第三章 大衆社会への適応 ゴルバチョフの社会改革
(1998年「ソ連社会は変わるか」ペンネーム 嵯峨冽:サイマル出版会より)
飛行機は冬のモスクワ空港に着く。掃いても掃いても降ってくる雪が、冷たい風にあおられて地面を低くはいまわる。かちんかちんに凍りついた誘導路の上で、黒っぽいオーバーで真な丸になったおばちゃんが手旗をふっていたり、肩章のついた灰色の外套で身を固めた警備隊員が目付きも鋭く立っているのを見ると、タイム・マシンでまるで違う世界に迷い込んだような気がしてくるのだ。
でもゴキブリのようにかっこは悪いがしぶといボルガに乗って、雪の薄くつもったレニングラード街道をぶっ飛ばし、モスクワの建物が見えてくる頃には、昔の感覚が蘇る。
おお、みんな! 教会や鐘楼や
庭園や宮殿が、目の前にパノラマとなって
さっと開けた時、私の心はどんなに満たされたことか!
さすらいの人生に悲しき別離を重ねる時、
モスクヴァよ、いくたび私はお前のことを思い浮かべたことか!
モスクヴァー・・・ロシア魂にとって、この響きにこめられたものはいかに多いことか!
そして、何と多くの余韻がこめられていることか!
(プーシュキン「エヴゲ ニー・オネーギン」より)
筆者は再びモスクワにやってきた。ゴルバチョフ書記長が登場してはや二年、とにかく最近ソ連から聞こえてくることは、我々ソ連研究者のこれまでの理解を逸脱したものばかりなのだ。鉄道事故が起こればタスがいち早く報道し、文化面では雪解けが再び始まろうとしている。政治経済の欠陥は、一部の聖域は残しながらも明るみに出されて批判され、民主化の必要性が叫ばれている。あげくは、行政訴訟法まで採択される有り様だ。
これは、我々のこれまでの理解を超えている。ひょっとしてソ連は西側と同質の社会になろうとしているのではないか、との考えさえ浮かびかねないこの頃なのだ。しかし、筆者の中にある固定観念はつぶやく。「いや、ソ連がそんなに小回りのきく社会でないことはよくわかっているはずだ。それに共産党が独裁を続ける限り、『民主化』と言ったって限界があるに決まってる。」 これは、モスクワに行かねばならない。起こっていることを、この目で見てこなければならない。
以下は、その時の観察をまとめたものである。
第一節 根底にあるものはソ連の大衆社会化
我々は、ゴルバチョフ政権下で現在起こっている多様な事象の洪水に溺れている。彼の新政策があまりに多様にわたるため、それらを貫く縦糸が何かがわからなくなっている。そこで筆者は一つの仮説を立てる。それは、「ゴルバチョフのやっている『社会改革』とは、ソ連の大衆社会化に合わせて、共産党独裁のやり方を近代化することである。」ということだ。
これは筆者の独創である。かと思ったが、残念ながらそうではなかった。フルシチョフの登場した頃既に日本では、「ソ連は大衆社会化したか否か」をめぐって、右と左の学者の間で熾烈な論争が繰り広げられていたからだ。とにかく論を進めよう。
大衆社会とは何かでは、「大衆社会」とは何か? 大学の政治学の授業をサボッた筆者は、ここでハタと困る。で、「広辞苑」などながめつつ、結局こう考えることにした。
産業革命は、これまでの限られた範囲の市民に加え、大衆を政治の主体として登場させた。人口の都市化が進み、生活・教育水準が上がるにつれて、彼らの権利意識、政治意識が高まっていくからである。そして普通選挙制の導入は、彼らの発言力を具体的なものにし、世論の動向は政治を決定する非常に大きな要因になる。世論を操縦して独裁制を築いたナチの例もあるが、多くの近代国家では、世論と政府は相互に作用しつつ政治が進められている。しかも社会には、経営者、インテリ、労働者等、異なるグループが確立し、それぞれに自己主張を強めるので、統治はますます難しくなる。
他方、産業革命は、アルビン・トフラーが「第三の波」で指摘するように、製品や生活様式・文化の画一化をもたらしたが、経済・社会の発展が高い段階に達した国では、大衆の関心は多様化を始めている。これまでの階級の中には、関心や利害を共にする小さなグループが多数発生し、社会の多様性を高めていく。統治はますます精緻なものにならなければ、大衆の支持を失うだろう。
