2006年3月のモスクワ
3月15日から22日までモスクワに行って来ました。17,18日の「新しい日ロ関係・専門家対話(2006)」に参加した後、滞在を延ばし、識者や友人達にロシアの現状を聞いてきたものです。
他に、ミルビス・ビジネススクール、及びモスクワ大学ビジネススクールで計2回、「蘇った日本経済」と題する講演をやり、原油価格上昇は日本経済にさして響いていないこと、日米も含めて東アジアには密接な貿易・金融関係が築かれつつあり、日本と中国は経済上のライバルというよりも相互依存の関係にあることを強調しましたが、この2点は経済においてもゼロサム思考の強いロシア人の耳には新鮮に響いたことでしょう。
Ⅰ.要約
1.変化のテンポ鈍化・雑然とした中での停滞へ
90年代に比べてモスクワの街頭風景はあまり変わらなくなった。北京や上海のように何かが質的に変化しつつあるという感じは受けない。社会の上下の間の流動性は途絶え、街は相変わらず悪趣味で雑然としている。公的サービスは相変わらず混乱している。
2.「ロシアは大国」論議は本気なのか?
最近、ロシアの識者の一部には大国主義的議論を弄ぶ者が多くなっているが、こうした連中の中には大統領府あたりに頼まれ、大国主義的発言をあえて弄しては、内外世論の反応を探っている者もいるようだ。それは、07年の議会選挙、08年の大統領選挙で、「ロシアは大国」というスローガンが国内ではどのくらい効果を発揮し、国際的にはどのくらいの反発を招くかをテストしている、ということだろう
3.構造改革の進まない経済と中国への恐怖心
石油景気に沸いてきたロシアだが、2月の鉱工業生産の対前年同期比伸びは1%に止まり、構造改革が進んでいないことが露呈されつつある。実質賃金は労働生産性上昇を上回るテンポで伸びているが、インフレが亢進しつつある。その中で、「シベリア、極東を中国人に取られること」に対する恐怖感が一部識者の間に高まっており、また中国人に「ロシアは中国の弟分なのだ」と面と向かって言われる例が散見される。
ロシア人の中には私利私欲に走る者も当然いるわけで、シベリア・極東の土地・資産の長期借り上げ権を中国人に袖の下で売り渡す、という事態になっても不思議ではない。
Ⅱ・街頭風景
1.変化のテンポ鈍化・雑然とした中での停滞へ
(1) この3年、年に一度モスクワに行っているが、アエロフロートに日本人スチュワーデスが搭乗していたのは、今回が初めてだ。アエロフロートは良くなった。
(2) しかし、90年代に比べてモスクワの街頭風景はあまり変わらなくなった。確かにモスクワ・ホテル、ロシア・ホテル、インツーリスト・ホテルが同時に再開発中であるなどの事例はあるが、北京や上海のように何かが質的に変化しつつあるという感じは受けない。相変わらず悪趣味で雑然としている、日本で言えばパチンコ屋の感覚である。人によっては、これを10年以上市長をやっているルシコフ市長のせいにする。しかし、ことは彼の趣味、そしてモスクワ市の利権構造だけの問題ではないだろう。
(3) シェレメチェヴォ空港と市内の間は、ほぼ確実に2時間はかかるようになった。夕方帰国する場合、午後はビジネスには使えないということである。シェレメチェヴォ空港は天井を張り替えたし、税関の出口にたむろするタクシーの客引きも以前ほど粗野でしつこくはなくなったが、中央政府、モスクワ州政府、モスクワ市政府が三つ巴になっての利権争いから、悪名高き空港ターミナルはいっこうに改築されず、2,3年前に完成するかと思われた都心へのモノレールや高速道路なども工事の影も見えない。
(4) そして、公的サービスは相変わらず混乱している。小生が出張を終わって帰国しようとしていた際、チェックイン・カウンターをロシア女性の一団が取り囲んだまま、それぞれの細かい要求を通そうとして、15分も列が動かない。パスポート・コントロールは長蛇の列で、ある窓口ではロシアとリトアニアの二重国籍とおぼしき少年が、「保護者の委任状がないと出国できない」と言われ、引率の女性の横で「ねえ、お願い!」と言って泣き声を張り上げている。彼女も事前に手続きを調べてくればよさそうなものなのだが、この国では誰もきちんとしたことは教えてくれまい。規則の類が新旧錯綜しているから、誰もおいそれとはわからない。混乱と無責任な官僚主義が目に付いた旅だった。
