Japan and World Trends [日本語] 日本では自分だけの殻にこもっているのが、一番心地いい。これが個人主義だと、我々は思っています。でも、日本には皆で議論するべきことがまだ沢山あります。そして日本、アジアの将来を、世界中の人々と話し合っていかなければなりません。このブログは、日本語、英語、中国語、ロシア語でディベートができる、世界で唯一のサイトです。世界中のオピニオン・メーカー達との議論をお楽しみください。
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論文

2006年11月25日

小説「遥かなる大地」 1992年の大混乱

 今となりては,すべての想いは,うたかたのよう,
あとに残るはただ,母なる大地。
 だが,しずかな夜に耳をこらせば,しじまを破って聞こえくるのは,
懐かしき者たちのひめやかな息づかい。
 暗き宇宙のちりのごとくに,きらめきながら
あるときは渦となってめくるめき,またあるときは瀧となってなだれ落ちる。

宇宙の闇のなか,俺たちの地球は猛スピ ドで飛んでいく。いや,飛んでいる
のか,止まっているのか。そんなことは,どうでもいい。ほら,そこの宇宙のちりが一つでも,この地球にがつんと当たってみろ。増えに増えた人類は恐竜のように死に絶えて,
また長いなが い石器時代からやりなおし。いがみあい,殺しあい,愛しあって。そうな
っても,せめてバッハの音楽ぐらい,後の世に残す手だてはないものか。宇宙の調和,神
の音楽
 暖炉の前でまどろむイリヤ 。二〇一四年,冬のモスクワ。妻リュ バがそっと寄ると
,毛布を夫に着せかける。この人は暖かくしておかないと,また胸の古傷がいたむから。
アパ トの下の街路から,かすかに聞こえる若者たちの歌。
 「なんてまあ,平和なんだ」
イリヤ が目を覚まし,ソファの上で伸びをして言った。
「イリュ シェンカ,あなたまた退屈してるのね。しょうがない人。まるで,平和がいや
そう」
リュ バはソファの後ろから,夫の肩にそっと両手をのせかける。高層の新しいアパ ト
の窓からは,モスクワの夜の灯。赤,青,黄,そして白のイリュミネ ションが,冴えわ
たる冬の夜気のなか,あたかも命があるかのように息づく。オ ロラ,グレ プ神父,そ
して父ヴォ ルホフの命の灯のように。
 灯,命の火 。あの頃のロシアは,燃えていた。けっして尽きない薪の上を,欲望
と絶望とそして神の意思が炎となって,赤く黒く輝いていた。
 イリヤ は,また目をつぶる。夜の灯が水に落ちた絵の具のように,赤,青,黄色の渦
になってからまりあい,宇宙の星雲さながら広がっていく。そのなかから浮かびでる,懐かしき者,懐かしき時代の追憶・・・・・

                燃ゆる茨

一・

 バン! ドラムにバチが打ち下ろされる。さあ,ショ の始まりだ。
九二年一月某日,ここはモスクワ場末のバ 。革命前ならヒ トロフカの魔窟のあたり。
売春婦,泥棒,浮浪者どもが群れていた場所。今はうす暗い住宅街の一角に,泥棒,浮浪
者,売春婦 いや,文字通りの意味でなく,ただそれに似た者どもが群れ集い,皿,
グラスの触れる音もにぎやかに,超インフレのさなかの宴に酔いしれる。
 九二年,地獄の釜のふたが開いて,物の値段のタガが外され,一ル ブルのものが明日
は三,一月あとには情け容赦もなく十ル ブルに。何を買い,何を食べていっていいのや
ら。誰だ,いったいどこのどいつだ! だが,答えはなく,俺たちの血を吸う奴に仕返しもできず,見つけたところでただ,おめおめと従うしかない,この口惜しさを何とする。 世の中は目まいのように,ぐるぐるぐると回りはじめ,次第に速度をはやめる渦巻きのよう。その黒い流れのなかからは,強欲,野心,憎悪が炎となってほとばしる。
 アルメニア人とおぼしきくたびれた男が,ひときわ高く空元気のギタ-をかき鳴らし,擦り切れたかのように禿げてノッポのロシア人が,けたたましくラッパを吹きならす。さあ,最後の審判だ。おまえは天国,おまえは地獄へ。旧きソ連の総棚ざらいの始まりだ。
アム ルからオデッサに,悪党どもがやってきた。
一味は,いずれも泥棒どもといかさま師。
やることは,うさんくさいことばかり。
おまわりどもが,目をつける。
え-い,ム-ルカ,俺の猫ちゃん。
ム-ルカ,おまえは俺のムルムル猫ちゃん。
ム-ルカ,マル-シャ・クリ-モヴァ。
勘弁してくれ,この俺を。

ある日,仕事で一杯やりに,しゃれた料理屋入ってみれば,
ム ルカが革ジャン姿でお出迎え。
だが,その裾から突きでているのは,連発拳銃。
「おい,どうした? いったい何が不足なんだ。
俺がおまえを着飾らなかったとでも言うのかい? 
指輪に腕輪,上着にスカ ト,何でも持ってきてやったじゃないか。
ああ,ム ルカ,俺のム ルカ! もう,これでおさらばだ!
おまえは,俺たちみんなを裏切った。
だから,一発お見舞いするぜ!」
え-い,ム-ルカ,俺の猫ちゃん。
ム-ルカ,おまえは俺のムルムル猫ちゃん。
ム-ルカ,マル-シャ・クリ-モヴァ。
勘弁してくれ,この俺を。