「大衆社会」とは、西側で使われる概念だ。これをソ連に適用するなどもってのほか、なぜなら「社会主義社会では階級がなくなり、利害の対立もない」からだ、と硬直したマルクス主義者達は宣わった。これに良識を持った学者が、「そんなことはない。ソ連でも、いろんな社会グループがあって、利害の対立を見せているじゃないの。」と反論したのが、フルシチョフによるスターリン批判のショックに見舞われた日本で起こった、かの「大衆社会論争」である。筆者の立場は当時、「大衆社会と社会主義社会」という優れた書物(東京大学出版会 一九六七年)を著された辻村明教授と同じ、後者に立つものである。
大衆社会化の諸様相では、なぜソ連でも大衆社会化が進行していると言うのか。根拠を示そう。
生活・教育水準の向上、都市化の進展:西側に比べれば、ソ連の消費生活などまだまだだが、ロシア人にしてみれば、昔とは大違いだ。
人口の都市化も急速に進み、一九二二年には人口の僅か十六%に過ぎなかった都市人口が、一九八五年には六十五%に達している。しかも、農村人口の六%に当たる五八〇万人は、今や都市に通学・通勤しているのだ。多くの西側先進国の七五%のレベルには及ばないが、立派な都市化と言ってよかろう。都市化すれば、生活様式は西欧化し、政治意識も高まっていく。社会は中産階級化し、インテリの数が増えていく。労働者中、大学・高等専門教育を受けた者の比率は一九四〇年の三・八%に比べて二六%にも増えているのだ。
権利意識の向上:教育水準が高まり、スターリン時代の恐怖政治がなくなれば、権利意識は高まる。かつてはただの「我」の主張だったのが、理屈を伴った「自我」の主張に洗練され、少々の脅しでは引き下がらなくなる。外国人での行列をぬかして先頭に出れば抗議を浴びるし、役所の非能率に対しては投書が絶えない。この頃ではヤミ屋も法律を援用し、警官に簡単には恐れ入らない。アパート修理のアルバイトをやっていて警察に事情聴取された者は、こう答えている。「なぜ、これがいけないんだい? 材料は盗んでんじゃないよ。モスクワ中駆けずり回って買い集めるんだぜ。しかも本職が終わってからだ。法律で禁じられちゃいないよ。」 モスクワで最近、ガソリン・スタンドの行列に業をにやしたタクシー運転手達が、市役所と党委に押しかけ、ブ ブー警笛を鳴らして抗議した。国際関係についても、市民の目は肥えてきている。レニングラードのあるエンジニアは、こんな投書をプラウダに寄せている。「平和を求めるプロパガンダにおいては、ステレオタイプを変え、また、お決まり文句を使うのをやめて下さい。」。
一口メモ:「自信の増大」
国力の増大と生活水準の上昇は、ロシア人の自信も増大させた。一五年くらい前と比較すると、役人や学者との面談はよほど容易になった。彼らの話の内容も、マルクス・レーニン主義の教条を長々と述べ立てることなく、事実に則した実質的なものに変わりつつある。タブーとされる話題は、年々少なくなっている。今や、軍事、指導部内人事動向といった「聖域」を除いては、こちらの準備次第にかなり突っ込んだインタビューができるのだ。こうしたことの背後には、七〇年代デタントのおかげでソ連人が外国人との付き合いに慣れてきたことの他に、自信の増大がある。
この点は、肝に銘じておかねばならない。今まさに、「比較的平穏な時代」に壮年期を送った連中が指導的地位についたのだから。幸いなことに彼らは、自己の力を過信してはおらず、むしろ当面対外拡張は棚上げにし、後れた経済・社会の改革に全力を注ぎ込もうとしているが。
多様化:進んだ大衆社会の特徴が多様化であるとするならば、それもソ連では着実に進んでいる。その根底にあるのは、良く言えばこれまでの物質的富の追求にあきたらず、精神的価値を追求しようとする姿勢、悪く言えば甘やかされて退屈のあまり、西側文化になら何でも首をつっこんで見ようとする姿勢、である。「セラフィム」という映画がある。若者に人気のある対外関係の事務をバリバリやっていた男、ある時田舎に出張する。温かい人間関係、悠久の時の流れ 男は思う、「俺は、何をしてたんだ。ゴキブリの競争じゃねえか。先に越されるのがやなばっかりに、ただガムシャラに駆けるだけ、ガサゴソ駆けながら、何がしか引っ掛けてくんだ。」 人気歌手プガチョーワは歌う。女優に恋して家も絵も全て売り払い、一〇〇万本のバラを贈った貧乏画家の物語りを。魂を忘れた物質主義に、反省の気運が一部で現れているのだ。
消費生活が西側よりはるかに後れているソ連で、こうした「脱工業化社会」の現象が現れるとは、アッハッハ、と眉にツバつけて読んでおられる読者がいるだろう。では言っておこう。ここで言う多様化は、インテリ、そして青年に見られるものだということ、そして彼らは、社会から、そして両親から甘やかされて、物質的にはかなり満ち足りた生活をしているということを。この二〇年間、家庭の所得が二・五倍になったのに対し、一四才の男子には三倍、一五才の女子には五倍の支出がされるようになっている。
