小説「遥かなる大地」(筆名 熊野洋 草思社)冒頭
遙かなる大地
イリヤ の物語
嵯峨 冽
(さが とおる)
わたしは墓に下り,三日目には起き上がる。
すると幾世紀もが,あまたの筏を河に流すように,
そして群れなす小舟のように,私の裁きを受けんものと,
闇の中から漂ってくるだろう
「ドクトル・ジバゴ」より
目次
第一部
創世記・・・・・・・・・・・五
約束の地・・・・・・・・・・二八
砕かれた器・・・・・・・・・一八三
第二部
エピロ グ・・・・・・・・・一
燃ゆる茨・・・・・・・・・・五
黙示録・・・・・・・・・・・一六〇
復活・・・・・・・・・・・・三〇八
プロロ グ・・・・・・・・・三六九
創世記
ロシアの大地は,大海原のようなものである。その涯てしないうねりの上を,スキタイ
が、フンが,アヴァ-ルが,ペチェネ グが,タタ-ルが,そして今では石と化したロシ
アの英雄たちに,ピョ トル大帝たちが翔けていった。 その夢は,白い雲となって残る
のみ。母なる大地は,潤える大地は海原のように,あらゆる命をいつくしんではその亡きがらを深い底へと呑んでいく。
地平のかなたへ続く草原,精霊の住む深い森,遠くアジアへ流れる悠然たる大河,青空を大地に触れんばかりに過ぎていく白い雲。大地と河と空とが,豊かなシンフォニ-を織りなす。その中に一つのおたけびが,こだまする。
「ヤッホ ,ヤッホ ,ヘ イ,よ く聞け,イリヤ-・ム-ロメツ,イリヤ-・ム-
ロメツのお通りだ! ヤッホ ,ヤッホ 」 川のほとりの草地の上で,子供が一人木馬
にまたがり,おたけびをあげる。その声は,川のむこうの深い森にすぐ吸いこまれたが,子供は一人耳をすまし,自分の声が草原のかなたからこだまを返し,碧い空を満たしていくのが聞こえるかのように,満足げにうなずいた。
イリヤ-は一九五二年春のある嵐の夜,リャザン州のナ-ノフカ村に生まれた。母フロ-シャは難産の末,その母アガ-フィヤがすがりつく中,出血多量で死んでいった。
「神さま,私のイリュ-シャにご加護を」 それが,意識をなくす前の,彼女の最後の言葉。
「お母さんはね。あんたに,にっこり笑って亡くなったんだよ。強くなれって」 アガ-フィヤ婆さんに,事あるごとにくり返されたこの言葉はイリヤ-の脳裏に焼きついて,まだ見たことのない母のほほえみを彼は見ることができた。
「お父さんは? 僕にはお父さんはいないの?」 イリヤ-はアガ-フィヤ婆さんに,いかにも不思議だというように,よく聞いた。だが婆さんも,イリヤ-の父をよく知らなかった。
彼女が信じ,誇りにもしていた娘フロ-シャはある日突然,教師をしていたカバ-ニイ・ロイの町の学校から,休暇をもらって帰ってきた。病休の名目だったが,彼女が身ごもっていることに気づいた婆さんは,驚き怒った。きびしく問いつめるアガ-フィヤに,フロ-シャはただおびえた顔で頭をふり,しまいには泣きだす。
「信じて,ママ,信じて。私,神様に恥ずかしいことはしていません。この子の父は立派な人です。でも,誰だか言えないの。信じて,ママ」 フロ-シャは,しゃくり上げな
がらくり返す。アガ-フィヤは,集団化の時,牛を連れていかれるのに逆らった夫パ ヴ
ェルが,目の前で射ち殺されて以来の衝撃を受けた。二十年も苦労した末,父なし子の子がまた父なし子になるなんて。
だがフロ-シャは,近所のうわさを気にもせず,自信にあふれて畑を耕す。時たま手を止め腹の子供の動きに心をこらすと、その顔が陽の光で天使のように輝いた。
「あの子のすること。神に背くことはしていない。父が誰だか言えないならば,したいようにするがいい」 アガ-フィヤは思った。父が誰だか言わない方が,生まれてくる赤ん坊のためになるのだろうよ。
だがある日,郵便夫がフロ-シャの出した小包を持ち帰ってきた時,謎はとけた。