(5) 高級で通っている目抜きのメトロポールホテルも閑散として、アール・デコの一見豪華な雰囲気の中、歩き回るボーイ、客はどこか疲れたヤーさん気味の者が多く、気分が落ち着かない。しかもエレベーターを降りるとなぜか床が上り坂になっていて、しかもそれが均一ではない歪み方をしているものだから漆喰で亀裂を固めたあとが不規則についている。旧知のジャーナリストは言った。「ロシアでは、社会の流動性が止まったよ。金持ちの息子はいつも金持ち、貧乏人の息子はずっと貧乏。これじゃ、先行き真っ暗だ」 そして多分、このことも外国人の気を滅入らせる。ボーイ、メード、掃除人、こういった職種の人々が、日本や西欧とはまるで違って、疲れて暗い感じを与える。まるで19世紀のロシア小説の世界に迷い込みでもしたかのようだ。
(6)「東京で言えば銀座通りに相当するようなノーヴイ・アルバート通りに、中央アジア料理店がある。プラスチックでできたインテリアに、中央アジアの音楽が鳴り響く。ウェイトレスは洗い立てたように色白のロシア人だ。道路の向かい側ではソ連時代には有名だったナイト・クラブの「アルバート」が、今では北斎の浮世絵の波を形取ったネオンとその上に船のブリッジを飾り付けたわけのわからないコンプレックスになっている。その波の下には「健康に好い日本茶」という大きな看板がかかっている。この建物の裏は、中国のスーパーマーケットとレストランになっていたのだが、今でもあるのか、確かめる時間はなかった。
(7)ロビーの隅ではビジネスに転じた大学教授風の男が、中年の秘書風の女性を口調は丁寧でも相手の行き場を奪うような言葉でやりこめていた。「それじゃ、全然つめが甘い。あなたに事務能力がないということですよ。あのアゼルバイジャンの連中がこういう出方をするということは、彼らが尋常ではない連中だということなのだから、こちらもそのつもりでやらなきゃいけないんですよ」
気分のやり場のない冬の陰鬱さが、このような場面ばかりに目を向けさせたのかもしれない。
Ⅲ・懇談内容
1.「ロシアは大国」論議は本気なのか?
(1)ロシアの有識者の間では、以前はリベラルだったのが最近はナショナリスティックな言辞を弄する者が増えている。彼らは今回、「ロシアはヨーロッパでもなければアジアでもない。どちらに擦り寄ることもなしに、独自の道を歩んでいくつもりだ」と胸を張ってみせた。彼らはそれを、「主権的民主主義」という言葉で表現してみせる。「ロシアは西側の一員になることを拒否し、中国の方に歩み寄ったのだ」と述べる者もいたが、これは若干大げさな物言いだろう。リベラルだったロシアの識者も、ロシアが世界で押しまくられ屈辱を受け、しかも国内では自由が抑圧される中で、遂に「きれて」きたのかと一瞬思った。
(2)しかし面と向かって話してみると、彼ら自身は自分の言葉を実は信じていない節がある。そこが、ロシアのインテリの複雑なところである。助成金、研究委託金の類が政府に集中化されつつあるようで、インテリも自由に物が言いにくくなっている。また、大統領府に頼まれ、大国主義的発言をあえて弄しては、内外世論の反応を探っている者もいる。07年の議会選挙、08年の大統領選挙で、「ロシアは大国」というスローガンが国内ではどのくらい効果を発揮し、国際的にはどのくらいの反発を招くかをテストしている、ということだろう。
(3)だがロシア当局の内情に詳しい別の識者は小生に対し、もっとニヒルなことを言った。「今のロシアのエリートは、要するに『金が欲しい、石油で豊かになったのだから金を使ってみたい』の一語に尽きる。大国主義を標榜しているが、それはただの飾りで、実際に欲しいのは金なのだ。ウクライナに対する天然ガス供給価格を引き上げるという騒動も、その背景はこうした要素である。しかもインテリに出てくる研究助成金の類は、国家関係機関以外からは出ないようになってしまったので、この面でもインテリの言動不一致が甚だしくなってくる」