「泥棒だらけのバ-だな」
 イリヤ は,エジプトのベリ ・ダンスの踊り子のよう,へそ丸だしのウェイトレスか
ら,ブルゴ ニュの赤ワインを受けとり一気に飲み干すと言った。
 「ジャ-ナリストさん。郷に入れば郷に従えってこと。きれいごとばかりじゃ,今の世の中わたっていけないぜ。チャンス。チャンスよ。モスクワじゅうを買い占めるんだ」
 アリル-エフはだみ声でしゃべりつつ,大皿に盛られた前菜を,手当たり次第,大きな口へと放りこむ。赤いワインと脂に光るその厚い唇が,生き物のようにうごめいて,ちょうざめ,生ハム,牛タン,トマト,そしてキュウリがその中に,次々と消えていく。
 ワルプルギスの狂宴か。ここにいるのは化け物に,狂った者ども。色黒の肌,赤いブレザ-姿にめかしたコ-カサスの男たち。腕力とコネで押し通るわが世の春が来たとばかりに,得意顔。太陽に喉を灼かれたかのような嗄れ声で,南の言葉をしゃべりまくる。
 そこには,イリヤ-も知っているN省の役人どもと,役人くずれのビジネスマンが,元は仲間のよしみとばかり,ひそひそ話し。あそこには,M省の資金を外貨投機にまわすため作られた,「M商業銀行」頭取とその手下たち。「外貨」とやらの香りもしない野暮な顔をならべ,ただ「市場経済」とやらのけっこうな果実をむさぼり食らう。その向こうには,石油輸出の免許を国からせしめ,しこたまもうける元党官僚。黒い網目のストッキングの金髪美人がしなだれかかる。
 そのとなりには,白い背広に金鎖,赤いシャツのチンピラが,ベリ-・ダンスの踊り子を食いいるように見つめては,冷たい視線を客に投げる。頬に傷あるチンピラの,鉄のよ
うに冷たく蛇のように濡れた目に書いてあるのは, おい,おまえさん。エリ ト面
してすましているが,おまえも俺も同じ泥棒。盗んで殺して生きてやがるんだ 。
 向こうには,本社からきた上司の接待か,場違いのグレイのス-ツにネクタイつけたアジア系のビジネスマンが,何度も無視するウェイタ-をやっとのことで呼びとめて,ドルを渡す。
急いでくれよ。もう部長は行かなきゃならない
いつも仕事,いつも上司で急ぐ東洋人。奴隷のようにこき使われて,安物の車やラジカセ
を作るのが性分ならば,金持ちの集まるこのバ になぜやって来る?
 けたたましい音楽,シャンペン,ウォトカ,キャビア,色どりも豊かな帝政時代の肉料理。疲労でくすんだ肌に,へそ丸だしのウェイトレスが,忙しく行き来する。擦りきれて
テカテカ光ったタキシ ド姿のウェイタ は,ヤクザのように猛々しい目のなかに,客へ
の憎しみをたぎらせる。
 トランペットの叫び声,男のだみ声,女の嬌声,ワイン・グラスの割れる音。イリヤ
の頭の中で,すべては渦巻き,まわり始める。宇宙に浮かぶ星雲のよう,グルグル,グルグル,回転はどんどん速くなり,グルグルまわって,もうバラバラだ。こうなれば,いっそ何から何までバラバラになればいい。この国は,いや人類そのものは,そもそもの初めが間違っていたのさ。この先いったい,どこへいくのか,知ったことか。
 ウォトカの酔いから我にかえったイリヤ は,アリル エフに言う。
 「市政府さえ許せばってとこだな」
アリル-エフはひるみもせずに,凍ったウォトカを顔をしかめて一気に飲み干し,こぶしで口を拭うと,吐き出すようにつぶやいた。
 「市のほうには,もうちゃんと手は打っておいた。あとは,ポポ-フ市長さえ邪魔しなければ。あの野郎,さも俺たちの仲間のような面しやがって。いったん権力を握ったら,モスクワじゅうの利権を一人じめ,一粒たりとも渡そうとしやがらねえ」
 「これからインフレって時に,ポポ-フが市の土地をたたき売るとでも思うのか?」
 照明が暗くなり,ショ-が始まる。暗がりの淡い明かりに立ったのは,誰知らぬ者のない,老俳優ルイバコフ。身をやつしてのアルバイト。老人は,白装束に白い手袋。音楽に合わせて,ゆっくり舞いだす。白い手袋,白いマントが,闇のなかにひるがえる。おや,どこかで聞いた曲と思えば,今は亡きソ連の国歌。青春の憧れ,喜び,そして苦しみが,甘いワルツに編曲されて流れだす。
 だが,老俳優の痩せたすがたは亡霊のよう。生の歓喜の背後にはいつも死が,影さながらに忍びよる。客席は静まりかえり,曲は短調に転ずると,テンポを速め,去りゆきた帝
国の甘い頽廃をしのぶカドリ ル。ルイバコフは回りだし,その回転を速めると,倒れ伏
して闇に消える。
 沈黙のあとには熱烈な拍手,照明がまばゆく一度につけられて,老俳優は,なにごともなかったかのよう,明るい微笑を顔に,シルクハットを手に持って,客席をまわって祝儀を集める。
 アリル-エフは,そのシルクハットに百ル-ブル札を惜しげもなく放りこむと,ポケットからおもむろに紙を取りだした。
 「おい,これをお前の新聞で出してくれないか?」
イリヤ-が,また宣伝記事かと思って読んでみれば,ポポ-フの汚職の密告。
ポポ-フ市長は,ガガ-リン広場一帯の不動産を外国資本に売りわたし,巨額のリ
ベ-トを得た云々
 「おい,リョ ヴァ,これは市のN建設部のタイプ用紙。内部告発ってやつだな」
 「なに? イリヤ-,気がつかなかった。それはまずい。ちょっと返せ」
 「N建設部。サ-ヴァ・ヨシ-フォヴィッチ・グノ エフの縄張りか。モスクワ市の隠
れた顔役。リョ-ヴァ。奴と組むなんて危ないぜ」
 アリル-エフはいまいましそうに口をつぐみ,バンドがまた声を張りあげる。