「リャザン州,エヌ地区,内務省第三収容所,イヴァン・エル・ヴォ-ルホフ様」とあて名のあるその包みには,「名宛人死亡のため返送」の文字があり,アガ-フィヤからそれを受け取ったフロ-シャは,青ざめてよろめいた。
「ああ,神さま。私の子は,私の子は 」
それからはフロ-シャが思いつめて何も話さず,ただ赤ん坊の名はイリヤ-にというばかりで死んだ後,アガ-フィヤは生まれてきた赤ん坊をどう登録するか困ってしまった。
父親の名前はわかったものの,罪人だなんて。だが,父姓なしでは父なし子。罪
人の子でも,父なし子でも,どちらでもイリヤ-が一生苦労する
カバ-ニイ・ロイの村役場の中年女性の議長は,アガ フィヤが父親はイヴァンという
だけで,何の証明書も持ってこなかったのにあきれたが,きびしい顔をほころばせると何も言わず,父の欄には線を引き,父姓にはイヴァノヴィッチと書きこんだ出生証明書を作
ってくれた。 フロ-シャなら,よく知っている。昔,リャザンの大学で勉強させ
たいと,この婆さんが言ってきた時から知っている。父が誰だか良く知ってはいるけど,
この婆さんを助けてやらなきゃ
アガ-フィヤは,議長が袋から印を出し,証明書に重々しく捺すのを見とどけると,その足で娘が教えていた学校に行き,持てるだけ持ってきた卵やサ-ロを校長に渡して,逃げるように村に帰った。
その後アガ フィヤは風の便りに,フロ-シャがレニングラ-ドからやってきたという
若い学者と親しくしていたこと,その学者は逮捕されどこかへ行ってしまったことを聞いたが,この時代,そうしたことを詮索しても誰のためにもならなかった。ただ神に祈るだけ。悪い男じゃなかったんだろうよ。
イリヤ-が父のことを聞いてきた時,こうしたことがアガ-フィヤの記憶のなかに一度によみがえったが,彼女はでまかせの嘘を言う。おお神さま,お許しください。これも,子供のためなんです。
「お お父さんはね。戦争から帰ってこなかったんだよ」
「それは聞いたよ。でもそう言ったら,友達に笑われたよ。お前は父なし子なんだって
」 「じ じつは,戦争から帰ってきてね。カバ-ニ-・ロイで,農業技師をやってい
た。お母さんと知り合って,お前ができたんだけど,働きすぎて皆に妬まれ,収容所に送られて帰ってこなかった。誰にも言うんじゃないよ」
「ふ ん。で,お父さんの名前は?」
「イ イヴァン・ヴォ-ルホフ」
アガ-フィヤはこれだけは本当のことを言い,イリヤ-はそれをしっかり覚えた。彼にはなぜか,父が生きていることが感じられ,父を大声で求めて草原にとび出していきたい衝動にかられた。
「お父さん。僕はいつか必ず見つけてみせる。僕はイリヤ ・ム ロメツ。牢屋のなか
からでも助け出してやるんだ」
ナ-ノフカ村は,モ-クシャ川を見おろすなだらかな丘の上に立っていた。丘の上には,まるでポプラのように高くのびた白樺が清楚な姿を一列に,青い空に浮き立たせている。その白いこずえをゆっくり渡る綿雲を寝ころんで見ていると,得体の知れない力がイリヤ-を持ち上げて,果てしない空に吸いこもうとするのだった。思わず恐怖をおぼえたイリヤ-が,畑を耕すアガ-フィヤに駆けよると,婆さんは言った。
「英雄さん,こわがるんじゃない。じっと見つめて雲に乗り,この広い世界を翔けるのさ。そうすれば,こわいことなんか何もない」
斜面の下で小さなモ-クシャ川は池のように広がって,その縁には水草がしげっていたが,水は澄み,そしておいしかった。この川は,イリヤ-のどこか知らない遠くでオカ川に,そしてもっとはるかのずっと先で,母なる大河ヴォルガに流れこむのだと婆さんは言
った。その先 そのずっとずっと先には広い々々海がある。カスピ海。そのはるかな
先の地下の水路をくぐって行けば,聖なるエルサレムへと通ずるヨルダン川。そしてその先は,モスレム教徒の住むアジア・・・
川のむこうの崖の上には,眠るがごとくに深い森がはてしなく続き,並ぶこずえは地球の丸みをうかがわせていた。村には,四十戸ほどの大きめの,だが質素な丸太づくりの農家が,仕切りの柵もなしに並び,一隅には地下のサイロが二つ,まるで英雄の古墳のような盛り上がりを見せている。
