中央線――オレンジ色の電車が走りだしたあのころ
きのうかなにかの日経「にっぽん途中下車」で櫻井寛氏が書いていた。中央線にあのオレンジ色の電車が走り出したころのことを。
53年前、1957年、僕は小学3年生くらい。5年生になると、日曜ごとに塾に通った。まだ戦後の闇市の雰囲気の残る吉祥寺から中央線で、神田まで行く。昔から電車が好きで、運転台の後ろの窓にはりついては景色と運転手の手元を見ていたものだ。この時から、中央線の駅の順番はぜんぶ覚えた。飯田橋、水道橋、市ヶ谷、お茶の水、信濃町を順番に並べられる人はけっこう少ないだろう。
でその頃、この「オレンジ色の電車」は新型で、まだ珍しかった。主流は外側が飴色、中は木でふき油を敷いた床でできた、ゴトンゴトンという感じの古い電車だった。この飴色という色が不思議で、クレヨンにも絵具にもなかったから描けなかったのだが、ずっと後になってわかったことに、飴色の郊外電車はたとえばコペンハーゲンではついこの間まで使われていたのだし、ヨーロッパではこの色はけっこうスタンダードだったのだろう。
団塊世代の直面した最初の競争、「中学受験」。僕は神田にあった「日本進学教室」なる名門塾に通わされ、尻をたたかれ大変だった。だが駅のプラットフォームにオレンジ色の車体がすべりこんでくれば疲れも吹き飛び、その素晴らしい加速と高性能のブレーキの効きぶりに酔っていたものだ。
でも昔の記憶でいちばんなつかしいものは、たぶん「匂い」だ。あのオレンジ色の電車の床は、ひいた油の臭いのする、転べばよごれてしまうような木ではなくて、どこかかぐわしいモダンな香りを車内いっぱいに漂わせるリノリウムだったのだ。汚れひとつない。
夏、太陽、汗。神田駅を降り、もう忘れたがどちらかの方に歩いていくと、千代田簿記学校という建物があって、日本進学教室はそこを借りていた。そのあたり、うなぎ屋があったのだろう。僕のその頃の思い出は、オレンジ色の電車の匂いと、通りに漂うかば焼き(その頃はかば焼きなど知らなかった)の匂いなのだ。
良かったよね、あの頃は。やっていることに目的があって。
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