盗賊どものアジトは静か,
風がヒュ-ヒュ-鳴るばかり。
そこでは,彼らの評議会。
泥棒やあらくれ男の面々が選んだのは,新しい委員会

アリル-エフはものも言わずに,テ ブルに乗っているものを平らげる。ちぇ,イリヤ
め。食えない奴だ。俺のおかげで編集長になれたというのに。新しいご時世だというこ
とが,まだわからねえでやがる。アリル エフは,ウェイタ に百ドル札を無造作に渡し
て勘定をすますと,隅に立つ用心棒に合図をして,外に出る。
 イリヤ-も外に出た。
うす暗い街灯の明かりをかすめて降る,湿った雪に,バ-の中のめくるめく喧騒は吸いとられ,タガンカ広場のむこうから,夜のモスクワのうなりが聞こえてくるだけ。
これは,歯車の音。ゆっくり,だが確実に,冷酷にまわる,歴史の歯車。俺たちの
運命などは,この歯車の間では簡単にすりつぶされる 。
 乱暴にすべりだしていくアリル-エフの黒塗りのベンツを尻目に,イリヤ-は中古のジ
グリのスタ タ を五回もまわして,ようやく発進した。

 英雄イリヤ ・ム ロメツの馬ならぬ,イリヤ の小さな車は行く。サド ヴォエ環状
線を,泥雪をはねのけながら,小舟のようにのろのろと。
 その昔,まだ子供のピョ トル大帝が艦隊練習をしたヤウ ザ川は そう,それ
は,ロシア帝国のゆりかごのようなもの ,モスクワの夜の底に黒々と横たわり,
むこうの丘にはアンドロニコフ修道院の白い清楚な鐘楼が,イルミネ ションに浮かびで
る。おおロシア! 俺たちが忘れていた,ロシア。ロシア この素晴らしい響き,雄
大で詩的な響き。はてしなき大地で,ヨ ロッパとアジアがせめぎ合い,人間の欲望と欲
望が争ってきたロシア とてつもなく罪深い,そしてとてつもなく崇高な。
 ロシアは,何度も洗礼を受ける。その昔は,ヴラジ ミル大公のキリスト教,今は,エ
リツィンの強い手の下,民主主義と市場経済。
 イリヤ は,なぜかこのごろ癖になった,シェイクスピアのせりふをつぶやく。
正が邪となりゃ,邪が正となる。
   俺たちは,霞のかかったこの世の中を,たださまよい行くばかり

二・

 冬のある日ふと気がつけば,イリヤ の新聞「新しい時代」の金庫はからっぽになって
いた。一年間の講読契約の前払い金など,インフレであっという間に紙屑となり,これから一年ただで新聞を届けなければならない羽目に。製紙会社,印刷会社,郵便局は,日に
何度もイリヤ に電話をしては,支払いを迫る。
 「何,金がないだと? そんなことは,こちらも同じ。飯の食い上げだ。お前と俺とは長い間やってきたが,もうきれいごとは言ってられない。金,金だ。金がないなら,乞食をしてでも集めてくるんだ!」
カネ この,有無を言わさぬ重い響き。マルクシズムも,偉大な祖国も,ル
ネッサンスも吹っ飛んで,今や主義も思想もへったくれもなく,ただただ「カネ」の一言ばかり。石油とガスと戦車だけで職場をつくり出し,国民にはろくでもない品物を買えるだけの僅かな現金を与えて,国じゅうの資材,資源は官僚が分けてきたこの社会。一つの寮みたいだった,この社会。お偉方にへつらえば,別荘も自動車も手に入ったこの社会。そこに突然,いつからか,どこからか,現金がわきだして,俺たちの頭,俺たちの心をしびれさせる。
 いったい,カネとは何だ! 今や物は店にあふれ,ベンツもソニ も今日すぐにでも買
えるはず。ところが,俺たちにはカネがない! 世の中はがらりと変わり,お偉方は全然違う顔ぶれで,国民は誰に何をどうやって頼んだらいいかわからない。何でも自由だと言われるばかりで,どこでどうやってカネを手に入れたらいいかわからない。自由のために,豊かになるために改革をしたのに,このザマだ。カネは自由だ。自由はカネだ。カネは共産主義社会をたたき壊す。だがまるで,深い森に迷いこんだよう。自由なのに,俺たちにはカネがない。俺の社にもカネがない。ふん,ルネッサンスもへったくれもありゃしな
い。カネだ。考えていてもしかたない。カネが自由のあかしなら,かき集めてやるぜ