イリヤ-は,白樺のこずえを遠くわたる北風の吠え声を聞きながら,ペチカの上で婆さんと眠る冬の夜が好きだった。そうした夜に外にでると,裸になった白樺の枝の間で凍りついた大気が,月の光に銀粉となってきらきら舞った。
長い冬が終わると,まだ冷たい大気の中で,陽の光は温かさと輝きを増し,牧場の白い柵の傍らを,雪どけ水をたたえた小川が勢いよく流れていく。その頃になると村人たちは白樺の幹にきずをつけ,樹液を集めて蜜を加え,澄んだ香りの飲み物を作った。
夏,朝霧にたたずむ白樺の林。白夜のなかからナイチンゲ-ルの歌が聞こえ,雄鶏が早めの時を告げる。秋には,夕べの虫の鳴き声が人の心を和ませるなか,冷たい雨が冬の訪れを知らせ,晴れた日には黄金色の白樺の葉が風に鳴って,抜けるように青い空に別れを述べた。
昔「旧教徒」 十七世紀,正教会の典礼と教義の改革に抵抗した信者たち が開
いたこの村は,新しい生活を求める気概をこめて,ナ-ノフカ 新しい村 と名づけ
られた。村人たちは弾圧を恐れ,十字架も窓もない簡素な小屋で神父の説教を聞いていたが,ソ連政権に神父が逮捕されてからはそれもなくなり,小屋は荒れるにまかされた。
集団化は,この村に特に大きな災難をもたらした。酒も煙草もたしなまない,勤勉な旧教徒は多くの家畜を持っていたが,森の向こうのミャソイェ-ドヴォ村の連中は,政権の意向に従って集団農場をいち早く結成するや,以前から恐怖と嫉妬の対象だったナ-ノフカの富を喜々として没収しにやってきた。
富農の追放は,村にさらに衝撃を与える。シベリアへの追放を食ったのは,お偉方への
コネを持たない二家族だけだったが,ミャソイェ ドヴォの村役人はその家を没収すると
学校にし,州からもらった学校新築費用を着服した。
ナ-ノフカの男たちは戦争から半分も帰ってこなかったが,それでも旧教徒の伝統で,子供の数はまだ多かった。夏になるとイリヤ-たちは家の畑の手伝いもそこそこに,まだわずかに残っていた馬に数人ずつまたがって,喚声をあげて斜面を下り,モ-クシャ川に乗り入れた。子供たちは面白がって深みに乗りこみ,泳ぐ馬に誰がいつまでしがみついていられるかを競うのだった。
川にはザリガニが沢山おり,浅瀬の泥に足を取られながら一人で七匹も十匹も捕まえる。夜になると子供たちは,干し草の山の上で星空をあおぎながら,いつ尽きるとも知れない話をするうち誰ともなしに寝入っていった。
秋には,取れたばかりのじゃがいもや,森で集めた茸を持ち寄り,落ち葉の焚き火であぶっては,香ばしい湯気を吹き々々,腹いっぱい食べる。そして冬になれば,籠にワラを巻きつけ水をかけて凍らせると,斜面をぐるぐる回りながらモ-クシャ川の氷の上まで滑っていったり,木に針金をつけて足にゆわえ,ホッケ-に興じた。
収穫の忙しさが一区切りつく頃,村には映画がやってきた。村人たちは,集団農場の宣伝映画を嫌って見にいかず,学校として使われている小屋の壁にかけられたスクリ-ンの前にはいつも,村人たちに説得されていやいやながら町の警察に「情報を提供」している
ペ チャ爺さんが,長い白髭をしごきながら退屈そうに座っているだけだったが,イリヤ
-たちは発電機の音で声もろくに聞こえない物陰から,目を輝かせて見ているのだった。 模範農園の映画は,イリヤ-たちには別の世界のことのように思えたが,戦争映画は子供たちの胸をときめかせた。映画の次の日になると,彼らはいつもの盗賊ごっこは放りだし,ソ連軍の英雄に争ってなっては,弱虫の「ドイツの将軍」を散々に打ち負かし,近所の婆さんに「馬鹿な人殺しのまねはお止し!」と一喝されては,散会するのだった。
ほこりだらけの道の上を,いつも必ず胸に勲章をぶら下げた郵便配達の「アントンおじ