彼らだけいち早く、「脱工業化社会」のレベルに到達したのだ。彼らは、「自己発現」というものをしたがる。それは、才能のある連中なら学問・芸術に昇華し、そうでない連中では、ただのわがままに終わって、やがて社会に吸収されていく。
彼らは、時にはゆるく、時には組織的な非公式のグループを作って、自己主張を行う(もっとも、その多くが共産主義青年同盟にも入っている点が、西側と違うが。)。こうした多様化の例を見よう。
一口メモ:身の上相談ソ連でも身の上相談は行われている。新聞は定期的に欄を設けているし、八十二年頃には電話身の上相談も開設された(モスクワの番号は二五〇 〇〇四九)。夫婦喧嘩や親子喧嘩等、家庭問題がトップになっており、かけてくる者の六十%は女性である。「もう離婚します」と言ってかけてきた者の四十%は説得されて離婚の意志を撤回しており、身の上相談がかなり効いていることを示している。
その一 「モラトリアム人間」の登場:最近では、卒業しても定職につかず、趣味に生きる若者が出てきている。「私生活」という映画があるが、ここでは仕事一筋で生きてきた企業長と、仕事はアルバイト程度で生活の手段と心得、ロックに生きる息子との葛藤も描かれている。大学を出ながら、責任の思い地位を嫌って普通の労働者になる青年が、一部で増えている。ロック・グループなどは既に三〇年前から現れているが、今ではメタル、ブレイク・ダンスに興じる者達も現れ、米国に後れること二〇余年、少数ながらヒッピーも現れた。彼らは、家出して友人や知人の家を泊まり歩いたり、廃屋に共同生活したりして暮らし、冬になると暖かい中央アジアへ移動したりしている。クリシュナ教や、仏教にも興味を示す。掃除人等の負担にならない仕事についていれば、「寄食者」としてパクられる危険性も少なくなるのだ。
その二 「環境派」の出現:ソ連でも、これまでの生産至上主義が反省され、環境保全への関心が高まっている。環境投資も増大しているが、資本主義と同じく、環境保護は計画達成を至上目的とするソ連企業の論理に対立することがある。「お上がいくら環境保全を叫ぼうと、計画課題を下げてくれなきゃどうしようもない。」ということだ。そこで、環境保護に立ち上がる学生や市民が現れた。ソ連の新聞は、カザン州の養鶏場でプラカードを掲げ、汚染に抗議する学生グループや、バイカル湖の水質を監視する市民グループ等を報道している。ソ連版「緑の党」というわけだ。
その三 宗教的関心の増大:心霊現象が、金持ちで暇なインテリのいいおもちゃになっている。新聞も、メスを使わない「手から出る秘密のエネルギー」による治療術や、農村に現れた「ズナーハリ」(呪術によって治療を行う老婆)についての特集を、かなり頻繁に掲載する。「ねええ、この頃はみんなレフ・タタールスキ さんの別荘に行くのよ。あそこじゃ、いろんな神秘的な実験やってんだから。この前の日曜なんか、ドストエーフスキーとお話ししたんですってよ。」というのが、この頃の若者の感覚だ。
(ロシア正教への関心増大については、第二章参照)。
その四 レトロ趣味とロシア・ナショナリズム:日本では、初詣でに出かける人の数が昭和四五年以来倍以上になっている。宗教的関心というより、生活のゆとりが増え、古い習慣やルーツの探究に目を向ける余裕が出てきたのだ。
ソ連でも、同じ現象が見られる。教会の祭日には、青年の姿が増えており、歴史的文化財保全等、過去への関心が高まっている。モスクワのバウマン地区では、昔の宮殿の取り壊しに反対して、一団の若者が作業を妨害したし、レニングラードでは由緒あるホテルの改築に市民が反対してデモを行った。
リガチョフ政治局員は、この現象を確認するとともに、同時にそれは健全な性格のものでなければならないと、釘をさしている。ソ連には二五万の「歴史的記念物」があり、うち一九万が登録されて保護を受けている。当局は、「国民の精神」を体現しているこれら記念物を守るよう、積極的に呼びかけている。共産主義イデオロギー、そして戦争の思い出がその力を失いつつある現在、当局は国民団結の手段として、「ロシア魂」「歴史的遺産」に食指を動かしつつあるのかもしれない。
