコ シナは,党首の地位をあえて辞し,幹事長
として党の運営に専念したいと思います。『ロシアの繁栄党』は,新人民党と改名されることになるでしょう。
そして皆さん,私は,新しく生まれ変わる党の大統領候補として,今日これだけ沢山の
方々を集まらせた張本人,イリヤ ・マコ シンを推薦するつもりです。どうか,皆様の
ご支援をお願いします!」
オ リガが言い終わらないうち,大歓声が沸きおこり,拍手とともにイリヤ の登場を
促すかけ声が高まる。イリヤ ,イリヤ ! 来賓席のリュ バたちは,恥ずかしさと誇
りで上気した顔を舞台に向け,舞台袖のユ リヤは,微笑んで父に出番を譲る。
ロマンが駆け寄ってささやくと,司会者は「イリヤ ・マコ シン!」と叫び,舞台の
袖を指し示した。Tシャツにジ パン姿のイリヤ が,ギタ を持って大股に,だがさす
がに気恥ずかしげに進み出る。その後を,何台ものテレビ・カメラが追う。イリヤ は,
ぎごちなく一礼すると,マイクを手に持ち,恥ずかしそうにしゃべり出した。
「皆さん,今日は。きょうは私どものコンサ トにこんなにお集まりいただき,大変喜
んでいます。今日は,私と,私の娘ユ リヤの親子で,皆さんに素晴らしい時を過ごして
いただきたいと思っています。『ロシアの繁栄党』は・・・」
波のごとくに押し寄せる声,拍手。演説は,もうたくさんだ。歌を聞かせろ。舞台の上
のオ リガは苦笑いし,イリヤ はすっかり上気した様子。だが彼は,それでもギタ を
取り直して,息を整える。静まった会場に,イリヤ の歌声が低く流れだす。
情念のほむらが去れば,唄いだす。
生まれ故郷の川,丘,湖。
ライ麦の畑を駆けて,地平の向こうに出てみれば,
どこまでも続く川,丘,湖。
貪欲のほむらが消えれば,唄いだす。
春の雪解け,秋の黄葉。
不遇の時でも眺めれば,
温かく豊かに,心をいやす。
欲望のほむらが去れば,唄いだす。
愛する者,亡き者の懐かしき面影。
試練にあっても頼れるものは,
限りなく,静かな妻の愛。
ツシノの野に広がっていく歌声に,聴衆は静まりかえる。イリヤ の歌が終わると拍手
が静かにわき上がり,その中から「やれ!」という声が上がると同時に,手拍子が次第に
高まった。 やれ,イリヤ ! 俺たちは,もっとにぎやかにやりたいんだ
緊張も鎮まったイリヤ は,ギタ をかき鳴らすと,だみ声で歌いだす。
神よ,救いを,お助けを!
さあ自由,ビジネスの時代とばかり乗りだせば,
たまるものは請求書。税金,電話,用心棒代。
華の都の銀行は,通貨投機にかまけるばかり。
この俺たちにゃ,びた一文も寄越さない。
こんなことじゃ,出口がないぜ!
神よ,救いを,お助けを!
さあ自由,共産主義はお払い箱と乗りだせば,
聞こえるものは,新たな教義。資本主義,自由競争,開放経済。
作家も詩人も,ただ商売にかまけるばかり。
この俺たちの心は空っぽ。
こんなことじゃ,出口がないぜ!
神よ,救いを,お助けを!
さあ自由,ロシアの昔に帰るんだと乗りだせば,
そこにいるのも政治家ども。王政主義者に,超国家主義。
雷の神ペル ンを担ぎだしては,見てきたようなイヴァン・クパ ロ。
この俺たちをたぶらかす。
こんなことじゃ,出口がないぜ!
俺たちの,好きにさせてくれりゃ,それでいいんだ!