さん」が,古びた自転車でよろよろやって来る。戦争で家族を失い,レニングラ ドから
帰ってきた男。子供たちは彼のまわりに群がって,昔の話を聞くのが好きだった。ナ-ノフカの昔の話し。
朝になるとな。牛飼いがやってくる。こ-んなに長い葦笛を,トゥ-・トゥ・ト
ゥ・トゥ-って吹いてな。それを聞くとみんな起き,小屋から牛を追いだして,牛飼いに預けるんだ。それで,一日が始まるのさ。牛飼いは,今日はセミョ-ンの家,明日はヴァ-ニカの家っていうふうに食事をもらって。なにせ,二百頭もの牛がいたんだから。
そのころは,このあたりにも狼がまだ沢山いた。夜になると川の向こうの森の方から,
遠ぼえが聞こえてくる。月夜には,それはよく吠えたもんだ。こわかったぞ 。
俺たち若者は夜になると集まって,朝までギタ-やアコ-デオンで歌ったり踊ったり。そら,セリョ-ジャ,お前の母さんは踊りが上手で,俺も首ったけだったんだ。はっはっは。でもそれで,六時になるともう草刈りに起こしに来やがる。眠いったら,ありゃしない。 鍛冶屋のセミョ-ンってのがいた。戦争で死んじまった。蹄鉄を作るのがうまくって,荷車でも鍋でもなんでも修理してくれた。子供たちがいつも集まって,奴が仕事するのを見ていたもんだ。もう,蹄鉄を作れる者もいなくなったぜ。
あのころは,ジプシ-がよくやってきた。荷車に乗ってな。よく村の馬を盗んでいった。きっと奴らだろうと目星をつけて,村のはずれの馬車のところに駆けつけると,ぶちの馬が草を食べている。夜の間に羊を殺し,腸の中の糞を馬にこすりつけると,白ぶちの馬になっちゃうんだ。いくら返せと言っても,「お前の馬じゃないだろう,お前の馬は栗毛
じゃないのか」ってわけ。本当にこすい奴らだ。でも,芸をする熊なんか連れてきた
ナ-ノフカから一時間歩いた丘の向こうに,ベラカ-メンナエ湖があった。林に囲まれ,真ん中でくびれて全体が見渡せないため,山の中の湖のような神秘性をたたえていた。この湖にはなぜか魚が一匹もおらず,それもまた神秘性を高め,泳ごうとする者は一人もいなかった。
この湖のほとりには昔大きな町が栄えていたが,モンゴ-ル人がやってくると,
征服されるのを嫌って自ら湖にしずんだのだ,今でも水のなかから鐘の音が聞こえ,誰も見ていない夜には僧侶たちが湖底の教会へと下りていく,だがこれを見た者は生きては帰
れない
こういう伝説を聞いたイリヤ-たちはある夏の夜,ベラカ-メンナエ湖の探検にでかける。夜も遅くやっと白夜が暮れたころ,子供たちは疲れてまどろみ始めた。すると遠くから鐘のような音が聞こえ,湖の上を何か不思議な光が揺れながら進んでいく。子供たちは震えながら見ていたが,やがて何もいわずに一目散に逃げだした。
アガ-フィヤ婆さんは,強い正義感と意志の力を持っていた。その顔には,長い苦労の皺が深く刻まれていたが,細めの目は相手を見据え,口はきっと結ばれていた。婆さんは神を深く信じていたが,相手がたとえ旧教徒ではなくとも正しい敬虔な人間であることがわかれば,心を開いた。
夫パ ヴェルが集団化に逆らって殺されて以来,村人たちはアガ-フィヤと大っぴらに
関わるのを避け,アガ-フィヤは孤高の中,女手一つで息子のイェゴ-ルと娘のフロ-シャを育てた。孤高とはいえ,夜になれば近所の者たちがいろいろの物を差し入れていく温かい環境のなか,イェゴ-ルは高い道徳観,フロ-シャは翔たく想像力を与えられた。
そのフロ-シャが父なし子を産んだ時,村の女たちはまるで自分が侮辱されたかのように憤慨してみせたが,フロ-シャの哀れな運命と,そして何よりスタ-リンが死んだことで,やがて心を和らげる。アガ-フィヤは,このあたりで誰一人知らぬ者ない物知りだったし,牛や豚はもちろん,蜜蜂もかなり飼っていて,蜜がたまると皆にわけて歩くのだった。それにイリヤ-は賢く,力もあったため,村の子供たちも彼をいじめるどころか,首領とあおぐようになったのである。