 かくて,社長のイリヤ は慣れない金策に走り回る。つてを頼って新興銀行,探偵会社
,そして怪しげな結婚相談所,頭を下げては広告取りの毎日。ある日ふとイリヤ は,思
い立つ。そうだ,アメリカ大使館のジョ ,イタリア大使館のジョバンニ,皆以前,この
俺から「情報」をうやうやしく聞きだしたあの連中に,アメリカ特集,イタリア特集を持ちかけるんだ。三千ドルももらえれば,一日分の発行料は浮くだろう。
 だが,どこへ行っても,イリヤ は冷たいあしらいを食う。まるで乞食に出会ったよう
に,「え,うちから金を? とんでもない。そんな金があったらば,テレビ・コマ シャ
ルの方がはるかにましさ」,「イリュ シャ,すまないが来るのが少し遅かった。わが国
の特集は,もうイズヴェスチヤの方で準備中」
 イリヤ の中古のジグリは毎日,水の混じったガソリンにむせながら,喧騒の街モスク
ワを行く。この一年,成り金や役人がBMW,ヴォルヴォ,ベンツ,トヨタにフォ ドの
リムジンをやたら手に入れ,モスクワの道路は無法地帯になったかのよう。マフィアの情
婦が細身の煙草片手に,白いスポ ツカ を飛ばしていくかと思えば,駆け出しのチンピ
ラが慣れぬハンドルに死に物狂いでしがみつき,みすぼらしいジグリで神風運転。信号が
赤になっても,みなわれ先に交差点へと突っこむ。 今ここで進んでおかなきゃ,
他の奴らに割りこまれるだけ,横から目を血走らせ,警笛鳴らして突っこんできたとて,ふん,動いてやるものか。今の世じゃ,一歩でも先に進んでおくことが,生き残る術なの
さ というわけだった。交差点からあふれ出る車は洪水のよう,歩道を我が物顔に流
れていく。
 だが,チャンスは混乱の中にあり。自由の美酒を味わった獣たちは,乱痴気騒ぎをくり広げる。猛り狂う牛たちは,いつにもまして角突きあわせ,そこらじゅう嗅ぎまわる豚どもは,四つ足突きだし転げまわって自分の汚物に全身まみれ,鶏までが身のほど忘れ,空にむかって雄々しく羽ばたく。
 「コケコッコウ。俺でも,空を飛べるんだ。誰に劣ることがあるものか!」
ああイリヤ ,こんなザマなら,その昔,北風に路面を雪が低くはう,サド-ヴォエ環
状線を,ジ-プ,トラック,そしてタイヤの減ったヴォルガだけが,滑りながら走ってた,あの「停滞の時代」がなつかしい。モスクワ・・・おまえは何と変わったことか。

モスクワよ,モスクワよ。そこではかつて,
    わが青春の喜びと苦みを,燃える心で抱きしめたもの。
    そこではかつて,海原の嵐のごとく,わが情熱が波うったもの。
    モスクワよ,おまえは揺りかご。わが追憶と,愛と野望の。
    ああ,今となっては萎れた想い,実らずについえた野望も幾多。
     モスクワよ,おまえと俺は別れてから久しいが,
    俺はおまえの落とし子さ ああ,懐かしきわがモスクワよ!
                     (イヴァン・コズロフ 一八三〇年)

モスクワ 昔ならあまたの教会の尖塔が金色に輝く信仰の街が,今ではあまたのキ
オスクが泥だらけの歩道に金色に輝く,ビジネスの街,カネの街と化す。キオスクで売る
ものは,酒に煙草に化粧品,靴に時計に毛皮のコ ト,そしてポルノのビデオまで。それ
に裏にまわれば,ひそひそ声で麻薬も売るのさ。
金属製のキオスクのなかでは,世をすねた目を光らせる若者が革ジャンパ の背中を丸
め,東洋の歌舞伎とやらの隈取りに似たアイシャド ,サクランボのような口紅つけた女
どもが仏頂面をのぞかせて,キオスクにぶら下がるスピ カ からは,エキゾチックなメ
ロディ が自棄になったかのように,荒れた巷に流れ出る。おいここは,アラブ,それと
もギリシアかね? 路上では,キュ バから石油の代わりに手にいれたバナナが山と積ま
れ,埃の中の人ごみは,ベドウィンやラクダこそいないけど,まるでアラブのバザ ル。
「信用」という言葉なぞ糞と同じ,だました方が勝ちの世界。
 新人類,いや,新種のケダモノがモスクワを闊歩する。こいつらは,何から何までひっくり返った世の中で,親からも社会からも構われず,歴史のなかで使い捨てられていく,「失われた世代」。主義や権威,大人の社会に唾はきかけて,信ずるものは,金にセックス,BMW,憧れの職業は,「ビジネスマン」に売春婦。車に乗れば,開け放した窓からロックをがんがん響かせながら,ガムを噛み々々,となりの外車をのぞきこむ。動物のような鈍い目に,無遠慮な好奇心をのぞかせながら。