思いのたけをぶちまけるイリヤ のだみ声に,聴衆は沸きに沸く。チンピラも,警備員
も,学生たちも沸いていた。これが俺たちの歌だ。俺たちの心の歌だ。口笛が鳴り,「地
獄の狼」たちは,オ トバイのクラクションを鳴らしてそれに和する。妻のリュ バは貴
賓席で,涙と喜びでくしゃくしゃになった顔をイリヤ に向けて拍手していた。
そうだ,詩人だ! アポロ ンの声がよみがえる。「イリュ シャ,お前は詩人なんだ
!」 オ リャ,悪いけど,俺は党首なんかにゃならないぜ。政治家になるなぞ,まっぴ
らだ。そんなのになりゃ,必ず自分を偽って,汚いこともしなきゃならない。ここに集まった連中を見ろ。みんな奴隷だ。自分のものなど何一つない。自分の意思さえ,あってはならない。すべては主人次第だ。これじゃ,働こうとしないさ。さあ,みんな働こう,作
ろう,耕そう,と心から言えるようにならなきゃ。俺は,このギタ と歌で,一生やつら
の中で歌うんだ。自由の歌を,人間の歌を。
イリヤ は,マイクをつかみ片手をあげて聴衆を制すると,低い声でしゃべりだす。
「ありがとう,ありがとう。きょうは僕にとって最高の日です。こんなに大勢の方に集まっていただいて。そして,僕にはわかってきました。自分が何者なのか,ロシア人が何者なのか,そしてロシアはどこへ行くのか。ありがとう,みなさん。素晴らしい贈り物をありがとう。お礼に一曲うたわせてください」
会場は,また熱狂の渦と化し,イリヤ は,ハンカチを取り出して汗を拭くと思いをこ
らし,即興で歌いだした。
カネに自由を求めれば,
カネに自由を奪われる。
ベンツにソニ ,フィリップス。
資本主義を手にしてみれば,
別荘の野イチゴ,赤スグリ
見るかげもなく枯れはてる。
市場とやらに富を求めれば,
市場に富を奪われる。
シャネルにカルダン,資生堂。
資本主義を手にしてみても,
友は一人,二人去り,
あとに残るは,砂噛む毎日。
革命に自由を求めれば,
革命に自由を奪われる。
どこを向いても成り金,マフィアにごろつき役人。
え い,資本主義,カネはもう沢山だ!
俺はただ,自由が欲しい!
聴衆は,沸きたった。口笛と,そうだ,イリヤ ,もっとやれ,と叫ぶ声が乱れとぶ。
最後の音をまだ叫ぶイリヤ の口許が突然歪み,マイクをつかむと,そのまま舞台に倒れ
た。その胸からは,血が黒く流れだす。家族とスタッフが声を上げて彼に走り寄る。会場は大騒ぎになった。
「何だ,何だ!」
「心臓発作だ!」
「いや,暗殺だ。ライフルだ! 気をつけろ!」
イリヤ の,次第に薄れる意識のなかに,明るい光が現れて,抜けるような碧い空にし
みいるように白いカモメが,ただ一羽はばたいていく。「イリヤ ,イリヤ 。あなたの
子供を残していきます」
モスクワの地下に埋められていた無数の川があふれ出し,その豊かなうねりのなか,イワン雷帝の鐘楼も,ノヴォデ-ヴィチ-修道院の尖塔も,姿を隠す。そのなかから,緑の草地に深い森,白樺林にかこまれた清らかなせせらぎが現れる。ム-ロムの森,懐かしい
モ クシャ川。岸べの白樺,草むす墓地。リュ バが,オ ロラの面影と重なって,哀し
げに微笑む。「あなたは私の大地,私の父,私の母。あなたの子供を残していきます」
ヤッホ ,ヤッホ ,イリヤ ・ム ロメツ,
イリヤ ・ム ロメツのお通りだ! ヤッホ ,ヤッホ
ライ麦畑に響く声が最初は高く,そして次第に小さくなって,最後は碧い空へと,遠く遠く,融けていった。
プロロ グ
事件のあと,イリヤ のジ パンのポケットから,手紙が発見された。
イリヤ とリュ バが連れ立って,シェレメチェヴォ空港で見送ったイリヤ ・ジュニア
