北京市民の生活意識 「外国」、「国家」について
今回、横から観察した、北京市民の生活意識をいくつか列挙しておく。
外国も、自分の国の政府も、抽象的なものはすべて遠い存在
日本でもそうだが、普通の市民にとっては政府や外国のことは普段、意識の外にある。
あまりに違う世界で、理解できる域を超えている。
他方、ロシアと比べてみると、ロシア人よりも政府に対する期待度、依存心が低いのではないかという直感がする。
どこの国でもエリートと言われる連中は、国家という高性能のスポーツカーのハンドルを握ったみたいにわくわくしていて、右に行くのが国益だとか、いや左だとか口角泡を飛ばして論争をするのだが、その実自分の見栄と地位保全のためという場合も多いだろう。エリートのエゴイズムと使命感を区別するのは難しい。
中国でも今、空母を作るとか言っているが、大衆にしてみれば空母を作る金があるのならすべて自分が食べてしまいたいところだろう。
今や日本人は自分で政権を選び、自分で国家予算を賄っている気になっている。そこへ行くと、今の中国は個人所得税も低く、国民と政府の間に垣根がある。これを、「共産党王朝」時代と言ったら怒られるだろうか?
共産党は今までのすべての王朝と同じく、武力で権力についている。倒した相手は国民党と日本軍だ。市民にとって今の政権は、生活の枠を保証してくれる貴重な存在ではあるが、あくまで上から降ってきた「お上」だったのだろう。
市民は、「俺達は自分達のことをする。公のことは公にやらせておけ」と思っていて、公私一体になって社会を作っているという意識は薄いのではないか?
故宮の裏は四族協和
故宮の裏は北海だ。そしてその入り口にある瓊華島のてっぺんには大きな白い塔がたっている。これはチベット仏教を信仰していた清の順治帝が建てたものだが、ここから少し下がったところのお堂には、ラサのポタラ宮を建てたダライラマ5世の像が鎮座している。
清は満州の女真族が建てた王朝だが、女真族は明征服に当たって元朝の成れの果てであるモンゴル族、そしてモンゴル族が仏教や婚姻を通じて深く提携していたチベット族と同盟関係を結んだ。清が成立してからも、清の皇帝は同時にモンゴルの汗の称号を併せ持っていた。つまり清の初期はゆるい連邦制がとられていたようなのだ。
そして当時のチベットは強国で、新彊地方を広く平らげていたから、新彊がそのまますっぽり清の版図に入り、ここで初めて中国の現在の広い領域が一つにまとめられたのだ。初め、女真族という異民族に支配されるのを嫌っていた漢族の知識人達も、清中期になると「中国」という言葉を使って清と漢族を同一視し、「中華」という新しい言葉を発明して広大な領域全体にナショナリズムを及ぼしたのだと言う。
中国の学校では、明を女真族が滅ぼしたあたりはちゃんと教えるが、「その後は国民の90%は漢民族になっています」というあたりに飛躍しているらしい。「漢民族」という人たちは日本民族やドイツ民族と同じく、決して一種類の人種ではないのだが、どの国もそこらあたりは意図的に混同し、近代民族国家神話を作り上げている。
北京の北東部には、清初期の皇帝が作った雍和宮があるが、ここでは建物の銘板や碑文に漢字、女真文字、モンゴル文字、チベット文字が併用されている。
それはあたかも、現在のカリフォルニアで英語と並んで必ずスペイン語の表示があるのと似たような感覚だったかもしれない。国家というものは相対的なもので、人間が作ったものである以上、これはできるだけ使い勝手のいいように、そして市民の生活には害を与えないように作り変えていけばいいのだ。 河東哲夫
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