(4)いまやロシアのリベラル派は「政治的には全くマージナライズされて」しまった。まずいことには、リベラリズムの本家である米国が一極主義的行動を繰り返すために、リベラリズムという概念が泥に塗れてしまった。しかも僅かに残ったロシアの「純正リベラル派」にしてみれば、ロシア政権に欧米から圧力をかけて欲しいところなのだが、欧米はロシアを変えようとしても無駄であることを心得て、実際にはサンクト・ペテルブルクでのG8首脳会議開催に応ずるなどの宥和政策を取っている。「こうした政策によって、西側はロシアを正当化している」―――ロシアのリベラル派は、このような恨み節を我々に聞かせるようになった。
(5)他方、実際には今やリベラリズムとは何なのか、一体何がロシアで抑圧されているのか、考えてみるとわけがわからなくなる。テレビ局や新聞・雑誌の「弾圧」は一通り終わってしまい、テレビ・ニュースから政府批判が消えたこともそのうちには気がつかなくなり、自由が実際には不足していることに感覚が麻痺して、不便も感じなくなるからだ。部数の小さな新聞・雑誌では政府批判も抑えられていないし、家庭や身内の間で言うことも自由だ。だが90年代に比べると何となく息詰まる感じで、役人は90年代より猛々しくなり、公共サービスは悪いままで・・・こんなところが生活実感ではないか。要するに、90年代の混乱と無秩序がなくなり、ロシア人がまた昔のメンタリティーや振る舞いを前面に出し始めたので、何となく嫌だ、といったところなのかもしれない。
(6)また、相変わらず暴力が減らない。リベラルを標榜する者達は、いつ当局差し回しの者達に文字通り袋叩きにされないか、怯えている。現に、小生が滞在中、リベラル運動の指導者カスパロフ(チェスの元世界チャンピオン)の顧問である若い女性が通りで数人の男に背後から襲われ、殴られて歯を数本失っている。そしてリベラル派にとって問題なのは、現在の政権と明確に差異をつけることのできる、実効性のある政策を打ち出すことができないことだろう。
(7)ドストエフスキーの「大審問官」の一節、「人々には自由よりもパンの方が重要」が再び引用されるようになったが、今のロシアでは「自由よりも国家の威信の方が重要」なのだろう。世論調査をしてみると国民の80%は民主主義より秩序の方が重要だとし、国家のために民主主義を制限することを是認している、と言う者もいた。こういう社会なのだから、米国がいくらロシア政府を批判し、民主化を呼びかけても、ロシア国民にはそっぽを向かれるだけなのだ。
2.戦略なのか、それとも傷つけられた昔の誇りの痙攣的回帰か
(1)長いこと国際フィクサーとしてロシア政府内部を走り回っている友人がいるが、彼に言わせれば「主権民主主義などと言うが、その実ロシアに戦略はない」。この言葉には賛成する。大国主義を標榜して米国とイランの間を仲介し、パレスチナのハマスを招待するようなことをしながらも、国力が本当の経済力に裏付けられていないために、様々の動きは大向こうの受けを狙った間歇的な(「痙攣のような」)ものにしかなっていない。しかも、米国の気分を損ねることを恐れて、ハマスの招待も事前に米国に通報したそうだ。
(2)それでもプーチン大統領は外交に自信を深め、問題点を下から指摘しても言うことを聞かなくなった由。
(3)しかし、ロシアの現在の発展が(GDPでは2005年に世界11位になったらしい)原油価格に支えられた脆いものであることは、ロシアの識者が皆知っている。原油価格が上がりすぎるとロシア国内もインフレになり国内産業が打撃を受ける、また溜まっていく一方の「安定化基金」についてもあまり大量に使えばインフレを呼ぶ、等の論理もわりと広く理解されている。前記フィクサーは、「ロシアにはエネルギーの他に世界に提供できるものがないんだ。折角金があるのに、その金で何もできないなんて」と腹の底から搾り出すように苦渋の念を搾り出した。 小生から、「仕方ないじゃないか。(それなりに手厚い社会福祉国家だった)ソ連は、何十年分も前借りをしたようなものなんだから」と慰めたところ、彼はうなずきながらも「そうなんだ。でも国民はそんなこと少しもわかってくれない。彼らは要求することだけだ」とつぶやいた。