アガ-フィヤは,残された孫にすべての愛情と知識をつぎこんだ。イリヤ-は,夜寝る時も,畑を耕したり牛の乳をしぼるのを手伝う時にも,婆さんの話を聞かされた。それは遠い々々昔の話だったが,婆さんの夢みるような単調な声はイリヤ-を引きこんで、自然にすべてを覚えさせてしまうのだった。
イリヤ-・ム-ロメツ,ドブルイニャ・ニキ-チッチ,商人サトコ,イ-ゴリ大公,そしてキ-エフ・ル-シの諸公たち,これら英雄はイリヤ-の夢のなかで,映画で見たドイツの将軍や戦車に果敢な闘いを挑んだ。
「よ く聞け! イリヤ ・ム-ロメツ,イリヤ-・ム-ロメツのお通りだ!」
ナ-ノフカは,精霊に満ちていた。草も木も,森も川も精霊に満ち,神秘におののいていた。婆さんにとり,それらはすべて神であり,畑を耕している時も森で茸を集めている時にも,二本指で十字を切っては大地に深く身をかがめるのだった。
春のけだるい月の夜は,モ-クシャ川のほとりで川の精ルサ-ルカが長い髪をとかしながら美しい歌で男を誘い,さらさら騒ぐ森の中では,森の精レ-シ-が立ち入る者をたぶらかそうと待ちかまえる。そうした夜にイリヤ-たちがモ-クシャ川に近づく時は,にがよもぎの葉を一枚むしり取り,ルサ-ルカへの魔除けにしたものだった。
家では,家の精ドモヴォ-イのささやきがペチカからもれ聞こえ,風呂場では風呂の精ヴァンニクがイリヤ-を待ち受けて,彼の未来を告げてくれた。アガ-フィヤ婆さんは,
ドモヴォ-イを「じいさん」と名づけ,亡き夫パ ヴェルが私たちを守ってくれているの
だよ,とイリヤ-に言った。
まばゆい光を投げる朝日を指さし,彼女はイリヤ-に言う。
「ごらん,イリュ-シェンカ,あれはダ-ジボ-グ。お日さまの神。火の息を吐く白馬が引く,馬車でお出ましだ。東の方の常夏の国から,やってくる。私たちにも恵みを施すために。ダ-ジボ-グが空の上から見ている限り,この世の中では正しいことが行われるのさ」
ある初秋の冷えこむ夜に,空に珍しくオ ロラが現れた。まるでこの地球の運命を支配
する神が光となって現れて,暗黒の空いっぱいをある時は光で満たし,またある時は暗闇
のなかに取り残すかのようだった。アガ フィヤが言う。
「イリュ シェンカ,天には三人の乙女がいるんだよ。『夜明け』,『日暮れ』,そし
て『オ ロラ』。子熊座に鎖でつないだ一頭の犬を見張ってる。鎖が切れれば,この世は
終わりなんだから」
アガ-フィヤは旧教徒の習慣を守っていたが,イリヤ-にそれを押しつけようとはしなかった。
「いいことと悪いこととは,自分ではっきり見わけるんだ。そうすれば,神の前で恥ずかしくない生きかたができるのさ」 婆さんはただこれだけを,イリヤ-にくり返し言うのだった。
村のむこうへは,涯てしない大地がどこまでも広がる。母なる潤える大地。アガ-フィヤ婆さんは,両手が地につくほど身をかがめ,口のなかで低くつぶやく。
「主よ,お許しください。あなたから授かったこの大地を我々は血で汚し,実りのないものとしてしまいました。誰ももう,働こうとはしていません。あなたの恵みが悪魔の手にゆだねられたからです。この先も、楽にはならないでしょう。主よ,われらを見捨てられるのでしょうか」
いや,そんなことはない。僕がみんなを楽にしてやる イリヤ-はこう思った
。 僕にはあり余る力がある。野原をいくら駆けまわっても,大声で叫ぶ力が残って
いる。僕は女神マコシ,この世のすべてを従える女神マコシの末裔,イリヤ-,イリヤ-・ム-ロメツ! 僕の乗った馬は,眠りに沈む森の上,空を翔ける雲の下を,どこまでも
どこまでも飛んでいく。矢を放てば稲妻となり,悪者どもを滅亡させるんだ
雪が融けたあとの黒く湿った大地は,むせるような匂いを放ち,イリヤ-は春の喜びにその上を転げまわる。まだ見たこともない海,どこまでも波が続くという海,でもここにはその海よりも広い陸がある,海よりも豊かな大地がある,これを踏みにじる者は誰だ!