 ある日,中古のジグリが故障して,イリヤ が地下鉄に乗れば,泥とゴミの散らばった
,コンクリ-トの通路には,グミリョ-フ,ブロツキ-のこれまでの発禁本,そしてポルノの「スピドインフォ」が一緒くたに山積みされて,そのわきでは,戦闘機作りのエンジニアくずれとおぼしき中年男が,日曜大工の本を売る。そのとなりには,疲れた顔の女が乳房にすいつく赤ん坊二人をかかえてたたずみ,そのまたわきでは,片足の父親が弾くアコ-デオンに合わせ,きれいな娘が天使のように澄んだ声で歌をうたう。野獣のようなすさまじい顔をした若者二人が,「金,買います」と書きなぐった紙をかかげ,通路にすわってサンドイッチにかぶりつく。
 地下道の商売も,一平米で,月何千ル-ブルの免許制。ほら,そこで,小さなイコンにろうそくを供え,教会への寄進を求める老婆は,買い物袋や,キャンデ-や,亡き夫のものとおぼしい長靴を売る老婆は,ちゃんと免許をもらっているのか? だがそのわきを警官が,誰にともなくつぶやいて通りすぎていく。
 「ばあちゃんは,パクれない。母親を,ロシアをパクるわけにはいかんじゃないか」
地下鉄のなかでは,労務者風の男がイリヤ に,すれ違いざま憎悪の目,ドスのきいた
声を浴びせる。
 「くたばれ,この,ブルジョア野郎め」
ただ背広を着ているだけで,この憎悪。革命時代じゃあるまいし。この俺が,他
ならぬこの俺がブルジョアだと。いや,こいつから見れば,俺などヒッピ を装っただけ
,悪質なブルジョアそのものかもしれん。レ ニンは昔,言った。「ブルジョアこそが全
ての悪の根源だ」。そこで,奴らはブルジョアどもをたたき殺し,皆で一緒に貧しくなってみた。だが,しばらくたって見てみりゃ,党がそのブルジョアになってるじゃないか! すわとばかりに,共産党をたたいてみたが,暮らしは悪くなるばかり。そこで,奴らは叫びだす。悪いのは,いったい誰だ! どこのどいつが,くすねているのだ!
 奴らには,自由などどうでもいい。俺にとっては,何よりも欲しい。何よりも,自由が欲しい。だが奴らには,資本主義でも社会主義でもどうでもいい。ただ,パンが欲しいんだ。そして,この世にあるもの全てをわれ先にと奪いあい,優れたもの,美しいもの全てを,自分の水準にまで引き下げねば,気がすまない。おい,どうしたらいい。どうしたらいいんだ! どうして,こんなに違うんだ! 
 無限の暗い闇のなか,轟音発して突き進む地下鉄の窓の自分を見ながら,イリヤ は考
える。金策のこと,リュ バのこと,オ ロラのこと,ユ リヤと孫のこと。「あなたは
,私たちの仲間ではありません!」 あのプラハの夜の集会で,付き添いのヤンがイ
リヤ に放った,つき刺さるような言葉がなぜか脳裏によみがえる。「あなたは,私たち
の仲間ではありません!」
仲間ではありません,か。俺が,俺たちがこんなにがんばってるのに。自由に
なろうとして,他人も自由にしてやろうとして,人間らしい暮らしをしようとして。それ
なのに,おお,ロシア! 俺たちは,ヨ ロッパには受け入れてもらえないのか。仲間だ
と思ってもらえないのか。ルネッサンス,ルネッサンスの本家,文明と自由の本家に。地下道が明るく輝き,香水,靴,洋服のブティックがしゃれた姿をならべる,あの憧れの地に。
 だが待て,イリヤ 。雪の降る街角で,イェゴ ル伯父に寄りそって,革命記念日の戦
車が進んでいくのを見ていた小さい頃。あの時の,胸の高鳴り,高揚を,おまえは覚えて
いるだろう。そして夏,パトカ の先導で,粗末なバスを連ねては林間学校に行った時。
あの時の幸せを,おまえは覚えているだろう。社会の胸にしっかり抱かれているんだという,あの気持ちを。
 そうだ,あの「停滞の時代」も今となっては懐かしい。俺たちのあこがれる西側の社会も,実は何もかも平凡で欺瞞だらけ,プチブル的な幸せと偽善のうえに築かれた,虚しい進歩。「成功」のため,恋愛も,信仰も,家族もすべて適度,適当に,金儲け,仕事,仕事で駆けずりまわって,ただ一生あくせくしているばかりよ。
 俺たちのロシアは遅れてる。俺たちのロシアは混乱してる。だが,西側の自由は,石の建物に囲まれた,偽善の自由だ。俺たちの自由は大地の上にある。狂気と不条理に彩られてはいるものの,男らしく戦う自由がここにはあるんだ。人が生きようとする欲望が,なんで醜いことがあるものか。それは,むしろ神聖なもの。発展すりゃ,世の中は退屈なものになる。その時にこの時代をふり返ってみりゃ,人間性で光り輝いて見えるだろうて。
イリヤ ,何をとまどっている? かまわん。突っ走るんだ

三・

 綿雲の,抜けるような碧い空。その紺碧に溶けこむように白いカモメが,一羽さびしくはばたいていく。
 ミュルレル夫人は窓ぎわで,封筒から分厚い手紙を取り出す。封筒には差出人の名も住
所もなかったが,見覚えのある筆跡に,ミュルレル夫人の胸は高鳴る。オ ロラ! もう
半年も電話もかけて来ず,私が何度電話しても留守で,そのうちかからなくなって・・・珍しいことじゃないけど,おや,消印は半年も前。いったい,この頃の郵便局ときたら・
・・エレオノ ラ,ひょっとして・・・。
 おぞましい予感に,まさかと頭をふりながら,ミュルレル夫人は,落ちついた筆跡で書かれた手紙を震える手で読みだした。

親愛なるエリュ シャ伯母さん。
  この手紙をご覧になるころには いえ,今の郵便事情では,永遠に届かないか
 もしれません ,私はもうこの世にいないでしょう。腐りはてた死骸で誰に迷惑
○ をかけるでもなく,私はロシアの大地とロシアの川を墓場に,永遠に眠っているでし・ ょう。
・  この世はあまりに美しく,またあまりにも辛かった。いえ,私は今さら伯母さんを○ 責めているのではありません。人間は誰でも業を持ち,誰でも過ちを犯すのですから
 。このことが自分にも身に沁みてわかった今はもう,伯母さんを過去の罪で責めるこ
 とはいたしません。
  私はただ,私の苦しみをわかってもらいたいのです。なぜ私が死を決心したかを,
  わかってもらいたいのです。ただ一人の肉親である伯母さんには,このことをお話し  しておきたいのです。
   エリュ シャ伯母さん,私は生涯でたった一人の男を愛しました。森の楡のように
 たくましく,大草原のポプラのように真っ直ぐで,川辺の白樺のように無垢な男を。
 ああ,あれは,ロシアの大地の香りのする男! イリヤ ・ム ロメツのような!
 でも遅かった。何と残酷な! 私の体にも心にも,もう悪魔が巣くっていたのです。
○  あの人と会った後もサ ヴァと別れられず なぜなのかは,私にもわかりませ
・ ん。悪魔なのです。人間の本性にひそむ悪魔なのです あの人の子と思いこん
・ でいた赤ん坊が,ある日天使のように笑った時に,突然心にもたげた恐ろしい疑念。
○ ひょっとして,この子は悪の子,サ ヴァの子?
  これが,伯母さん,この私の受けた最後の打撃だったのです。あの男,サ ヴァか
 ら受けた最後の打撃。灰皿を投げつけて永久に縁を切った,サ ヴァの復讐。
 あの男には,私は父を二回殺されました。一度目は,伯母さんも知っているように
 ,交通事故で。二度目は,グレ プ神父。あの日の前日,サ ヴァのところで見つけ
  たメモを,私はグレ プ神父に渡しました。イリヤ ・マコ シン とうとう書
  いてしまいました。伯母さんもおわかりでしょう。あの男になら,私が惚れるのも当
  然だって に渡してくれって。ク デタ の計画書だったのです。
  でもこれは,サ ヴァの罠。彼はあの頃,私に妬いて,私の愛人をつきとめようと
 していたのです。メモを私から受け取った男を殺すよう,あの男は指示を出していた
 のです。私はその時,サ ヴァと手を切りました。彼をいつでも抹殺できる秘密を持
○ って。でもあいつは,最後に残酷な復讐をしてきた。
・  赤ん坊,私の赤ん坊,愛の子か,罪の子か。どっちにしても,この私に,罪のない・ 赤ん坊を育てる資格はありません。せめて,この手でわが身を殺し,自分の罪をあの○ 世へ持っていくのが,この子にできる最後のはなむけ。
  どうか,この子を探さないで下さい。イリヤ の子であろうと,サ ヴァの子であ
 ろうと,この汚れた母から生まれたなどとは夢にも思わず,ただすくすくと育ってほ
 しいのです。
  エリュ シャ伯母さん。私は自分の人生を劇的なものに見せようとは,思っていま
  せん。私のような哀しい定めの女なら,このロシアには無数にいます。この私のよう  に,泥のなかに踏みつけられて。でも私は,このかなしい定めを,自分の手できっぱ  りと断ち切りたい! 永遠にです! 赤ん坊のため,そしてロシアのために。

