社会と自分の間のルール不在、Publicというもの不在の日本
京都アニメーション社放火事件をはじめ、この頃は社会のタガがはずれてしまったような事件が相次ぎます。ほぼ全ての原因は、社会に適応できなかった者たちの厖れ上がった自我と恨みなのでしょうが、社会の「タガ」と言うか、「糊」と言うか、社会を一つにまとめる基本的なモラル、原則が日本では欠けていることにも気が付きます。一言で言えば、日本は近代市民社会をまだ建設できていない。個人が自立した自我をまだ十分確立していないためか、他者をも自立した人間として認識することがない。そのため公共の場では、他者は存在しないがごとき行動を示す、とでも言いましょうか。
欧米では、個人は自分以外のもの、つまり社会publicとの間で、双方の自由と権利を尊重する暗黙のルールを身に着けています。街を歩くときも、彼らは周囲をそれとなく見ていて、ぶつかることは殆どなく、ぶつかればすぐ謝ります。それも政府に強制されたとか、エチケットだからそうするのではなく、そうすることが自分自身の自由、権利を守ることになるのを知っているからです。
日本は豊かになって、個人の権利が確立したのはいいのですが、publicとの関係にルールが存在していない、と言うか、日本人にとって縁のない他者というものは、人間ではないモノで、その自由や権利を尊重する必要は考えないのではないでしょうか?
おそらく明治維新という僅か150年前まで、士農工商という厳しい身分制、身分、家格による固定した序列が存続していたのが、一気に解体され、放り出された個人は相互に、そして社会とどう関係を結ぶべきなのか、モラルがまだ成立していないのでしょう。夏目漱石が100年前に追求したテーマです。
ムラでの行動様式、つまり自分のムラしか知らない――が残っている。都会に出てムラから外れバラバラになると、一人のカラに閉じこもるか、企業の仲間と小さなムラを作ってアフターファイブでは上司の悪口で盛り上がるか、スマホでSNSの狭いサークルを作って、それ以外の他人は存在しないも同然、授業中でもメールにすぐ返信しないと怒られる、ということなのではないかと思います。
私の家の近くの踏切の手前には、信号のない横断歩道がありますが、ここを歩行者がのべつまくなし、周囲の状況にお構いなしに渡っていくので、踏切の中の自動車が進めないなどの危険な状況が起きています。
この「糊」を欠いた社会は、経済が良ければ続きますが、危機が訪れると抵抗力は弱いでしょう。
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