これを実りのないものにするのは誰だ! へ い,よく聞け! イリヤ-はおたけびをあ
げて,春のライ麦畑を走りまわった。
モ-クシャ川のほとり,村から離れた小高い丘の白樺林に,母フロ-シャの墓がある。イリヤ-にとってここだけは聖なる場所であり,仲間が遊びに使うのを許さなかった。彼はいつも一人でここにやってくると,二本指で胸に十字を切り,手を地面につけるあいさつをした。そして白樺の木陰に座ったまま,何時間も風と鳥の声を聞きながら,母と一緒の時を過ごす。
「お母さん,僕はいつか必ずお父さんを見つけてあげる。そうしたら,三人で仲良くお話ししようね。イリヤ-・ム-ロメツの話し知ってる?」
夏の夜,草原の向こうからジプシ-たちが陽気に騒ぐ,情熱的な楽の音がいつしか聞こえなくなって数年たつと,イリヤ-も学校に入る歳になった。モスクワから配属された若
い女の教師,ジナイ ダ先生がイリヤ-の家にもやってきて,書類を見ながらいくつか質
問をすると,「じゃ,九月一日よ」とにっこり微笑みかけて,陽光のまぶしい外へと出ていった。
その日,村中の女たちは庭で摘んだ花を手に持ち,新入生と連れだって,学校になって
いる「富農セミョ ン」の丸太小屋に集まった。イリヤ-たちは,町の店で買ってきた晴
れ着を着せられ,花を持って立ちならぶ。
たった一人のジナイ-ダ先生が丸太小屋の戸口に立ち,こわばった微笑をうかべて慣れない挨拶をすると,近所のナ-ダおばさんがうち鳴らす鐘のなか,イリヤ-たちはこれまで喧嘩ばかりしてきた二年生に手を引かれ,一度は見たいと思っていた「学校」に神妙な顔で入っていった。
その秋,収穫が終わるころ,町の役人がやってきて,村の家畜を無理無体に安い値段で買いつけ始めた。
「また、ミャソイェ-ドヴォの奴らだ!」というささやきが村に満ちたが,役人たちはアガ-フィヤの家にも容赦なくやってきて,ル-ブル紙幣を投げつけると,大事にしていた牛を二頭,庭から引きだす。イリヤ-は,鍬をつかむとその後を追おうとしたが,まだ見たこともないような剣幕のアガ-フィヤ婆さんが,無言で彼を地に打ち倒す。
その夜イリヤ-は初めて,祖父パ ヴェルが射ち殺された時のことを聞き,この世には
理不尽な力があることを,まだ口のなかからにじみ出る血の味とともに思い知った。
「また集団化だ。私たちには,何も残してくれない。さんざ肥らしておいては,持っていってしまうのさ」
イリヤ-の頭のなかでは婆さんの言葉がこだまし,一人眠れないまま,まだ知らない大きな,しかし卑劣な力のことを,憎しみをもってあれこれ考えた。
「僕は女神マコシの末裔,イリヤ-・ム-ロメツなのに」
ナ-ノフカの小学生たちは家畜の調達に抗議して,ピオネ-ルの赤いスカ-フをリ-ダ-の号令の下,いっせいに投げ捨てた。草原を赤いスカ-フが風に吹かれて舞っていくのを,ジナイ-ダ先生が青い顔で集めていたのと,家畜調達の張本人ラリオ-ノフ第一書記が銃殺されたのとで,村人たちの怒りは少し鎮まったが,家畜を取られて,町に移ることを考え始めた者も多かった。
先生のジナイ-ダはカル-ガの生まれで,気立てのよい丸顔に眼鏡をかけ,つやのない金髪をポニ-・テ-ルに結っていた。彼女は「学校」の一室に住みこんで,授業が終わると自ら畑を耕していたが,村人たちはそうした彼女が気に入って大切にした。
彼らは野菜や蜂蜜を持ってきては,彼女にモスクワや「外の世界」のことをあれこれ黙って聞いていく。ジナイ-ダ先生は目を輝かせて,モスクワの美しい地下鉄,店にあふれる商品,人でいっぱいの映画館などの話をしたが,政治や宗教の話だけはしなかった。
俺たちゃ,けちな盗賊,泥棒じゃなく,
コサックの強者でもないけれど,
ピオネ-ルの陽気な一隊だい! えい!