これら記念物の復元・修理に対しては、九〇年に三億ルーブル(約六〇〇億円)、二〇〇〇年に五億ルーブルが向けられる予定になっているが、現在のところ資金・労働力・原材料の不足に泣いており、そのため多くの市民ボランティアが作業を手伝っている。モスクワでは七〇年代半ばからボランティアが募集されており、現在約六〇〇〇人が登録されている。これを、ピョートル大帝の近衛兵の名を取って、「プレアブラジェンツェフ・クラブ」と称している。
ロシアには昔から、西欧派とスラブ土着派の思想的対立があり、かつて一八世紀エカテリーナ二世が西欧化を進めた時にも、ロシア正教異端派の思想を探ったノヴィコフという思想家がいた(THE ICON AND THE AXE P252)。しかし、現在のレトロの動きは、西欧化への反発というよりは、健全な精神的ゆとりの枠内に留まっているようだ。だが、これが右翼的、排外的なロシア・ナショナリズムとなると、話しは別になる。
その五 ロシア・ナショナリズムと右翼の出現:我々はソ連の少数民族のナショナリズムをあげつらっているが、面白いことにロシアの一部でもナショナリズムの高まりが見られる。それはレトロの範囲を超え、偏狭な右翼的なものにさえなることがある。八〇年代初め航空産業省内に、歴史的記念物破壊の停止を求める、「記憶」(パーミャチ)協会なるものが発足したが、これはやがて偏狭なナショナリズムに転向し、反ユダヤ、反外国人、反帝国主義を叫んでは、時としてデモ行進も行うようになった。ゴルバチョフ書記長支持を叫んでおり、党事務所で会合を開くこともあるので、当局の取り締まりぶりは鈍い(コムソモルスカヤ・プラウダ 1987 五。二二)。
モスクワ近郊のリュベルツィでは、ボディー・ビル愛好者達が集まって「リュベルツィ」と呼ばれるグループを形成し、時にはモスクワに出てきてヒッピ 、パンク族、ヘビー・メタルその他、西側文化にいかれるモスクワの青年達を「制裁」して歩いている(I.H.T 1987 3.9)。モスクワの職業学校の生徒達(成績の悪い者のたまり場で、パンク等の供給源)が結束してデモを行い、一戦を交えようとしたため、警察も介入して引き分けた(TIMES 1987 2.25)。
その六 「西側のものなら何でも」:暇をもて余す者、或いは現実からの逃避をはかる者は、西側の文物に憧れて何にでも首をつっこむ。カミナリ族も出現し、黒ジャンパーに身を固め、金髪の女を後ろに乗せては、夜中の街を走り回る。ロックは、ブレジネフ時代から盛んだったが、最近ではその音楽はますます先端を行き、コンサートも公認されるようになった。麻薬を吸う者は広がりつつあり、未成年者のセックスも増えている(コムソモルスカヤ・プラウダ 1987 3.11)。あげくにエイズにかかる者まで出る始末で、八十七年現在一〇人の患者を数えるに至っている(イズベスチア 1987 3.19)。
その七 文化活動の多様化:ロシア文化と言えばボリショイ劇場とトルストイ、ぐらいしか考えない人もいるが、ソ連の文化は生きている。地下室等に設けられたスタジオ劇場では、アマチュア劇団が実験的な劇を上演しているし、屋根裏部屋や工場のホールでは、若い詩人が実験的な詩を朗読したり、アバンギャルドの画家達が作品を展示する(I.H.T. 1986 12.24)。当局の文化的許容度は、ブレジネフの時から着実に広がっており、芸術家達は苦しい生活を送りながらも、そこで何とか息をついているのだ。
その八 女性の権利意識向上:ロシアの女性の殆どは働いているが、キャリア志向より男につくす方がこれまでは多かった。それも着実に変わりつつある。個人の価値に目覚め、「女中の役割」には不満足、という者が増えているのだ(ソビエツカヤ・ロシア1984 2.22)。それに、かなりの者は、夫の飲酒のために離婚し、心は揺れながらも、「結婚しない女」としての生活を送っている。
男性の酒飲みとぐうたらぶりに、いつも泣かされてきた彼女等のうちインテリは、ソ連経済・社会の停滞と男性のぐうたらぶりを重ね合わせ、「男にはまかせておけぬ」と考える者さえ出てきている。他方、男性の中には、保育園で保父になる者まで出てきている(トルード紙 1984 5.27)。
その九 「アフガン帰り」の兵士達:米国でベトナム帰りの兵士達が、社会への適応に苦しんだのと同じことを、アフガン帰りのソ連兵も味わっている。彼らは既に四〇万人程度の数になるはずだが、新聞への投書などを見ると、ソビエト社会の「反社会主義性」「ブルジョワ性」「腐敗」に抗議の声を上げている。「こんな奴等のために僕の戦友は死んでいったのか?」という疑問なのである。
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