が,ミュルレル夫人と共にアメリカに無事に着いたことを知らせる,一年前の手紙だった。
親愛なるイリュ-シェンカ,
あなたの息子イリヤ は三日前,私と一緒にサンフランシスコに着きました。御夫
婦での見送り,ありがとう。二人がまた一緒になって,私も安心しました。
太陽の光にあふれたカリフォルニアに,イリヤ-は当たり前といった顔をして降りたちました。全然,物おじすることもなく。この子はこれから,世界を舞台にかけまわる,そうした人間にするのです。
イリュ-シェンカ,あなたがくれた,私にとっての最後のチャンス。何をやっていたかわからない,この私の一生で,この子だけは意味のあるもの。私はあと,二十年頑張ります。
ここに来て,もう半年になりますが,最初は少しとまどいました。いえ,言葉や習
慣のことではありません。大好きなチャ ルストンやジルバが 私たちの世代に
は,自由と富の象徴だったのです ここではもう聞けないせいでもありません。
最初ここに住み始めた時,何かそこはかとない,うずくような目眩,まるでどこかに落ちていくような無力感を味わいました。この国の自由のせいなのです。何を言っても,何をやってもいいのです。その反面,自分のことは自分でやらねば,底なしの空虚のなかに落ちていってしまうのです。これは恐ろしいこと。ペレストロイカの頃,私たちが叫んでいた自由など,カフェでのしゃれたお喋りのように,ブルジョアのお飾り,甘いものだったのです。
私たちロシア人はアメリカに来ると,豊かな国,すなわち白人特権階級の国に来たのだと思いこんで,交通法規も無視してやりたい放題。この社会を,そしてこの世界を,アジア人や黒人が奴隷のように支えていると,思っているのです。社会のことは,そして世界のことは,特権階級が何でも思うがままに決められると思っているから,私たちは何でもすぐ,政治のせいにします。マック社とドナルド社が合併しなければ,それは政治家の意志が足りないからだと。年金が足りなければ,政治的決断で増やせばいいじゃないかと。ここに来て,アメリカ人にそんなことを言って何回笑われたことか。
イリュ シャ,ロシアはこの何百年,自分の仲間を農奴に,奴隷にしてきた復讐を
受けているのです。自由というのがどんなものなのか,どうしてもわからない。奴隷根性が体にしみついています。あの有無を言わせぬ暴力,そして恥知らずにもそれに
尻尾をふって従う私たち 。これが,アメリカ人には全然ありません。私たちが
指示されるのを待っていたり,こんなことをやって大丈夫だろうかと思い悩んでいるうちに,彼らは何でもやってのけてしまいます。
これは素晴らしいこと。私も半年たって,やっとのびのびしているところですが,
そうすると今度はだんだん鼻についてくるのは,いつもハンバ ガ を食べさせられ
ているような味気なさ,これです。人は贅沢なもの。いつも,何かが不満。ショッピ
ング・モ ルはどこも同じようなたたずまい,同じような商品の山,同じような香水
のにおい。映画館に行けば,どこも青いカ ペットにポップコ ンの臭いが漂い,街
にでれば募金をよびかける者たちが,手に持った缶を振っては小銭をじゃらつかせる音が耳につきます。
私も最初の頃こそ有頂天だったけど,しまいには息がつまって,逃げ出したくなっ
てきました。あのヨ ロッパの,少々デカダンではあるけれど知的な雰囲気は,ここ
にはありません。ただ,ひたすら明るく,何が何だかわからないほど,いろいろな人種がいます。
多民族社会だと彼らは言うけれど,実際にはどんな文化も移民からはぎ取り,せいぜい二百年の自分たちの歴史の包装紙でくるんでしまうのです。私が,ロシアから来た詩人だと言っても,誰も関心を持ってくれない。ウォトカとコサック・ダンスのことしか,知らないのです。