イリヤ-たちは,ピオネ-ルの歌とも別に意識せずに,「チム-ルとその仲間たち」を歌いながら学校から引き上げると,家の畑で夕方まで手伝った。
イリヤ-の心には,ジナイ-ダ先生がともすれば脱線し,窓の外を見ながら夢見るように朗誦し始めるレ-ルモントフやエセ-ニンの詩が,深くしみ通る。そしてジナイ-ダ先生の存在そのものが,「外の世界」への目を開かせた。
そうだ,僕にはモスクワにイェゴ-ル伯父さんがいる,オ リガという従姉妹もい
るんだと,祖母さんが言ったっけ
二年になるとイリヤ-は,先生から易しい世界歴史や地理の本を借りだしては,ランプの灯で夜遅くまで読みふけるようになった。
ナ-ノフカからは,次第に人がいなくなる。イリヤ-が三年になった時,学校は閉鎖され,まだ残った生徒はジナイ-ダ先生とともにカバ-ニ-・ロイの学校に編入された。イリヤ-たちは毎日二時間歩いて通ったが,町の子供がほとんどの学校では,ジナイ-ダ先生の気づかいにもかかわらず,どこかよそ者の感じがつきまとった。何と言っても,町の子供たちがイリヤ-たち「村の者」を見下す態度,そして学校全体に満ちたどこか卑屈な偽善的な雰囲気が,村の子供たちにはどうしても馴染めなかった。
その年の冬,アガ-フィヤ婆さんは病気になった。牛を持っていかれた後は,乳が飲めなくなり,イリヤ-が作っていた糞を丸めた燃料もなくなって,食物を十分熱することができなくなったし,余った食物を分けてくれた近所の者も一人去り,二人去りして,多くの村人が町に移住してしまっていた。
ナ-ノフカではもはや,わずか五軒ほどの丸太小屋から煙が出ているに過ぎなかった。その冬は吹雪が多く,イリヤ-も婆さんを必死に看護して,ほとんど学校に行けなかった。家の精ドモヴォ-イはペチカの中で終夜うなり,婆さんはうわ言のようにくり返す。
「じいさん,パ ヴェルよ。もうすぐ行くから。泣かないで,静かにおし」
婆さんは夏まで病と戦ったが,ポプラの綿毛が雪のように舞う六月一六日,静かに息をひきとった。イリヤ-は闇のなかに残された。
まばらな葬列は畑のわきを通りすぎ,モ-クシャ川を見下ろす墓地へ進んでいく。「党
員」のセミョ-ン・パ-ブロヴィチがお義理の弔辞を述べると,アガ フィヤと仲がよか
った近所のタマ ラが,「先に逝ってしまって。私は一体どうしたらいいんだい」と,歯
のない口で泣き叫び,そして婆さんの棺は土中深く下ろされて,二度とふたたび帰ってこなかった。
「イリヤ-,気を落とすんじゃない。私たちがいる」 モスクワからやってきた,まだ見たこともなかった伯父イェゴ-ルが,イリヤ-の両肩に手をおき優しく言った。
「モスクワへ行くんだ。あそこが,お前の家になる」
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