    ああ,イリヤ ,私はあなたをあんなに待っていた。
○   遅すぎた,遅すぎた出会い。
・   罪にまみれたこの私は,神の裁きを受けるため,死んでいきます。
・   あなたは私の大地,私の父,私の母。
○   あなたの子供を残していきます。あなたの子供なのです。
   もし,罪の子だとしても,同じロシアの大地から生まれた子供。

 さようなら。
                           あなたのロ ラ

 ああ,オ ロラ! ミュルレル夫人は手紙を振り回すと,涙にくれて机につっぷす。か
わいそうな,かわいそうな子。私が,私があんなことしたばっかりに。もう半年前! 手
遅れよ。手遅れよ。どこにいるの。オ ロラ!

四・

 この世の終末がきたようだった。モスクワ自慢,地域暖房の鉄管もすっかり古びて,そこここに孔があき,熱湯が湯気をたててほとばしり出る。土は流され,道路にできた深い々々熱湯地獄に,それとは知らずに突っこんで,運転手は車の中で悶え死にするありさま。ただ水たまりと思ったのに。
 アパ トはきのうも今日も断水で,住民は階段を庭の井戸まで水くみにぞろぞろと下り
ては,すれちがう隣人たちと顔を見あわせ苦笑いし,災難の中での奇妙な連帯感を味わっていた。古くなったトランスは故障して電圧が急に上がり,火花を散らす。
 「もう駄目だ! UFOの襲来!」 半分自棄になった声が,そこここで上がる。
市民の頼りの地下鉄も,整備不足で火事をおこして,通勤客は蒸し焼きになり,タンク
・ロ リ は満員のトロリ ・バスにぶつかって,炎となったガソリンが乗客に襲いかか
る。そこらじゅう,思いがけぬ死が口を開けて待っていた。
 以前なら,質素でも皆それなりに生きていた市民は,インフレで,年金も貯金もただ一月で煙のごとく失って,別荘や車はかなわぬ夢と化していく。ひっくり返った世の中で,
一文なしになった老人たちは,えんどう豆を混ぜたコ ヒ とパンだけで食事をすませる
始末。
 昔なら,エリ ト中のエリ トの共産党中央委の元職員は,初老の身に粗末なカバンを
小わきにかかえ,地下鉄で口すぎのアルバイトに通勤していく。職を失ったソ連時代の役
人は,安物のオ バ 姿で,妻とともにあてもなく湿った雪を踏みしめて,うす暗い夕暮
れの街を買い物に歩きまわり,この世の中をただ,下へ,下へと落ちていく。ポルノ誌編集に転職する教会の職員,性を転換して夜の街の売春婦と化す元党委書記。夢かうつつか,国全体が熱病に浮かされたかのように,奔流となって終末の瀧へとなだれこむ。

カネ,カネ,カネの世の中に。見たこともないドル紙幣が,今や万能の神。この国で生きていこうと思ったら,昔ならツテ,今やドルが何より大切。車でも,別荘でも,土地でも,地位でも,欲しいがまま。共産主義に代わってカネがこの国を治めれば,成り上がり者,ならず者が幅をきかす。
 威厳を装う政治家も,つんとすましたインテリも,ロシアを見下す外国人も,カネを見せればよだれを流し,ピストルを見れば命ごいに跪く。それ,札束で顔をひっぱたけ,鼻面に拳銃を突きつけろ。この世を支配するものは,緑色のドル紙幣,鈍く光る拳銃。
悪徳と腕力,ただこの二つだけで,男たちは世を渡る。さあ,ベンツ,BMWを手にい
れた。これで俺も「ビジネスマン」になったとばかり,ならず者どもは,狂おしいばかり
の闘争心をたぎらせて,街を走りまわり,商売敵のオフィスにバズ カ砲をたたきこむ。
右を見ても左を見ても,ならず者,ならず者。おとなしい市民は脅えあがって,自分の
殻に閉じこもり,何も見ず,何も聞こうとせず,今ではバラ色に見えるあの共産主義の「
停滞の時代」をなつかしむ。あの頃は,ならず者はすぐシベリア送り,店にはチ ズにウ
ォトカ,ソ セ ジ,何でも安く買えたじゃないか。自分たちにはパン,国には栄光を取
り戻してくれる,強い指導者はいつ現れるのか。