イリュ シャ,これは恐ろしいこと。私が私でなくなっちゃうんですもの。彼らの
作った「戦争と平和」の映画を見たことがありますか? そう,まさにあれです。何もかも合理的にロシア人を割りきって,非合理性,深い精神性と苦しみ,そして無秩序が入り混じったスラブ人の魂は,どこにも見えなくしてしまうのです。
ロシアというのは,無秩序で荒くれで放埒,そして感情のおもむくままの国。人間そのものなのです。素晴らしい国なのです。この上なく聖なるもののそばで,誰かがこそ泥をしている・・・ロシアは,そんな国なのです。この上なく聖く,この上なく罪深く。
ここで野球の試合を見に行くと,みな幸せそうです。そんなに豊かでもなく,そんなに知的でもないけれど,幸せそうなのです。ロシアは,最初が間違っていました。アメリカは自由と解放から始めたけれど,私たちは国民を農奴にすることから始めてしまったのです。そして欲,欲・・・。欲なのです。ロシアを滅ぼすのは。いつも,自分のことしか考えてない。世界のこと,宇宙のことを考えてるふりをしている者も,実は自分のことしか考えてない。こうした連中に,権力,名声という餌を目の前にぶら下げてごらんなさい。気違いみたいに走りだすんだから。
共産主義も資本主義も,その欲のためにめちゃくちゃにしてしまう。まだ育っていない芽のうちから,貪り食べてしまうのです。アメリカにも,そういう人はいます。いや,いるからこそ,発展してきたのかもしれません。ロシアでは,そうはいきません。何から何まで足りないのですから。
でもイリュ シャ,それでも私はロシア人です。バラライカの音が聞こえでもすれ
ば,心はすぐロシアの大地,ロシアの森に戻ってしまいます。そして,どうしようもないほど,涙が出てくる。
私たちの住んでいる遠い郊外の駅のまわりでは,赤茶けた埃っぽい道に,黄色いペ
ンキの木造の家が立ち並び,モ ビル・ハウスもいくつかあって,まるでまだ開拓地
のようです。こんなところに住む者は,自分がこの世にいつまでも仮住まいをしているような,あやふやな存在感から逃れられません。
本当のことを言えば,私たち夫婦は二人とも,今すぐにでもロシアに飛んで帰りた
い。あそこでは,自然がいつも歌っています。人間はその一部なのです。ここにある
ものは,孤独な都会の溜め息か,大平原のカウボ イの歌だけ。いつも自分,自分,
自分なのです。
でも,私たちはここで頑張ります。他ならぬカウボ イの歌を,私はどうも気に入
ってきたようです。涯てしなく続く草原,広がる青空,将来への希望・・・これは,
アメリカ魂そのものなのでしょう。でもイリュ シャ,これはロシア魂そのものでも
ありませんか。私たちはここで頑張ります。イリヤ ・ジュニアのために頑張るので
す。
あの子は自分のなかに,大きな自然を包容しているみたい。アメリカだろうがロシアだろうが,あの子は雲に乗って天を翔けることができるのです。あなたの子なのです。今にあの子は必ず,ロシアと世界を結びつけてくれるでしょう。そして,私たちロシア人の心に巣くう奴隷根性をたたき出してくれるでしょう。
イリュ シャ,いつかきっとここに来て,父の名乗りを上げて下さい。あなたの父
ヴォ ルホフが,昔あなたにしたように。運命なのです,イリュ シャ。ロシア人は
,父親なしに育つよう,運命づけられているのです。治める者のない優しい大地の懐に抱かれて育つのが,ロシア人の運命なのです。
幸せと御成功を祈ります。
あなたのエレオノ ラ
一九九三年十月八日 サン・フランシスコにて
(完)
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