(4)CISについては、中央アジアでロシアは上げ潮にあるが、ウクライナが2008年にはNATOに加盟するという一大事はどうしても止めることができない。ウクライナを失うことはソ連復活の望みを失うということであるが、より直截的なことはウクライナにある戦略核ミサイルの部品製造工場を失うということである。この工場はアメリカが直ちに傘下に収めてしまうだろう。そうなる前にロシアに撤去しようとしても、設備、人員を移すことは今のロシアには難しいようだ。
(5)ロシアは、蘇っていない。何よりも精神的に蘇っていない。ある友人は、「ロシアの社会では信頼とモラルが欠如し、腐敗が横行している。勤労精神はなく、他人のものを奪おうとする。法律は無視するのが当然で、最近普及した月賦制度でも、踏み倒しては別の銀行に口座を作る者が相次いでいる。このような状況で、ソ連の破片を集めて国の戦略を論じても無意味なのであり、国民は娯楽に逃避するしかない状況なのだ」と述べていた。確かにロシアのテレビでは、娯楽、趣味の番組が増えている。
(6)かつてソ連は、「核ミサイルを持ったオート・ヴォルタ」だと陰口をたたかれていた。数年前ロシアの風刺テレビ番組「クークルイ」は、アフリカ的な情景の中、わらの中に隠してあった「ソ連野郎」という核ミサイルを保守的政治家達が憧れの眼差しで掘り出すシーンを放映したことがある。ロシアは、長年老朽化するに任せているしかなかった戦略核ミサイルの更新を年間数基づつではあるが始めている。原油収入をほとんど消費に回しているおかげで社会の表面が少し潤ってはいるものの、「核ミサイルを持ったオート・ヴォルタ」という構図が再び蘇りつつある。「職を失ってしまった」世界中のロシア専門家や007シリーズ制作者にとっては、注目を浴びることのできる春の季節が到来しつつあるのかもしれない。
3.「兄貴分」になってしまった中国への複雑な思い、錯綜した利害
(1)3月20日のプーチン大統領の訪中は、外から見ていると具体的成果に乏しいものであったが、ロシア人専門家に言わせると「これで露中関係は後戻りはもうない。前へ進むしかない、ということだ」という評価だった。基本的にはその通りなのだろう。
(2)ロシアの識者も、この頃は中国のことを日夜考えているようだ。そのうちの何人かは「シベリア・極東への中国の領土拡張」に心底怯えている。ロシアは自分自身が領土拡張を繰り返してきた歴史を持つため、他国についても痛くもない腹を探る傾向がある。ロシア人の持つ国家意識は過剰であり、それは19世紀の植民地主義国民国家を原型として持っているのだろう。
(3)中国の歴史における国家は、西欧の国民国家とは少し異なる。仮説だが、それはアグレッシブな拡張よりも確立した版図の維持の方に重点を置くことが多かったのではないか。だが、現代の中国には社会主義時代のDNAも残っているようだ。ある友人は中国人と呑んだ際、「おい、これからは中国が兄、ロシアは弟、弟分なんだ。そのつもりで身を処すんだな。中国は世界を支配しようとする国ではないが、他国を善導することはあるんだからな。」と言われたと言って、顔を歪めていた。
4・「中世スペイン化」―――富の流入に破壊されるロシア経済 他方、中小企業は根強く発展
(1)原油価格高はロシア経済に、次第にネガティブな効果を示しつつある。その様は、新大陸からの金銀の大量流入によって栄えるどころか、かえって経済的衰退の引き金を引かれてしまった中世スペインに似ている。そしてその原因は中世スペインと同じく、政治的理由から市場経済が阻害され、製造業が育たなかったことによる。
ロシアにおいても鉱工業生産の伸びは、原油価格が高原に達するとともに加速度的に落ち、本年2月は遂に対前年同期比1%増のみと、この数年では記録的な低率を記録して、政府内に波紋を引き起こしている。プーチン大統領が公約した10年間での所得倍増は、年間実質7-8%の成長を必要とするのである。
(経済発展貿易省の調査では、2005年の鉱工業生産上昇のうち、エネルギー部門が50%、原材料部門が27%、製造業が21%占め、2009年にはこれが57%、29%、10%の比率となって、製造業の伸び後退が益々明白となる。但し機械製造・通信業は3倍に伸びて、売上高でエネルギー部門の約8割相当になるという、一見矛盾した予測も行われている)