 「この汚らしいもの,どけろってんだ!」
色とりどりの,だがまだ固いつぼみのチュ リップが入ったバケツは,蹴とばされて空を
飛ぶ。赤,白,黄色のチュ リップが,歩道に落ちて泥にまみれる。イヴゲ ニ とパラ
シャは,物も言わずに可憐な花へと走り寄り,一本また一本と拾い集める。インフレで
別荘はもう到底だめでも,あの可愛い孫イ ゴリにミルクを買う金くらいなら,と思って
一本々々,大事に売っていた,チュ リップをこんなにして。
 だが,目つきの悪いチンピラは,色とりどりの花々を泥の中に踏みにじり,イヴゲ ニ
に膝蹴り食らわせ,仰向けにと突き倒す。
 「いいか,ショバ代を払わねえなら,てめえの命で払ってもらうぜ」
 イヴゲ ニ は唇から流れ出る血潮を拳でぐいと拭き,チンピラに飛びかかろうとして
,パラ シャに止められる。
 「やめて,ゲ ニャ! 気が狂ったのかい! もう,あっちの方があんたより強いんだ
よ! まだわからないのかい!」

 だが,その場から二百メ トルと離れないキオスクのかたわらでは,イヴゲ ニ の息
子のロマンが,まだ冷たい風のなか,古いアノラックの背を丸め,ジ ンズのポケットに
両手を入れて,足踏みしながら立っていた。ク デタ で怪我をして入れられた病院を黙
ってぬけだしてからは,また一人で金稼ぎ。すぐかたわらの父親の受難も知らず,陰気な顔で,「金を先に出しな」と客に言い,紙幣の透かしを確かめる。その青白い,薄いひげの生えた顔は,まだうずく傷の痛みに時々ゆがむ。モスクワ市の役人どもが,クリスマスの飾りにと無理やり買わせた豆電球が,キオスクに蔦のようにからまって,通行人を嘲るかのよう,赤,青,黄色にまたたく。
 「おい,ロ マ。かわいい妻子を捨ててまで,どうしてヤミ屋をやりたがる? お前み
たいなウブな男にゃ,しょせん無理な仕事だぜ」 アフガン戦争帰りの兵士あがり,相棒のサルキシャンは,短くなった煙草を地面に捨てると,吐き捨てるように言う。
 「いや,やるぜ。これしかないんだ。世界一の実業家になって,あの人たちと同等になってやる」
 「やめとけ,ロ マ。そんな気持ちで商売したって,中途半端で終わるだけ。覚えとけ
,ビジネスは悪魔だ。魂を売ることなんだ。心も体も泥に塗れ,気がつけば,泥の中でしか生きられなくなっている」
 ロマンは黙る。いつもこれだ。二,三人,人を殺してきたからといって,いつも兄貴風を吹かしやがって。俺はやる。やってやるぜ。
 夕方の金色のキオスクには赤,青,黄色の豆電球がいよいよまたたき,通りの車の流れが繁くなる。ラジカセの騒音を背景に,通りを流れる車に,ロマンは思わず目を走らせた
。 あの中に,ユ リヤ,そして息子がいるかもしれないな

五・

 百年に一度のビジネス・チャンス。若者たちは,気違いのように走り出す。 ソ連
からロシアに権力が移される,そのすきに,利権をくすねまくるんだ。走れ! 一年あとでは,もう遅い。すっかり縄張りができちまう。免許や許可だと? クソ食らえ。役所に行っても,誰が何の担当か,自分でもわかってない。わいろでも何でもやって,二束三文
で手に入れろ。今だ。今,出遅れれば,こんな機会は二度と再びやってこないぜ
かくて,石油もガスも金属も,国営企業もまたたくうちに,利権の巣と化して,ただ百ドルの砂糖を輸入した若造が手を広げ,またたくうちに大金持ちになっていく。
 新興の実業家アリル エフ,強欲でもどこか哀れな翳のあるアリル エフも,彼がつけ
ると,よれよれのネクタイがなぜか卑猥に見えるのにもかまわず,日がな一日,血眼で稼ぎまくる。社員用の医務室は,今では立派な病院に,食堂は食品会社に衣替え,ドルをヤミで手に入れて,石油に金属,そして材木を買いたたく。そして,税関の小役人にわずかな金をつかませて,アムステルダム,ロンドンへと持ち出すと,売り上げの金で,砂糖から,電気製品,自動車まで買いつけて,このロシアで高く売り,しこたま入ったル-ブルでドルを買っては,また石油に金属,そして材木を買いたたく。
 金もたまって気の大きくなった,アリル エフ。さあ,オ リガの以前の助言じゃない
が,政党を作って国会を牛耳ってやるんだとばかり,テレビで構想をはなばなしく打ち上げると,軍用ジェットをチャ-タ-し,ロシア全土を遊説の旅。
 ネヴァ川のほとり,帝政時代の栄華が埃をかぶってそびえ立つサンクト・ペテルブルク,五つの大工場を見下ろす丘の上,吹きぬける風,殺された皇帝ニコライ二世一家の慰霊堂が侘しくたたずむエカテリンブルク,赤錆びた艦隊の上,カモメがア-ア-鳴いて飛ぶ
,最果ての地,ウラジオストック。どこへ行っても,アリル エフの党の地区代表になり
たいあぶれ者たちが,自薦他薦で彼のホテルに押し寄せる。元ジャ ナリストにエンジニ
ア,地質学者に医者に教師。さあこれで俺も,今日から政党の専従職員,食いつぶすまで
は左うちわで過ごせるぜ,とばかり,アリル エフを持ち上げる。
レフ・コンスタンチ ノヴィッチ。さあ,明日から共に,新しいロシアのため働
きましょう。そう,そのとおり。ロシアに真の自由なビジネスを根づかせるために。党支部の事務室は,最初は質素に二百平米くらいがいいでしょう。でもオフィスの家具はデンマ-クから取り寄せるのです。やってくる連中に信頼感をもたせるためには,なんといっても外見が大事ですから。コンピュ-タ-は五台は必要。え? 多すぎるですって? そんなことはありません。それにFAX,コピ-機はもちろん,デスク・トップ・プリンタ-,これが,現代の社会でのPRには絶対,必要。そして,モスクワの本部との間には,
衛星電話を三本いれねば。わが国の電話回線は,頼りにならないですからな

