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世界文明

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2023年4月14日

日本社会の仕組みと若者のミスマッチ

(これは3月末発行したメルマガ「文明の万華鏡」の一部分です)
若者はいつも親たちの生きてきた社会を否定し、反抗するものだ。筆者の属する団塊世代は、1960年代末グローバルな学生運動の中にいた。「体制を語り、体制を批判し、体制を壊し、体制を作り変え」ようとするのが、当たり前だった時代。この世代は安保反対デモもしたが、一旦社会に出ると、筆者も含めて既存の「体制」に順応し、その枠内で競走馬のようにコースを駆けてきた。そして社会が豊かになると、若者たちはこれを変えるよりも、この中でどうやって「つつがなく」生きていくか、を中心に考えるようになった。
そして今、また別の動きが目につく。この前、ある有名大学の学生に、外交官は一生をかけるに値する職業なのかどうか聞かれた。彼は、国際関係に携われる職業の選択肢として外交官、商社マン、外資をあげた。最近の学生の間では、外資への就職が自分の能力を最大限伸ばし、世界で活躍できる機会を提供してくれるように見えるのだろう。

以前からマスコミが指摘しているが、公務員の総合職で、若くして辞める者がどんどん増えている。国を動かしたい、変えたいという抱負をもって入省してみると、局長クラスでも総理官邸に対する忖度と屈従が多く、とてもロール・モデルにならない。しかも明日の国会の質問に対する答弁案の作成や予算請求用資料の作成で夜の2時、3時まで働く。これではとても・・・、ということで辞めていく。

筆者も昔、やめようと思ったこともあったが、行く先がなかった。ところが今は、ヘッドハンターなる業者がいて、「将来有望な若手公務員」を顧客に世話しては、かなりの謝金をもらっている。彼らにとって若手官僚は、国家公務員試験を通ったというお墨付きの「商品」なのだ。彼らを引き抜くことが省庁の体力をどんなに減退させるかなど、彼等にはどうでもいい。

戦後の日本社会では、「有名大学を出て大企業、銀行、政府に就職」すれば、それで一巻の上り。あとは死ぬまで天下りも含めて、中流から上の生活は保証された。だから小学校から受験競争、有名大学に入ったところで勉強は終了、ということだった。

このモデルがくずれてきている。以前は毎年数百名の新卒を採用してきた銀行、大企業も、近年ではその数を減らしている。三大銀行の今年春の採用予定数は、21年春の採用数より軒並み減少している。

お揃いの、黒いぴちぴちの就活服を着、まるで入学式のように大講堂に居並び、社長の訓示を聞く入社式―-こういう子供っぽいイベントはだんだんなくなっていくだろう。
能力本位の途中採用の比率が高くなる。その中では、留学帰り(これまでは国内で就活をできなかったから、学生たちは留学をためらった)、そして高専卒が価値を高めていくだろう。

受験の能力より本当の能力がモノをいう時代になれば、教育の在り方も変わってくるだろう。各人の興味、能力を伸ばしていけばいいわけだから。

それでも、ついていけない人たちは出るだろう。そういう人たちにも比較的高給の仕事を提供して、引きこもったりグレたりしないようにする。経済の生産性を高めれば、このような職種にも高給を提供することはできるだろう。

(不登校の増大が意味するもの)
これまでの就職のならわしが古くなるのと並行して、学校のシステムも随分きしんでいるようだ。不登校が増えている。文部科学省によれば2021年度、小中学生の不登校は24万人余で、前年度より4万9000人近くも増加。中学生では20人に1人が不登校となっているそうだ。

これまでも昼日中ゲームセンターで補導されたりする生徒もいたが、今の不登校はグレるのとは違うようだ。この中にはイジメも、落ちこぼれもある。中にはギフテッドとか言って、特定の能力が異常に高いから学校を嫌う者もいる。

筆者などの古い世代には、不登校というのは考えられない。「子供は学校に行くもの。それが子供のシゴト。だいたい家に四六時中いられては、たまったものでない」というのが親の感じるところ。

しかし考えてみると、「学校」、特に小中高は近代の産物なのだ。産業革命で、読み書き算術のできる労働者が大量に必要になって、今の義務教育は始まった。画一的な教育で、一定の能力を持った労働者候補を育てる。貴族や金持ちの子弟は家庭教師について、自分の家で勉強する。あるいは、エリート校へ行く。

アメリカでは面白いことが行われている。1980年代最高裁が、子供を教育する権利を親にも認めて以来、今では全州でhome schoolingが合法とされ、体制も整ってきている。進化論を自分の子供に教えて欲しくないなどの理由があるそうだが、米国の公立校の質の低下もこの動きの背景にあるだろう。

日本でも、産業革命後の画一的な義務教育を脱却して、生徒一人一人にテイラー・メードの教育をする方向に変えていくべき時なのだ。しかしそれには、膨大な数の教師、それも人格能力とも優れた人たちを確保しなければならない。それは無理。どうしたらいいだろう。AIつきのロボット教師でも作るか。でもそんなAIができるのだったら、それを人間の脳にそのまま接続してしまえばいいだろう。

(ちぐはぐの社会)

 先日、池袋に買い物に行った。池袋というと、なんとなく場末の感じがしたものだが、今は東池袋1丁目のLAVIの裏あたり、マンハッタンのタイムズ・スクウェアができたばかりを思わせるような、モダンで若者にあふれた一角が突然誕生していて、仰天した。渋谷のスクランブル交差点に匹敵するセンスと熱気。

 しかし、近くの大型電器店のレストラン・フロアで間食して、また別の感慨を持つ。なんとなく薄暗い。拭いたかどうかわからないようなテーブルの上で分厚い、しかし擦り切れて四隅がささくれ、つぶれたメニューを広げると、「品切れ」のpost-itがそこらじゅうに貼られている。

昔のソ連のレストランを思い出して苦笑した。よれよれの一枚紙にインクがにじんだタイプで、品名が何十も書かれているメニュー。そのうち、実際に出せるものは3,4種類しかないのが普通。メニューを見るより、ウェイターに何が食べられるのか聞いた方がよほど速かった。

 そして、コーヒーが飲みたかったので、ドリンク・バーを注文して行ってみると、コーヒー・マシンには「故障中」の貼り紙。この非条理なシュールな世界・・・。ウェイトレスは外国人で、文句を言っても申し訳ながらない。それでも、ドリンク・バーはキャンセルすると言ったら、そこは素直に応じてくれた。こちらはウーロン茶をとって飲んでしまった後だったが。

 こうしてソ連的な無責任さが次第にはびこってくる中にも、古い日本の商道徳が残る・・・一種の過渡期を日本の社会は渡りつつあるのだろう。それでもいいものは多分保全され、姿を消したと思ってもまた戻ってくる。明治以降ずいぶん消えた日本の伝統芸術が、社会が豊かになるとまた息を吹き返してきたように。

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