富山紀行 No.3 北前船から日本4位の工業地帯へ
富山のあたりは、昔から米一筋で生きてきたのだそうだ。それで廻船(北前船)が北海道から運んでくる肥料のニシンが重要で、これを買うカネに困って小作化する農民も多かったらしい(江戸時代、表向き小作はなかったはずになっているが)。
富山駅から真新しい郊外電車ポートラムに乗って20分ほどで、神通川の河口、富山港に着くのだが、ここには江戸時代の廻船問屋が密集する岩瀬という古い街が残っている。いちばん大きな問屋の「森家」の隣には岩瀬銀行というのがあって、これが現在の北陸銀行(地銀最大手)に発展したのだそうだ。
ヴェニスと同じで、海運と金融は切っても切り離せない存在なのである。そしてこの岩瀬には、ニシン蔵というのもあって、江戸時代ニシンがどんなに重要だったかがわかる。港で荷揚げされたニシンは、神通川をさかのぼって農村地帯に販売されていったのだろう。
因みに、北海道には福井や秋田など日本海側出身者が多いが、これはおそらく廻船業者が斡旋して連れて行ったものではないか? 廻船は明治の初期に最盛期を迎えているのだから。
富山には第1次世界大戦のあたりに工場が進出し、水力発電が盛んになった。電気が豊富だったことが、アルミニウムの精錬などを呼び寄せた。そして昭和10年以降になると、安い労働力を求めて大手紡績企業が疎開も兼ねて進出してくる。疎開と言うが、当時の日本海側は実は満州への近道でもあったのだ。現在の北朝鮮にある羅津港から満州までは数10キロしかない。
そして第2次世界大戦の時、富山周辺は軍需工業化した。今でも不二越の工場が立地しており、それを核にネジ、ボルトなど部品工業も発達した。1944年の工業生産額は、4大工業地帯の6府県に次いだのだそうだ。前記のように、大陸に近いのだから、当然の立地である。これは1945年8月の空襲を受けて壊滅するのだが、朝鮮戦争特需で盛り返す。だがそのあおりは神通川のイタイイタイ病のような被害をもたらした。
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