(2)まず、原油の国際価格高騰はロシア国内の石油製品価格をも上昇させ(ガソリンは1リットル 80円相当にもなっている由。日本との賃金格差を考慮すると、300円以上の実感価格となる)、インフレ率を昂進させている。2月の消費者物価上昇率は1,7%に達し、年間9%というインフレ目標を軽くオーバーしてしまった。プーチン大統領は「事態をこのようにしてしまった責任者を発見せよ」と命じ、3月中旬にはフラトコフ首相とクドリン副首相の間で責任のなすり合いが行われた。
(3)もっとも、両者のどちらに責任があるか、それは不分明なのである。昨年夏フラトコフ首相はインフレを恐れるクドリン副首相の抵抗を押し切り、06年度予算の大幅増を決めたが、現在のインフレ昂進が右政策に起因するものと断じるには未だ時期が早すぎるだろう。経済発展省の統計では、2月には野菜・果物の価格上昇が25%にも及び、インフレ率を1,25%も押し上げている。これは、モスクワの酷寒に乗じて、野菜・果物の流通を牛耳るコーカサス系業者が大幅な値上げをはかったことが、2月の価格上昇の主因だったことを示している。
それでも、公営料金の引き上げ、石油製品価格の上昇、この数年実質賃金水準伸び率が労働生産性上昇率の2倍以上で推移してきたこと(2000年には20%も上昇、2005年でも10%)、その中で月賦制度が急速に普及して消費が一気に高まったこと等は、これからもインフレがロシア経済の主要な問題になっていくことを示している。
しかも日本の消費税が最終消費者からのみ取り立てられるのに対し、ロシアの付加価値税は取引の各段階で徴収される上、社会保障税30%も取り立てられるので、小売り価格を大きく引き上げるらしい。企業はこれを避けるため、企業間取引の決済を海外で行っているものが多い由。
(4)インフレ昂進でパニックは見られないが、社会的心理には一部動揺も見られる。3月初めには塩値上げの噂でパニック的買い占めが起こり、塩が店から消えた由。小生が宿泊した高級ホテルのメトロポーリでは何故か食卓の塩入れが空だったが、これは偶然ではないかもしれない。従業員のモラルがそこまで低下しているのなら、それは91年のソ連崩壊の頃の情勢再現となる。2月には、砂糖も44%値上がりしている。
(5)今のモスクワは、ソ連時代のエリート、つまり諜報、軍の連中が幅を効かせてきたために、どうも活気が感じられない。94年の頃は、秩序はなかったが活気だけは街に満ちあふれていた。このあたりを、あるエコノミストは以下のように述べた。「富を一部の者の手に集中させたのはやむを得なかったが、現場、地方の活気を奪った。特に資金の流れが偏在するようになった。正常な企業活動のための法律はほぼ整備されている。しかし売上げが年間5億円くらいになると、当局、競争相手からの干渉が強くなる。猟官が盛んで、官職については収賄したり、自分の事業に便宜をはかったりする。この数年行政改革が行われてきているが、効果は発揮していない。所有権は一部の者に集中し、彼らはその所有権を奪われるのが心配で、利益を国外に逃避させてしまう。そこが、自己資本で発展してきた日本と異なるところなのだ。現在のロシアは多額の海外借り入れを行っているが(それはルーブル下落の場合、返済負担を急増させ、金融不安を招く)、海外への資本逃避額の方が上回っている」。
(6)しかし大企業が多かれ少なかれ国家のコントロール下に置かれ(国有をめざしているのではなく、1960年代の韓国のような「国家資本主義」をめざしている由。またガスプロム、ロスネフチは実質的には国有企業だが、双方とも内部のガバナンスに大きな問題を抱えている由)、役人による締め付け、収賄、同業者による妨害にあっているのに対し、年間売上げが1億円程度の企業で、しかも額に汗して働かなければならない業種では、役人や同業者からハラスメントを受けることは殆どない、但し資金の流れが大企業に傾いているのだけが不便だ、という声もあることを忘れては成らない。抑圧されたように見える社会で、変化の芽は根強く残っているのだ。ある若手企業家は、「いろいろやってきたが、経済に政府は関係ないという確信を持つようになった。あと10年くらいすれば、我々中小企業は政治勢力になるだろう」と述べていた。経済発展貿易省の専門家によれば、「中小製造業における景況感は良好」なのだそうだ。