 思いのほか金のかかる政党作りに,アリル エフはサ ヴァから危ない話を引き受けて
,一攫千金とばかり,またロンドンへ飛ぶ。仕事を片づけたアリル エフは夜,ナイツブ
リッジのロシア人が集まるクラブに出かける。煙草の煙がたちこめるなか,モスクワはタガンカからはるばるとやってきたバンドに合わせて,歌手が歌う。

宇宙船ミ ルに打ち上げられたクリカリョフ。
ソ連はなくなり,帰ってこいと指令する上司もクビに。
 あわれ,あわれ,クリカリョフ。
広い宇宙をあてもなく,ただ,ぐるぐると回るだけ。
ああ俺は,いったいどこへ帰ればいいんだ!

アリル エフは騒音のなか,セヴィル・ロ-ドの背広でぴっちり決めて葉巻きをくわえ
,携帯電話に囁きかける。
 「サ-ヴァ,全てうまく行ってるぜ。ただ,大使館の諜報員が嗅ぎつけて,汚い鼻,つっこんできやがった。お前,モスクワでなんとか話をつけてくれ」
 彼は,イギリスにレフ・アリル-エフ商会を登録し,石油,木材,金属から,女,麻薬,兵器まで,ロシアからの輸出を一手に扱った。マン島に作った保険会社では,イタリア
・マフィアをアドバイザ に,サ ヴァの金をロンダリングし,稼いだ金で,ハムステッ
ド,ダルウィッチの高級住宅街に家を買いあさる。
この俺も,いつかここででっかいビルを建てるんだ。「アリル エフの世界貿易
センタ-・ビル」を。石油,金属,木材から,女,麻薬,兵器まで,何でも扱う取引の中
心を
 なにか生きるのを急いでいる風のアリル エフ。なぜかと聞かれても,彼自身答えはな
い。その後に残るのは,ただ寂しく風の鳴る音ばかり。あたかも,醜い毛虫からやっと羽が生え,わずかの命ある間,飛びまわる,はかない蝶でもあるかのように。

だが,アリル エフの手綱をしっかり握ったサ ヴァは,じっと動かない。モスクワの
東のはずれの屠殺場で働く掃除夫を父に生まれ,幼いころ母に別の男と駆け落ちされたサ
ヴァは,この社会に対して怒りを通り越し,冷たい敵意を秘めていたが,それだけに動
くのには用心深い。
 彼は,その人に取り入るのがうまい性格で,モスクワ市はもちろん,中央政府にも黒い人脈を広げては,週末のサウナに誘いだし,酒や女でたらしこむ。誘いに応じない者には,その汚職を探り,尾ひれをつけて噂を広めて屈服させる。理屈だけで経験と人脈のない
改革派の青年たちは,仲間同士で功をはりあううちに,サ ヴァの利権の巣にからめ取ら
れる。それは,権力欲というよりも,毒グモがただ生きていくために,網にかかった虫を殺し,血を吸い取るよう。
 人が苦しみ,人が死んでも,サ ヴァは眉ひとつ動かさない。自分の車が道路人夫や老
人をひき殺しても,そのまま行き過ぎ,あとで秘書がもみ消す。彼に買われた建物からは人が消え,建物はただ転売か,その下の土地の私有化を待つだけの物件と化し,工場を買収しても生産性を上げる努力もせず,ただ高い値段での転売を待つだけ。悪魔なら人をだ
ますために媚びてもみせようが,サ ヴァはただガン細胞のように,不吉に増殖していく
だけ。
 彼の傍ら,小悪魔のような,あのイヴァン・ニェポ ムニャシ が,影のようにつき従
う。一年前,イリヤ のソ連解体のアイデアを,自分のものであるかのように売りこんで
,ゴルバチョフからエリツィンにうまく鞍替えしたものの,そのアイデアはエリツィンの側近に横取りされて,自分は用済みとして捨てられたイヴァン。のぼりつめた政府の要職から,一社長の秘書の地位に落ちたイヴァン。金縁眼鏡に白い顔で,いっこうに歳をとら
ない彼は,女も男も見境ないサ ヴァの情欲のはけ口も務める。
 サ ヴァは,近いうちに企業の民営化,土地私有化が認められることを見越し,モスク
ワじゅうの不動産の所有関係を調べぬく。それは,国,市,区,省庁,企業の権利が入り
組んだ迷路だった。それに,たとえみすぼらしいアパ トでも,再開発のために住民を立
ち退かせるのは大変なこと。
 サ ヴァが目をつけた建物は,なぜか火事になることが多かった。冬の空に炎が赤々と
燃えあがり,朝になれば焼け落ちた梁からは白いつららが朝日に輝き,焼け出された住民たちがまだくすぶる炭のなかから,涙をうかべて肉親の遺体を掘りおこす。
 サ ヴァは銀行にも手をのばす。マネ ・ロンダリングをするにも,この当時金のある
者なら誰でも手を染めた通貨投機をするにも,自分の銀行を持っておくことは,すべての基礎。彼はN省の幹部に手をまわし,N省の外貨収入を管理するために作られたインホス銀行の株を静かに手に入れる。ロシアでは,自分ではなにも作らず,耕さずに,金に金を産ませる悪習が,静かに静かに広がり始めた。

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