なぜ日本人は世界でむしられるのか? 「ゼロサム思考」に気をつけましょう。
中央公論新年号に拙文「もうユーラシアで躓かないために―--権威主義・強権主義の一大ベルトにいかに関与すべきか」が掲載されました(全文は「論文」の項に掲載してあります)。
麻生外相が11月30日国際問題研究所での講演で、ユーラシアに「自由と繁栄の弧」を創出するために日本は頑張りたいと言いましたが、この拙文も偶然、ユーラシアに関するものです。
ユーラシア大陸は世界政治の主要な舞台であるわけですが、海千山千の国家が揃っているため、日本は時にカモネギ(鴨が葱を背負っている)に見えます。
ユーラシアの殆んどの国は西欧に産業革命で先行された上、植民地主義で搾取もされて、今に至るも「ゼロサム」(全体の富の規模が低位に張り付いている社会では、誰かが豊かになろうと思えば誰か他人から富を奪うしかない)の行動様式、価値観が支配的です。
そこでこの拙文では、ユーラシアを「ゼロサム」の国々と「プラスサム」の国々に分けて分析してみました。ゼロサムの国々の経済発展はおいそれとはいかないこと、幻想を持ってはならないことを書きました。
また、ユーラシアというと我々の頭の中では中国史と西欧史がバラバラに展開しているのですが、ここからは「オリエント」文明に対する視点が全く欠落しています。それは、世界史の理解を不可能にするものです。なぜなら中国の歴史も西欧の歴史も、オリエントにおける動向、文明から大きな影響を受けて展開してきたものだからです。
拙文では東アジアについても言及していて、ここでは中国が経済発展を至上視し、周辺地域でのStatus quoの維持を望んでいることが、現代アジア政治を規定する最大の要因になっている、と書きました。
東アジアでは、「主権国家」、「国民国家」を整備しようとする動きが強くありますが、グローバリゼーションの今日、近世西欧型の「国民国家」をあえて追求する必要はあるのでしょうか? 古来、アジアで支配的だった国家形態は、もっと緩いものだったのではないでしょうか?
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コメント
ODAの在り方。そして、日本人的発想の支援・援助は国際社会でどのように受け取られているのか。日本の国益になっているのか。あらためて、これまでの日本の発展の要因を探りたくなりました。
杉本様
ODAについては、沢山の議論が出てきました。
私は、タジキスタンの小学校など見ると、涙が出てくるような健気な生徒ばかりで、助けてやりたいなと思います。それがODAの原点の一つかと思います。
それから日本でもある町内会での付き合いのように、ODAを出さないと、世界での付き合いの中でつまはじきになるという受身の面もあります。
それから外交官としての立場からいくと、ODAのおかげでどれだけ相手国政府が日本の頼みごとを聞いてくれるか、それは非常に有難いものがあります。
防ぐべきことは不正、汚職、そしてコピー機を上げたのはいいが、先方は紙やトナーを買う金もなく、こちらにしてみればそれは予算で予定していなかったからどうしようもない、といった問題が起こるのを防ぐことでしょう。
それに、ODAの金額と件数もさることながら、開発への効果、日本にとってのPR効果をじっくりはかっていくことも大事だと思います。
日本のODAについて、そして日本がその経済発展でたどってきた道については、このブログの論文の欄に拙文が収められておりますので、そちらもご覧いただければ幸いです。
小生、旧ソ連、ロシアの簿記会計の研究をしております。モスクワ、東欧に短期間ですが数回訪問しました。キルギスに簿記会計を教えに行ったこともありますが、ユーラシアに関心を持ちながら、基本的によくわからなかった点が多々ありましたが、先生の中央公論1月号の論文を読んで大変感銘しました。ゼロサム、プラスサムの切り口等、私にとって目からうろこがおちる思いです。どうも有難うございました。先生の論文等ご紹介いただければ幸いです。
ゼロサムの世界という発想は面白く、的を射ていると存じます。
同時に、日本はソフトパワーそれもポップ文化重視というのは、少し物足りないというような気がします。小生は、日本外交に欠けているものは、何よりもマクロ偏重のため交渉術などミクロで遅れをとっている事だとの感を深くしております。ソフト・パワー重視の世界では、外交のプロは何をもってプロと任じうるのでしょうか。また、伝統文化を貴びたい小生としては、「和」を叫び続け何とか外国人に理解させようとする努力は、やはり大切で貴重なもののなような気がします。
私は1977年の福田ドクトリンをはじめ対ASEAN外交に深くかかわった経験もあり、「中央アジアにASEANを」との論は私自身の夢でもありますので、まったく同感です。
河東先生
中央公論新年号にご掲載の論文、拝読いたしました。
お恥ずかしながら、「ゼロサム」「プラスサム」の価値観については、先生の今回の論文を通じて、はじめて自分のなかで整理できたように感じております。
論文の最後に、日本の現代ポップカルチャーの持つ明るさや希望に触れておられますが、この点についても本当に強い共感をおぼえております。
東アジア諸国、とりわけ中国においても(香港や台湾に限らず、中国本土においても)、明るさ・希望にあふれたスタイリッシュなポップカルチャーの勃興は目覚しいものがあります。
チャイニーズ・ポップスは、その質・量においても今や世界の音楽シーンの一部分を形成しているといっても間違いはなく、一方で、日本での浸透度合いは、そのポテンシャルからすれば「まだまだ足元にも達していない」状況であったりもします。
日中間だけのことを論ずるのも視野は狭くなってしまいますが、日本でのチャイニーズポップスの浸透、中国でのジャパニーズ
ポップスの浸透、ひいては日中間でのコンテンツの共同プロデュースを加速させていくなかで、東アジア圏の新たなソフトパワーの交流のあり方が提示できるのではないかとも感じております。
話が脱線してしまいましたが、多くの示唆・思考のヒントをいただき、本当にありがとうございました。