また、90年代の混乱時代、牛が大量に屠殺されたため、ロシアは昨年1,100万トンもの小麦を輸出する(聞き込みのまま)等、穀物輸出大国ともなってきた。穀物生産にも資金が向けられるようになっている。
(7)こうして、民営化された中小企業は努力しているが、大企業レベルにおける構造改革はなかなか進んでいないというのがコンセンサスだった。今や黒字になった予算をどのように構造改革に役立てるかについても、実効性のある政策は行われていない。予算は、「時事の問題を解決するために、行き当たりばったりに使われている」。
確かに、重点分野は一応打ち出されているのだが、かつて1986年にゴルバチョフ書記長が打ち出した工作機械分野への重点投資「加速化政策」が、役人による資金の横流しのため効果を発揮しなかったのと同じようなことが、起こりつつあるのだろう。
クレムリンは昨年、「社会院」なる官民合同協議体のようなものを立ち上げ、民意を吸収する姿勢を見せているが、このために下ろされた予算は事務局が公用車の購入等に蕩尽してしまうため、シンポジウム等の事業には全然まわってこない由である。
(8)ロシアの外貨準備は2,000億ドルを越えている。小生は以前から、この巨額な資金がどうやって運用されているのか関心を持っていたが、国家機密扱いなのか、公開情報に接したことはなかった。今回、内情に詳しい友人から聞いたところでは、「60%以上が米国債、30%程度がユーロ債で運用されている。米国では資本市場が整備されているので、どうしてもこうならざるを得ない。つまり、ロシアも米国経済が大崩れすると困るのだ」ということだった。他方、米国側の統計では、米国債の大口需要家としてロシアの国名は出ていないようだ。おそらく英国やカリブ海のタックスヘーブンを通じて購入しているのではないか。
なおロシア政府内部では、原油価格の高止まりと輸入の増大により、2009年には貿易赤字に陥るとの予測が一部で行われている。
(9)この金余りの中で、90年代には青息吐息だったロシアの軍需産業がどこまで息を吹き返してきたかは、重要なテーマである。最近来日したロシア議員団の中には、「ロシアには次世代戦闘機を開発できる能力すらなくなってしまった」と述べる者がいたが、これはどうも為にする議論だったようで、実際にはスホイ27の後継機は開発されているのである。当面は、ロシア国防予算の動向、2008年にウクライナがNATOに加盟することによって、ウクライナにある工場と一体のものとして機能してきたロシアの軍需産業が如何なる影響を受けるかを中心に見ていく必要があるだろう。
5.政治情勢
(1)政治情勢は小康状態である。昨年6月出張した際は、プーチン大統領の後継者論議が盛んになりつつあったが、今回識者の見方は概ね、「プーチン大統領は三選を欲していない。それに、現在の憲法に反して三選を果たした場合の西側の反応も予測不可能だ。さりとて、プーチン大統領及び側近は、後継者候補を未だ決めていない。当面そのような状態が続くだろう」というのがほぼコンセンサスであるように見受けられた。但しわりと内情に通じている一人の識者だけは、「プーチン大統領はあと5,6年はポストについていないと改革が定着しないと考え、実は留任したがっている。しかし憲法との関係が問題だ」と述べていた。
(2)また、セーチン大統領府副長官、メドベジェフ第一副首相を軸にして、プーチン大統領側近がいくつかの派に分かれて暗闘を行っているとの見方がロシア内外の一部にあるが、「セ」、「メ」の間の競り合いをベースに全ての論理を組み立てることについては、多くの識者がためらいを示した。但し、軍内部の新兵いじめをめぐって世論の信頼感を失ったかに見えていたイワノフ国防相兼副首相が、ちょうど小生出張の頃から軍のGPSシステムの民間用開放等、大衆受けのするテーマで彼には珍しいスマイルを持ってテレビ・ニュースに登場することが度重なるようになった。
いつまでも「自信のない学生のような顔をしている」メドベジェフ第一副首相に対するプーチン大統領の不満が一部に伝えられる中で、注目するべき事象である。
(3)大統領候補は通常、当初は首相にして世論への浸透をはかることになっているが、インフレが昂進している現在、首相はその責任を負わされかねない。現在のフラトコフ首相は経済担当者としては失格なのだが、現状では彼を更迭して大統領候補を首相とすることは得策ではあるまい。メドベジェフ第一副首相は特命事項として教育、医療、農業という難しい分野を見ているが、例えば農業では500億円程度の予算しか差配できていない由。
6.日露関係
(1)ある友人は、「90年代初頭と比べると、ロシアには2つの大きな違いが出てきている。一つは、ロシアも無下にその過去を否定することはしたくなくなったということ、もう一つは90年代初頭は『経済的に頼りになるのは世界で日本しかない』と多くの者が思っていたのが、今ではそうではないということだ」と言ったが、これが現在の日露関係についてのロシア側立場を如実に表した言葉だろう。
(2)一部のロシア識者には、「日本がシベリアを開発して中国の進出を防いでくれる」ことへの期待が見られた。これに乗ってみせる格好を取ることは可能だし、エネルギー資源や森林資源開発でそこそこのことが日本にできるだろうことも事実だが、ロシア人が期待するほど「シベリアを発展させる」ことはできないだろう。利益が見込めない他、現地でロシア人を使って案件を実現・運営することのできる日本人は決定的に不足している。それより現実的なことは、市場を控え利益率もそれなりにあるだろう欧州部に日本が投資し、そこから得られる経済的体力をロシア自身がシベリアに投資することであろう。
(3)これからロシアは次第に「選挙の季節」に入っていく。政権側はナショナリズムに訴えることをその戦術の一つとしてくるだろうから、北方領土問題の解決は難しい状況におかれるだろう。他方、今回出張のみならず、何回かロシアの識者と接して感ずることは、北方領土問題が以前の尖鋭さを失って、ロシアの識者も日本人に対する過度の警戒心がなくなり、当たり前の協力を追求する真摯さを見せる者も双方に増えてきたということである。昨年末のプーチン大統領訪日で日本の領土要求を拒否したロシアは士気高く、「これで日本は領土要求を棚上げして経済交流に応ずることになったのだ」と思いこんでいる、というひがみが日本側の一部に見られるが、一般のロシア識者はそれほど日露関係を細かくフォローしていない。彼らは、日本が領土要求を取り下げたとも思っていない代わりに、領土問題が解決しない限りは日本は協力をしてこない、とも思っていないのである。
(4)日露の識者が北方領土問題を念頭にアジア情勢を話し合うと、「中国の台頭は日露いずれにとってより大きな脅威か? 朝鮮半島の再統一は日露いずれにとってより大きな脅威か? 台湾の中国本土への統合は日露いずれにとってより大きな脅威か? 脅威を大きく感ずる方が、領土問題で譲歩してしかるべきである」という話しの展開になりやすい。これはつまらない論争で、双方とも蜃気楼について論じているのである。ロシア側でも、事態を心得る者であるほど、朝鮮半島の再統一や台湾の統合はそれほど差し迫った問題ではなく、当事者はいずれもStatus quoの維持を望んでいることを知っている。
(5)ロシアの実業家は、アジアを商売相手として自然な目で見るようになってきた由。しかしロシアは「物作り」の国ではない。実業家と言っても、消費財の輸入でそこそこの利益を得ようとする者が殆どだ。そしてそうした者達は国際的なビジネスの常識をわきまえない。そこここで学習の過程が繰り返されているが、それでもロシアは東アジアに経済的に出てきている。そして、ロシアにカネ余りが生じつつある現在、彼らはM&Aの対象としてアジアも視野に入れていることを念頭に置いておかなければならない。
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